呪  焔
 (20)











 扉が開いた。
「何をしているっ!」
 荒々しく床を踏みしめる足音とともに、いきなり背後から肩を引き掴まれた。
「退けっ!」
 乱暴に押しのけられて、傍らの床に尻餅をつく。
「くそっ……おまえら、一体何をしていたんだっ――!」
 男はぐったりしたイザークの頭を持ち上げると、僅かに顔色を変えた。
 傷跡から滲み出す鮮血が、美しい顔をグロテスクな色に染め上げている。
「おいっ!」
 両頬を軽く叩く。
 反応をしない相手に、男は舌打ちをした。
「……っ、面倒なことを……っ!」
 ぼやきながらも胸ポケットからカードキーを取り出すと、手錠のロックを解除し、拘束を解く。そのまま少年の体を抱え起こそうとした男は、突然ぐえっと変な声を上げた。
「……なっ……」

 信じられないように目を瞠る男を、冷たい薄氷の瞳が瞬きもせず見つめ返していた。その手が拳となって、男の脇腹に食い込んでいた。
「き、さま……っ……!」
 呻きながらも男は相手の肩を掴んで揺すり上げようとする。が、たった今食らったばかりの一撃がだいぶ堪えたようで、力のこもらぬ指先は微かに震えていた。
 それを嘲笑うかのように手刀が男の顔を容赦なく薙ぎ払ったかと思うと、あっというまに男の体は傍らへと吹っ飛んでいた。
「――ぐ……ぅ……」
 弱々しい呻き声と共に、上がりかかった頭を今度は顎から蹴り上げられた。ぐきっ、と嫌な音がして床に頭を落とした男の体はそれきり動かなくなった。
「………………」
 キラは床に腰を落としたまま、目の前に佇む少年の美しく引き歪む顔を呆然と凝視していた。
 まだ、こんなに動けるだけの体力があったのか、と驚きの眼を見開く。
 ザフトのエリート級の軍人の能力の高さをまざまざと見せつけられたようだった。
 一瞬、脳裏をアスランの姿がよぎった。――ヘリオポリスで再会した、あのとき。ナイフを振りかざし、襲いかかってきた幼なじみの姿が。
 アスラン……彼も、同じなのだろうか。そう思うと、複雑な気持ちになる。
(ぼくには、できない……)
 ザフトというより、正規の訓練を経た軍人と、民間人上がりの自分との差のようにも思えた。
 しかし、イザークのさっきまでの状態を考えれば、今の彼は立っているのもやっとの筈だ。
 軍人としての本能が、彼を最後の抵抗に駆り立てたのだろうか。意識的なものか、或いは無意識の抵抗、か。キラは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 目の前に立ち尽くす少年は、全身から凄まじい殺気を放ちながらも、その鬼気迫る容姿さえ、完璧な構図をきめた一枚の絵のように、見るものの心を捉えて離さなかった。
「……イザー、ク……」
 その名前を呼ぶのが、怖かった。
 それでも、呼ばずにはおれなかった。
 自分が今いる場所が、夢の中ではないのだと確かめなければならない。この現実を認識できるように。
 キラはゆっくりと立ち上がった。立ち上がるとき、膝裏が竦むように震えた。
 相手の視線がこちらに向くのを感じる。それだけで、心拍数が上がるようだった。
「……イザーク……」
 青い瞳が、敵を認識したように、獰猛な輝きを放つ。それさえも綺麗に見えて、目が離せない。
 薄い唇から漏れる乱れた呼吸音が、静まり返った部屋の空気を乱す。
 ふらり、と頭が傾いだかと思うと、体の平衡が崩れた。
(あ……!)
 それとわかった瞬間、キラは考えるより早く動いていた。
 倒れかかった体を両腕で抱きかかえるように支えたとき、相手の体から伝わる仄かな熱の感触にザワリと胸が騒いだ。
 ――この、感触……。
 部屋で触れたときの感触と、同じだった。
 あのとき……。
 もっと、触れたい、と思った。
 もっと、この人のことを知りたい、と……。
(俺は、この人を……)
 一瞬、頭の中が空になった。
「……く……」
 唸るような声にはっと我に返ると、ゆっくりと目を上げる相手のその滾るような青い瞳が、すぐ目と鼻の先に見える。
 激しい勢いで、視線と視線がぶつかり合った。
 目を見開き、息を飲む。
 いったん相手の体重を受け止めた両腕から一気に力が抜け、彼はよろよろと後退した。
 支えを失った相手は、少しよろめきながらも、何とかその場に踏みとどまった。
 やはり、彼は相当消耗している。
 覚束ない足元。乱れた呼吸に合わせて僅かに上下を繰り返す肩先が今にも倒れるのではないかという危うさを感じさせる。
 それでも、その面に表れた意志はあまりにも明白だった。
 睨みつける青い瞳。
 鮮やかな明度。射かけられる強い光が目を打つ。
 はっきりとそれとわかる、憎悪の光の宿る、瞳。
 彼も、自分を憎んでいる。
 殺したい、と思うほど……自分を憎んでいる。
「……俺に、触るな……」
 低く呟かれた声には冷たい敵意が満ちていた。
「……キラ……」
 しばし睨みつけた後、彼はがくりと膝を落とした。
「――く……!」
 歯を喰いしばりながら、イザークは目を上げた。
「……イザーク……」
 キラはすぐ前に佇んだまま、相手を見下ろした。手を差し伸べることはしない。そんなことをしても、相手はそれを撥ねつけるだけだということがわかっている。
 微動だにしないまま、キラはゆっくりと口を開いた。
「……あなたは、ぼくを、殺したい、と思っている……」
 噴き出す感情の波を抑えつけるかのように、わざと一語一語、間隔をおいて言葉を吐き出す。
「それは、ぼくが、ストライクのパイロット、だから、ですか……?」
「………………」
 黙って睨みつけるイザークと目を合わせたまま、キラはさらに続けた。
「……ぼくが、その傷を、つけたから――」
 ふ、とイザークの唇が緩んだ。
 それを見たキラの顔色が僅かに変化する。
「……な……」
 イザークは、笑っていた。く、くっ、と肩を小刻みに震わせながら、次第に堪えきれないように、全身を揺らし始める。
 声を上げ、笑う相手を前にして、キラは困惑の表情を浮かべた。困惑はすぐに苛立ちに変わる。
「……なっ、何がおかしいんだっ!」
 キラが怒鳴りつけると、イザークはようやく笑うのを止めた。
 その目が僅かにそばめられる。突き刺すような鋭い眼差しに、キラは小さく息を呑んだ。
「……わかったようなことを、言うからだ」
 イザークの顔にはまだ冷たい笑みが残っていた。それを見て初めてその笑みに潜む鋭い刃に気付く。相手は決して愉快だからと笑っていたわけではない。むしろ、その反対で……。
 そう悟った途端、ぞくり、と背中に寒気を覚えた。
 それも敵意や憎悪……というよりも、これは……。
 ――この人の中には、本当は、何も……。
 そこには、何も、残ってはいない。
 何も、ない。
 怒りも、憎しみも、恨みも……。
 本人さえ気付いていないかもしれないけれど。
(いや……。そんな、こと……!)
 キラは、慌てて頭を振った。
 そんな、馬鹿なこと、あるわけがない。
 気の、せいだ。
 そんな、こと……!
 この人は――!
 頭の奥で弾けた赤い閃光。
 思い出せ。
 あのときの、怒りと悲しみを……!
「あなたは、自分のしたことを、わかっちゃいない!」
 キラは突然、激情に駆られたように叫んだ。
 イザークが眉を寄せ、不審気に見つめ返す。
「……あのとき、あなたは……っ……!」
 もう、抑えることができなかった。せり上がってくる激しい感情の波に、呑まれる。
「どうして、殺したんだ……っ!……」
 キラの喉が、震える声を絞り出す。
 その異常な声音に、イザークがぴくり、と反応を示すのが見えた。
「…………?」
 キラの燃えるような眼差しが、イザークを突き刺さした。
「……何の関係もない人たちまで、あなたは……っ……!」
「何の、ことを……」
 受け答えるイザークの声はキラとは対照的にどんどんか細くなる。
「……覚えて、ないんだ」
 キラは、僅かに唇を歪めた。彼には不似合いなほどの、皮肉に満ちた笑みだった。
「シャトルを、撃ち落としたでしょう?……ヘリオポリスから脱出しようとしていた民間人の乗った輸送船を、あなたはあのとき……」
 イザークは、大きく目を見開いた。
「…………っ……!」 
 イザークの顔色が変わるのを確かめると、キラは震える拳を固く握り締めた。

「……ぼくの目の前で、あなたは……っ……!」
 あのときの、無力感が甦る。
 伸ばした手の先で、閃光が弾けた。命が消える瞬間。
 頭の中が真っ白になる。
 何も、できなかった。
 泣きながら、叫んだ。
 ――どうして、どうして、どうして……!
 ――ぼくが、撃たれる筈だったのに。
 ――ぼくが、撃たれれば、良かったのに……。
 ――なぜ、ぼくは生き残った……。
 
 ――なぜ……ぼくは、ここに……いる……?
 
「……許、せない……」
 暗い怒りと悲しみが、キラの顔を覆う。
 自分が守りきれなかった命。
 ありがとう、と言って微笑んだあの小さな笑顔をぼくは見殺しにしたのだ。
 戦争、だから。
 仕方のないこと、だった。
 誰にも、どうしようもない。
 そう、割り切ることができれば楽になれるのに。
 なのに、どうしてぼくは……。
 キラは苦悶に喘ぐ。

 こんな筈じゃなかった。
 ぼくは、こんなことを望んではいなかった。
 自分の意図とは違うところで、全てが動いていく。
 自分は、なぜコーディネイターだったのか。
 どうして、あのときガンダムに乗ってしまったのか。
 どうして、どうして、どうして……?
 果てしのない疑問は続く。そしてそれに答えが出ることはない。ただ、自分を苛む永劫の苦しみが続くだけだ。
 そして、もう戻れないところまできていることもわかっていた。
 だから……。
 何かのせいにしたかった。
 誰かを憎むことで、自分に負わされた罪過を軽減することができるものなら、と。
 自分はずっとそれを探し求めていた。
 自分が憎悪を向けることのできる対象が現れるときを、待っていたのだ。
 シャトルを撃ち抜いた光弾。
 無機質な機体が真っ赤な光を映して嘲笑っているように見えた。
 デュエルと、それを操る意志をもった人間が、どこかにいる筈だ、と。自分は、それを見つけなければならない。
 そう、思っていた。
 憎しみを傾ける対象をもつことで、自分の苦しみを緩和するために。
 だから……。
 あの子の命を奪った、あなたという存在を、ぼくは心から憎む……。
 あなたを憎み、悪者にすることで、ぼくは自分を救おうとしているのだ……。
 そう考えて、キラははっと我に返った。
(ぼく、は……)
 不意に、わからなくなった。
 ――自分は……この人に、何を求めている?
「ぼくは、あなたを……許すことが、できない……」
 言い放ちながら、心は矛盾に揺れ動く。
 ――ぼくは、何を……?
 自分の求めているものが、見えなくなる。苛立ちと不安に苛まれながら、どうしようもなく立ち竦んでいた。
(どうしたら、いい……?)
 そのとき、イザークがゆっくりと口を開くのが見えた。
「……人を……殺しているのは……おまえも、同じだろう……」
 ようやくのことでそれだけ返すと、イザークは乾いた唇を湿すように、下唇を噛んだ。
 じくじくと胸に広がる痛み。
 この苦しみから、逃れたい。忘れたい。なのに、離してはくれない。
 ――いや……。
 イザークは顔の傷跡に指を這わせながら、否定した。
 忘れようとしなかったのは、俺自身だ。
 俺が……これを、選んだ。
 自業自得、か。
 今さら弱気になって、どうする。
 一瞬よぎった疑問を払拭するように頭を振ると、目の前の少年を強い瞳で見据えた。
 こいつが、ストライクに乗っていた。
 こいつがミゲルの命を奪い、俺にこの傷をつけた。
 こいつが、俺を……
「おまえも、人殺しだ……」
 自分の大切なものを奪い去った元凶。
 ストライクが、憎い。憎い。憎い……!
 こいつを、殺してやりたい……。
 この手で今すぐにでも息の根を止めてやりたい……。
 こいつを、今、ここで……っ……
 菫色の瞳を見つめながら、そこまで考えを伸ばしたとき、はたと気付く。
(こ、ろ、す……?)
 殺したい。
 殺したい、のか。俺は……。
 肩透かしをくらったかのように、彼はそこで呆然と思念を止めた。
 あれほどまでに怒りと興奮に沸き立っていた心が、急速に冷めていく。
 どうしたというのだろう。
 この、空疎感。
「……どう、したい……んだ……」
 やるせなさが、胸を覆う。
 こいつを、殺せば、それで俺は満足するのか。本当に……?
 自分が憎んでいたのは……この、傷を消せなかった本当の理由は……。
「どう、すれば……」
 相手に対してではなく、もはやそれは自分自身への問いかけにほかならなかった。
 ――どうすれば、自分は『ここ』から抜け出すことができるのか。
 どちらからともなく、体が触れ合う。
 キラが屈み込んできたのが先か、それともイザーク自身がそれより早く立ち上がろうとしたのか。
 手を、握る。
 燃えるような、熱を帯びた掌が互いの体を結ぶ。
 なぜ。どうして。
 理由は、わからない。
 考えられない。
 ただ、気付いたときには、互いの瞳がくっつくくらいすぐ傍まで顔を寄せ合っていた。
 開いた唇と唇が重なり、噛みつくようなキスを繰り返した。痛みと優しさが交互に、押し寄せてくる。
 
 ――傷つけたい。
 ――傷つけたくない。
 
 これは、何なのだろう。
 この接触に、何の意味があるのか。
 わからないまま何もかも忘れて、刹那の夢に酔った。

                                      (to be continued...)


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