呪 焔
(21)
「……ん……は、あっ……」
ようやく唇を離したときには、どちらも息苦しさに喘いでいた。
「……き、さ……ま……っ……!」
上がりかかったイザークの両の手首を、キラの手がすかさず捻るように掴んだ。
そのまま壁に体を押しつけ、真正面から挑むように相手の瞳を見据える。
すぐに弾き返されることを予想して、軽く息を整え、掴む手に力を込める。しかし、意に反して相手の体からはささやかな抵抗の気配すら感じられなかった。力の抜け切った人形のように張りがなく、ほんの僅かに力を加えただけで、忽ち砕け散ってしまうのではないかと危ぶんでしまうほどだった。
睨みつけてくる、潤んだ青い瞳。瞬く光がいつの間にか弱々しく震えている。
(どう、して……)
キラは、微かな苛立ちを感じた。
つい先程、警備の男を薙ぎ倒したあの流麗な手技がまだ生々しく瞼の裏に焼きついている。恐ろしいほど迅速かつ的確で、情け容赦のない攻撃だった。
見ていて全身が総毛立ってしまうほど、強く、美しい獣の片鱗を垣間見た、と思った。
今のような弱々しさは微塵も感じられなかった。
さっきのように……どうして、抵抗しない。
「――さっきみたいに……ぼくを、やってしまわないんですか」
挑むような台詞に、イザークの表情が僅かに強張るのがわかった。
「何、を……」
キラの顔が皮肉に歪む。
「……できるんでしょう?本当は……あなたは、ぼくなんかより、ずっと強い筈ですよね……」
促すように、掴んでいる手を壁に軽く打ちつけた。
「――こんなの、おかしい。だって、ザフトの正規軍人であるあなたが、ぼくみたいな民間人上がりのにわか軍人に負けるわけがないから――だから、こんなの……変だ。絶対、おかしいって!」
いつの間にか、キラはひどく興奮していた。自分でもわからない、苛立ち。抑えきれない、このやるせなさは、一体どこからくるのだろうか……。
「ぼくを、殺してしまいたいくらい憎いなら、今すぐ、そうすればいいんだ!あなたには、それができるんだから!」
手首を掴む力が、僅かに緩む。
ゆるりと手首を握ったまま、ずり落ちるようにキラの体は床に崩折れていった。
膝をつくと同時に、がくりと頭が垂れ下がる。かろうじて相手の手にしがみついていた指先も、程なく床に落ちた。
眦が熱くなる。
今まで抑えつけていたものが、一気に噴き出してくるかのように。
胸の中に、次から次へと込み上げてくる思い。
――自分が、ここにいることが、間違いなのか。
モビルスーツになんて、なぜ乗ってしまったのか。
民間人のままで、いればよかったのに。
このままでは、また自分は人を殺してしまう。
ストライクのパイロットでいる限り。避けられない運命が、自分を待っている。
「……ぼく、を……」
なぜ、そんなことを言おうとしているのか、不思議だった。
しかし、言葉は自然に迸った。
「……ころ……して……」
それが、自分の望みなのか。一時の感情の昂ぶりが、言わせているのか。
わからない。でも……
「――ぼくを、殺して……くだ、さい……」
懇願するような、響き。
今この瞬間、相手はどんな顔で自分を見ているのだろう。
憐憫。憎悪。それとも……全く顔色も変えずに、ただ冷たい視線を投げかけているだけなのだろうか。
「……お願い、だから……」
――ぼくは、もうたくさんなんだ。
キラは固く目を閉じた。
これ以上、人を殺したく、ない……。
もしまだこれからも殺さなければならないというのなら、いっそ……。
「――立て」
突然冷たい声が、頭上から降ってきた。
声音の中に潜む刃に、骨まで切り裂かれてしまいそうだった。
ぞく、と震えが走る。
すぐには顔を上げることができなかった。
「――立てっ!」
怒気を含んだ声が再び上から降ってきたかと思うと、今度は片腕を掴まれて、乱暴に引き起こされた。
勢いに抗えず、自然に膝が上がる。
よろめきながらも、何とか立ち上がった。
向かい合ったすぐ目の先から飛び込んできたのは、イザークの怒った顔だった。
頬が、ほんのりと赤い。
怒りでやや興奮しているものの、その瞳はやはり精彩を欠いているように見えた。顔全体に疲労の色が窺える。
それもそうだろう。彼の体力は、通常の限界をとうに越えてしまっている筈なのだから。
こんな人を相手に、殺してくれ、などと。……茶番を演じているかのようだ。自分の言動が、今さらながらに滑稽に思えて、思わず目を伏せた。が――
「――ライク……」
「……え……?」
捉え損なった相手の言葉に慌てて目を上げ、問い返すような視線を投げる。
「……ストライク、だ」
イザークは明瞭な声で、そう発音した。
「ストライク……?」
相手の言おうとしていることを解しかねて、首を傾げる。
イザークは苛立ったように顎で扉の向こうを示した。
「――俺をストライクのところへ、連れて行け」
それだけ言うと、不意に彼はキラに背を向けた。
後ろ姿がやけに寂しく見えた。
「あの機体を、もう一度、この目で見てみたい……」
振り返らぬまま、イザークはぽつりとそう呟いた。
うろ覚えの暗証番号と簡単なパーミッションキーの操作で、格納庫への扉はすんなりと開いた。
ストライクのパイロットであり、モルゲンレーテへの技術協力者でもあるキラは、当然のごとく格納庫へ自由に出入りする権利があった。だからここで見つかったとしても、誰にも文句を言われることはない筈だった。
とはいえ、警備の者か余程の緊急時以外、真夜中のこのような時間にここに入る者など誰もいないだろう。
広い格納庫全体を包む闇と静寂は、そこに佇む者に異様なまでの緊張感を与えた。
非常灯のうっすらとした灯だけを頼りに、白い機体の置かれた場所まで慎重に歩を進めた。
ここに来るまで、どちらからも何も言葉を発しなかった。
言うべき言葉もなかったし、周囲に気を配るあまり余計な話をするほどの余裕もなかった。
自分のしていることが大変な違法行為だということは、わかっている。
敵であるザフト兵をこの建物の中に入れたというだけでもいけないのに、さらに開発中のモビルスーツを収容したこの格納庫に案内するなど、とんでもないことだった。
それでも、それをイザークから求められたとき、どうしても拒めなかった。
逆に、そうしなければならないような気がしたのだ。それは、イザークとの関わりの中で芽生えた必然、ともいうべきものだった。
イザークは、ストライクにこだわっている。それは、自分の顔に傷を負わされたから、或いは仲間を殺されたから、などといったような明瞭な理由からだけではないように思える。彼自身も恐らく意識していない部分――心の奥深く……どこかもっと根深いところで、彼はあの機体に執着している。彼自身が何らかの形でそれに決着をつけない限り、彼は永遠にストライクから離れられない。そして彼はいつか……自滅する。そんな、気がした。
相変わらず続くぎこちない沈黙を振り払うように、キラは自分の意識を目の前の機体に集中させた。
闇の中にうっすらと浮かび上がる白い巨体。
これが自分の機体、なのだ。あの日、ヘリオポリスでこれと出会ったせいで、自分の運命は、変わった。
(おまえも、人殺しだ)
声が聞こえたようで、どきりとした。
すぐ横で同じように機体を見上げながら、身じろぎもせず立ち尽くす少年に、意識を向ける。
うっすらと淡い光を放つ白銀の髪の色が、白い機体と溶け合う。
(……あ、れ……?)
一瞬、目を瞬いた。
なぜか……。機体が、ほんのりと光を放ったように見えたのだ。まるで、こちらに向かって語りかけようとするかのように。人間が息をするのにも似た、そんな生き物の息吹きが、この冷たく無機質な機械の表面から仄かに感じられる……そんな不思議な錯覚に捉われた。
気のせいだ、ということがわかっていても、なぜか動くことができなかった。
神性、とでもいうのだろうか。
なぜか、体の芯から震えが走った。
これは……何かの啓示、なのか。
特に信心深い人間でもない自分が、そんな神がかり的な感覚を信じるなんて。
馬鹿げている、と思いながらも、一笑に付してしまうだけの勇気もない。それは本当は心のどこかでその見えない何かの存在を信じているからだ。そんな筈はない、と思いながら、もしかしたら、という思いを手放すことができない弱い自分がいるからだ。
キラは、見えないその何かに対する畏怖に慄いた。
震えてはいない。
指の先を軽く摺り合わせ、確かめる。
ストライクを初めて間近に見たとき……あんなにも、激しく動揺した心が、嘘のようだった。
僅かな間に自分の心の内に、どんな変化が起こったのだろう。
ストライクを、討つ。
そう、心に誓った。
白い機体を思い出すたびに、煮えたぎるような怒りと憎悪の焔に全身を焼き尽くされてしまうかのようだった。
そうして……。
憎しみを募らせることで、己の存在を確かめた。
自分はここまで、この機体をこんなにも追い求めてきたというのに。
その憎い仇敵を目の前にしている今、自分の心の中は、驚くほどの静けさと冷静さを保っている。
この変化は、何だ。
(俺は……)
――本当は、俺は……。
イザークは吐息を吐いた。
頬を走る傷の先端にそっと触れる。ぴり、と刺激が走る。
この傷を消せなかった本当の理由は……。
こくり、と喉の奥が鳴った。
この傷の中には――
大切なものを失った悲しみ。怒り。打ち負かされた悔しさと屈辱。自分を敵に向かって駆り立てるすべての感情がこの傷の中に埋もれている。
これがなくなってしまえば、自分はどうなる?
たぶん、もう……自分の中で戦う理由は、なくなる。
自分は、本当に一人きりで取り残されてしまう。
何もかも……なくなってしまう。
そうなったとき、自分はどうすればいい?
……怖かった。だから、この傷を消すことが、できなかった。いつの間にか、この傷は自分がこの世界に存在する理由そのものになってしまっていたのだ。
少しペースを速める胸を、そっと押さえる。
(怖れるな)
自分自身の心に、言い聞かせる。
(何も怖れる必要は、ないんだ)
唇を噛み締め、冷静な眼差しを白い機体に向けた。
「これを、壊したい……?」
急に声をかけられて、はっと意識が現実に戻る。横を見ると、紫色の瞳が不安げにこちらを見つめていた。
「……あっ、ああ……」
そうだな、とイザークは小さく呟いた。
傍にいる少年に、というよりも自分自身への呟きに近かった。
「……わから、なくなった……」
この機体を破壊することが、自分の目標だった。
これを追いかけて、自分はここまで来た……筈、だった。
しかし……。
(これを破壊した後、俺は、どうなる……)
ストライクを討ち取った後の、自分。
まるで想像が、できない。
こく、と小さく唾を飲み込む音が聞こえた。
「……あなたが、破壊したいのは……ストライクなんですか。それとも――ぼく、なんですか……」
いきなりストレートに投げかけられた問いに、イザークは目を見開いた。
キラは答えを待ち望むように、瞬きもせず、こちらを熱心に見守っているのがわかる。
すぐに答えることが、できなかった。
いや……。
質問が、頭の中をぐるぐる回る。
イザークは頭を軽く押さえた。
――そんな問いに、答えることは、不可能だ。
最初から、わかっていた。
自分が追い求めていたのは、ストライクでも、そのパイロットでもなくて……。
じゃあ、自分は一体、どうして……。
どう、して……――
痛い。
苦しい。
憎しみ、ではない。
怒り、でもない。
ただ、胸の奥が締めつけられる。
そして、この喪失感。
自分の中に刻みつけられた悲しみの深さを、今、この瞬間、痛いほど思い知らされる。
睫毛が、震えた。
はら、と雫が落ちる。
いったん落ちてしまうと、それは次から次へと、空から降り落ちてくる雨滴のように、一定の間隔をおきながら、止むことなく頬を伝い零れ落ちていった。
「ど、どうしたの?」
異変に気付いたキラが、慌てて驚いた顔を近づけてくる。
見られたくない。
顔を背けようとする。
頬に、相手の指が触れた。
軽く押さえられて、かろうじて視線だけ逸らした。
「……大、丈夫……?」
キラの困惑した顔が視界に入る。
大丈夫だから、放っておいてくれ、と言いたかったがとても声を出すことができなかった。声を出そうとしても、嗚咽にしかならない。体が、震える。もう、どうしていいかわからなかった。まるで何かの発作が起こったかのように、いったん溢れ出た涙の雫は容易には止まらない。
「……泣かないで……」
そのうち、遠慮がちな指先が、慰撫するように優しく頬を撫で始めた。
何度となくされた行為に、忽ち体が敏感に反応する。
「……や……っ……!」
頭を振り、指を振り払った。
そのまま、頭を抱えてその場に蹲る。
「もう、やめ、ろ……ぉ……っ……!」
くぐもった声が、漏れる。
「……お、れの、こと……は、もう……っ……!」
――俺に、構うな。
「……これ以上、俺に……」
(俺に関わらないで、くれ…・・・!)
惑わされるのが、嫌だった。
殺してやろう、と思って近づいた。
そう、だ。
今なら、答えられる。
さっきの、あの問いに……。
ストライクも、そのパイロットも、抹殺してやろうと思っていた。本当に、そう思っていたのだ。
それは、自分を救うためだった。
しかし、自分はあまりにも、相手を知りすぎた。
今ではもう、わかっている。
(俺は、こいつを、殺せない……)
だけど……だからといって、こんな風に、呑み込まれていきたくない。
一度は殺そうと思っていた相手と、こんな風に……。
絶対に、駄目だ。それだけ、は……。
「――嫌だ!」
キラの声が頭上から遮った。
その強い声音に、びくん、と身が竦んだ。
(……キ、ラ……っ……)
怖い。顔を上げることができない。両腕で頭を抱えて、顔を見られないように隠した。
しかし、キラはイザークの真正面にしゃがみ込むと、その両肩を掴み、激しく揺すった。
「イザーク、イザークっ!」
相手が頭を上げるまで、彼はその名前を呼びながら乱暴に揺すり続けた。
「イザーク……イザーク、こっちを、見てっ!」
ようやく頭が上がった途端、キラはその顔をぐいと引き寄せた。驚いた顔は、既に涙で汚れていた。それでも、綺麗な顔、だった。キラはふ、と安心したように微笑った。
「イザーク……駄目だよ。ぼくはもう、あなたのことを放っておけない」
顔と顔が近づく。
唇と唇が、触れ合うほど、すぐ近くに互いの顔があった。
「……いい、んだ……」
初めて会ってまだ、一日も経っていないのに。
どうして、こんな出会いがあるのか。
キラは、何度も自分の心に問いかけた。
――ぼくたちは、間違った道を進もうとしているのか。
これは、いけないこと、なんだろうか。
だとしたら、どうして、こんなに心揺さぶられる?
この、人は……。
どうして、ぼくの心を、迷わせるのか。
愛するか。憎むか。
どちらかであるなら、いいのに。
どちらでもないから、いつまでも惑う。
なのに、わけもなく、相手を求めてしまう。
ただ、無性に、求めてしまう。
「……あなたになら、壊されても、いい……」
「馬鹿な、ことを――」
その続きは、相手の唇で塞がれた。
今度こそ止まりそうにない予感に、二つの体は慄きながらも、ゆっくりと折り重なっていく。
白い機体が見守る下で、禁忌はいとも容易く破れた。
(to be continued...)
|