呪 焔
(3)
「………ッ――………!」
硬い手のひらが、鼻から下を強い力で押し塞ぐ。
僅かな指の隙間から流れ込む空気を何とか吸い込むものの、あまりの息苦しさに顔を歪めた。
狭まる視界の中で、見下ろす相手の口元が僅かに緩むのがわかった。
嘲笑って、いる。
そう気付いた途端、犯されようとしている現実に直面している自分を強く意識した。
羞恥と憤りが漲る。
動かせない体が、もどかしい。
イザークは無力な自分を呪いながら、それでもなお果敢に相手を睨みつけた。燃えるような青い眼差しに射抜かれると、男の瞳が怪訝そうに瞬いた。押しつけられた手のひらに加わる力が僅かに緩む。
「……だ、……に、合う……」
苦しげな息の下から切れ切れに吐き出される声に、男の瞳が僅かに見開かれる。
「――な、に……?」
聞こえてくる言葉の意味を推し量れぬまま、彼はその手を離した。
自由になった唇が喘ぐように息を吸い込みながら、今度はやや明瞭に音を吐く。
「……ま、だ……いま、なら……」
男を真っ直ぐに見上げるイザークの眼の中には、怒りとともに明らかな嫌悪と侮蔑の色が混じっていた。
「……いま、放せば……みの、がして……や、る……!」
その言葉を聞き分けるなり、男の顔色がさっと変わる。
「――何――だ、と……?」
低く唸るような声。
憎悪で引き歪んだ顔がいったん遠のいた――と思ったその瞬間にはもう目の前に火花が散っていた。
ばしっ、ばしっ、と交互に両頬を強く張られると、頭ごと地面に打ちつけられたような鈍い衝撃を感じる。
頬が燃えるように熱を帯び、目の奥までじん、と痛みが走った。
弾みで唇の内側を噛み切ったらしく、あっという間に口の中を生ぬるい鉄の味が満たす。
(……く……っ……!)
屈辱に震える唇を粗い指先が乱暴にこじ開けた。
いきなり太い指を何本も一気に喉の奥まで突き込まれ、むせ返りそうになりながらも侵入してくる異物を反射的に吐き出そうと必死で顔を振って抵抗した。
しかし、怒りに任せて歯を立てようとしても、それよりいち早く中に入り込んだ指先に口蓋を内側から強く押し開かれてしまうと、相手の力の強さに顎をほんの少し動かすことさえかなわなかった。
そうして男の指は容赦なく喉の奥から内側の粘膜や歯茎をなぞり、さらには逃げる舌を摘みながら弄り回し、乱暴に口内を犯し続ける。
「……んーっ……んう……っ……ぅっ……ぐ……ぅ――……」
開けっ放しの口端から、だらだらと血の混じる唾液が顎を伝い落ちていく。痛みと苦しさで息をするのも覚束ない。
(……こんな、奴、に……っ……!)
いいように嬲られている自分の姿を外から想像すると、たまらなく惨めに思えて、このまま自分の存在をこの世から消し去りたいような気分になった。
いつのまにか眦に涙が溜まっていた。一瞬でも目を閉じればそれが零れ落ちそうで、イザークは瞬きすらするのを我慢してただ目の前でいたぶり続ける相手の満足げな顔を睨みつけていた。
「ふん……」
視線が合うと、男は僅かに目をそばめ、感心したように小さく息を吐いた。
「――食い殺されそうな、眼だ」
ひっそりと呟く男の顔が、それまでとどこか違って見える。
いつのまにか、その顔からはそれまで見せていた憎悪や嘲笑の色が全て消え失せていた。最初に見たときの、あの顔に戻っている。乾いた、無表情さ。感情の読めない、眼。
だんだんと、その眼が自分を侵食してくるような錯覚に陥る。
(……な……ん、だ……――!)
自分が、圧されていることを感じた。
開かれたままの顎が、がくがくと震える。逃れようと顔を振るが、それを制するように突き込まれた指がますます喉を強く圧迫してくるので、それ以上抵抗する余裕もなくなった。
このまま、自分はどうなるのか。
ふと頭を擡げたそんな弱気な気持ちを認めて、イザークは初めて自分が怯えていることに気付いた。
「綺麗な顔をしているくせに……怖い奴だな」
乾いた声が呟くと、摘まれた舌がぎゅっと強く引っ張られ、鋭い痛みにきつく眉を寄せる。
「柔らかい、舌だ。――丁寧に、舐めろよ」
舌を離すと、今度は上下の歯を押し上げる。
「少しでも歯を立てたら、この歯を全部へし折ってやるからな」
押された指先にこもった力の強さに、相手が本気で言っていることが感じられた。
不安が生じる中、不意に喉の奥を圧迫していた指がその力を緩めたかと思うと、口に入り込んでいた手が一気に引き抜かれた。
しかし、解放された喜びにほっと息を吐く間もなく、今度は髪を掴んで顔を引き上げられた。地面から半分浮きかかった格好になったイザークのすぐ目の先に、馬乗りになった男の下半身が迫っていた。嫌な予感がする。
「な……っ……」
声が、出ない。わかりすぎるくらい、これから先のおぞましい展開が簡単に予測できた。
「……いや、だ……っ……」
背けようとした顔を顎からぐいと掴まれると、無理矢理正面に引き戻された。
「やめろっ……!」
必死で動かそうとしているうちに、少しだけ手足の感覚が戻りかけていることに気付いた。イザークの胸に僅かな希望の灯が灯る。
とにかく、この場から逃れたい。そんな思いで、四肢に力を込め、相手の体を押しのけようと激しくもがき続けた。
しかしそんな体の上に、男の体重が再び重くのしかかってきた。力を奪われた体には、十分すぎる強さだった。
再び地面に押し倒された。後頭部が勢いよく固い地面にぶつかると、痛みと衝撃で一瞬目が眩む。
「――だいぶ動けるようになってきたか」
剣呑な口調で呟く男の口から漏れる小さな舌打ちが鈍い頭にぼんやりと響いた。
呆然としている間に、男はイザークの両手を頭の上に引っ張り上げ、ひとつに纏めるとさらにそれを素早く引き抜いた自分のズボンのベルトで固く縛った。それで、もはやイザークの両手の自由は完全にきかなくなった。
「く……っ……!」
イザークは為すすべもないまま、歯をぎりぎりと喰いしばった。
惨めだ。あまりにも……。
縛られた両手を頭上に置いたまま、まるで女のように男の体の下に組み敷かれて。
そうして、これから自分は、何をされる?
憤りと悔しさに、全身が焼き尽くされそうだった。
これではザフトレッドの名が泣く。こんな、こんなこと……っ!
男がズボンを下ろすと、その下には剥き出しの雄が待ち構えていた。
それを見ただけで、吐き気がした。顔からさーっと血の気が引いていくのがわかる。
――まさか、あれを……。
「口を、開けろ」
低く命じられる。声音が、圧倒的な優位に立った者の強さで彼を威嚇した。
この、状態で……。
逃げられない。
男の肩の間から覗く空。
高い建物の間から見える青い空間が見える。
すぐそこに、自由な空間がある筈なのに。
なぜ、自分はこんなところで、じたばたもがいているしかないのか。
あの空の上を――大気圏を抜け、さらに高く、高く上がっていく。その向こうに待っているもの。あの懐かしい空間の広がりを思い描く。
――どうして俺は、こんなところにいるのだろう。
虚しさに、駆られた。
白日の下、こんな見知らぬ男の腕の下に捉えられ、いいように弄ばれている。
――嫌、だ。
こんなこと、絶対に……。
絶対に、あってはならないこと、なのに。
無力さを自覚しながらも、最後の矜持心が彼の心を持ち上げる。
――嫌だ。
どうあっても、イエスと答えることなどできない。
「……い……や……だ……」
掠れた声でそれだけ言うと、イザークは固く唇を引き結んだ。
「強情だな」
顎にかかった男の指先にぐっと力が入る。
所詮無駄な抵抗だということはわかっていた。口を無理矢理開かされることは目に見えている。
それでも、簡単に屈したくはなかった。
そう思った刹那――
下腹部に突然激しい衝撃が襲う。一瞬呼吸が止まった。
「……ぐ……ぅ――!」
呻く声すら、喉下に消えていく。
相手の膝が腹部を思いきり蹴り上げたのだ。
麻痺していた体が、一気に感覚を取り戻したかのようだった。腹から突き上げるような鈍い痛みと胃の腑が引っくり返るような気持ち悪さに激しく噎せた。
まだショックが引かぬうちに、俯いた顔を掴まれ、上向かされた。
「ふん。本当に、強情で生意気な猫だなあ、あんたは」
男がぎらぎらとした眼で見下ろしてくる。
「ちょっと喘がせてやろうと思っていただけなのに――」
男は肩を竦め、いったん言葉を止めた。
僅かな沈黙に、良からぬ気配を感じて、イザークはびくりと竦む。
相手の息が、荒い。
「……もうそれだけじゃあ、とても済まなくなった。――覚悟しろ」
掴まれた顎が引っ張られる。
生臭い肉の塊が目の前に迫った。
固く閉ざされた唇を、太い指が摘むように引っ張りながら捲り上げる。その痛みに思わず口を開かざるを得なかった。
――突っ込まれる……!
次に来るべきものを予測して、目を閉じた。
「……………?」
いつまで経っても、何も口に触れてはこない。
――どうしたのか。
空気が、変わった。そんな、気配を感じた。
いきなり、指が離れる。
「……は……っ、はぁっ……」
解放された唇が、喘ぐように何度も息を吸い込んでは、忙しなくそれを吐き出していく。
呼吸のリズムを取り戻すのに必死で、しばらくは目の前で何が起こっているのかということに気を向ける余裕がなかった。
「――う……ぐっ……っ……!」
男の呻き声に、はっと我に返った。
急に体にかかっていた重みがなくなり、解放感が広がる。
「――大丈夫か?」
声をかけられると同時に、屈み込んでくる人の気配を感じた。
聞いたこともない声に、ぴくりと瞼が震える。
頭上に回された両手の戒めが解かれる間に、うっすらと開いた瞳の中に、肌蹴られた白いシャツの間から覗く逞しい胸の隆起が映った。
白い首筋の向こうに見える面立ちには全く見覚えがない。
――誰、だ……?
通りすがりの誰かが助けに入ってくれたのだと朧気ながら悟ったときには、両手の拘束も解け、背に回された腕に抱えられるように、ゆっくりと体を引き起こされていた。
「あーあ、ひどくやられちゃったなあ。鼻血、出てるよ。口ん中も切れてるみたいだしな。……せっかくの美人が台無しだ」
どこかからかうような語調に、むっとしながらも、鼻の下を手の甲で拭ってみると、確かにべっとりと赤い色がついていた。
本当だ、と思ったとき、ふんわりとした布を鼻に押し当てられた。
「ほら、これで押さえとけ。しばらくすりゃ、止まるだろ」
ようやく顔を上げると、見知らぬ顔が目の前で笑っていた。
精悍で、整った顔立ちの男だった。笑うと子供っぽさの残る若々しい表情を見せるが、鋭く伸びる眉やはっきりとした顎の線が意志の強い大人の男の硬度を感じさせる。
明るい金髪に、生き生きとした青い瞳が鮮やかに映えた。
イザークは不思議そうに数回目を瞬いた。
初めて見るのに、何というか……やけに印象的な顔だった。
この男が、自分を助けてくれたのだろうか。
「……それにしても、朝っぱらから、青姦なんて……ったく、やってくれるよねえー」
呆れたような視線を追いかけると、すぐ先に爪先をこちらに向けてだらしなく伸びている男の体が見えた。
「あ……あん、た……が……?」
掠れた声が、我ながら子供のように情けなく響く。
「ああ、まあ、死んじゃいないが……骨にひびくらいは入ってるかもな。まだ当分お目覚めにはならないよ」
相手はそう言うと、肩を竦めた。
「……で、どうする、アレ。――警察(ポリス・ステーション)にでも突き出すか?」
自分でそう言った途端、金髪の男はあーと変な声を上げた。
「あっ、そうか。けど、それするとちょっとまずいなあ。んー、こっちの都合が、ね。いろいろと……」
困ったなー、と屈託なく笑う様子を見て、相手が本気なのか冗談を言っているのか掴めず、イザークは戸惑った。本来生真面目な彼には、とてもこの会話のペースについていけない。
変な奴だ、と思った。
しかし、自分としても警察、などとんでもないことだった。今、ここで事を大袈裟にするのは困る。おおいに、困る。
「――いや、俺も……」
イザークはようやくのことで、切り出した。
先程からのショックでまだ声は掠れたままだが、気にしてもいられない。少し咳き込みながら、何とか声を絞り出した。
「……それは、困る。あいつは、その……俺の、仲間でもあるし……」
正確にいうと、仲間でもなんでもない。ただ、同じ側の人間、というだけの話で……。
向こうとはつい数時間前に顔を合わせたばかりで、名前すら知らない。
それを『仲間』などと呼ぶのは忌々しいことこの上ないが、この場を切り抜けるにはそうとでも言うよりほかなかった。腹立ちを抑えて、敢えて冷静さを装う。
とにかく、下手に騒いで身分がバレたりすれば、大変なことになる。
「ふーん。仲間、ねえー……」
相手は胡散臭げに転がっている男をちらと見た。
「それにしちゃ、穏やかじゃなかったよねえ。……全く、どういうわけがあるのか知らないけど、ああいうのとは付き合わない方がいいな。次はほんとにただじゃ済まないかもよ」
言われなくても、二度と関わり合いになるつもりはない。
そう思って憮然と視線を落とした。
「けどまあ、きみみたいな綺麗な子が傍にいれば、そんな気になるのもわかんなくもないけどね」
くすりと笑う相手の手がそっと頬に触れてくると、イザークはびくりと身を竦ませた。
「……さっ、触るなっ」
手を払いのけると、相手は心外そうに顔を近づけてきた。
「あれ、つれないなあ。せっかく助けてやったのに。感謝のキスくらいさせてくれてもいいんじゃないの」
「キ、キス……?」
とんでもない要求に、絶句する。
そうか。こんな誰も通らないようなところにやってくる奴など……。所詮ろくな奴ではなかったというわけか。
そう思って唇を噛む。
どうして、こうどいつもこいつも……。
「……男とキスなどして、何が面白い」
ぶすっとした顔で呟くと、目を上げて面白そうににやにやこちらを見つめる相手の顔を思いきり睨みつけた。
「おやおや、そんな綺麗な顔で睨まれちゃうのも、ちょっとぞくっとくるなあ……」
「……き、貴様……いい加減にしろっ……!」
腹立たしげに怒鳴ると、イザークは抱えられた体を振り払うように一気に立ち上がろうとした。
途端に、ふらりと体が揺れた。
軽い目眩とともに、膝からがくりと力が抜けていく。
「おおっと!」
倒れかかった体を、寸前で後ろから支えられた。
「危ないなあ、大丈夫かよ」
「……く……――力、が……」
体に力が、入らない。
ダメージを受けた神経がまだ完全に元に戻っていないのだ。
「こんなんじゃ、帰れなさそうだな。ちょっとどこかで休んでいくか」
「……いっ、いい……」
「て、言ったって……歩けないんじゃ仕方ないだろう」
金髪の青年は本当に困ったように頭を掻いた。
「……車、か何か……呼ん、で――」
イザークの言葉に、相手はそうか、と顔を明るくした。
「ああ、その作業着……そうだよな。工場までなら、送っていってやるぞ。俺もどうせそこまで行かなきゃならないし――」
「あ、ちが――」
違う、と言いかけて、はっとイザークは言葉を詰まらせた。
あの、海の見える公園の待ち合わせ場所が頭に浮かぶ。
しかし、そこまで送って行かせると、他の仲間と鉢合わせすることになる。
工場の作業服姿の少年が四人。こんな時間に公園で落ち合うところを第三者に見られる……。どうも好ましい光景であるとは思えない。
それに、どうも気にかかることがあった。
「……あんたも……あそこに……?」
用心深く問いかけると、青年はややぎこちなく視線を泳がせた。
「……あ、まあ、ちょっと……な」
何か落ち着かなげな様子にどことなく不審を覚えるが、それ以上聞き出そうとすると、かえってこちらが怪しまれそうで、問い質すのを諦めた。
「……じゃあ、車呼んでやるよ」
「あ、ちょっと……!」
思わず大きな声を出すと、相手は驚いたように動きを止めた。
「どうした?」
「……あ、その――」
イザークはしばし言い淀んだ。
何と言えばよいのか。
車は、呼ばなくていい。
いや、それは困る。
じゃあ、どうすれば……。
何て厄介なことになったものか。
つくづく卑怯な手を使ってこんなところに足止めさせた張本人――すぐ先の地面に気を失ったまま寝転がっている当の男を恨んだ。
「……その……車、はやっぱり……」
我ながら矛盾した言動だ。
しかし、他にどう言えばいいのか、わからない。
言葉を途切らせたイザークの胸の内をどう理解したのか、金髪男はふう、と長い息を吐いた。首筋に、熱い吐息がかかると、どきりとした。
抱きとめる腕に、軽く力がこもる。
「じゃあ、仕方ないな。やっぱ、ちょっとだけ休んでいくか」
――あ……
ふわりと浮き上がる感覚に、声を失う。
「――ちょっ……おっ、おい……っ!」
「格好悪い?心配するな。誰も見てないさ」
軽々と抱き上げられた状態で、イザークはさっさと近くの建物の中に連れ込まれた。
(to be continued...)
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