呪 焔
(25)
吹き上げてくる強風をも顧みず、大きな瞳を見開いて、遥か真下の白い飛沫を上げる波間に視線を投げる。
深く息を吸い込んだ。
ぐずぐずしている時間はない。
頭の中が真っ白な状態のまま、両手を揃えて真上に上げる。
遠い波間を目がけて、アスラン・ザラは何の躊躇いもなく、頭からひらりと身を投げた。
その直前、後方から誰かの怒鳴り声が微かに耳に入ったようだったが、それも一瞬で風の間に消されてしまった。
風と波の唸るような轟音が耳元を過ぎる。
頭から冷たい水面にぶつかった際の衝撃の凄まじさが、危うく彼の意識を奪ってしまうところだった。
何とか持ち堪えたのは、やはりザフトの特殊な訓練を受けた強靭な肉体の賜物だったのだろう。
一体自分がどうやって、あの荒い波の間をかいくぐって泳いで行ったのか、殆ど覚えていない。
見覚えのある銀色の頭を、ほんの一瞬、視界の隅に捉えることができたのは、まさに僥倖としか言いようがなかった。
沈みかかっていた体に向かって必死に手を伸ばす。
海流の抵抗が強くて、思うように前へ進めない。
長く水中に潜っていると、呼吸を止めているせいで、ともすれば気が遠くなりそうになる。
(イ……ザー……クッ……!)
――失いたく、ない。
いつかの……あのときのように。
閃光の向こうに、微笑む母の姿を見た。
理不尽な殺戮を、止められなかった。その知らせを聞いたときは、既に為すすべもなく、ただ立ち竦んでいるしかなかった。
何もできなかった。
そして……ヘリオポリス上空で見た悪夢。
目の前でジンが撃破されたあの瞬間も、自分はただ見ているしかなかった。戦友の肉片が宇宙の塵となって消えていく、最後の瞬間まで……。
何もできずに、大切なものが死んでいくのを、最後まで見届けるしかなかった。
もう……嫌だ。
これ以上、大切なものを失うのは……。
今、目の前にいる、あいつを……。
頭の奥で何かが弾けた。
思考も感情も、何もかも消えた。
体だけが、それへ向かって動いていた。
余計なことは何も考える必要はない。
ただ、それを捉えることさえできれば……
ただ、それだけで……
――自分がどうなってしまったのか、全くわからなかった。
ずっと、不思議な夢の中を漂っていたような気がする。
苦しみは、なかった。目を閉じたまま、スーッと心地良い眠りの中に沈んでいける。そんな風に思っていたら、急に腕を強く引かれた。驚く間にも、ぐいぐいと重力に逆らうかのように引っ張り上げられていく。
そうして……
どれくらい時間が経過したのか、わからない。
恐らく、自分はあのまま意識を失っていたのだろう。
目を開くと同時に、呼吸が乱れて忽ち酷く咽んだ。
唾液とともに、一度飲み込んだ海水を吐き出しているのが、わかった。吐いても吐いても、口の中から海水の塩っぽさが抜けなくて、気持ちが悪い。
ごつごつした岩の感触が背を圧迫する。たまらず、体を起こそうとするが、まるで力が入らない。手で岩を撫でたとき、戒められていた両の手が自由になっていることに気付いた。それでも、手を動かすとまだ少し痺れたような感覚が残っていた。
そのとき、不意に背中を撫でる手の温もりを感じた。と同時に、す、と体が軽く持ち上げられた。
涙で霞む目を上げると、こちらを見下ろす緑色の瞳と目が合った。
よく見知った顔を、食い入るように見つめる。
(――ああ……)
驚きは、ない。
やはり、そうだったのだな、とぼんやりと納得した。
水中で見たものは、幻でも何でもなかったのだ。
一体何がどうなって、今、こいつがここにいるのか。
そんなことは無論自分にはわからない。考えようとする気さえ湧いてこない。
ただ……今、目の前にある光景が現実であることだけは、確かだ。
自分は……こいつに、救われたのだ。
自分が最も忌み嫌っていた、この最大の天敵たる相手。アスラン・ザラ……こいつに……。
本来なら、到底耐えられない屈辱的な光景である筈だった。
それなのに、こんなに冷静に相手の腕に体を預けていられる自分がいることが、不思議だった。
(――生 き ろ ……)
あのとき、聞いたと思った声は、本当に彼の発したものだったのだろうか。
それとも、自分が勝手に生み出した妄想の産物に過ぎなかったのか。
「……アス……ラン……き、さま……」
声にならない声が、微かに出たと思ったら、もう苦しくなってそれ以上喋れなくなった。はあはあと喘ぎながら、思わずアスランの腕を爪が食い込むくらい強く掴んだ。
「まだ、喋らない方がいい。ほんの短い間だけど、おまえの心臓はいったん止まっていたんだ。――ほら、ゆっくりと息を吸い込んで……今は呼吸をすることで、精一杯の筈だろう。無理するな」
「………………」
心臓、が……。
アスランの言葉に、イザークは愕然とした。
とくん、とくん、と弱い拍動を繰り返す自分の胸をそっと押さえてみる。
本当に、自分は死の一歩手前までいっていたらしい。
すると、それを助けたのも、奴だということか。
アスランの顔をそっと見上げる。
(俺はこいつに大きな借りを作ってしまった、ということか)
そう思って鼻白みかけたとき、おや、と彼は突然それに気付いた。
目を眇めて、下から相手の顔を詳細に眺める。
取り澄ました優等生の顔、とひそかに蔑んできた、知的で端整な顔立ちが、どこかもの寂しげな色を帯びて見える。
相手の顔に漂う憂いと疲弊感に、どきりとした。
自分を死から救い出した人間にしては、生彩がなさすぎる。
ふと、思った。
本当は、こいつの方が……死に近いところにいるのでは、ないだろうか。
慌ててその考えを退ける。
そんな筈は、ない。
こいつが、死を望んでいる、なんて。まさか……。
死を欲していたのは、自分だ。
ずっと、自分はそれを望んでいた。それが……。
――死んでも、いい。
そう思っていた筈なのに、やはり、今こうして生の世界に舞い戻ってきたことに、どこかでほっとしている自分がいる。
――未練がある。
水の中に沈んでいこうとしたあの時、突然それが自分の中に浮かび上がった。
まだ、この世界に執着するだけの理由が、残っている。
だから、まだ死にたくない、と思ったのだ。
それは、何だったのだろう。
そうだ。あのとき、それがわかった、と思ったのに、今はまた曖昧になっている。
イザークは吐息を吐いた。
ようやくこちらの世界の岸に辿り着いたと思ったら、また自分は元の迷い道に戻ってしまったらしい。
人間は死の手前で、初めて自分の求めているものが、見えるものなのかもしれない。
(仕方がない、か……)
自然に顔の筋肉が緩む。
また、この世界であがいていくしか、ない。
ぎこちなく片手を伸ばし、自分の顔をそっと撫でてみた。
馴染みのある感触。
例の傷痕を、確かめる。
指先で少し強く押すと、傷自体の疼きに加えて、顔面の神経まで刺激するのか、相変わらず顔全体が痙攣するように痛む。
顔を顰めると、アスランが怪訝な顔をした。
「……どうした?」
「――何も」
蚊の鳴くような声で返事すると、手を離し、そのまま顔を背けた。
何か言いたげな相手の気配を感じたが、それ以上会話は続かなかった。
しばらくは、アスランの腕に抱かれたまま、目を閉じて波の打ちつける音だけを聞いていた。
吹きつける微風に混じる、強い潮の香が鼻腔を刺激する。時折どこか頭上で海鳥が鳴いている声が聞こえた。波音を聞きながら、ゆっくりと呼吸を繰り返していると、まるで自然の営みの中に溶け込んでいくかのような、穏やかで心地よい気分が体中に満ちてくる。
……地球、か。
この大地と海と空全てが、壮大な生命体であり、その懐に抱かれている無数の小さな生命が連動して、気の遠くなるような長い時を経て、この惑星全体の微妙な生態系のバランスを保ってきたのだ。
ここでは、全ての生命が、ひとつに繋がっている。
余計な操作をする必要など何もない。命は生まれ、死ぬと土に帰り、また新たな命を生み出す。何世代もの時を経て、受け継がれていく生命。
それを思うと、命の流れに逆らい、遺伝子を人為的に操作して生まれ出た自分たちがいかに異端な存在であるかということを改めて思い知らされる。
何世紀もの時をかけて紡がれてきた、生命の流れを断ち切った、自分たちの存在が……。
身震いした瞬間、近くの岩に砕け散った大きな波の水飛沫が飛んできた。
冷たい水粒のシャワーを顔に浴びたかのようだった。
「……くそ」
舌打ちをする声にふと我に返ると、アスランが手に持っていた携帯連絡機を忌々しげに睨みつけているところだった。
「――駄目だ。使えない」
水中に飛び込んだ際の衝撃でやられてしまったものか、地形的な問題で電波が届かないのか。オーブ領内で使用するため、極力電波を傍受されないよう、敢えて性能の弱いものを選んだことが、裏目に出た。
『足つき』がここにいるという事実の裏付けが欲しかった。何も大げさな破壊活動を展開しようなどと目論んでいたわけではない。相手の懐深く入りすぎると、却って自分たちの首を絞めることになる。特にオーブという国家は得体の知れぬところがある。何かにつけて、油断ならない。どんなささいなことであろうと、付け入る隙を与えてはならない。それは十分わかっていたことなのに……。
潜入を決したときに、よもやこんなことになるとは誰が想像しただろう。
自分の判断が甘かったのか、と今さらながらにアスランは苦い悔恨の思いに駆られた。しかしそんな思いに捉われ続けてばかりもいられない。
(――いや。今はそんなことを悔いている場合じゃない)
すぐに頭からそんな思いを振り払う。
「困ったな。連絡がつかないと、ここから動けない」
アスランはイザークの体を岩場の上に下ろすと、立ち上がった。
鋭い瞳が、周囲を遠くまで一望する。
「――おい……?」
「……少しの間、ここで待っていてくれ。向こうの岩場から、上へ上がれそうかどうか、見てくる」
アスランが目で指し示した方向を透かし見ると、かなりここから距離があるのがわかった。
岩に打ちつける波の荒々しさを見ている限り、僅かな距離を泳ぐのも相当体力を使う筈だ。
あんなところまで……と思ったときには、既にアスランは海中に飛び込んでいた。
「……あっ、おい……アスラン……っ」
強い波飛沫とともに海中に沈んだ体を追いかけて、慌ててイザークは岩場の上を這いずるように先端まで進んだ。
腹ばいになったまま、下を覗き込むと、白い水しぶきの間からようやく紫紺の頭が浮かび上がるのが見えた。
「おい……っ……!」
安堵とも不安ともつかぬ頼りなげな声で呼びかけると、相手はちらと頭上に視線を投げた。
「――すぐ、戻るから……!」
声は半分しか聞こえなかった。打ち寄せる波音が邪魔をする。
どのみちそれ以上の会話を交わすのは無理だったろう。
再び沈んだ頭が波の間を縫うように進んでいく。
みるみるうちに遠ざかっていくアスランの姿を、イザークはぼんやりと見送っていた。
立ち上がると、ふらりと体が傾いだ。足に力が入らない。仕方なく、再び腰を落とした。上半身を岩に凭せかけ、波音に耳を傾けているうちに、意識が覚束なくなってきた。
うとうととしているうちに、背後にふと人の息遣いを感じた気がして、はっと目を開けた。
(アスラン……?)
戻ったのか、と口を開こうとした途端、いきなり背後から伸びてきた手が喉首を締め上げた。
悲鳴を上げる暇すらなく、のけぞるような格好で、背後にいる何者かの手の中にがっしりと捕えられる。
アスランでは、ない。
誰……だ……?
「は……――」
喉を押さえ込まれているので、声を上げることすらできない。
「暴れるなよ。喉首へし折られたくなきゃあ、な」
低く囁きかける声に聞き覚えがある。
――生きて、いたのか……。
自分が助かったという事実を受け容れるのに精一杯で、その他のことにまで気が回らなかったことを、今さらながら迂闊に思った。
「……自分だけが特別だとでも思ったか、ええ?――これでもおまえらみたいなガキには想像もつかんほど、ずっと多くの修羅場をくぐってきたんだ。そう簡単にはくたばらんぜ」
自分を捕えていた、男たちの一人。確か……運転席から聞こえていた声だ。
「もっとも、残念ながら、相方は沈んじまったようだがな。あんな野郎でもいないよりはマシだったんだが。――だが、まあ、そんなことはどうでもいい。こうして、肝心のモノが見つかったんだからな」
「く……」
喉を締め上げる手を解こうとするが、まるで堅い岩盤でできているかのように、男の手は指一本緩むことすらない。
ず、ずず、と否応なく、引きずられていく。抗う隙も与えられない。
数メートル程引きずっていかれた後、不意に止まったと思うと、今度はいきなり体を地面に押さえ込まれた。
馬乗りになって見下ろしてくる相手と、初めて顔を見合わせた。
喉を掴んだ手がようやく緩められると、せわしない呼吸に弱々しい喘ぎが漏れる。
相変わらず、声を出すことができなかった。というより、息をするのに必死で、それどころではなかったといった方がよい。
そんな彼の様子を見ながら、男はほくそえんだ。
「……まだ生きててくれて良かったぜ。心配するな。俺たちにはまだ仲間がいる。これで――」
男の開いた口の中できら、と何かが光る。男は口の中に指を差し込み、何かを取り出した。指先で挟む米粒程の小さな物体が、陽光を受けてきらきらと細かな光を放つ。マイクロチップ型の発信機だった。男はそれに爪を立てて、かち、と割った。途端に、羽音のようなぶーんという音が微かに聞こえてくる。
「これで、ここの居場所はわかる筈だ。すぐに迎えが来る。――ツイてたな」
にやりと笑いかける男の顔が、歪んで見えた。
「……さて、と。お迎えが来るまで、どうする?……暇潰しでもするか?」
どことなく不穏な空気を嗅ぎ取って、イザークは男の手から逃れようと身を捩ってもがいた。
いったん緩んだ手が再び喉に強く食い込んできた。抵抗は敢えなく潰える。
男の顔が近づいてきた。相手の体重がのしかかってくる重みに喘ぐ。
喉を掴んでいた手が顎にかかり、そのまま顔を相手の鼻先に突き合わされた。
はあはあ、と荒い呼吸を繰り返しながら、それ以上にすぐ目の前に迫る男のぎらぎらとした眼差しに本能的な恐れを感じた。
「……手え焼かせやがって……」
男のもう一方の手が強く胸を圧迫する。
「――本当なら、思いきり痛めつけてやりたいところだが、一応おまえは商品だからな。残念ながら傷つけることはできない。だから、もっと違うやり方でないと、な……」
ふ、と男の口元が歪む。嗜虐的な微笑に、相手の考えていることが想像できるような気がした。
全身に緊張が走った。
男が口を開くと、粘つくような暖かい呼気が頬にかかる。
「元々俺はこういうのは好きじゃないが、まあ、野郎でも処理する器くらいには役に立つよな、確かに……。何もないよりゃ、マシだ。相手によっちゃ、女よりイケるときもある。昔戦場にいたときには、よくやったもんだぜ。さすがに最近はご無沙汰してたがな――」
強張る下半身を、わざと嬲るように、男の手がそろそろと這う。
衣服越しに性器に触れると、ぴく、と相手の体が震えるのを感じて、男はぺろりと舌を出し、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「感度はよさそうだな。……全くコーディネイターって奴は下の方まで理想的に造られてる生き物なんだな。――それともおまえが、特別なだけなのか?ええ?ザフトのエリートさんよ」
屈辱的な男の言質に反論するだけの力もない。
だが、怒りと悔しさはぐらぐらと全身を煮え立たせる。
イザークは唇を噛んで、相手を睨みつけた。
その表情を見て、男は蔑むように鼻を鳴らした。
「……いい顔だ。だが、もっといいのは、苦痛と恐怖に許しを乞い、ひいひい泣き叫ぶ惨めな顔だ。すぐに、そうなる」
「――く……そ……野郎、が……っ……」
それだけ言うのがやっとだった。
「へえ……そうか。俺は糞か」
顎を掴んでいた手がふっと離れた。次の瞬間、片頬をいきなり強く打たれた。
体を押さえつけられていなければ、頭から吹っ飛んでいったかもしれない。
いきなりのことで、しかもかなり勢いよく張られたため、衝撃で一瞬頭が眩んだ。
再び顎を強く持ち上げられる。唇を切ったのか、生暖かい液体が唾液と混じるぬるぬるとした嫌な感触がする。
濡れて肌に貼りついたままのズボンを脱がされ、ごろりと体を転がされた。顔に固い石が押しつけられる。唇から垂れ落ちる血が、石の間に流れ落ちていくのが見えた。
「あ……」
剥き出しの尻に、堅く太い塊を押しつけられた。
来る、と思い、恐怖に体を竦ませる。
さっきまで弱々しかった心臓の鼓動が、今は逆に飛び出さんばかりに波打っている。
海に沈んで死ぬのもくだらないと思ったが、こちらの方がなお悪い。
自分はつくづく、くだらない運命に支配されているのか……。
今度は、本当に笑うしかない、と思った。
(……アスランの、奴……)
ふと、思い出した。
――どこにいる?
人がこんな目に会っているというのに……。
せっかく助けられても、これでは意味がない。
無性に腹が立ってきた。
奴の、せいじゃないか。
どうして、人を放ったらかして、いってしまうのか。
どうして、戻ってこない?
……嫌、だ。
こんな……。
「……く……そっ……!」
両手を上げようとすると、すかさず手首を掴まれた。
「今さらじたばたすんな。何も殺そうとしてるわけじゃない。――おまえ、ツイてんだよ」
(冗談じゃ……ない……)
何が、ツイてる、だ。
こんな、糞野郎に……。
「……う、あ……」
「――ふ……」
男が大きく息を吸い込んだとき。
がつ、と背後で何か鈍い音がした。
「……ぐ……――」
ぐらり、と傾ぐ頭が、後ろを振り向く前に、次の一撃が襲い、男は声を上げることもなく、イザークの体の上に覆いかぶさるように倒れ込んできた。
何が起こったのか、わからない。ただ、いきなり男の体重に圧迫されて、苦しさに息を詰めた。
しかし、男の体はすぐにどかされ、同時に背後からかかってきた負荷は消えた。
代わりに、別の手にゆっくりと体を引き上げられた。
地面に膝を突くところまでくると、そのまま手を突いて立ち上がろうとしたが、それを阻むようにぐい、と後ろ向きのまま引き寄せられた。抵抗する間もない。再び尻をつき、背後の体にぴたりと背中が押しつけられる。
相手の濡れた衣服の冷たさに、ぶる、と震えた。
自分のみっともない格好になっている下半身に気付き、慌ててズボンを引き上げる。
くす、と笑う吐息が耳元をくすぐり、その手をきゅ、と掴まれた。
「……はな、せ……」
かっ、と頬が熱くなる。
「いいから――じっとして……」
声が、耳をじわりと侵す。
――この、声……。
アスラン――では、ない。
少し高めの、鈴を振るような、少年の甘い声音。
その声の主を、彼はよく知っていた。
戸惑いながら、相手を確かめようと、肩越しに首を捻る。
濡れて垂れ下がった髪の毛先が頬に触れた。
それ以上振り向かせまいとするかのように、胸元に回された両腕が痛いくらい体を締めつける。
しかしいったん視界をよぎった栗色の影は、しっかりと網膜に焼きついた。
「……おま、え……」
問いかける声は、自分でも驚くほど頼りない。
「……一体、どう、やって……」
「……泳いで、きた」
「……って、どこ、からだ……?」
「――そんなこと、どうでもいいだろ」
「……いや、だが……」
「……アスランだけが、特別なわけじゃない――」
ぼくだって……とふてくされた子供のように、ぽつりと呟く声に、イザークはそれ以上問いかけるのを断念した。
確かに、どうでもいい。今、この状況の中で、そのような問答を繰り返していても、意味はない。
奴が今ここにいる、という事実に変わりはないのだから。
まるで見えない糸に手繰り寄せられたかのように……。
熱い。
全身が昂ぶっている。
濡れそぼった相手の体の冷たささえ、感じなくなるほどに。
どうして、こんな風に自分が過敏に反応しているのか、わからない。
そうしているうちに、相手の空いている手が、股間をさらりと撫でた。
「あ……――」
熱が、じわりと下肢を侵した。
びく、と体を震わせる。
一瞬、我を忘れそうになった。
(く、そ……何、を……っ……)
眼を潤ませながら、唇を噛み締める。
胸の奥で燻り続けていた、あの小さな焔が再び揺れる。
かつて、全身を激しく焼いたあの憎悪と恩讐の焔が、今は違うものへと変化している。
羞恥と、憐憫と、愛惜の入り混じった……。
焔は、消え失せることはない。
吐息が漏れた。
「……呆れた……ものだな……」
頬に冷たい髪が纏わりつく。
首筋に、顔を埋められた。
「うん……」
くぐもった声が、肌から直接伝わる。
「――もう、一度だけ……」
不意に頭が上がる。
視線を肩に落とすと、瞬く菫色の光がちらと視界の内側に映った。
「……もう一度だけ、あなたを捕まえてみたい、と思った……」
「……な、に……馬鹿、なこと……」
(戯言、を……)
体を捩る。
「……駄目だ。もう、こんなこと……」
自分は一体何をした。こいつと……。
頭の中が軽く混乱している。
(……キラ……ヤマト……)
また、こいつと……。
振り出しに戻ったような、気がした。
追いかけて、追いかけて……結局、今、こうして奴が、目の前に戻ってきた。
どうしてこうなるのか、わからない。
何か目に見えない感情の流れの渦に再び取り込まれていこうとする自分自身の危うい心に、危惧と恐怖を感じていた。
しかし、逃げられない。
イザークは目を、閉じた。
「――俺たちは、敵だ……」
「……うん、そう、だね……」
「……だから……駄目、なんだ……」
「……うん……わかってる、よ……」
イザークは、唇を噛んだ。
いや、おまえは、わかっていない。
キラ・ヤマト……。
ストライクのパイロット。
俺に、傷をつけた、初めての……。
胸の奥で、焔が、爆ぜた。
熱く焼けるような、焔が全身を舐めていく。
自分の負った全ての罪を呑み込んでいくかのように、ごうごうと燃える焔が、全身を包む。
「……あ……」
恐怖と、混乱で何もわからなくなった。
イザークは、目を見開いた。
目の前で、キラの顔が揺らめき、一瞬後には焔のベールを被って、霞み、遠ざかっていく。
「……う……う、うああああ……っ……!」
彼は悲鳴を上げた。
捉われた手が、自由になる。
彼は両手で頭を覆い、蹲った。
恐怖が、心臓を鷲?みにする。
何も、聞こえなかった。
波の音も、風の唸りも……。
少年の、声も……。
そして……
「……イザーク?イザークっ!」
キラは、突然パニックを起こしたイザークを前に、どうしてよいかわからずにいた。
――な、んで……?
どう、したんだろう。
急に物凄い力で暴れ出した体を、押さえきれなかった。
彼に何が起こったのか、わからない。
蹲る相手に再び手を伸ばそうとしたとき――
「――イザークから離れろ、キラ……!」
鋭い警告を含んだ声が背中を貫いた。
「…………っ!……」
凍りついた一瞬の後、キラは唇を噛み締めながら、声のした方向へ、ゆっくりと顔を向けた。
ぶーん、というモーター音が遠くから微かに聞こえてくるが、それも気にならぬほど、今はただ目の先に佇む紫紺の髪の少年の姿にのみ意識を奪われていた。
「……アスラン……」
アスラン・ザラは、その厳しい声音とは裏腹に、彼がそれまで見たことのなかった、怒りとも悲しみともつかぬような、どこかやるせない表情を浮かべてこちらを見つめていた。
(to be continued...)
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