呪  焔
 (4)










(……こんなこと、してる場合じゃないのに……)
 僅かな焦燥感に煽られながらも、ベッドの上に下ろされた途端に脱力して、もうそこから先は動けなかった。
(くそっ……何だって……)
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 たとえ必然の成り行きとはいえ、こんないかがわしい場所に、見知らぬ男と二人きりでいるという事実が、イザークをどうにも落ち着かない気分にさせた。
 金髪男に抱かれ、恥ずかしさに身を竦めながら、目を瞑って通り抜けたその建物の入り口。最初は何が何だかわからなかったが、しばらくして自動通路の機械音が途絶えた頃、おそるおそる目を開けると、ナンバープレートのついた扉が目に入った。
 どうやら簡易ホテルの一室らしい。上手い具合に休憩所があったものだ。
 中へ入ると薄暗くじめっとした空気が一瞬鼻についたが、それはオートセンサー灯が働かない上、遮光カーテンが狭い窓を一面覆っているせいだった。
 陰気な部屋の様子を一見した途端、イザークは綺麗な顔を露骨に顰めた。今どきこんなアナログな部屋も珍しい。が、ここは地球なのだ。プラントの常識が当て嵌まる筈もない。
 それにしても……一見普通の安ホテルといった風情だが、ことなく違和感を覚える。
 簡素な部屋だが、よく見るとどうもそれだけではないようだ。いわゆる普通のホテル、という感じではない。
 壁際のダブルベッドは、暗い中でも派手な柄の掛け布が目を引く。その横にこれまた妙な色柄のソファーセットが置かれているが、これまた派手な色合いというだけで、お世辞にもセンスが良いとはいえない。
 そのとき、部屋が明度を増した。
 男が壁の照明灯のスイッチを弄ったのだ。
 天井から発する光自体は強くないが、室内はやや紫の色を帯びた不思議な色合いに染まって、まるでどこかのショットバーかサロンのような雰囲気だった。いや、むしろそういった場所の方がもっと上品さが感じられる。
 それに比べると何だかここは……。
 だんだん、イザークは嫌な予感を覚え始めた。
 この、光景。
 何となく、見覚えがある。
 無論、入ったのはこれが初めてだが……。
 これまで、何度かこっそりとディアッカがよく読んでいるあの低俗な雑誌を盗み見たことがある。そこに出ていた――
 それがわかったとき、イザークはうっと呻いた。
 信じられない。何で……。
「……なっ、なっなっ……――!」
 何なんだ、ここは!
「こ、ここっ、ここはっ……!」
 どう見ても――普通は男女のカップルが逢引をする為に使う宿泊施設……いわゆる――
「――そうそう。たぶん、当たってるよ。いわゆるラブホ、って奴。まあ普通はきみたちみたいな青少年には、まだ縁のない場所かもしれないけどね。――あ、でも最近の若者はそうでもないのかな。結構早熟だもんなー」
 全くよく喋る奴だ、とイザークはむすっと眉間に皺を寄せた。
 ――ラブホ……?
 地球の俗語をさらりと吐く当たりが、この男の下俗性を露呈している。
「知らなかっただろ?この辺りって、実はそーいう場所だったんだよね。朝っぱらから何も知らない青少年を引き込む場所じゃねーよなあー……ったく、あのオッサンもよくやるよ」
 例の工作員を指して言っているのだろうが、そう言う自分も立派に引き込んでるだろうが!とイザークはむしろ自分を抱きかかえてしゃあしゃあとこんな場所へ入り込んだこの恥知らずの男に向かってこそ、大声で詰ってやりたい気分だった。

 ――いくら、動けないからと言って……よりにもよって、こんな場所に連れ込みやがって……!
「……下ろせ!」
 腹が立って、腕の中で体を捩った。
「ああ、ちょっと、そんなに暴れるなって。今下ろすから」
 ははっと笑いながら男は、イザークを慎重な手つきでそっとベッドに下ろした。
 ふわり、とスプリングが僅かに揺れる。
 背中から柔らかく気持ちの良いシーツの中に埋もれた。
 場所の是非はともかく……。
 全身を縛っていた緊張が取れ、忽ち心地よい感覚に包まれる。
 瞼を閉ざし、ほっと息を吐いた。それまでの不快感が綺麗に消え失せ、彼は自分の置かれている状況を一瞬忘れた。
(……………?)
 ふと視線を感じると、慌てて目を開けた。
 呆然と見下ろす青い瞳と目が合った。
「……何だよ」
 相手の目が見ているものが何か、すぐわかった。
「――あ、いや……」
 男は何も言わず、僅かに目を逸らした。
 イザークの目がきつく上がった。
「事故でついた傷だ。どうってことない」
「……ああ、そういうつもりじゃなかったんだが」
 相手は小さく吐息を吐いた。
「すまん」
「別に。気にしていない」
 素っ気なく返すと、イザークはぷいと目を背けた。
「けど、綺麗だ。……傷にびっくりしたのも本当だけど、それよりもっと――この最高に綺麗な顔に見惚れた」
 ストレートな物言いに、驚いて視線を戻す。
 にっこりと微笑む青い瞳に見入られて、かっと頬が火照った。
 気障な言い方だったが、この男が言うとそれもなぜかしっくりと馴染んでしまうから不思議だった。
「……なっ、何を言ってる……!」
「――眠り姫(スリーピング・ビューティー)って知ってる?」
 相手は唐突にそんなことを言う。
 言葉の意図を測りかねて首を傾げている間に、急に相手の背が低くなったな、と思うと、男は屈んでそのままベッドの脇に膝をついていた。ベッドの上に両肘を置いて、今度は至近距離からまじまじとイザークの顔を見つめてくる。
 そんな風に距離を詰められると、ますます落ち着かなくなった。
 しかし、無論表面上は全く素知らぬ顔を装った。
「何だよ、それは……その、眠り何とか、って」
「あれ、知らないのか?昔からあるおとぎ話でさ。――えー、もしかして聞いたことないの?何だよ、全く最近の青少年は……」
 金髪男はこちらまで息が感じられるほど、大仰に溜め息を吐いた。いちいち大げさに、芝居かかった調子でものを言う。
 全くふざけた奴だ、とイザークは内心舌打ちをした。
 ディアッカもこのようなふざけた物言いでよく彼を苛立たせることがあるが、この男の言い草はそれよりずっと酷い。手馴れている、というか……まさしく大人の狡猾さを感じさせる。
 しかしそれでいて、無視することもできない。腹立たしくは思うものの、真剣に憎めない何かがこの男の中に存在する。
 だから、どうも目が離せない。
 不思議な引力のようなものが、彼を無意識に引きつける。
「で、何なんだよ、それは!」
 忌々しいと思いながら、結局は続きを促していた。
「んー、そうだなあ。話せば長くなるから端折っちゃうけど、魔法をかけられた超美人のお姫様がずーっと眠り続けるわけだ。で、最後に魔法を解いてお姫様を眠りから覚ますのが、これまた超カッコいいクールな王子様ってわけで」
「何かよくわからん話だな」
 民俗学の文献の中に、そういえばそういう類の民間伝承や説話があったような気もするが、あまり興味もなかったのでこれまでそんなにじっくりと読んだこともない。
「で、それがこの状況とどう関係がある?」
 淡々とした口調に、相手は興をそがれたようだった。
「何だよ、わかんない?ぴったりの状況だと思わないか?」
「何が?」
「さっき、目を閉じたおたくの顔見てたら、思い出したんだよ。そのおとぎ話をさ」
「……だから、何で?」
 無愛想に返すと、相手ははあーっとまた大きく息を吐いた。
「わかんない奴だなあ。じゃあ、ちょっと目、閉じて」
「何で目を閉じなきゃならないんだ」
 何となく嫌な予感がして、イザークはわざと大きく目を見開いた。
「いいから、閉じてみろよ」
「嫌、だ」

「閉、じ、ろ!」
 手で瞼を無理矢理閉ざされた。
 何するんだ、と怒って起き上がろうとするや否や、唇に何かが触れ、不意にきたその生々しい感触にびっくりして硬直した。
「……ん……っ……!」
 軽く触れる、というだけにしては長い接触だった。驚いて拒絶しようにも、頭をぐっと押さえつけられて離すことができない。
 そのうち、ぬるりとした舌が唇の間を割り、無遠慮に内側に侵入した。
「……んん……ぅ……!」
 蕩けるような舌先の愛撫に力が抜けていくようだった。
 唇の裏側付近を軽く舐めただけで、それは唐突に離れていった。
 それでも、しばらく麻薬のような甘い痺れの余韻が残った。
「……く……っ、き、さ、ま……っ……!」
 怒りとも驚きともつかない声が喉から漏れた。
 軽いショックに、震えが走る。
「……な、に、をした……っ……!」
「何って、キスだよ」
 相手はしゃあしゃあとそう答えると、まだ唾液が軽く糸を引く唇の周辺をぺろりと舐め上げた。
「……さっき、言い損ねたけど、実は物語の終わりはそのカッコいい王子様がお姫様にキスをして、目覚めさせるんだよね。そこで呪いが解けて、めでたしめでたし、って終わる」
 それをそのまま今の状況に置き換えたというわけか。
 言いように翻弄されたことが、イザークの羞恥心を煽った。
「……この、変態野郎……っ!」
 顔を真っ赤にして罵られても、男は毛筋ほども顔色を変えなかった。むしろそんな彼を面白そうに眺める。
「変態は、ひどいなあ。普通の反応だろ」
「……おっ、男とキスして喜ぶなんて、普通じゃない……っ!」
「へえー……そっか?けど初めて、ってわけでもないんだろ?」
 指摘されて、イザークは顔色を変えた。
 さっと背筋が冷たくなる。
 何で、そんなことがわかる……?
「わかるさ。反応見てたら、何となく、な」
 イザークの心の中の動揺を見透かしたように、男はにんまりと笑った。
「ああ、けど気にすることはないぞ。俺だってどっちもイケる口だしな。何世紀も前の世界じゃあるまいし、今はフリーセックスの時代だぜ。セックスに性別なんか関係ないさ。つまりは相性よ、相性!」
 頬に手が触れた。
「で、俺たち、ちょっとイケそうだと思わない?」
 あつかましい言動にむかつきながらも、厚い手のひらで撫でられただけで、さわり、と体の芯が騒ぐ。
(……は――……っ……)
 熱い吐息が漏れた。
 この男は、この辺りの手管も素晴らしく熟練しているようだ。
 麻痺していた筈の体が、奥底からじわじわと静かに反応を始めている。
(くそっ、何だよ、俺は……!)
 ――こんなところで、何反応してんだよ。
 自分が酷く淫蕩な人間のような気がして、嫌になった。
 任務中、だというのに。
 ふと、その言葉が頭の中に現実味を帯びて甦った。
 そうだった。
 オーブの領域内に潜入して……。
 そもそも当初の目的は、ここに逃げ込んだ筈の、あの足つきを探すという……。
 そうだ。自分は、こんなことをしている場合では……。
「――名前、何てーんだ?」
 すりつきそうなほどの距離で動く唇が問いかける。
 項からさらりと髪の房を弄る指先の動きにぞくっと身を震わせた。
「俺、ムウって言うんだけど。きみは……?」
 いつのまにか、相手はベッドの上に乗り上がり、イザークの体の真上から覆い被さるような体勢に入っている。
「……なっ、何やってんだ!離れろっ!……」
「だーめ。名前を聞くまで、離れませーん」
 冗談めいた口調のまま、ムウ・ラ・フラガはもがこうとするイザークの両手首を押さえ込んで、やすやすとシーツの上に縫いつけた。
「きっ、貴様っ、ふざけるなっ……!」
 イザークは怒りと恥辱に顔を真っ赤にして、怒鳴りつけた。
 裏返りそうになった声が、びん、と部屋いっぱいに響き渡ると、相手はにやりと笑った。
「あれれ、結構元気になってきたみたいだねー」
「ひっ、卑怯だぞっ!」
 人を助ける振りをして……。
 これではさっきの男と大差ないではないか。
「そ、俺って卑怯な男なんだよ」
 あっさりと開き直る金髪の下の笑顔のあどけなさに、イザークは怒る気力も削がれて、次の言葉を飲み込んだ。
(この、男……っ……!)
「物語の中ならともかく、現実に綺麗なお姫様をゲットしようと思えば、それなりの策略も必要になってくるしねー……あ、まあその前にそんなお姫様に出会えること自体が奇跡的だけどね。――ってわけで、きみそのものが俺にとっての奇跡ってこと」
 嬉しいか、と鼻頭に軽くくちづけられたときには、あまりの無遠慮さとあつかましさに怒りを通り越してもはや呆れ果ててしまっていた。
「で、名前は?」
「……だっ、誰が言うかっ……!」
 そのとき、突然やってきた全身を揺さぶるような振動に、あっ、と彼は口を開いたまま顔を強張らせた。
 ……ーッ、ーッ……
 繰り返されるその突き上げるようなこもった振動音は、外からも十分聞き取れた。
「――お、何か鳴ってる」
 フラガの片手が押さえつけた手首から離れたかと思うと、素早くイザークの腰のベルトへ伸びた。
「……あっ、おいっ!」
 イザークが制止するより早く、フラガはその携帯連絡機を手に取り、勝手に着信ボタンを押していた。
『――……ザ―ク、どこだ?おい、イザーク?』
 ディアッカの声が、何度も自分の名を呼んでいる。
「――かっ、返せよっ!」
 イザークは必死で手を伸ばし、それを取り戻そうとした。しかしフラガにたやすく交わされてしまう。
「あー、きみ、『イザーク』……の友だち?」
 イザークの手の届かない側に携帯機を持ち替えると、フラガは何でもないような口ぶりで応答した。
 そのまま跳ね起きると、ひらりとベッドから飛び下りたフラガを追って、イザークも重い体を引き起こした。
 ベッドから出ようとする足がもつれて、頭から床に落ちそうになるところを、何とかベッドの縁にしがみついた。情けない格好のまま、恨めしげに目の前に立つ男の背を睨み上げる。
『だっ、誰だよ、あんた?』
 連絡機の向こうから忽ち慌てたような声が跳ね返ってくるのが聞こえた。
「あー俺?俺はまあ、ただの通りすがりのもんだけど――ちょっと、いろいろあってねえ……」
 肩越しにちらりとイザークの方に目を向けて、フラガは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「とにかく彼、今動けないんだ。良かったら迎えに来てくれないかな?ああ、場所はちょっと待ってよ……ポイントで言えばいいかな。えーっと……」
 会話が滔々と流れていくのを、イザークは蒼白な表情のまま、見守っていた。
 ベッドからようやくのことで体を床に下ろしたものの、そここから立ち上がる気力もない。ベッドに背をもたせかけ、拗ねたように蹲っていた。
「――ほらよ」
 最後に携帯機を返されたときは、もはやそれに応答する気にもなれなくなっていた。
『イザーク?おまえ、何してんだよ!誰なんだよ、今の!大体おまえなあっ、俺たちの今の状況、わかってんの?一体お前――』
「……るさい」
 相手からの受信を遮断して、ふてくされたような一言を投げつけると、彼はそれきりぷつりと通信を断った。
「……くそっ……」
(ディアッカの奴……)
 最悪のタイミングだった。
 忌々しげに携帯機を目の前の床に放り投げる。
「おいおい、大事に扱えよ。壊れちまうだろうが」
 やれやれとフラガがそれを拾い上げ、イザークの前に差し出したが、彼はそれを見ながらつと目を細めた。
「しっかし、携帯無線機ねえー……よくできてるじゃない?軍仕様でもこれだけ高性能なものにはなかなかお目にかかれないなあー……どーしてこんなモン持ってるんだか……」
 どきっとして、イザークは目を上げた。
 『軍』という言葉に神経がぴりりと反応した。まずい、と思う。何となく……男の言い方に引っかかった。軽い物言いの中に、どことなく深刻な響きを感じ取る。
「きっ、貴様には関係ないだろう!」
 ぶっきらぼうに言うなり、慌てて男の手からそれを取り戻すと、無造作に腰のポケットに突っ込んだ。
「ふーん……」
 フラガは物言いたげな目で少年を見下ろしたが、それ以上何も追求しようとはしなかった。
 それにほっとしながらも相手の視線を受けているのが辛くなり、イザークはさりげなく目を逸らした。
「おい――」
 両肩を不意に掴まれる。
 驚いて顔を上げると、いきなり目の前にしゃがみ込んでくる男の真剣な眼差しに突き合わされた。
「こっ、今度は何だよ……」
 戸惑うイザークの声を無視するように、指先が額に触れる。
(……………?)
 傷跡をなぞられているのだとわかったとき、反射的にそれを手で振り払おうとした。
「……よせっ!」
 その手首を途中で強く掴まれた。
 捻り上げられるかと思うほどの強い力に僅かに顔を顰める。
「何、を……――」
「この、傷……」
 フラガの顔は笑ってはいなかった。

 厳しい瞳が、傷跡に集中する。そこには最初のときのようなあのぎこちない哀れみや悲しみのような感情は微塵も感じられなかった。
 イザークは、激しい不安に駆られた。
(くそっ、何だって、そんな目で……)
 この傷には触れられたくないというのに、また……。
「――まだ、新しいな」
「……関係ないだろうがっ!触るなっ!」
「最初から、思ってたんだけどね」
 フラガは軽く息を吐いた。
「何か鬼気としたものを感じる。これ……ただの傷じゃなさそうだよな」
「み、るなっ――!……」
 イザークの声が小さな悲鳴を上げる。
(あ……っ……!)
 フラガの顔を直視するうちに、不思議な気分に駆られた。
 その顔は……誰かを思い起こさせる。
 自分のよく知る誰か。
「どうした?」
 不審気に眉をひそめるフラガの前で、彼はただ驚愕に目を見開いた。
(……俺は、知って……いる……?)
 この顔を……。
 知って、いる……。
 心臓がどきどきと鼓動を速めた。
 緊張感が走った。
 ――誰、だ。
 金髪に、青い瞳。
 記憶の片隅に浮かぶ、目の前の顔に恐ろしく似た端整な面に浮かぶ微笑みが、妖しく歪んだ。


                                      (to be continued...)


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