呪  焔
 (22)











「――あれ、は?」
 すぐ傍で囁かれたニコルの声に、不意に意識を引き戻された。
 アスランは、少年の捉えた視線の先にあるものを追った。
「……関係者っぽくねーな?」
 反対側で舌打ちするディアッカの声が聞こえた。
「何だよ、ありゃ?」
 ジープが近づいてくるにつれ、そこに乗っている人物の姿がはっきりとわかるようになった。
 ディアッカが怪訝そうな顔をしたのも無理はない。
 作業服でもなければ、軍や会社の制服を着ているわけでもない。これほどセキュリティに厳しい場所に出入りする者としては、その軽装の少女はどこか浮いていた。それでもジープを運転している女の着用している上着には遠目からもモルゲンレーテ社のロゴが入っているのがはっきりと見える。
 その姿を認めたとき、アスランはあっと声を上げそうになった。
「アスラン?」
 ニコルとディアッカが両側からいっせいに声をかける。アスランは思わず腰を浮かしかけていた。
「おい、いきなり立つなって!」
 ディアッカがすかさず脇から腕を引っ張った。自分の方へ乱暴に引き寄せると、耳元に顔を近づけた。
「どうしたんだよっ?」 
 苛立たしげに問いかける相手の顔を、アスランは見ようともしなかった。
「……カガ、リ……」
「……何だよ、それ。あれのことか……?」
 ディアッカは解せない様子で、ジープに乗った少女に視線を投げた。
「……カガリ・ユラ・アスハ、だ……」
「……アスハ……って、ええっ?」
 ディアッカの目がいきなり大きくなった。
「ちょっ……待てよ。それって、まさか……?」
「間違いない」
 アスランは再び立ち上がった。
 その視線が真っ直ぐゲートに向かう。
 車は、ちょうど門の前に止まろうとしているところだった。
「ここで、待っててくれ」
「……おっ、おい、アスラン?」
 歩き出そうとするアスランの肩を、ディアッカが慌てて引き掴んだ。
「どこ行くんだよ!」
「……………」
 ニコルも呆気に取られた様子で不安げな視線を向ける。
 アスランは、軽く息を吐いた。
「――考えがあるんだ。ここは俺に任せてくれ」
 しかし、ディアッカはアスランの肩を掴んだまま、放そうとしなかった。怒った顔で口を開く。
「――おいおい、冗談じゃねーぞ!……このシチュエーションで、『それじゃ頼むわ。宜しく』なんて言えるわけねーだろがっ!」
 ディアッカは声量を抑えながらも、十分怒気のこもった声でアスランを責め立てた。
「おまえ、何考えてんだよっ!」
「せめて、もう少しちゃんと説明して下さい、アスラン」
 ニコルも深刻な面持ちで、割り込んだ。
「――でないと、ぼくも納得できません」
 ニコルの加勢に力を得ると、ディアッカは鼻息を荒げた。
「ほら見ろ。誰だってそうだよ。ちゃんとわかるように説明――」
「……説明なんかしている時間はないんだ!」
 アスランはディアッカの手を掴むと、やや乱暴に振り払った。
「頼むから、俺を信用してくれっ!今を逃せば、イザークを取り戻すチャンスは永久になくなるかもしれないんだぞ!」
 吐き出された語気の激しさに圧倒され、二人は思わず黙り込んだ。切羽詰った瞳が睨むように二人を交互に見た。
「頼む、から……っ……!」
 アスランは唸るように、繰り返した。言いながらも忙しなくちらちらと背後のゲートに視線を向ける。
「ここで、言い争っている時間は、ないんだっ!だから……っ……」
 食い入るような視線と叩きつけられる揺るぎない意志に、ディアッカは遂に折れた。
「……わかったよ。……くそっ、好きにしろ」
 ディアッカはそう言うと、悔しげに視線を逸らした。
「けど、何かあったら、後はもうほんっとに遠慮しねーからなっ!わかってんなっ!」
 そんな不穏な応答にももはや構っている余裕はなかった。
 背を向けようとしたとき、ニコルがアスランの腕にそっと手をかけた。
「――無茶しないで下さいね、アスラン」
「わかってる」
 アスランは心配そうなニコルの手を安心させるように軽く触れた。戸惑いながら、手は離れていった。
「俺が上手く中に入れたら……」
 アスランは工場の敷地内に林立する建物群をさっと一瞥した。
「一時間、だ」

 夜が、ゆっくりと明けていく。すぐに、全てが動き出す。残された時間はあまりない。
 白みかけた空に、挑むような視線を向けた。
「――必ず、一時間で戻ってくる。戻ってこなかったら……おまえたちは、先ず基地に連絡して、その指示に従ってくれ」
 そう言いながらも、恐らく彼らはその通りにはしないだろうな、と察しがついたが、それは胸に飲み込んだ。
 仕方が、ない。自分が反対の立場であっても、そうするだろう。
 ただ、自分が一時間で戻ってくれば、それで全てが解決する。
 それだけのことだ。
 そう自分に言い聞かせると、アスランは憮然と佇む二人を残して、前へ一歩踏み出した。
 軽く息を吸い込むと、一気にゲートへ向かって足早に進んだ。
 
 
 
 
 
「こんな朝早くから、付き合わせて悪かったな」
 カガリは、運転席の女性に目を向けると罰の悪そうな顔で声をかけた。
「お気になさらず。私も今日は早く出社したかったので」
 エリカ・シモンズは優美に微笑んだ。
「本当は、昨日はこっちに泊まりたいくらいだったんですけど、息子のことがあったもので、どうしてもいったん帰らなければならなかったもんですから」
「私も、泊まりたかったよ。……こんなときにゆっくり休んでなんかいられない」
 ぶつぶつとぼやくカガリを見て、エリカは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お嬢様こそ、おうちでお父様を安心させてあげないといけなかったでしょう。こんなところをうろついていると、また叱られますわよ」
「私の知ったことか。お父様なんて……何もわかってらっしゃらないんだ。どうせ……」
 カガリは俯いた。
「――それより、私はあいつのことが気になって……」
「……あの、コーディネイターの少年、ですか?」
 エリカは含みのある声で答えた。
「キラ・ヤマト……随分若い子がストライクに乗っていたので、驚きましたけど……でも、彼の能力があったからこそ、あの機体はあれだけの力を発揮することができた。偶然にしてはできすぎているような気がするけれど……」
「……あいつは、特別でも何でもないんだよ。……あいつ……」
 カガリは、考え込むように声をひそめた。
「あいつ……何か、様子が変だった。――あいつだけ、親と面会しない、なんて……。何だか、気になって……」
「確かに、疲れてるみたいだったけど……」
 エリカは、吐息を吐いた。
 しかし、少年の技術協力は必須だ。確かに無理を強いているとは思うが、それもやむを得ない。この切迫した状況の中では、特に……。
 軽く頭を振ると、エリカはIDカードをセキュリティボックスに差し込もうと手を伸ばした。そのとき――
「……カガリ!」
 夜明けの澄み切った空気の中に凛と通る声音。
 ジープの上の少女がその声に、びくんと身じろぎするのが見えた。
 不思議そうに動いた頭がこちらを向くと、不審気に歩いてくる少年の姿を捉えた。
 次第に距離が狭まり、帽子の下から覗く顔を認めた瞬間、みるみるその顔が驚きの表情に変わる。
「……お、まえ……?」
 カガリ・ユラ・アスハの唇が吐息を吐き出しながら、呟くように言葉を刻む。一瞬小首を傾げる様子を見せたが、記憶が戻るにつれて、目の表情が変わった。同時に、いったん途切れた声が、再びその名をたどたどしく紡ぎ出していた。
「……ア……ス、ラ……ン……?」
「また会えたな、カガリ――」
 戸惑う少女とは対照的に、アスランの瞳はこんな風に再会することを最初から予測していたかのように冷静で僅かな動揺も示さなかった。
「……おまえ……おま、え……」
 驚きが、困惑へ、そして焦燥に変化する。
「どう、して……」
「カガリさま?」
 隣りで硬直するカガリの様子に、エリカは忽ち不審の目を向けた。IDカードを持つ手が宙で止まる。
 彼女は視線の先を、カガリが見つめる相手へと動かした。佇む少年の姿を、警戒するようにじろりと一瞥する。
「――お知り合い、ですか?」
 工場の作業服を着ている。にしては、妙に眼つきが鋭い。表情が普通の少年らしくない。大体、こんな時間に、なぜここに……。
「……あ、ああ……その――」
 カガリは言葉を飲み込んだ。動揺していることは一目瞭然だった。しかし、彼女は何も言おうとはしなかった。
(カガリ……)
 アスランは、そんな少女を祈るように、見つめた。
 微かな希望が、芽生える。
 ――カガリは今、少なくとも、俺を敵として排除しようとは、していない。
 なぜかは、わからない。
 ただ、あの無人島で過ごした僅かな時間。
 あのひとときが、自分と彼女の間を阻んでいた何かを取り払ったことは、確かだった。
 それを、今再びゆっくりと噛み締める。
 敵同士だと認知していた。
 でも、それ以上の何かが、生まれた。
 あの、瞬間に……。
 だからこそ、一か八かの賭けに出た。
 カガリ・ユラ・アスハ……。彼女なら……もしかしたら……。
「……頼みが、ある……」
 アスランは、切り出した。
 カガリがこく、と唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。
「……俺を、中に入れて、欲しい」
 絞り出すように、一音一句、ゆっくりと発音する。カガリの顔色が変化するのを瞬きもせず眺めながら。
「頼む……カガリ――」
 アスランは、拳を軽く握り締めた。
 カガリのすぐ目と鼻の先まで体を寄せた。
 傍らの女性がさっと緊張する気配を感じた。しかし、それを気にしている余裕はなかった。
 強張った体に触れんばかりの距離から、低く囁いた。
「……友だちを、助けたい、んだ……」
 
 
 
 
 
「……っ……!」
 項を撫でられ、滑り下りていく指先の動きに、ひく、と一瞬体をのけぞらせた。
 反射的に逃れようとするのを押しとどめるように、相手の体が真上から覆い被さってくる。
 軽い圧迫を感じて眉根を寄せた途端、かけられた負荷がほんの僅かに緩んだ。
「……苦しかった?」
 労るように囁く声が、熱い息吹きを吐きかけると、イザークの体はそれだけで淡い期待に震えた。
「――キ、ラ……っ……」
 シャツの下から忍び込む掌が肌を撫でる。
「……さ、わる、な……」
 弱々しい抵抗の言葉も、零れ出る吐息に紛れてすぐに相手の耳には届かなくなった。
 
 
 
 
 
 イザークの体に触れると、それだけで心臓の鼓動が速くなる。
 フレイに触れていたときとは、違う。
 しっかりとした骨格に適度な筋肉のついた、引き締まった肉体は、女性の体とは根本的に異なっている。抱き締めた途端に腕の中に沈み込んでくるような、あの繊細な柔らかさとは、比較にならない。
 それでも、肌の滑らかさや弾力、そして密着した体から伝わる体温は、同じだ。
 心地良い。
 ずっと、触れていたいと思わせる。
 少し赤みを帯びた耳朶を食む。
 柔らかくて、ほんのりと甘い味がしたように思えた。それだけで、夢中になった。反応する相手の体の動きを楽しむように、耳から項、首筋を舌先でついばんだ。
 そのうち、我慢できなくなって、肌を吸い上げるような強い愛撫を繰り返した。
 どうして、こんなに興奮するのだろう。
 同性に対してこんなに欲情するなんて、これまで考えたこともなかった。
 いや……そもそも異性に対してさえ、これほどまでに熱い欲望を滾らせたことがあっただろうか。
 フレイを抱いたとき、自分はどうだったか。
 あのとき……いけないと思いながら、誘惑を拒めなかった。昂ぶる己自身の熱を抑制することができず、迸る情欲のままに流された。初めて……自分の中に潜む荒々しいまでの欲望とそれを制御できない獣性に気付き、愕然とした。
 あのときと……。
 同じ――なの、だろうか。
 キラは首を傾げた。
 燃え盛る欲望の向こうに潜む、もうひとつの感情。
 共感にも、似た……。
(あれ……?)
 不思議だった。
(ぼくは、何を求めている……)
 わからなくなった。
 本当に、わからない。
 考えると、苦しくなる。胸がいっぱいになる。
 ただ、この人を放したくない。
 ぐるぐる回りながら、興奮して暴走しようとする感情をかろうじて一箇所に押しとどめる。
 性器に触れるとそこが敏感に反応し、膨らんでいるのがわかる。きっと自分のものと同じくらい……。
 相手も興奮していることが、さらに自分の興奮をも高める。
 全身の血が沸き立ち、熱が駆け巡る。息が乱れる。声も出ない。
 この人を、自分のものにしたい。
 この人の全てを……。
 怒りも、憎しみも、悲しみも……全て、全て自分の中に注ぎ込まれてしまえば、いい。
 この人のもっているものを吸い込んで、全て自分だけのものにしてしまえれば、少しは満足できるのだろうか。
 残酷で、破壊的で、自己諧謔的な欲望が、嵐のように駆け抜けていった。
 乱暴に性器を握り手の中で乱暴に扱くと、相手の唇から悲鳴にも似た喘ぎ声が漏れる。
(――もっと……もっとだ……!)
 まだ、足りない。
 もっと、この人の中に入りたい。
 もっと、もっと……。
 尽きぬ欲望が、次から次へと押し寄せる。
 ただ、本能に突き動かされるままに、相手の中に自分自身の欲望を注ぎ込んだ。
 痛めつけているのか、快感を与えているのか、自分でもよくわからなかった。
 どちらでも、良かった。
 ただ、この暖かい波の中に沈み込んでしまった体は、いったんその味をしめると、なかなかそこから抜け出ようとはしなくなった。
 ――イザーク……
 どうしようもなく、心揺さぶられる。
 憎しみも、哀しみも、全部、全部……もう、自分だけのものだ。
 この人の中にあるもの、全て。
(ぼくだけの、もの……)
 ――殺して、やる。
 かつて自分が闇に放った声。
 びくん、と身を竦ませた。
 ――殺す、ものか。
 崩れそうになる心の奥から、新たな声がびん、と響く。
 少女の幻影が、脳裏を微かにちらついた。
 甦ってきた残像に、心を引き戻された。

 自分の失ったと思っていたもの。
 大切な、もの。
(……守ってくれて、ありがとう)
 守れなかった、んじゃない。
 自分は、何も失ってはいなかったのだ。
 そう思うとはらりと涙が零れた。
 失っては、いない。
 自分は、まだ生きてここにいる。
 自分と、この人の出会い。
 自分とこの人には、まだ生きていく理由がある。
 それが、やっとわかった。
 どうして、気付かなかったのか。
 まだ、守っていかねばならないもの。
 守らなければならないもの。
 守るだけの価値のある、何か。
 それが、この人の中に、ある。
 この人を、放したくない。
 心からそう思った。
 
 
 
 
 
 息が、弾む。
 まだ、興奮している。体が、熱くて、だるくて動けない。
 イザークは苦しげな息を吐きながら、ゆっくりと体を押し上げた。
 腰が、痛む。
 何度も貫かれたショックが、下肢全体にまだ生々しく残っている。
 しかし、じっとしているわけにはいかない。
 こんな、場所で……。
 ――あれから、どれくらいの時間が経過したのか、わからない。
 時間感覚など、とうの昔になくなっていた。
 あまりにも、長く、あまりにも短い……。
(俺たちは、今……)
 シャツを下ろす。
 仄かに残る肌の感触を払拭する。
 下半身が気持ち悪い。
 シャワーを、浴びたい。全身がどことなくべたついている。当たり前だろう。あんな……。
 イザークは、ぐ、と掌で口を押さえた。
 口の中に残った唾液をぺっと吐き捨てた。
「……イザーク」
 後ろから、伸びてきた腕に、きゅ、と肩を掴まれた。
 振り払う前に、ぎゅっと引き寄せられた。
 せっかく立ち上がろうとしたのに、またどしんと床に落ちる。
「……よせ……っ!」
「ごめ、ん……」
 体が密着すると、また体の奥がむず痒くなってくる。
 イザークは、背後から引き寄せる腕を乱暴に振り払った。
「いい加減に、しろっ!」
 尻をついたまま後退し、何とか相手から離れた。
「……もう……いい、だろう……」
 呟く声が弱々しく響く。
 俯いた顔を上げられなかった。
「――俺を……どう、したい……」
 目が、痛い。
 瞼が腫れているのがわかる。
 もう……涙は、出ない。でも、心の中はまだずしりと重い。疲労感が、残る。
「……いい、よ」
 キラの応えに、目を上げる。
 こちらを見つめる真摯な瞳と目が合った。
「……いい……?」
 相手の言わんとしていることを計りかねて、呆然と繰り返す。
 キラは、僅かに唇を緩めた。
「……戻りたい、でしょう」
「……………」
「……アスランが、迎えに来てるから……」
 アスラン、という名前が、懐かしく響く。
「……ア……スラン、が……」
 キラの口からその名前を聞くと、妙な気分になった。
 確か……アスランと、こいつは、幼なじみ、で……。
「……返さない、って言ったんだ……」
「え……?」
 イザークが目を瞠ると、キラはふ、と笑った。
「……本気、だったんだ。あなたを、殺してやろう、と思ったから……」
 さらさらと流れる言葉が、頭の中を単調に通り過ぎていく。
 何の感慨も、湧かない。
 ――殺して、やろうと……。
 そんな風に思っていたのは、確か、自分の方ではなかったか。
「アスランは、あなたを返してくれ、とぼくの背中に向かって何度も叫んでいたよ」
 アスラン、が……。
 俺を、返せ、と……。
「……あいつが、俺のことを……」
 使い物にならない兵士の一人や二人、放っておけばよいものを。心配せずとも、敵から情報を引き出される前に……。
 自分の始末くらい、自分の手で、できる。そんなことすらできないほど無能な奴だと思われていたか。
 それとも、他に理由があるのか。
 他に……。
 俺を、取り返したい、理由が……。
「……絶対に、返すものか、と思っていた」
 キラの声が、イザークを我に返らせた。
「……でも、今は……違う理由で……――やっぱり、返したくない……」
 キラの声にこもる熱が、イザークを戸惑わせた。
 相手の言いたいことの、大方の察しはつく。
「……返さなきゃ、いけない、と思う。でも……返したく、ない……あなたは……帰りたい……よね……?」
「………………」
 答えられなかった。
 不思議な感情の渦が、言葉をせき止める。
「……当たり、前、だ……」
 キラの瞳が、揺れる。
 微かな失望の光を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
 今の一言が、相手を、そんなにも深く傷つけたのだろうか。
 キ、ラ……。
 ストライクの、パイロット。
 ずっと、ずっと一心に向けていた、憎しみ。
 それが、弾けて、消えた。
 存在意味が……なくなった。
 でも、こいつは自分の目の前にいる。
 この少年に、抱かれた。
 抱かれたことを肯定も否定もしない。
 強いていえば、それは自分と相手との間にあった必然であったということなのだろう。
 この出会いに、何の意味があったのか。
 わからない。
 まだ、自分にも本当には何もわかってはいない。
 それでも……。
 憎しみは、ない。
 怒りも、ない。
 傷が疼くことも……ない。
 そう……だ。
 はっと、それに思い至った。
 傷を、震える指先で、そっと撫でる。
 違う。
 もう、あの胸をざわりと騒がせる、嫌な感触は……全く感じない。
(そう、か……)
 この少年との邂逅に、意味があるとすれば、きっとそれは……この傷を浄化する何らかの働きかけが起こったということなのだろう。
 本当に、そうであるのだとすれば……。
 何か、言わなければならない。
 まだ、この少年に言わなければならないことが、ある。
「キラ……」
 イザークが言いかけたとき。
 強い光がまともに顔に当たり、目の前が真っ白に弾けた。
 思わず両手で遮光したときは既に遅く、一瞬視界が見えなくなった。何が起こったのか周囲を窺おうとする前に、駆けてくる足音に耳を奪われた。
「見つけたぞっ!」
「こっちだっ!」
 低く唸るような声が、飛び交った。
 何が何だかわからぬまでも、相手が敵対するものだということだけはわかった。
 手を捕まれた、と思ったとき、ようやく視力が戻ってきた。
 頬を腫らした男の憎悪に満ちた顔が目に入った。
 ……見紛うまでもなかった。先程、彼が尋問室で打ち倒した男だ。
「……っ、……!」
 手を振り解く。
 逃げようと体を伸ばす前に相手の容赦ない蹴りが彼を床に突き転がした。
「イザークっ!」
 キラの声が耳を打つ。
 声の方へ振り向くと、手を指し伸ばそうとするキラの前にもう一人の男が立ちはだかったところだった。
「おとなしく、寝てろ」
 凄味をきかせた声と共に、男の手がキラを薙ぎ払う様子が見えた。
「貴様ら……っ!」
 イザークは重い体を奮って跳ね起きた。
 キラを吹っ飛ばした男の背中に飛びかかろうとしたとき、自分の背後に立つもう一つの気配を察した。
「今度はさっきみたいにはいかないぞ」
 嘲笑するような声とともに、背後からいきなり羽交い絞めにされ、喉元を強く締めつけられるとあまりの激しい圧迫感に、一音も出なくなった。
(……く……そっ、……!)
 足をばたつかせ、空いている両手で相手の腕を解こうと必死の抵抗を試みる。
 しかし今度こそ、男は一部の隙も見せず、絞め殺さんばかりの力を入れてイザークの拘束をますます強めていく。
 圧迫感も限界に近くなる。
「ぐ……っ……!」
 キラは、どうなった。
 キ……ラ……。
 嫌な予感がする。
 こいつらは、格闘のプロだ。
 到底素人の叶う相手ではない。途端に自分のことより、もう一人の少年がどうなったか心配になった。
「……の、やろう……っ……!」
 全身の力をかき集めて、男の拘束を振り解こうともがく。
 重心を下肢に移し、思いきり膝を振った。
「……くそ、手のかかる……」
 男がちっと舌打ちする音が聞こえた。
「イザークっ……何を……っ!」
 悲鳴が、聞こえる。
 嘲るような笑い声が被さる。
 キラ、は……。
 くそ、俺はどうしてこんなに動けない……?
「おい、早くしろ!」
「わかってる。急かすな」
 囁く声が忙しなく交差する。
 口を掌で塞がれた。
 首筋に何かちくりと鋭いものが当たる気配がしたかと思うと、それはずぶずぶ、と首の中深くに突き刺さった。
 目の奥で火花が散るようだった。
 液体が、一気に血管に流れ込む気配。
 やられた、と思った。
 即効で頭が朦朧となる。
 ここで、倒れるわけには、いかない。
 しかし……。
 抵抗しようとしても、もはや手足はだらりと垂れ、拘束されずとも全く力は入らなくなっていた。
 抱え上げられたとき、視界の隅にぐったりと床に蹲る少年の姿が見えたが、声を上げることもできず、そのまま瞼が落ちて後は何もわからなくなった。

                                      (to be continued...)


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