呪  焔
 (26)











「――イザークから離れろ、キラ……!でないと、俺はお前を……」
 アスランの手にきらりと光るものが見えた。
 鈍い光を閃かせる刃の先が、キラの方へ向けて狙いを定めている。
 飛びかかってきたと思ったその一瞬後には、ナイフの先端はおそらく寸分の狂いもなく、キラの心臓を貫いてしまっていることだろう。
 声を上げる間もなく刃に刺し貫かれ、その場に崩れ落ち、こと切れていく自分の姿を想像して、キラはごくりと唾を飲み込んだ。
 ――アスランは、本気だ……。
 キラは、唇を噛んだ。
 じり、と片足を後ろへ後退させる。
「……イザーク!」
 アスランが呼びかけると、蹲っていたイザークが不意に顔を上げた。
 強張った顔が声の主を探すように僅かに左右に動く。
 上向きかかった視線が、求める姿を認めた瞬間、ぴたりと止まった。見開かれた瞳に、不思議な表情が宿るのが見えた。
 キラは瞬きもせず、そんな二人の様子をじっと見守っていた。
 仲間……?
 いや、それだけじゃ、ない。
 直感で、そう感じた。
 自分のいない時間の中で蓄積されてきた二人の思いや葛藤、その心の軌跡の全てが、ほんの少しではあるが垣間見えたような気がした。そこには、自分の入り込めない世界が確かに存在していた。
 かつて……自分はアスランのことは全てわかっているつもりだった。幼い頃からずっと一緒だった。相手の気性も考えも行動パターンも、全部知り尽くしていた。アスランが他人には決して見せない本当の思いも、彼にだけは手に取るようにわかっていた。そしてそれは、自分にしても同じだった。アスランにだけは何も隠すことはなかったし、どんな嫌なことや恥ずかしいことだって気にせず、何でも相談できた。いつも自分の全てを理解し、共感してくれるのも、アスランだけだった。こんな友だちは二度とできはしない。だから、別れるときの身を裂かれるような、あの苦しく切ない思いは、年月を経ても決して彼の胸から消えることはなかった。
 それでも、いつかきっと、再び幼なじみと会える日がくる、と彼は信じていた。そして、たとえどんなに長い間別れていても、次に会うときには、すぐにまた以前のような二人に戻れるものだとばかり、思っていた。なのに、今……。
 自分の知らないアスランの顔。
 敵として、自分に刃を向ける幼なじみ。
 運命に導かれるように、イザークを介して二人は再びこうして相見えることになった。
 もう一度、会いたかった。
 ようやく会えたときは戦場で、相手は敵側の軍人になっていた。
 絡まった糸を解し、もう一度二人の関係を元に戻すことができるなら……。友だちが敵だという事実をどうしても受け容れることができないまま、僅かな希望に縋りながら、ここまできた。
 でも、やはり現実は優しくはなかった。
 彼がイザーク・ジュールと出会ったことで、運命は三たび、回転した。
 もう、元には、戻れない。
 ――どうしてぼくは、こんな……
 キラは苦渋の思いを飲み込んだ。
 銀色の柔らかな髪の触感が、未だに掌に残っている。
 自分を見てはいない、氷蒼の瞳をぼんやりと見つめる。
 なぜ、こんな出会い方をしてしまったのだろう。
 いっそ、あのとき、デュエルを撃ち落としてしまっていれば、よかったのか。
 そうすれば、そのパイロットを知ることもなかった。
 そのパイロットを通じて、かつての幼なじみとこんな風に対峙することもなかった筈だ。
 自分がどちらにより嫉妬しているのか、よくわからなかった。ただ、自分の求めているものはもはや手に入らなくなったのだ、という絶望感が彼の胸に鈍い苦痛をもたらした。
「……イザーク、来いっ!」
 アスランの声に引かれるように、イザークはふらりと立ち上がった。
 錯乱した表情が、少し和らいでいた。それでも彼の顔はどこかぼんやりとしているようだった。
「……イザーク……」
 思わずキラは、アスランの方へ向かって歩き出したイザークの背に手を伸ばしかけた。が、その手は最後まで相手の体にふれることができぬまま、途中で力を失った。
(イザークは、ぼくのことなど見てはいない……)
 残酷な現実が、彼の目の前に立ちはだかっていた。それを実感していればこそ、彼は無理にイザークを引き戻すことができなかった。
(――俺たちは、敵だ……)
 最後にあの人は、そう言った。
 その言葉が、全てだった。
 敵だから……。
 憎悪以外の感情を抱くことは、許されはしない。
 自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
 お互いに……。
 彼の顔に刻みつけられた傷痕が、嫌でもそのことを思い出させてくれる。他ならぬ、自分がつけた傷だ。
(――俺たちは、敵、なんだ……)
 引き返すことは、できない。
 イザーク、そして、アスラン……。
 ――二人とも、敵、なんだ……。
 それは、わかっている。わかっている、のに……。
 キラは、胸に手を当てた。
 痛い。
 切り裂かれるような苦痛に、思わず息を止める。
 どうして、こんなに胸が痛むのか。
 声を上げて、大声で泣き喚くことができたら、いっそどんなに楽だろう。
 そんなことをしても何もならないとわかってはいても。
 堰き止められた、自分の奥深いところから溢れるように湧き上がってくる、この感情が……。
 イザークが、行ってしまう。
 アスランと二人で、自分から去っていこうとしている。
 ぼくを、一人残して……。
 キラは、はっと目を見開いた。
「……イ、ザー、ク……っ……!」
 切羽詰った声音が、伝わったのか。
 過ぎ去っていく背中がぴく、と震えた。イザークの足がいったん止まる。
 泣きたい気持ちだけが、溢れた。
 声は、続かない。
 言うべき言葉も、ない。
 ただ、相手を求める気持ちだけが、全てだった。
 たとえ、敵であったとしても。
 お互いの大切なものを傷つけ、殺してしまった罪を負っていたとしても。
 それでも……。
「……キ、ラ……?」
 微かな声が、呟いた。
 その口から自分の名前が出たことに、不思議な安堵感と喜びを覚える。
 それが彼にとって、たとえ何の意味ももたないものであるとしても。それでも自分のことを、まだ彼は意識の淵に少しでも思い浮かべてくれたのだ。
 そのとき不意に、先程から微かに気になっていた、例の沖から聞こえてくるモーター音が大きくなった。
 急に、切迫した空気を感じて、キラは彼方の海に目を向けた。
 波間を縫ってやってくる、小型艇が見えた。
 救助のボートかと思ったが、どうもそれらしくない。
 近づいてくるにつれ、様子が明らかになってきた。縁に立つ黒いスーツを着た数名の男たちの手には、きらりと光る黒い筒先がいくつも見える。そしてそれらはみな、明らかにこちらを狙っていた。
 救助どころではない。むしろ――
「さっきの奴らの仲間かっ」
 キラは顔を強張らせた。
 その瞬間、射撃音がしたかと思うと、近くの岩に幾つか銃弾が、当たった。硝煙の匂いが空気を覆い、砕け散った細かな石片が舞う。
「伏せろっ!」
 アスランの鋭い声に、キラははっ、と我に返った。
 敵が向けていたライフルは、おそろしく被弾距離が長い。狙いも正確だ。徐々に近づいてくる。次は、おそらく……。
 銃口が、見えた。真っ直ぐにこちらを狙っている。
 それがわかっているのに、なぜか体が動かない。
「イザークっ!キラっ!」
 アスランの叫ぶ声が、耳を打った。
 くるりと振り返ったイザークの体が覆い被さってきたのと、走ってくる光の矢が見えたのとが、ほぼ同時だった。
「……っ!」
 鮮血が、キラの視界の端を過ぎった。
 あれは、誰の、血だ……?
 何が起こったのか、わからない。
 あまりの衝撃に、頭が働かない。
 何が、どう、なって……。
 イザークの体がふらりと傾く。
 それを支えようと手を伸ばした。二人で転がるように地面に落ちていった。その上を、さらなる銃弾の雨が降り注ぐ。
「イザー……」
 銀色の頭がゆっくりと上がった。
 青ざめた顔が、微かな笑みを浮かべるのを見て、キラはほっと安堵の息を吐いた。
 生きて、いる。
「大丈夫かっ!」
 アスランの怒声が響いた。
 その瞬間、キラの頭はかっと燃え立った。
 イザークを引き起こし、銃弾の中をかいくぐりながら、必死に走る。
 岩陰に何とか転がり込むと、ようやく息を吐いた。
 銃弾はまだ止む気配がない。
「大、丈夫、か……っ?」
 一緒に飛び込んだアスランが、荒い息を吐く。
 膝をついた彼の肩がだらりと揺れ落ちる。その手の先から零れ落ちる深紅の色を見た瞬間、ぼんやりしていたイザークの表情が急変した。
「――アス、ラン……!」
 呻くような声を上げると、彼はアスランの腕を引っ掴んだ。
「……何をしている、貴様っ……!」
 先程見せたあのパニックの影もなく、既にイザークの瞳には生彩が戻っていた。
 しかしそれとは反対に、アスランの俯いた顔が苦痛で引き歪むのが見える。
 キラも反対側から心配そうな目を向けた。
「アスラン……?」
「……掠っただけ、だ。たいしたことはない」
 彼の声は、あくまで冷静さを保っていた。しかしその右上腕部は裂けた布地の下から噴き出す鮮血でみるみる真っ赤に染め上げられている。
 イザークは黙って着ていたシャツを脱ぐと、それを引き裂いた布でアスランの傷口をきつく縛った。
「これで、取り敢えずもたせろ」
 ぶっきらぼうに言うと、イザークはアスランに強い視線を向けた。
 ――余計な、ことを……。
 唇を噛む。
 普段なら、こんなにも簡単に敵の銃弾に身を晒してしまうような奴ではない。
「――俺たちを庇ったつもりだろうが……」
 イザークはのろのろと呟いた。憎まれ口を叩こうとしながらも、その言葉にはいつものような力はこもらない。
「……こんなことで恩を売ることができたなんて思うなよ」
「そんなつもりはないよ。だけど……」
 アスランは顔を上げると、初めてイザークと真正面から向き合った。
 鮮やかな緑色の瞳と目が合うと、イザークの瞳が一瞬困惑したように揺れた。
 相手が何を言おうとしているのか、予測できない。
 戸惑いが胸を覆う。
 それでも、相手から目を離すことができなかった。
「――もう、これ以上、おまえに傷をつけたくは、ない……」
 厳しい瞳の奥に、仄かな微笑が浮かぶ。
 イザークは言葉もなく、ただ震える吐息を微かに吐き出した。
 そしてそんなイザークの横顔を、背後から瞬きもせず見つめているキラの心の奥にも微妙な変化が訪れていた。
 ちょうどそのとき、銃弾の音が止んだ。
 敵の近づいてくる気配に、少年たちの間に緊張が走る。
 アスランは、岩陰からそっと顔を出して向こうの様子を窺った。
 次々と岩場の上へ上がってくる男たちの姿を視認する。ボートは一隻。人数は十人にも満たない。
 遠距離から射撃されない限り、または応援が来ない限り、勝算はある。逆にこのまま近づいてきて欲しいくらいだ。
 彼はナイフの柄を握り直した。
 接近戦なら、負けはしない。瞳が猛禽類にも似た、鋭い光を放った。
「――奴らの狙いは、何だ?」
「……俺たちの、体だ」
 アスランの呟きに、イザークは短く答えた。
「――体……?」
 キラが問い返す。
「間抜けなコーディネイターがもう一人飛び込んできたからな。奴らにとっては願ってもない幸運だろう」
 皮肉たっぷりなイザークの口調に、アスランは苦笑した。
「なるほどな。――けど、間抜けなコーディネイターは、俺だけじゃない、よな?」
 そう言うと、彼は意味ありげにキラを見た。
 イザークは眉を寄せた。
「――どういうこと、だ……」
 アスランの視線を追いかける。強張った顔のキラと目を合わせた途端、全てを理解したイザークの瞳が愕然と震えた。
「……キラ・ヤマト……まさか、貴様も、俺たちと同じ……」
 軍人としての訓練も受けたことのない素人が、連合の開発した前人未到の新型高性能モビルスーツを短期間であれほどまでに自在に動かす能力。それはやはり、ナチュラルではなし得ない能力であり、遺伝子レベルで操作され生まれ出でた秀でた力を持つ自分たちだからこそ、でき得ることだった。
 ――そう、か……。
 そう考えれば、全てが符合する。
 コーディネイター……。
 連合軍に、コーディネイターが……。
「そう、だよ。ぼくも、コーディネイターだ」
 キラは、静かに肯定した。
「ぼくが、望んだことじゃない。ぼくの両親が、ぼくをコーディネイターにしたんだ……」
「なるほど。一世代の、ということか」
 イザークは目を伏せた。僅かな苛立ちを隠すように、顔を俯ける。
「それが連合軍に入り、仲間に刃を向けるとは、な」
「コーディネイターだから、っていうだけで、仲間になるわけじゃないよ。ぼくは――」
「これは、ナチュラルとコーディネイターの戦いなんだぞっ!」
 イザークは声を荒げた。
「なぜ、それがわからない?」
「わからないよ。わかりたくもない!――ぼくには、そんなの、関係ないんだ。ナチュラルとか、コーディネイターとか……そんなの、どうでもいい!……ぼくはただ、友だちを守りたかっただけなんだ。だから君たちと戦った。それだけなんだよ」
「いかにも素人らしい理由だな。キラ……貴様は、軍人向きじゃない。なのに、なぜストライクなどに、乗る?貴様自身の意志なのか?それとも……軍にその能力を利用されているだけじゃないのか?」
「――来るぞ!」
 アスランの緊迫した声が二人の会話を中断させた。
 立ち上がりかけたアスランは、右腕に走る激痛に顔を引き攣らせた。手の力が緩み、ナイフがぽろりと地面に転がる。
 アスランがそれを拾い上げるより先に、イザークの手がナイフを攫った。
「イザーク!」
「今の貴様の腕じゃ、無理だ」
 イザークはゆっくりと体を上げた。ナイフの切っ先を確かめるように何度か振り動かしてみる。
 キラは、すぐ目の前で空気を裂く刃先の俊敏な動きを見つめていた。
 イザークの瞳。――宝石のような光を散りばめた、青い輝きに何度も胸を打たれた。綺麗な色だと、思った。見るたびに明度と輝きを増す……美しくて、愛しい……そして時に驚くほどの脆さと儚さをも含む。
 今その青い瞳の中に、見たことのないほど荒々しく、激しい焔が燃え滾るのを見て、息を呑む。
 イザークが怒りと憎悪の表情を浮かべるのは、初めてではない。しかし、今目の前にするこの顔は、またそれとは異なる貌であるようにも思える。
 キラは、困惑した。
 困惑しながらも、出て行こうとする彼を止めることもできなかった。
 全身から獰猛な気を発する、白く美しい精悍な獣が今まさに、眼前にいる敵に牙を剥こうとしている。圧倒的な殺戮の意志と力の気配が周りの空気を震撼させた。
 動けなかった。声すら出すこともできぬまま……。
(……イザーク……)
 キラは、せり上がる唸りにも似た音を喉の奥に封じ込めた。
「――よく見ていろ、キラ。……あれが、イザーク・ジュールだ」
 冷静な声がそう囁くのも、耳に入ったのか入らなかったのか。
 気付くと、引き寄せられるように、自分自身もその場に立ち上がっていた。いつ飛んでくるかわからぬ敵の銃弾も気にせず、彼はふらりと岩陰から出た。
 目が、離せなかった。
 敵に向かって歩いていく、銀白色の毛をなびかせた麗しい獣の姿を、初めて見るもののように不思議な昂揚する気持ちで眺めていた。
 ――イザーク・ジュール……。
 そのときキラは、彼の全身から噴き出る白い焔をはっきりと見た。
 呪われた紅蓮の焔が、激しい負の瘴気を放ちながら、彼の体を焼き尽くした後、やがて再び白い焔となってその体から解き放たれていく、幻のようなイメージが、脳裏に広がった。
 何だろう、この感覚は……。
 恐怖、ではない。
 怒りや憎しみ、といった殺伐とした感情とも違う。
 無論、そこには愛情やそれに似た甘ったるい感情など微塵も存在しない。
 それでも、はっきりとはわからないながらも、今自分の瞳に移る白焔の中に真実が見え隠れしているような気がした。
 自分と彼とを繋ぐもの……。
 宿縁、とでもいったものだろうか。
 この焔は、おそらくこれからも、きっと消えることはない。
 未来永劫、自分と彼を繋いで燃え続ける、宿命の火だ。
 そんな、漠然とした予感がした。
 キラは不思議な思いを抱きながら、目の前で繰り広げられるイザークの戦いを茫然とした面持ちで見守っていた。

                                      (to be continued...)


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