呪 焔
(5)
(……隊、長……?)
イザークの瞳は大きく見開かれたまま、呆然と目の前の顔を凝視していた。
似て、いる。
仮面の下に存在した、あの顔と……。
くらくらと目眩がしそうだった。
「――おい、どうしちまったんだ?」
不思議そうに問いかける声に、現実に引き戻された。
フラガの顔からは、先程垣間見た深刻さは既に消えている。
同時に、幻も去った。
「あ――……」
「おい?」
掴まれた手首を軽く揺すられた。
「――何だよ、急に固まっちまって」
覗き込んでくる青い瞳は何の屈託もない。
――気の、せいか。
そう思いながらも、その心臓は一瞬の不思議な感覚に打たれた衝撃で、未だに鼓動を速めたままだ。
少年の息遣いの激しさに気付いたフラガが僅かに眉を顰める。
「……息が苦しいのか?」
「……ん……んっ……」
イザークは首を振った。
「……だっ、だい、丈夫だ……」
何とか息を整える。呼吸は徐々に落ち着きを取り戻し、引き攣った顔も緊張を緩めた。
それを見届けたフラガはほっと息を吐くと、掴んだ手を離した。
「脅かすなよ」
疲れたように、隣にどかっと尻を落とす。
「……俺の顔に何かついてた?」
改めてそう問われると、イザークは返事に困った。
「……あ、いや……」
言葉を濁すイザークに、フラガは皮肉な目を向けた。
「何でもなかった、なんて言うなよ。どう見ても俺の顔見て反応してただろ。目の前でいきなりあんな顔されて、何でもなかった、なんて言われても全然説得力ないんだけどね」
「……………」
「あーもしかして、俺の顔見て、誰か嫌な奴思い出したとか?」
――嫌な奴、というか……。
イザークは密かに溜め息を吐いた。
見てはいけないものを見てしまった、あのひとときの邂逅を思い出すと、ぞくっと悪寒に身が竦む。
クリスタルガラスのように艶やかで透けるような白い肌の上に一寸の狂いもなく、彫り込まれた人面。その完璧ともいえるほどの美しい顔に広がっていく氷のように冷たい微笑には、確かな毒素が混じっていた。
人ではない。魔を帯びた、異界の貌。思い出したくない光景だった。
なぜ、思い出してしまったのだろう。
この男の何か、が……。
イザークは訝しみながら、ちらと隣りへ視線を放った。
金髪に、青い瞳。整った目鼻立ち。
顔の造作が似ていることは確かだ。
だが、だからといって、最初からそっくりだ、と気付くほどではなかった。大体よく似た顔、というのは世の中どこにでもあるものだ。さほど気にすることでもない筈だ。
なのに……。先程、ほんの一瞬この男の見せた顔が、記憶に残っていたあの顔と重なった。
そして、彼はパニックに陥った。
(……落ち着け。気のせいだ)
この男とクルーゼとの間には何の関連もない。ザフトの隊長と、地球で擦れ違った行きずりの男を見比べて動揺するとは、全く自分はどうかしている。
しかも……。
イザークはこくりと唾を飲み込んだ。
――あの仮面の下にあった顔……あれも、ただ混乱していた自分の作り出した妄想に過ぎなかったのかもしれないのだ。
……妄想……?
もうひとつの心が忽ち不安げに反駁する。
(本当に、あれは妄想、だったのか……)
もやもやする気持ちを抱えたまま、端整な男の横顔を観察する。
ハンサムな男だ。上背もあり、引き締まった逞しい体躯といい、男性としての肉体的な魅力も十分満たしている。さぞや、女性からはもてるだろう。
「……何見てんの?」
からかうような声に、イザークは、はっと我に返った。 いつのまにか顔をこちらに向けた男と視線がぶつかる。
自分がどれだけまじまじと相手の顔を眺めていたかということにようやく気付いたときには、恥ずかしさに頬が熱くなった。
「何?……ひょっとして、俺に惚れたとか?」
「……なっ!……んなわけ、ないだろうっ!」
慌てて否定すると、顔の前に伸ばされてきた手を思わず払い落とした。
「は、離れろよ!」
さりげなく摺り寄ってくる男の胸を突き返す。
「あーあ。そんなに思いっきり否定しなくたって、いいのにさ」
からからと笑いながら、フラガはあっさりと退いた。
簡単に唇を奪った割りには、それ以上迫ってくる意図はないらしい。
彼はついと立ち上がると部屋を横切り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、戻ってきた。
「ほらよ」
キャップを取って手渡すと、イザークはそれをぎこちなく、受け取った。
冷水のひんやりとした感触が手のひらに伝わると、忽ち喉がごくりと鳴った。躊躇いながらも、いったん口をつけると、あとはごくごくと一気に半分まで飲んでしまった。
冷たい水が喉を潤していくにつれ、だいぶ気分が良くなった。
体もすっきりしたような気がする。
試しにゆっくりと立ち上がると、それほどふらつかなくなっていた。床に足がしっかりとつく。手足の感覚はすっかり元に戻っているようだ。拳を握り締めると、まだあまり力は入らないようだが、移動するには支障はなさそうだ。
「おいおい、無理すんなよ」
歩き出そうとするイザークの前にフラガが立ちはだかる。
「お迎えがくるまで、待ってろよ」
「外で待つ」
「いいじゃない。ここで休んでれば」
「冗談じゃない!」
イザークは相手を睨めつけた。
本当に冗談じゃない、と思った。
このいかがわしい場所に、男と二人きりでいるところを見られる。男女の睦み合う密室に、この怪しげな男と二人きりで……。
何もなかったといくら説明しても、何らかの疑惑を残すことは必須だった。そして実際のところ……少しは疑われるような行為もあったわけで。
(……ああ、くそっ!……駄目だ、駄目だ!)
ディアッカとこの部屋の中で顔を合わせるのだけは、何としても避けたかった。既にこちらへ向かっているのなら仕方ないとしても、せめて建物の外で……。それならまだ少しは説明もつくかもしれない。
そう思うと、一刻も早くここから出ようと気が焦った。
「……待てって言ってるだろ」
脇をすり抜けようとしたイザークの肩を、フラガの手が掴んだ。
「放せ」
振り解こうとしても、掴んだ手は簡単には外れない。
「――ここから出たい、っていうんならそれでもいいけどな。せめて行く前ににっこり微笑んで、一言くらい『ありがとう』とか『世話になった』とかあってもいいんじゃないの?」
押しつけがましい言葉に、イザークはむっと眉間に皺を寄せた。
確かにあの卑劣な男から助けられたことは事実だが、体よくこんな場所まで連れ込んだ相手の下心は丸見えだ。既に唇まで奪われた。それを思うとまた新たな怒りが湧き上がる。
「恩着せがましいことを、言うな」
むすっと言い返すと、相手はにやりと笑った。
「別に。世間一般の常識を言ってるだけですけど。いくら綺麗でも、礼儀知らずのお姫様、って世間体悪いぞー」
「黙れっ!」
ふざけた口調にもはや我慢できなくなって、声を荒げて怒鳴りつける。
「……俺は何も貴様に助けて欲しいと頼んだわけじゃない!それに助けた後、貴様は俺に何をしたっ!……大体こっ、こんな場所に連れ込んだのもわざとだろう。しかも誰が『姫』だっ!ぶっ、無礼だろうがっ!人を馬鹿にしやがって……っ――ん……ッ……!」
後は言葉にならなかった。 片手で後頭部を引き寄せられて、あっと思ったときには既に唇を塞がれてしまっていた。
僅か数秒のくちづけは、思いのほか深く濃厚で、思わず目の前が眩んだ。
いつ唇が離れたのかもわからない。はあはあと喘ぐ呼吸に、乱れた心音が胸を異様なまでにかき乱す。
「――は……今の、やばかった」
頬を舐めるほど近くに寄せられた唇がそんな風に囁くと、降りかかる熱い吐息に、体の芯まで溶かされてしまいそうになった。
「……っ……は……な、せ……って……!……」
怒りに荒んだ声が、いつしか泣きそうなほどかぼそい懇願の悲鳴となっていた。
「……ほんとに放しちゃっていいのかなー?――めちゃめちゃ感じてるくせに、さ」
舌がぺろりと頬を舐める。熱く湿った感触にざわりと肌が粟立った。
「……な、に……やっ――!」
肩から離れた手が胸から下肢へと下りていく。
「……あ、やっ……そこ……ッ……!」
ズボンの上からぎゅっとそれを掴まれると、イザークはあっと小さな悲鳴を上げた。
「こんなになってるのに?」
「……や……だっ、……さわん、な……っ!」
イザークは身を捩り、微かな抵抗を試みるが、相手の腕はしっかりと体を抱いたまま、放そうとしない。
「――やばいな……このまま、犯っちまいたくなってきた……」
冗談とも本気ともつかぬ言葉に、イザークは目を見開いた。
(ちょっ……――)
自分自身もやばい、と思う。体が思いのほか興奮しているのがわかる。いったん麻痺した神経が、今度はその反動か、与えられる刺激に異常とも思えるほど過敏な反応をする。このままでは……。
「……は……ッ……本気でやるつもりなかったんだけどなー……――どうする?このまんまじゃ、苦しいだろ?お互い――」
――嘘吐け。確信犯だったくせに……と恨めしげな目で睨みつけようとしながらも、だんだん余裕がなくなってくる。
睨んでいた筈の瞳がいつしか熱っぽく潤み、喘ぐ息遣いの中に甘い艶が混じり始めていた。
「……うわ、何かすげーな……この、顔……って、女よりそそるぜ……」
相手の心臓の音が一気に速まるのがわかった。
それほど肌が密着している。呼吸音を間近に感じる。互いの体が熱い。
余裕のなくなった手がシャツの下へ入り込み、白い胸をそろそろと撫で、乳首を摘み軽く弄ると、僅かな痛みとそれを超える疼くような刺激に身悶えした。
「……う……っ……ぁ……!」
体が火照って息が弾む。唇の端から上ずった妙な声が漏れるのを抑えきれない。
「声出せよ。誰も聞いてないんだから」
俺以外はね、と笑う男の声が小狡く聞こえて、イザークは唇を噛んだ。
――誰が声など出すものか。
目を固く閉じた。
「……強情だな」
股間を握られていた手が緩み、ほっとしたのも束の間。
今度はベルトが外され、ズボンの下へ直に手が潜り込もうとしていた。体が跳ね上がりそうになる。
「……や――……」
手が直にそれを掴み、指先で先端をさらりと撫でられただけで突き上げてくるその凄まじいまでの快感の波に、頭の芯までとろけそうになった。
「おまえのここ、すごいことになってるよ……ほら、見てみる?」
耳元でいやらしく囁く声に、羞恥心を煽られる。しかし同時にその言葉が刺激となってさらに自分の性感度を増幅しているような気がした。
「……っ、あ……――!」
と、そのとき。
……――ッ!――ッ!
またしても、携帯の着信音が割り込んだ。
腰ポケットから、バイブレーターの震えが伝わり、イザークの体はびくんと撥ねた。
「何だよ、いいとこで……」
水を差されたフラガは軽く舌打ちした。
「……は、なせよっ……!」
僅かに緩んだ腕を思いきり突き放すと、拘束はあっさりと解けた。
転がるように飛び出した体を覚束ない足元が何とか支えた。よろよろと数歩歩き、壁に片手をつくと、ようやく空いた手で鳴り続けていた携帯機を取った。
「……ディアッカ?……」
息を整えると、小さく呼びかける。
掠れ気味の声が変に聞こえていないか心配だった。
『……………』
一瞬の間が、不安を呼び起こす。
「……おい?」
気忙しく呼びかけた。電源部を見るが、通信は切れているわけではない。
「……おいっ?ディアッカっ!」
『――ザーク』
不意に返ってきた返事に、びくっとする。
――…………?
一瞬、聞き違いかと思った。
――声が、違う?
胸がざわりと波立つ。
嫌な予感がした。
「……あ……」
返事ができない。
『……イザーク』
今度ははっきりと聞こえた。
ディアッカの声ではない。
しかしよく知っている声だった。
恐らく今は一番聞きたくないと思っていた声。
(……く……そっ……)
イザークはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
息を大きく吸い込んでは吐き出す。
動揺する胸を鎮めるように。
――落ち着け。落ち着け。
――どうってことない。何も……慌てることはない。
それでも自ずと焦燥は募る。
声を出すと、喚き出してしまいそうだ。
頭の中をぐるぐると同じ問いが回る。
何で、何で、何で……!
どうして、今、こんなときに……。
何で、おまえがここにいる……?
何で今、ここに……
おまえが……っ……
「……ア――」
どこか間の抜けた声が、他人のもののように響く。
「……アス、ラン……」
その名を口に出した途端、膝が抜け落ちていきそうになるのを、ようやく踏みとどまった。
壁に突く手のひらに、汗が滲む。
もっと、何か言わねばならない。
そう焦りながらも、それ以上何も言うべき言葉が出てこなかった。
そんなイザークの苛立ちをよそに、通信機からは明瞭な声が流れ出した。
『……B2区まで来ている。どこにいるのか正確な場所を教えろ』
淡々とした口調の中には、何の感情も読み取れなかった。
(to be continued...)
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