呪  焔
 (7)










 前を行くアスランの背中を見ながら、イザークはのろのろと歩を進めた。
 足元が覚束ない。

 それは、まだあのスタンガンで撃たれたときのショックが体に残っているせいもあるが……それだけでは、ない。
(……く、そ……)
 殴られた頬が、まだほんの僅かに熱い。
 奴の手が頬を打ったとき……。
 信じられない、と思った。
 痛みと同時に、屈辱と憤りに頬が焼け落ちそうだった。
 アスランは、何も言わなかった。
 ただ、異様なまでの威圧感に圧されて……。
 何も、言えなかった。
 悔しい。だが、打たれたことをどこかで受け容れている自分がいた。
 大通りへ出る前に、ふとアスランの足が止まった。
 開いていた距離が縮まろうとする前に、イザークも立ち止まった。
「……大丈夫、か」
 アスランが肩越しに振り返る。
 その翡翠の瞳と目が合う。さっきまでの冷たい光は影を潜めていた。
 ほっとすると同時に、どこか落ち着かない気分になった。
 そんな目で見られると、かえって戸惑う。
「……辛いなら、車で戻るか」
 柔らかな口調。
 隊長としての顔ではない。いつも、プライベートで見せる、アスラン・ザラがそこにいた。
「いい」
 イザークはぶっきらぼうにその申し出を拒んだ。
 こんなに短い距離でエアタクシーを使えば、目立つだろう。
 そう言いたかったが、そこまで言う気にもなれなかった。
 今、こうして二人で会話すること自体が鬱陶しく感じられるのだ。
 早く、他の二人がいる場所に戻りたい。
 ディアッカとニコルがいれば、こうまで気まずくもならないだろう。
 大丈夫だと誇示するために、無理をして早足で歩く。
 数歩でアスランのすぐ背後まで近づいた。
 追い抜いていこうとする肩を、緩く止められた。
「何だ」
「――無理しなくて、いい」
 肩を掴まれて、顔を向かい合わせる。
「無理などしていない」
「あいつに、撃たれただろ?」
 アスランは畳みかけるように問いかけた。
「あいつの銃を見たら、ゲージレベルがかなり高く合わせられていた。おまえの体が受けたダメージは大きかった筈だ」
「……だから、何だ……」
 肩を振り払う。
 よろめいて、すぐ傍の壁に背中を押し当て、体を支えた。
「くそ……!」
 ふらつく体に対する苛立ちをぶつけるように、壁を拳で叩いた。
「イザーク……」
 アスランは、困ったようにイザークを見た。
 少し躊躇いの間があく。
「――打ったのは、悪かった」
 その言葉にイザークは目を見開いた。
 自分が耳にしている言葉が信じられない。
 こいつは、何を言おうとしているのか。
 今さら、そんなことを……。
 冷めた筈の怒りが、また神経をかき回す。
「……打つつもりは、なかった。あのとき、俺は――」
「――謝るな!」
 鋭い声がアスランを遮った。
 アスランは驚いて、言葉を止めた。
「……イザーク……?」
「謝らなくて、いい!」
 声に怒りがこもる。
 イザークは目を閉じた。自分自身を落ち着かせるように息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「――おまえの言動は正しかった」
 隊長として、部下の逸脱した行動を制した。
 ただ、それだけだ。
 自分が独断で単独行動を取ったこと。あの男にのこのことついていって、油断した挙句、撃たれたこと。合流時間に間に合わず、余計な面倒をかけてしまったこと。全て……自分のミスだ。
「俺が、悪かったんだ。おまえは、当然のことをしたまでだ。……だから、謝るな」
 苦々しい言葉を吐き出す。
 ――おまえがそんな風に謝れば、この俺が余計惨めになるだろうが!
 本当はそう叫びたい気持ちをぐっと堪えた。
「イザ――」
「これ以上、おまえと話したくはない」
 何か言いたげな相手を、イザークはあっさりと拒んだ。
 ぎりぎりの妥協。
 これ以上は近づくことを許さない。
 それが、イザークの最後まで捨て去れない意地とプライドだった。
 頑なな意志を示す青い瞳が真っ直ぐにアスランを睨み据えた。
「……………」
 苦い沈黙が流れる。
 やがて、アスランは吐息を吐くと、イザークに背を向けた。
「わかった。――行こう」
 歩き出す。
 その背中に刺すような視線を向けながら、イザークは唇を噛んだ。
 アスランが悪いわけではない。
 しかし、自分の置かれた状況がこれほど呪わしく思われたことはなかった。
 動きの鈍い体を引きずるように、イザークは必死で後を追った。
 
 
 
(くそ……っ……)
 歩きながら、アスランは胸の中でひそかに毒づいた。
 イザークと自分との関係は、呪われたように悪くなる一方のような気がする。
 どうして……。
 僅か一時間も経たぬ前の場面を思い出す。
『あいつに、何をした……?』
 路上に倒れていた男を引きずり上げると、冷やかに問い質す。
 傍に落ちていた銃を手に取ると、エネルギーゲージのレベルがかなり減っていた。これを使ったのだな、とすぐにわかった。
『……これを、使ったのか』
 銃を鼻先に突きつけながら追求すると、
『――さあ、な』
 男は血のついた唇を舌でぺろりと舐めた。
 にやりと不敵な笑みを浮かべるその目が露骨なまでに淫猥な光を閃かせる。
『綺麗な顔の割に手こずらされたからな。もう少し味を見たかったんだが――』
 男が言い終わる前に、アスランの拳が男の顔を思いきり打ち据えていた。
 ぐえ、と蛙が潰れたような音を出して地面に倒れた男の腹をさらに数回蹴りつけ、ぐったりした男の襟首を掴んで乱暴に引き起こした。
 顔をすぐ近くまで突き合わせながら、アスランの唇がゆっくりと動いた。
『俺たちを、甘く見ない方がいい』
 低く明瞭に響くその脅しめいた語調に、男は怯えたようにぴくりと瞼を震わせた。
 目の前の少年から発する凄まじいまでの殺意。
 大人でも、こんな目をした者はそうそういない。
『俺たちは、ただのザフト兵じゃない』
 男は喉笛をひゅうひゅうさせながら、頷いた。
『わかったら、二度とこんなことをするな。――次はないぞ』
 そのまま殺してしまいたかったが、自分たちがオーブを出るまで、まだ男を殺してしまうことはできない。
 アスランは、男を逃がした。
 次にその顔を見ることはもうないだろうと心に念じて。
 そしてあのもう一人の男の存在も、アスランを悩ませた。
 イザークを助けたという、あの男。
(……民間人、か?)
 ひと目見ただけで、ただならぬ気配を感じた。
 警戒しながら、慎重に言葉を交わす。
 冗談交じりの軽い物言い。
 それでいて、話しながら男の目が時々恐ろしいほど鋭くこちらに射かけられてくるのを、アスランは決して見逃さなかった。
 あの、男……。
 イザークを助けたことは事実だろうが、その後、奴は何をした?
 まさか……。
 薬を使って本人も気付かぬうちに、何か喋らされたりしてはいないだろうか。
 ふと、不安に駆られる。
 それだけでなく、もっと他にも……。
 背後の足音を意識しながら、アスランは顔を強張らせた。
 ――結局、俺が気にしているのは、そこか。
 苦々しい笑みが零れる。
 だから、何だ。
 今は個人的なことにまで、関わっていられるような状況ではない。
 なのに……。
 あのとき、かっとなり、思わず手を上げてしまったのは……隊長としての自分では、なかった。
 個人的な感情を、抑えられなかった。
 あの一瞬、自分を動かしたのは、イザーク個人への感情だ。
(なぜ、おまえは……)
 なぜ、隙をつくる?
 いつも、そうだ。

 いつだって、おまえは……!
 それが、彼のせいだといえるのか、どうか。
 そう思いながらも、恐ろしいほど感情が昂ぶってしまうのを、止めることができなかった。
(――俺は、悪くない!)
 あのとき、見せたイザークのいかにも子供じみた反抗的な表情が、一瞬アスランの思考から冷静さを奪い去った。
(何で、わからないんだ!)
 聞き分けのない子供を前にして、苛立ちが絶頂に達した親のように……頭の中が沸点を越え、何も考えられなくなった。
 だから、気付いたときには既に……イザークの頬を打っていた。
 そして打った瞬間、酷い後悔と後ろめたさに駆られた。
 今自分が何をしたのか。
 頭の中がパニックになった。
 冷静さを失った自分自身への嫌悪。
 自分は、個人の感情で、打ったのだ。
(何を、された?)
 ほんの僅かな時間。
 何が、あった?
 ほんのくだらない想像が、思いもかけない方向へと暴走しそうになる。
 こんなときにまで、自分が考えていることの低俗さに我ながら呆れた。
(くそ、俺は……っ……!)
 公私混同もいいところだ。
 しかし……。
 それは正直な気持ちでもあった。
 ――そうだ。俺は……。
 今すぐにでも彼の体を捉え、壁に押しつけて……。
 自分のこの手で、確かめたかった。
 何を……?
 誰がその体に触れたのか。
 自分以外の手が、触れたところを……。
 自らの唇を合わせ……口蓋から喉の奥まで、舌でたどる。
 唾液を含ませ、ゆっくりと舐めるように調べるのだ。
 息ができず、苦しげにもがく頭を押さえつけ、いつまでも離さない。それが完全に自分のものであるとわかるまで、何度でも舌を吸い寄せ、執拗なまでの愛撫を続ける。
 猥らな想像が、頭の中を回る。
 アスランは、頭を振った。
(駄目だ。こんなことを考えている場合ではない……!)
 今は……。
 違う。
 そんなことより、考えなければならないことが……。
 大きく息を吐き出す。
 心臓がとくんとくんと不自然な鼓動を繰り返すのを、意識して苦笑した。
 想像だけで、興奮している自分はもうどうしようもない。
 ――金髪の髪。青い瞳の不敵な顔。
 さっき見たあの顔に神経を集中する。
 奴を始末しなかったのは、まずかっただろうか。
 しかし、相手の正体を把握していない以上、奴を殺してしまえば、それだけで全ての手がかりが消えてしまう。もし仮に奴の背後に何か別の存在がいるとすれば……ここでその糸を断ち切るリスクはかなり大きい。
 そんな逡巡の結果、男を殺さずに放置した。
 迷いは、まだ残っている。
 とにかく、早くこの地を出ることだ。
 足つきがここにいる、という確証さえ得られれば……。
 のんびりとしている時間はなかった。
(今は、余計なことを考えている暇はないんだ) 
 アスランは歩きながら、怒ったように行く先を睨みつけた。

                                      (to be continued...)


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