呪  焔
 (6)










 イザークは壁に手を突いたまま、凍りついたように動かなかった。
「――おい、どうしたんだよ?」
 背後から、不審気に呼びかける声に、ようやくはっと我に返った。
「なーに、固まっちまってんだ?」
 ふざけた口調が、神経を苛立たせる。
 くるっと肩越しに振り返ると、呑気に佇む相手を思いっきり睨みつけた。
「うるさいっ!」
 地団駄を踏まんばかりにがなり立てると、男は一瞬呆れたように目を丸くしたが、やがてにやりと白い歯を見せた。
「……で、誰から?」
「――き、貴様には……関係、ない……っ……」
 一転した歯切れの悪い返事に、
「あ、そ」
 軽く返すと、フラガはそれ以上突っ込もうとはしなかった。
「……と、とにかく、ここを出るっ!」
「……って、おいっ?」
「なっ、仲間が迎えに来てるんだっ!だからっ――」
 引き攣った手で何とか緩んだズボンを引き上げ、ベルトを締める。
「おいおい、何テンパってんだよ?せっかく迎えに来てるんなら、ついでにここまで上がって来させりゃいいじゃない」
「――駄目だっ!」
 イザークは噛みつくように否定した。
 怒った瞳の中に、どこか不安定な色が瞬く。
 呆然とするフラガを背後に残して、イザークは気忙しく扉口へ向かった。
「あっ……と!……だから、ちょっと待てって……!」
 フラガも慌てて銀髪頭の後を追いかけた。
「おーい、イーーーーザーーーークーーーー!」
 
 
 
 玄関の扉から外へ一歩踏み出した瞬間、イザークは息を飲んだ。
 目の前……道路を挟んだ向こうに、立っている人影。
 身じろぎもせずにこちらを向いて佇む作業着姿の少年。
 帽子の下から覗いているのは、見慣れた紫紺色の髪。
「――あ……」
 こんなに目の先まで来ていたとは。
 知っていてか知らずか。
 冷静なあの顔を見ている限り、計算ずくとしか思えない。相手の意地の悪さを感じずにはいられない。
 とにかく――
 出てくるところを見られた。
 咄嗟に言葉が喉から出てこなかった。
「アス――」
 混沌とした頭のまま、夢遊病者のように前へ進もうとした途端、膝頭が揺れた。
「――おっと!」
 つんのめりそうになったイザークを後ろから逞しい腕が支えた。
「セーフ!」
 目を見開いたイザークの耳元で、力強い声が響く。
 振り返ると、にやりと笑うフラガの顔が目に入った。
 向こう側に佇む相手を意識して、イザークはかっと顔を熱くした。
「はっ、放せよ……っ」
 体を揺すり、無理に身を?ぎ離す。
 案の定、視界の隅に映るアスランが、目を瞬いているのがわかった。
「……イザーク……?」
 アスランがゆっくりと近づいてくる。
「やあ、初めまして。きみが、イザークの友だちかい?」
 イザークより前に出たフラガが先に声をかけた。
「……そうですけど。あなたは……?」
 怪訝そうな顔をしながら、アスランは慎重に返答した。
「……ああ、俺はたまたま通りがかっただけなんだけどね。彼が変な奴に絡まれて困ってるようだったんで、見るに見かねて手を差し伸べたってわけで――俺がいなかったらマジにやばかったよ。あんなのが仲間だとか言うから、ちょっと驚いたけどさ。どういう関係かしらないけど、ああいう手合いには気を付けた方がいいな。特にこういう顔がやたら綺麗でつんとすかしてるっぽいけど実は全然世間慣れしてなさそうなタイプってのは狙われやすいんだ」
「……おい、貴様ッ!勝手に何を言っているっ――」
 背後からイザークが怒りの声を上げるのも意に介せず、フラガは平然と続けた。
「で、しばらく動けなさそうだったんでね。たまたまこういう場所にいたもんだから。止むを得ず、このホテルの上の部屋で休ませてただけで――いや、ほんとにそれだけなんだけどさ」

 ――嘘を吐け。それだけじゃなかっただろうがっ!
 そう叫びだしたい気持ちを堪えて、イザークはむっと唇を引き結んだ。
 今何か言っても藪蛇にしかならない気がしたのだ。
 全く口が上手い男だ。
 イザークは、滔々と喋り続ける男の金髪頭を後ろから黙って睨みつけた。
「……とにかく、きみの友だちはだなー。こういう類の場所に俺みたいなのと二人っきりでいたってことをきみらに知られるのが、どうも嫌らしくってねえ……。だから念を押して言っとくけど、こんなところに連れ込んだからって、何もヘンなことしてたわけじゃないからね。まあ、彼は男にしておくには勿体ないほどの美形であるのは事実だけど――実際顔だけ見てると女の子みたいだしねー。キスくらいなら……なんて気にもなりそうな――」
「おい、いい加減にしろっ……!」
 イザークは羞恥で地の下まで沈み込んでしまいそうな気分だった。
 何だって、この男はこうつまらないことをくだくだと喋り続けるのか。
「余計なことばかり喋りやがって……ッ!俺のどこが……ッ――」
「――事情はわかりました」
 アスランのよく通る声がイザークの文句を遮った。
 フラガはおや、と僅かに目を細めた。
 この少年の中に介在している、特別なものに気付いたかのように。
 妙に成熟した、おとなびた物言い。
 とても単なる工場の作業員仲間が話しているとも思えない雰囲気だ。

「彼を助けて頂いて、ありがとうございました。そんなことではないかと思っていましたが……この先に倒れていた男は、先ほど警察に引き渡しました。もう俺たちと関わることはないと思います――」
 アスラン・ザラの落ち着いた声が、機械的に、淡々と続く。
「あの男と俺たちにはあまり深い関係はありません。奴が彼にしたことについては、ご覧になっておわかりかと思いますが、公にされると好ましくないことです。ですので、ここで見られたことは一切口外しないで頂けるとありがたいです。いろいろな意味で、お互い面倒なことは避けるに越したことはないでしょう……」
 まるで保護者のような口振りだった。
 ――何だ、その言い草は。
 イザークはむらむらと胸が煮えくり返るようだった。
(奴が、俺にしたこと、だと?)
 貴様は、現場を見ていたのか?
 そこに含まれた内容は一目瞭然で、忽ち羞恥と込み上がる憤りに身を焼かれる。
(どうして、そんなことを言う?)
 どうして、貴様が今ここにいる?
 俺が連絡を取ったのはディアッカだ。なのに、なぜおまえが……!
 言いたいことはたくさんあった。
 しかし、冷静に言葉を繰り出すアスランを見ていると怒鳴り立てたい気分が次第に萎えてくる。
 それだけの、奇妙なまでの迫力と威圧感が、今ここにいるアスラン・ザラには備わっていた。
(ふーん、なるほどね……)
 フラガはにやりと口元を緩めた。
 ――やはりただの工場作業員というだけではなさそうだ。
 賢い少年だ。
 俺に取り引きを持ちかけた。
 全てお見通しというわけか。
 確かに俺も面倒は避けたい。
 お互いに、見なかったことにすれば、いいことだ。
 しかし……。
 あの男は本当に警察に引き渡したのだろうか。
 フラガは疑った。
 眉ひとつ動かさぬ怜悧な瞳の少年を見ていると、とてもその言葉を額面通りに受け取ることはできない。
 かといって、こんな子供に何ができるというのか。
 いや、子供……といっても、例えば十四を過ぎればプラントでは成人と見なされるという。それでいえば、十分彼らは条件を満たしているではないか。
 だから……。
(俺は何を考えている?)
 急にプラント、という言葉に引っかかりを感じた。
 コーディネイターの世界、か。
 彼の好奇心は激しく疼く。
 自分たちの基準では考えられないことが、コーディネイターの世界では成り立つことも、ある。
 イザーク。
 そして……この目の前にいる沈着冷静な少年。
 工場作業着を着てはいるが……恐らくそれだけではあるまい。
 何か、秘密の匂いを感じた。
 しかし、彼は素知らぬ顔で表情を崩した。
「わかったよ。俺も、今見たことは全部忘れる。それで、いいんだろ?」
 フラガはそう言うと、くだけた笑みをイザークに向けた。
「また、会おうぜ。キティ(仔猫ちゃん)」
「なっ、何だそれはっ!誰がっ……!」
 過敏に反応するイザークを尻目に、さっさと二人に背を向けて、歩き出した。
 後を振り返りはしない。
 角を曲がるまで、ずっと緊張感を背に感じる。
 上着のポケットの中に突っ込んだ手が、少し汗ばんだ。
 角を曲がりかけたときに、不意に見慣れた顔が目の前に飛び出した。
「フラガさんっ!」
 泣きそうな情けない声で名前を呼ばれて、一気に緊張の糸が切れた。
「おう、何だ。トノムラかよ」
「トノムラか、じゃありませんよっ!いつまで経っても戻ってこないから、気が気じゃなかったですよ。時間はどんどん過ぎていくし……アークエンジェルから連絡受けたらどうしようかって……!」
「ああ、そう捲し立てるんじゃねーよ。こっちも遊んでたわけじゃなくて、まあいろいろあってな。――それより、よくわかったな。この辺にいるって」
「わかりますよ。少佐がいきそうな場所っていえば」
 トノムラは額に筋を浮き立たせながら、それでもふん、と鼻を鳴らして言ってのけた。
「まあ、朝っぱらからその手の場所にしけこむなんて、普通じゃ考えませんけど、今は時間もないことですし。……あなたの場合、あり得ないことじゃありませんからね」
「って、ひでーなあ。俺ってそういう風にしか見られてないわけ?」
「だったら、そう思われないようにして下さいよっ!軽々しい行動は謹んで下さいっ!……ったく、やっぱ付き合わなきゃ良かった」
 そう言うと、わざとらしくはあーっと溜め息を吐き出す。
「何だよ、自分だって息抜きしたかったんだろ」
「それはまあ、そうなんですけど。……でも少佐ほど自分はお気楽な人間じゃないですから!……とにかく、行きましょう」
 ぷんぷんと怒りながら、歩き出すトノムラの後をのろのろと歩きながら、角を曲がる寸前、ほんの僅かにフラガは首を捻って最後に後ろを一瞥した。
 二人の姿はもうない。
 ――助かった。
 少しほっとした。
 ポケットに突っ込んだ手を緩める。
 汗ばんだ手のひらにずっと接触していた金属板のフレームをそのまま残して手を引き抜いた。携帯式の小さなレーザー銃だ。殺傷能力は低いが、十分身を防ぐだけの効果はある。
 さっき……。
 もしかしたら、撃たれるか、と思った。
 あの、少年の瞳。
(一切口外しないで――)
 そう要請しながら、その目は冷ややかにこちらを射抜くように見つめていた。
 そこに、殺意を感じた。
 無論、単なる気のせいだったのかもしれない。
 職業病、という奴だ。
 常に相手から発せられるその手の無言のメッセージには敏感だった。
 しかし、あれは……。
 戦う者、の目だ。
 フラガは確信した。
 奴ら……。
 ただの少年ではない。
 民間人、ではない。
 では……?
 その先を考えるのは気が重かった。
 まさか。
 可能性は、ある。
 用心して正解だっただろう。
 イザークはともかく、あの少年は、違う。
 彼は秘密を守るためなら、躊躇うことなく引き金を引くだろう。
 彼らは見られたくなかったのだ。
 自分は、彼らと関わりすぎた。
 たとえ自分が何も見ていない、聞いていないといっても無駄だろう。
 あの少年が自分との接触をどう捉えたか。
 まさか自分の身元には気付いてはいないだろうが。
 最初から逃すつもりだったか。それとも、もしかしたら……。
 トノムラが出てきたせいかもしれない。
 いいタイミングだったよな。
 冷や汗を掻きながら、フラガは前を行く何も知らぬ男の背に向かってひそかに感謝の念を送った。
 
 
 
「……アスラン」
 イザークの声にも、アスランは身じろぎもしない。
 その強張った顔は、ただ真っ直ぐに去っていく男の背を睨みつけている。
 本当は、怒鳴り立ててやりたいところだった。
 他人の前で、自分をこけにしたのだ。
 さっきのあれは、何だ。
 自分はまるでいないものであるかのようだった。
 会話は、フラガとアスランの間だけで進んでいた。自分は終始無視されていたのだ。そのくせ、二人の会話の中ではしっかりと自分は存在していた。それが、あれだ。
(アスランの野郎……!)
 怒りは募る一方だったが、その反面、今目の前にいるアスラン・ザラの冷たい横顔を見ていると、なぜか心が萎縮した。
 どう、したんだろう……。
 この、酷薄な冷たい瞳。
 こんなアスランの顔を見るのは初めてだ。
 怒って、いる?
 何に……?
 いや、怒りというより……。
 イザークはぞっと身を竦ませた。
 怒りというより、それは殺意にも近い。
「おいっ、アスランっ!」
 おまえ、まさか……と続ける前に、ようやくアスランはイザークに目を向けた。その体から僅かに殺意が抜けるのを感じて、イザークはなぜかほっとした。
 しかし相手を目を合わせると、忽ちそんな安堵感も消えた。
 氷のような冷えた緑色の瞳に凝視されて、思わず後退る。
「あ……」
 イザークは言葉に詰まった。言いたいことが一瞬にして崩壊してしまったような気分だった。
 認めたくない。
 だが……。
 自分の中に、生じたその僅かな……震えるような感情。
 違う。
 俺は、断じてこんな奴のことなど……。
 こんな奴を、怖れてなど、いない……!
「……あ、いつは……」
 言いかけて、曖昧に言葉を濁す。自分が酷く間の抜けたことを言っているような気がして、口に出した瞬間、言わなければよかったと悔やんだ。
 しかしアスランにはそれが誰のことを指しているかはすぐにわかったようだった。
「勿論、ポリスステーションなんかには突き出してないさ」
 当然ではないかと言わんばかりの口調で、淡々と彼は答えた。
「――奴にはよく言い含めて逃がした。俺たちが勝手に処分するわけにもいかないからな。だが、俺たちはできるだけここには長居しない方がいいだろう。奴は特におまえに対しては酷く執着しているようだから」
「おっ、俺は何もしていないっ!あいつが、勝手に……っ!」
 イザークは咄嗟にそう反駁したが、我ながら子供の言い訳のようだと思い、忽ち言ったことを後悔した。
 アスランはそれには何も答えなかった。
 ただ、じっと深くけぶるようなその緑色の瞳を、相手の目に注いだ。その無言の圧力に、イザークは忽ち居心地の悪さと気まずさを感じ、落ち着かなくなった。
 自分は、悪くない。
 自分は、何もしていない。
 思わず胸の内で自己弁護を繰り返す。
(くそっ、なのに……)
 何でそんな目で俺を見るんだ。
 そんなに、責めるように……。
「な、何だよっ……!第一、何で貴様がこんなところにいるんだっ!俺が呼んだのは、ディアッカだぞっ!」
 正確には『呼んだ』というのは当たっていないかもしれない。
 場所を教えて迎えに来るように、と指示したのはあのムウという男だったし、自分は最後は怒りに任せて通信を切ったのだ。
 それでも、ここにはディアッカが来る筈だった。
 あくまで自分はディアッカが迎えに来るものと思い込んでいた。そうすれば、こんなややこしいことは全てアスランには知られずに済んだかもしれないのに。
 それなのに、最後に携帯に出たのは、アスランだった。
(ディアッカの奴……!)
 仕方のない成り行きだったのかもしれないが、それにしても気の利かない奴だとこの場にいない友を胸の内で罵り、八つ当たりした。
「……俺は、何も――」
「……イザーク」
 アスランは突然、イザークを遮った。
「――――?」
 相手が少し自分の方に体を寄せる。
 何だ、と目を瞬いた瞬間――
 相手の手が上がるのが見えた。
 同時に、顔の左半分に軽い衝撃が襲い、容赦のない平手に、じん、と左頬が痺れた。
「……な……――」
 呆気に取られて、イザークはその場に立ち竦んだ。
(何、だ……)
 何をされたのか、一瞬わけがわからない。
「――行くぞ。時間がない」
 相手は殴った理由も説明せぬまま、突然踵を返した。
 反対方向へ向かってさっさと歩き出す。
 ついてこい、という有無を言わさぬその一方的な強制力が、不本意ながらもイザークの足を前へ進ませる。
 何だ。
 何なんだ。この威圧感は?
 ……抗えぬ頸木にかけられ、引かれていく動物のように、屈辱と憤りに血の滲むほど強く唇を噛みしめながら、イザークはやむなくアスラン・ザラの後に従った。

                                      (to be continued...)


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