呪 焔
(24)
カーブの続く長い湾岸道路を車はひたすら疾走する。
切り立った山の斜面を背に、目の前には茫洋と広がる海が、次第に高くなる陽を浴びて、水面を砕いた硝子の粉で散りばめたかのように、細かな光をきらめかせている。
静かな早朝のひととき、朝日を拝みながら、目の前に広がる地球のパノラマ的自然の造形美を味わうドライブを楽しんでいてもおかしくない筈だが、生憎今はそんな余裕はない。
「何だか、アスラン自身もよくわかってないようなんですけど……とにかく、後を追え、って」
そう伝えるニコルに、ディアッカはちっ、と忌々しげに舌打ちした。
「なーにやってんだよっ、あいつはっ!」
突然前方の車の動きがおかしくなった。
蛇行を始めたかと思うと、それはいきなりレールを飛び越えた。
「おっ、おい、あれっ!」
ディアッカは転落していく車を見て、顔色を変えた。
ガードレールの下は、断崖、絶壁だ。さらにその下に広がるのは紺碧の海。
「大変だ……っ!」
悲愴な呟きとともに、彼はアクセルを強く踏み込んだ。
気詰まりな沈黙を抱えたまま、ジープは疾走した。
運転しているのはフラガで、後の二人は並んで後部座席に座っていた。
「……で、イザークを攫ってったのは、あの警備の奴らなんだな?」
フラガが不意に沈黙を破った。
「……ったく、何のつもりなんだ。奴ら……」
「……ぼくの、せいだ……」
ぽつりとキラが呟いた。
「ぼくが、彼を……」
「――誰のせいでもない」
アスランが遮った。
「アスラン、ぼくは……」
「……俺は何も聞かないよ、キラ」
アスランはふ、と唇の端を緩めた。
「……だから、おまえも何も聞かないでくれ」
キラの青い顔を見ながら、アスランは一瞬視線を遠くへ彷徨わせた。
「――これ以上、俺たちは互いに関わり合いになるべきじゃない。……わかるよな?」
「………………」
取りつくしまもなく、言い放たれたアスランの言葉に、キラは口を閉ざした。
アスランの携帯がけたたましく鳴ったのはそのときだった。
「……な……!」
携帯を耳に当てた途端飛び込んできた言葉に、アスランは絶句した。
「どうした?」
バックミラーを見やったフラガが眉を寄せたのと、アスランが運転席にいきなり身を乗り出してきたのと、ほぼ同時だった。
「――止めてくれ!」
突然のアスランの要求に、フラガは唖然とした。
「えっ、何……?」
「いいから、止めろっ!」
戸惑うフラガの肩に手をかけると、アスランは声音を強めた。
「……わ、わかった、わかった!手を離せ。危ない」
アスランの切羽詰った様子に圧されるように、フラガはスピードを緩め、車をガードレール脇に停車させた。
「――何なんだ?急に……」
フラガが呆れ顔で問いかけるのも無視して、アスランは電話から聞こえてくる声に真剣な面持ちで耳を傾けていた。
何らかのやり取りの後、アスランはようやく顔を上げて、物問いたげに見守っていた二人と視線を合わせた。
「――イザークの乗った車が、転落した」
「え……」
「何だって?」
思いがけない言葉に、キラとフラガは同時に叫んだ。
「おいおい、それ――」
「――今から言う地点まで戻って欲しい」
フラガを遮って、アスランはきびきびと命じた。
「説明している暇はないんだ。――急いでくれ!」
「何かわからんが、仕方ないな」
フラガは肩を竦めると、再び始動した車を大きくUターンさせた。
アスランの指示に従いながら、ジープは速度を上げて元来た道を戻り始めた。
最初の分岐点に来たときに、彼は来たところとは違う、脇へ入る細い道を指した。海岸沿いに下っていく方向だ。
蛇行しながら砂利道を走行していく途中で、
「止めてくれ!」
再びアスランの声が命じた。
「ええっ?」
よくわからないまま、少年の勢いに圧されてフラガは車を止めた。
「アスランっ?」
戸惑うキラの声に振り返ると、アスランがひらりとジープから飛び下りるところだった。
「ちょっと待て、おい!どこ行くんだ、少年!」
フラガは慌てて運転席の扉を開けると、自らも地面に降り立った。後部座席から降りたキラと一瞬顔を見合わせる。
「……フラガさん」
「行くぞ!」
瞬く間に木立の間を駆け抜けて行く少年の後を、フラガとキラは追いかけた。
茂みを抜けると、忽ち強い潮風が顔に吹きつけてくる。つい目の先に、断崖が見える。崖の先端に佇んでいる人影。紫紺の髪が風に舞い上がる。アスラン・ザラだ。
海から吹きつけてくる風は相当強い筈だ。それでも、足元から指先まで、その姿勢は全く揺るがない。崖の端に突き立った針のように、微動だにせず、少年の視線は何かを測るように、瞬きもせず、彼方の海面をじっと見つめている。
視線の先を追って目を眇めると、先の方の海上にかろうじて何か黒っぽいものが浮き沈みしているのが見えたようだった。
それが水没しようとしている車体の一部であるのかどうか。ここからでは判断がつかない。
しかし、少年の揺るぎない真剣な瞳を見て、フラガは眉を顰めた。
嫌な予感が全身を掠める。
朧気ながら、相手の意図がわかったような気がした。
「あいつ、何を……」
フラガは叩きつけるような海風から僅かに顔をそむけながら、呟いた。
「――おーい、何してるっ!」
大分下ってきたとはいえ、まだ下まで悠に二十メートルはあるだろう。
「おい、まさか、あいつ……あそこからダイヴするつもりじゃないだろうな?」
ここからでも、遥か下方で岩場を打ちつける荒々しい波音が聞こえてくる。この強風に煽られた波間はかなり荒れている。こんなところから飛び込もうものなら、まず落下の衝撃で意識が吹っ飛ぶ。後は即座に波に呑まれてジ・エンドだ。いくらコーディネイターとはいえ……
「アスラン……まさか――」
キラがそう言いかけた途端、目の前の体が揺れた。
予測はしていた。
しかし、実際にそれを目にしたとき、フラガは思わず制止の声を上げていた。
「よせ、馬鹿野郎――っ!」
しかし、声が届くより先に、紫紺の髪は視界から消えた。
フラガが駆けつけたとき、彼の目が捉えたものは、遥か真下で砕け散った白い飛沫の残滓でしかなかった。
車が弾んだとわかった瞬間、目の前が大きく揺れた。
体がいったん宙に浮き、どこかの角にしこたま背骨を打ちつけた。痛みを感じるより先に、頭の奥で火花が散り、意識が飛びそうになった。
凄まじい衝撃とともに、沈んでいく車窓の間から海水が浸入してくる。
ぐ……という呻き声を聞いたきり、折り重なる男の体からは何の反応も感じられなくなった。
冷たい海水が体を浸し始めると、本能的な危機感に駆り立てられた。
方向感覚がわからないまま、何とかもがいて男の体の下から這い出すと、頭から扉にぶつかった。
戒められたままの両手で扉の内側を弄っていると、何かが外れる音がして、扉の隙間が開いた。凄い勢いで入ってくる水の中に自ら体を押し出した。
車が沈んでいくのと、自分の体が水中に解放されるのと、ほぼ同時だった。
呼吸を止めようとしたときには、既に海水を飲み込んでしまっていた。
口から吐き出される白い泡が視界を遮る。苦しさに顔を歪めながらも、それ以上水を飲まないように口を閉じ、唇が切れるほど噛み締めた。
(く、そ……っ……!)
海面に浮き上がろうと必死でもがくが、両手が自由でない分、水中で余計身動きが取れない。もがけばもがくほど、沈んでいく体に焦りが募る。
苦しい。
閉じていた口が自然に開きかかると、再び海水が喉中に押し寄せてきた。ごぼごぼと吹き出す泡の音が耳鳴りのように脳を侵した。
水を掻く手から力が失せていく。水の抵抗に負けて、体が沈んでいくのがわかる。しかし、どうしようもできない。
目を、閉じた。
(……このまま……死ぬ、のか。俺は……)
あまりにも簡単に『死』という単語が頭の中に浮かんだことに我ながら驚いた。
ヘリオポリスでの白兵戦からモビルスーツの奪取、そして宇宙空間での戦闘……この短い期間に、目まぐるしいほど数々の死線を潜り抜けてきた自分にしては、いささか呆気ない幕切れのような気がした。
――こんな、死に方……。
こんなのありかよ、と思う反面、死んでしまえばみんな同じなのだという気もした。
呼吸が止まり、心臓が停止した後、意識はどこへいくのだろう。
宇宙空間に散った赤いジンに、一瞬思いを馳せた。
閉ざされた瞼の奥で、突然赤い機体の映像が弾け、ふと気付くと、前方にうっすらと金髪の頭が見える。少しずつ鮮明になる人の輪郭。振り返った顔が、困ったような微笑を浮かべてこちらを見ていた。
(あ……)
思わず、相手に向かって手を伸ばそうとする。
相手は微かに首を振ったように見えた。
手が、届かない。戒められた両手が、狂ったように水を掻くばかりだ。体は、進まない。
もどかしさに舌を打つ。
――何でだよ。
拒絶されたことに、軽い衝撃を受けた。
意地になって相手を追いかけようとした。
映像が、揺らいだ。
(…………?)
何が起こったのかわからない。
耳の奥でごおーっという音が渦巻き始める。
急に現実感が戻ってきたようだった。
水圧に圧される体。
水の中で体が今にも破裂してしまいそうなくらい、苦しい。苦しいのに……。
信じられない。まだ……自分は、生きているらしい。
それとも、本当はもうとっくに死んでいるのだろうか。
死ぬ前に見るという、あの奇妙な幻の光景の中に、ほんの僅かな間、取り込まれているだけなのか。
その刹那――
ずきん、と頭の奥に何かが穿たれたような振動を感じた。
驚きに思わず目を見開く。
霞む視界の向こうから、こちらに向かって近づいてくる顔が見えたような気がした。
現実であるのか、それとも幻なのか、わからない。
しかし、映像は着実に動いていた。
スローモーションのように、手を差し伸べてくる。
ゆっくりと、近づいてくるその顔は……。
それ以上目を開けていられず、再び瞼を閉じた。
嘘だろう、と思った。
そんな、わけない。
まさか、あいつが……。
今、この瞬間に、まさか……。
手首を掴まれた。
体を強く引かれる。
生きた手の感触、だった。
生きろ、と強制するように。
力強い手が、死にかけている体を、生の世界へと引き戻そうとしているのだ。
じわ、と胸の奥が熱くなるのを感じた。
どうして、こいつは……。
いつも、いつも、俺の邪魔をするのか。
もう少し、だったのに。
あともう少しで、何も煩わされない世界に、行けたのに。
ぐ、と嗚咽が喉をせり上がりそうになる。
お陰でまた、死に損なう。
また、俺はこの世界に繋ぎ止められなければならなくなる。
いや……。
違う。
ふ、と頭を振った。
自分は……。
本当は……まだ……。
未練が、ある。
葛藤と、苦悶に喘ぎながらも……。まだ、やり残したことがある。
それは、戦場で敵を倒すとか、自分の矜持を保つとか、そういうことではなく――
違う、のだ。
轟々と燃え盛る焔に焼かれながら、自分は生き延びた。数知れない罪業を背負い、それでもなお、この命を繋ぐだけの理由が、ある。
まだ、死ねない。
死ぬわけには、いかない。
大きな声で叫びたい。
たとえ、みっともなくて、情けない姿を外目に晒そうとも、構わない。
自分は、今……
――生き、たい……
こんなにも、生に固執する、自分。
死を撥ねつけ、運命に逆らい、這い上がろうとする自分の、こんな姿はさぞ不様で見苦しいに違いない。
しかし――
(そうだ。生きろよ……)
不意に……
同調する声が、聞こえた。
同時に、光が、見えた。
自分を導く、光だ。
瞬きながら、次第に近くなる。
不思議なくらい、はっきりとそれを認識した。
――生きろ、生きろ、生きろ……!
繰り返す声が、脳を強く圧迫する。
命令……というより、むしろ懇願に近い……。
相手の凄まじいまでの念が流入してくることに、怖れすら感じた。
(……ア、ス……ラ……ン……?)
頭が朦朧として、それ以上意識を保っていることができなかった。
(to be continued...)
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