呪 焔
(23)
「……く……」
キラは痛みを噛み殺して、ゆっくりと起き上がった。
気を、失っていた。
どれくらいの間、ここに倒れていたのだろう。
さほど時間は経っていないようだ。
目を上げると、薄闇の中から白い機体が嘲笑うように見下ろしていた。
思わず、身が竦んだ。
全てを見透かしたように。
神のごとく目の前に聳える鋼の装甲から発せられる威圧感に、慄いた。
「……キラ?」
背後から聞こえてきた声が、彼を現実に立ち返らせた。
振り返った瞳の中に、見慣れた男の姿が飛び込んできた。
目が合った途端、相手が大きく目を見開くのが見えた。
「――どうした、おまえ……っ!」
忽ち駆け寄ってきたフラガに、腕を掴まれる。
ぐらりと傾いだ体を、さらに両腕で抱え込むように支えられた。
「――酷いな」
フラガは呟くと、キラの腫れ上がった頬を軽く撫でた。
「……こんなになるまで、一体誰にやられた?」
「………………」
答える代わりに、キラはフラガの手を払いのけた。
「キラっ!」
「……ク……」
「――何だ?」
微かに漏れた呟きに、フラガは怪訝そうに首を傾げた。
「……イ、ザー……」
「イザーク?」
フラガの目が険しくなった。
「……あいつらが……イザーク、を……っ!」
「おい、キラ?……待てよ!」
ふらふらと頼りない足取りで、歩き出そうとする少年の肩を掴むと、無理に振り向かせた。
「ちゃんと説明しろ!」
フラガは厳しい顔で、少年に迫った。
「……ふ……ぅ……」
吐息が、漏れる。
熱を帯びた息が、喉を焼いているかのように。
声が、出ない。
苦しい。
身動きができなかった。
体を折り曲げられて、どこか狭い場所に押し込まれている。
瞼が縫いつけられてしまったかのように、目を開くことすらできない。
手を動かそうとしても、恐ろしく重くてなかなか思うようにいかない。必死で持ち上げかけたものの、すぐに力が尽きてしまった。
ぱたり、と落ちた片手をぐい、と捩じ上げるように引っ張られた。頭が何か温かいものに触れる。頭を微かに振って、不快感を示すと、真上からはーっと溜め息を吐き出す音が聞こえた。
ぱちん、と手首を弾かれる。
「……ったく、薬物が効きにくい奴だな」
「何だ、もう目を覚ましたのか?」
ぼやくように呟かれた声に、すぐに向こうからもうひとつの声が反応した。
「いや、まだ朦朧としているぐらいだろうが……それにしても、あれだけ打ってるのに、な。まだ半時間も経ってないんだぞ。勘弁してもらいたいぜ……」
忌々しげな舌打ちとともに囁かれるやり取りが、覚めかかった意識の間に突き刺さる。
「もう少し寝ていてもらいたいところなんだがな……」
「――まあ、耐性があるのは仕方がないだろう。こいつらは素人じゃない。そういう風に訓練されてるんだ。尋問を始めた時からそれはわかっていただろうが」
「それはそうだがな。今度のはかなり強い濃度の薬を使ったんだぜ。普通じゃ半日くらいは目え覚まさないとこだぞ。……ったく、つくづく、こいつら化け物並みだな。恐ろしくなる。この分じゃ、いつまでもつか……。――向こうから連絡はまだ入らないのか」
「もう、くる頃だ。こなければ、困る。いつまでもこんなところでもたもたしてられんからな。さっきの小僧が騒ぎ出しでもすれば、忽ち面倒なことになる」
「……途中で暴れ出されたら面倒だな。……念のために括っとくか?」
「ああ。その方がいいな。――これを使え」
放り投げられたものを受け取った男の手が、素早くイザークの両手首を掴んだ。抗う間もなかった。冷たい金属片が肌に触れたかと思うと、かちりと嫌な音がして一瞬後には両手を手錠で拘束されたのがわかった。
そこで瞳が僅かに開いた。
ぼんやりとした視界。それでも、真上から見下ろす男の顔と目が合った。見覚えがある。自分が警備室で、のした男だった。
「――ほーら、案の定、だ」
にやりと唇の端が緩む。
男の膝の上に寝かされていることがわかるとぞっとして、思わず頭をどかそうとした。しかしすぐに男の手が頭を押さえつけ、僅かな抵抗の芽を封じた。
「……う……――」
思いのほか強い圧迫感に、小さな呻き声を洩らす。
男が顔を近づけた。
「じっとしてろ。無理に動こうとすれば、苦しくなるだけだぞ」
圧迫感が強くなる。痛みに顔を歪める。体の力を抜いた。同時に、押さえつけていた男の指が離れ、突然圧迫感が消えた。
「お利口さんだ」
そう満足気に呟いた男の手が、今度は髪をさらりと撫でる。びくん、と肩を震わせるイザークを見て、男はくつくつと笑った。
「安心しろ。俺にはその手の趣味はない。いくら女みたいな綺麗な顔でも、男には欲情しない性質(たち)なんでな――残念ながら」
まるで、その手は通用しないぞ、とでも言っているかのようだった。露骨でどこか辱めるような物言いに、屈辱感が増す。
そのうち、ぶーんというモーター音が聞こえ始め、起動を始めた機械の微細な振動が体に伝わってくる。そこで、自分が今車の中にいるのだと改めて知った。
車の中、ということは、これからどこかへ連れ出されようとしているのだ。
まずい、と思った。
こんな風に体の利かない状態で、さらに全くわからない場所へ移動してしまえば、今度こそ仲間の元に戻れなくなる。
それにしても、妙だ、と思った。
確か自分はオーブの保安部に引き渡されることになっていたのではなかったか。
連絡を取った上で、身柄を引き渡すという話だった筈だ。元々それまでは警備室で待機している予定だった。自分がキラに連れられて逃げ出しさえしなければ。
それを今度はなぜこんな風にこそこそと連れ出されなければならないのか。
断続的な会話を聞いているだけでも、彼らがこっそりとこのモルゲンレーテの敷地から抜け出そうとしていることは明らかだった。
(まさか、こいつら……)
自分はもしかしたら、もっと厄介な事態に巻き込まれようとしているのかもしれない。
オーブでは、なく……。
なら、一体何だ。
――こいつらは、一体俺をどこへ連れて行こうとしている……?
とてつもなく嫌な予感がした。
(くそ……っ!)
焦りが生じるとともに、理由のわからぬ不安に駆られる。
しかし実際には、どうにもできない。
体がこうも動かないのでは、どうしようもなかった。
常人より、回復は早い筈であるとはいうものの、普段の力が戻る保障はない。指先を軽く動かしてみる。先程よりは力が入る感覚がある。それでも、二人の男を相手に戦うには心もとない。
何より、こんな風にして両手を拘束された状態でシートの上に転がされている自分と相手の関係はまるで飼い犬と飼い主、いやそれどころか奴隷とその主人といった方が当たっている。イザークにとっては精神的ダメージの方が強かった。屈辱感と憤りに体の奥が熱くなる。
男の上顎を下から睨みつけた。
何とはなしに気配でその視線に気付いたのか、男がちらと見下ろし、目線が合った。
男は苦笑いを浮かべた。
「危ないな。今にも食い殺されそうな眼だ……。括っといて正解だな」
「……俺を、どうするつもりだ……」
掠れた声に、我ながら驚いた。咳払いをして、声を出そうとするが、それ以上の声は出ない。やむを得ず、そのままで続けた。
「……オーブでは、ないな。どこに、俺を売り渡すつもりだ……!」
「さあて、どこだろうな」
とぼけた声で、男は答えた。
「……ふざけるなっ……貴様ら……まさか……っ……」
「優秀なコーディネイターなら、わかるだろう」
男の眼が悪意の光を放つ。
「……おまえみたいなのを、欲しがってる連中がいるんだよ。健康で優秀なコーディネイターの体を喉から手が出るほど欲しがっているような奴らが、な。ただでオーブに渡すよりも余程――」
「おい、余計なことを喋るな!」
運転席にいる男が怒鳴りつけて、会話を遮った。
そのとき、男の携帯がぶーん、と鳴った。
「――ああ、わかった。すぐに向かう」
短い返事の後、男は携帯を切ると、後部座席をちらと見た。
「連絡があった。取り引きは成立だ。――今後一切無駄口は叩くな」
静かな怒りと威しのこもった語気に気圧されたのか、相手は了解、と答えるとそれ以上は一言たりとも発しようとはしなかった。
そうしている間に、やがて車は滑るように動き出した。
(焦るな……)
イザークは冷たい汗に背を濡らしながら、少しずつ四肢を動かせるだけの筋力が戻ってくるのを待った。
「こんな時間に、どうしたんだろう?」
すれ違う車に、カガリは金髪の頭を僅かに傾げた。
「――警備の交代勤務時間、かしら。……にしては、少し早すぎるような気もしますが」
エリカも不思議そうに後方に去っていく車をちらと眼で追った。が、すぐにその関心は手元に戻った。
「……で、どこまで入ってくるつもり?」
つっけんどんに問いかけるその相手は、後部座席からむくりと頭を擡げたところだった。
紫紺の髪に、開かれた瞳は鮮やかな緑。整った顔立ちの中に、いかにも理知的で明晰な表情がくっきりと現れている。いわゆる、典型的な優等生顔とでもいったところか。
年は確かにカガリと同じくらいのように見えるが……ただ、ひどく落ち着いていて、年にしては妙に成熟した、大人びた雰囲気を持っている。
ただの作業員ではないのは明らかだった。
何か理由(わけ)ありのようだが、カガリが何も話さない以上、エリカにはさっぱり事情がわからない。
大丈夫、なのだろうか。
疑念は消えないが、カガリの『友だちだ』と言う言葉を信じるよりほかない。
「キラ・ヤマトがいるところに――」
「キラ?」
「キラ・ヤマトですって?」
少年の答えに、カガリとエリカは同じ声を上げると同時に顔を見合わせた。
「……おまえ、キラを知っている、のか?」
カガリの問いに、アスランは軽く頷いた。
「俺とキラは月にいた頃の幼なじみなんだ」
さらりと口をついて出た答えに、カガリは心底びっくりしたように目を見開いた。
「……あら、じゃあ、きみはカガリ様というより、キラくんの知り合いなんだ」
「そういうこと、ですね」
「……って、待てよ。そんなこと、急に……当たり前みたいに言うな!私はおまえとキラのことなんて、全然――」
「だから、今説明している」
そんな風に平然と言うアスランを前に、カガリは困惑を隠せなかった。
「……一体……――っ!」
急ブレーキがかかり、ジープががくん、と揺れた。
突然体を襲った衝撃に、カガリの唇は言葉の代わりに、小さな悲鳴を洩らした。
「……なっ……何だっ?……」
「おーい、止まれ、止まれーっ!」
前方にいきなり飛び出してきた金髪の男が、頭の上で大きく両手を振りかざし、叫んでいる。背後にいるのは、見慣れた栗色の髪の少年で、たった今話題に昇ったばかりの当の本人だった……。
「……キ、キラっ?」
カガリは目を瞠った。
「――ああっ、あんた、確か昨日いた……ここの美人の主任さんだったな!ちょうど良かった。――この車、貸してくれ!」
車が止まった瞬間、駆け寄って来た男が有無を言わさぬ口調で先に言葉を発した。
「……フラガ少佐?……一体何事ですか?」
すぐに相手が誰かわかると、エリカはほっと息を吐いたが、それでも面食らっていることには変わりなかった。
「今、車が行かなかったか?」
「え?――あ、ええ、ついさっき……」
「やっぱり――それだ!……な、キラ?」
背後の少年に声をかけると、キラはようやくその目を上げた。
「頼むよ。車!……ちょっとの間でいいから、さ!ほら、そこのお嬢さんも、いいかな?ほらほら、早く!」
強引に運転席から降りるように促される。
「えっ……ちょっ、ちょっと……!」
「……って、あのなあっ!急に、何だよっ……」
カガリが文句を言いかけたときには、エリカは運転席から押し出された後だった。代わりにちゃっかりと座り込んだ金髪男と間近に目を合わせて、カガリは思わず言葉を失った。
「悪いけど――」
「キ、キラっ!」
すぐ傍から見下ろすキラに、カガリは唇を尖らせた。
「事情を、説明しろよっ……」
「ごめん、カガリ。でも今は――」
「キラ――」
突然割り入ってきた声に、キラの目がぴくんと瞬いた。
大きく見開かれた菫色の硝子球の中に、紫紺の影が映った。
「……ア、スラン……」
「……ん?」
フラガもそこで初めて後部座席にいるもう一人の存在に気付いたようだった。
見覚えのある顔に、驚きの表情を浮かべる。
「あれ、きみ――」
しかし、アスランの瞳は真っ直ぐキラに向けられたまま、そこから一時たりとも動こうとはしなかった。
「……キラ……っ……!」
アスランの体が跳ねた。
瞬間移動したかのような、素早い動きに誰もが息を飲む。
「キラっ――!」
「アスラン……っ!」
飛びかかったアスランの体に押し倒され、キラの体が地面に沈む。
「ちょっ、ちょっと、おまえら……っ!」
カガリが車から飛び降りて二人を止めようとしたが、既に地面の上で転がりながら揉み合っている少年たちを引き離すことは不可能だった。
すぐに馬乗りになって相手の喉元を押さえつけたのは、アスランだった。
「……ア……スラ……ン……」
「――イザークを返せ。キラ……!」
息を喘がせる相手とは対照的なまでに、呼吸を完全にコントロールしたアスランの明瞭な声音が、キラの耳膜にびんと響く。
――イザーク、を……。
かつての幼なじみの顔を間近で見下ろしたアスランは、ふと眉を顰めた。
(キラ……?)
彼の顔には明らかに殴打の跡が残っている。腫れ上がった頬。切れた唇にはまだ血が滲んでいる。ついさっきつけられたかのような生々しい傷跡だった。
(何か、あったのか……?)
嫌な想像が胸をよぎる。
(まさか……イザークと……?)
「……キラ、おまえ……」
覗き込む緑色の瞳をぼんやりと見返しながら、キラは不意に全身から力が抜けていくのを感じた。
――この、瞳(め)……。
懐かしくて、胸の奥をほろ苦い気分で満たしていく。
彼のよく知る瞳の色だった。
静かで穏やかな……それでいて、時々不意に恐ろしいほどの孤独と悲しみを感じさせる。
ザフトの軍人、ではない。
これは、自分の知っている、アスラン・ザラだ。
何も変わっては、いない。
(アス、ラン……)
何か、言いたかった。
しかし言葉を返そうにも、喉を締めつけられているので、思うように声を出すことができない。
「……う……」
喉を掴む相手の腕に手を伸ばすが、相手は全く力を緩める気配を見せなかった。
「……手を放してやれよ」
いつの間にかすぐ背後まで来ていたフラガが、アスランの肩を掴んだ。
「今はそんなこと、している場合じゃない」
「………………」
アスランは答えなかった。それでも微かに強張る肩先が、相手を強く意識していることを物語っていた。
「――おまえの仲間はもうここにはいないんだ。早く追いかけないと、本当に見失っちまうぞ」
「……何……?」
手が、緩む。
キラの喉元から手を放すと、初めてアスランはフラガに顔を向けた。
「……それは、どういう――」
「――詳しいことを話している時間はないがな。ただ、さっきの車で連れ出されたのは間違いない」
「……連れ出された……?……って、一体誰、に……?さっきのくる、ま……?」
呟く途中で彼ははっと顔色を変えると、ポケットから携帯連絡機を取り出した。傍受の危険も何も考えている余裕はなかった。冷静な思考が一度に吹っ飛ぶ。
「――ディアッカっ!今、ゲートから出てきた車を見たかっ?」
相手の返事を聞くなり、怒鳴りつけるように叫んだ。
「ああっ、それだ。今すぐそれを追いかけてくれ!俺のことはいいからっ、早く!――それに……イザークが、乗っている!」
通話を切ると、アスランは再びキラと目を合わせた。
瞳を逸らすキラの前に、アスランの手が差し伸ばされた。
「アスラン……」
じわりと胸を焼く、焔。
これが何を意味するのか、キラ自身にもわからなかった。
ただ、自分でも意識せぬうちに、その手を取っていた。
「……何が……あった?」
「おいおい、詳しい話は後だって言ってるだろう!」
キラが答える前に、フラガの声が二人の間に割って入った。冗談っぽい口調でありながら、その目は決して笑ってはいない。
再び運転席に飛び乗ると、慣れた仕草でハンドルを握り、エンジンをかける。忽ちジープは唸りを上げて、駆動を始めた。
「ほら、早く乗れ。――市街地までルートは一本だからな。今ならまだ間に合う。とにかく、後を追いかけよう」
「……車、ってあれか」
わけがわからない。
ディアッカは、何度も舌打ちをしながら、ハンドルを切った。
ほんの数分前。いきなりアスランに、施設を出た車を追跡しろと言われて、何のことかさっぱりわからないまま、取り敢えず言われるままにニコルと車を置いた場所に戻り、気ぜわしく市街地への道を走った。
夜明けの道路は車量も少なく、スピードを上げて走ると、程なく前を疾走する一台の黒い車が見えた。
それが、目的の車両であるのかどうか、定かではない。
この距離ではまだよくわからない。
「……もう少しスピード、出ませんか」
ニコルに促されると、ディアッカはちっ、と舌打ちした。
「冗談――これでもマックスで走ってるんだぜ、これ以上はムリだっての!」
「……市街地へ入る前に、止められたらいいんですけど」
「どうやって?」
「……撃ってみますか」
「バッカ、この距離からじゃムリだろーが!」
「取り敢えず、威嚇にはなるんじゃないかと……」
「逆に逃げられるっての!」
ディアッカは、はーっと大きな溜め息を吐いた。ぐっとアクセルを踏み込む。そうして、旧式の自動車め、と心中ぼやく。確かに、最新型の四輪駆動車なら、もっと速度は出る筈だ。
「……ってか、マジであれにイザーク乗ってんのかよ?一体何がどーなってんだ?わけわかんねーんだけど!――実はあれが何の関係もねー車だったりしてみろ。今度は忽ち俺たちの身が危うくなるんだぜ」
ディアッカはくそっ、と毒づいた。
「ニコル!もう一回アスランの奴に連絡してみろ。ちゃんと説明しろってさ!」
「あ、はい……」
ニコルは戸惑いながら連絡機を取り出した。
「……妙だな」
運転席の男が呟いた。
「――どうした?」
後部座席からすかさず声がかかる。
運転していた男は解せぬように頭を振った。その目がちらちらとバックミラーに移る。
「……あの、車――」
「車?」
後ろにいた男も肩越しに背後を振り返った。
かなり距離はあいているものの、確かに一台の車が後を疾走してくるのが見えた。
「まさか、尾けられてるんじゃないだろうな?」
「何?」
遠目から、よくは見えないが、旧型のジープだ。
乗っているのは……わからない。
「……念のために、スピードを上げてみろよ」
「ああ」
途端に車の速度が上がる。
「おおっと!」
転がり落ちそうになった体を、ぐい、と引き掴まれた。
シートの上でぐらりと傾いだ男の体に生じた隙を、イザークの眼は見逃さなかった。
引き上げられる前に、振り上げた両手を、男の顔に叩きつける。さして力はこもらぬものの、手首に嵌まった鋼鉄の輪は男の顔面にまともに当たると、十分な効果を発揮した。まだイザークに打ちのめされて間がない打撲箇所には少しの衝撃も響くのだろう。
ぎゃっ、と悲鳴を上げると、男は鼻面を押さえて後ろへ仰け反った。掴んでいた手が離れ、イザークの体もシートの下へ沈む。
「どうした?」
騒ぎに驚いてちらと振り返った運転席の男は、背後の様子を目に入れるなり血相を変えた。
「おい、何やってるっ!」
顔を押さえて呻いている男とシートの下から頭を擡げようとしてもがいている少年を一喝しながらも、急にハンドルを離すわけにもいかず、男はやむなく運転に戻らねばならなかった。しかし再び正面を向いた瞬間、ミラーを掠めた銀色の影が男の注意を引く。危険を察して振り返ろうとした側頭部に、固く冷たいものが打ち込まれた。
「……ぐ……っ……!――こ、のっ……!」
強い当たりではなかったものの、一瞬の衝撃はハンドルを握る手を緩めるには十分だった。車が激しく揺れた。もう一撃くれようとしていた少年の体は大きく弾んで、後部シートに叩きつけられた。
しかし、もはやそれを見届けている余裕すらなかった。
男の血走った目が真正面に向かって大きく見開かれる。
「……くそっ!」
ブレーキをかけようとしたが、間に合わない。
カーブを曲がりきれない。
「……っ、うわあああああーーーっ!」
男の口から悲鳴が上がると同時に、車はガードレールを越えて反転しながら崖下へと落ちていった。
(to be continued...)
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