呪  焔
 (8)










「じゃあ、ぼく、ストライクの方へ行きますから」
「はい、じゃあ、また後でね」
 反対方向へ足を向けたキラへ向かって、モルゲンレーテの技術主任・エリカ・シモンズはにっこり微笑み返すと、かしましい女性パイロットたちに囲まれるように歩き去っていった。
 その優雅な後ろ姿を眺めながら、美人だな、とにやりと笑う。
 美人で頭も良い。マリュー・ラミアスとはまた違ったタイプではあるが、勝気で芯の強そうなところはよく似ている。
 しかし、いつまでも見惚れているわけにもいかなかった。
 それよりも、気になることがあった。
 振り向くと、既にその相手はさっさと歩き出していた。
 慌てて後を追いかける。
「おい、キラ!」
 声をかけても相手は振り向きもしない。
 やはり――おかしい。
 さっき……コンピュータに向かっているときも、横から見ていて、おや、と思った。
 機械のように抑揚のない、流れるような言葉の羅列。
 淡々と液晶画面を見つめる瞳からは、驚くほど生彩が感じられなかった。
 そうして浮かれる大人たちの陰で、その唇からひそかに疲れたような吐息が零れたのを、フラガは見逃さなかった。
 一体どうしたのか、と彼は眉を顰めた。
 どうも、様子が変だ。
 僅か数時間見なかっただけなのに……。
 酷く疲れている。
 いや、或いはその前から自分が気付かなかっただけなのか。
「なあ!……って、返事くらいしろよ」
 追いついて横に並ぶ。
「――何ですか」
 愛想のない応えがぽつりと返ってくる。
 フラガは苦笑した。
「きみこそ、その不機嫌面は、何ですか?」
 冗談めいた切り返しに、キラの視線がようやく上がった。
「そんな顔、してません」
「してますって」
 怒ったように軽く睨みつけられて、フラガは肩を竦めた。
「家族との面会も断ったって言うじゃないか。……どうして――?」
 問いかけながら、キラの俯き加減の横顔をちらと窺う。
 答えが返ってこない。
「キラ……」
 促されて仕方なく、キラは口を開いた。
「今会ったって……」
 言いながら、キラはフラガを振り切るように足を速めた。
「――ぼく、軍人ですから」
 フラガの前へ出たキラの背中から、取ってつけたような淡白な言葉が続いた。
 それを聞いたフラガは、一瞬ぎくりとした。
 言葉から感じ取れるその自虐的な感情が、鋭い刃のように胸を突き刺す。
 ――軍、人……?
 その冷たい響きはまるで『人殺し』と言っているのと同義のようにも聞こえた。
「おいおい、何だよ、それ」
 少し声が強くなる。
「ちょっと……おい、キラ!」
 無視する相手の背中を追いかけた。
「おー坊主!スラスターの推力のことだがな……!」
 そのとき、キラに気付いて前方から振り返ったマードックに話の続きを阻まれ、やむなくフラガはいったん口を閉ざした。
 当たり前のように整備の指示をする技術屋に、フラガはなぜか無性に腹立ちを感じた。
「……おい!そんなのは、別の誰かにやらせろ」
 後ろから突然怒ったように横槍を入れたフラガに、マードックは驚いたような顔を見せた。
「少佐?」
 キラも振り返って不審気にフラガを見る。
「おまえら、プロだろうが。何でもこいつを頼るなって!」
 フラガらしからぬ強い物言いに、マードックは剣呑な様子で肩を竦めた。
「だから、それができる奴がいればとっくにやらせてますって。……てか、少佐、何怒ってんですか?」
「………………」
 マードックに大仰な息を吐かれて、フラガははっと我に返った。
 自分がなぜマードックに怒鳴りつけたのかわからない。
 自分らしくない言動だった。
「あ、ああ……すまん。怒ってたわけじゃないんだが……キラもだいぶ疲れてるようだったからな」
「ああ、なるほど――保護者役も大変ですね」
 からかうようなマードックの視線を受けて、フラガは罰が悪そうに目を伏せた。
「疲れてるんなら、休んでからでいいからな!」
 キラに気安く声をかけると、マードックはさっさと別の場所へ移動した。
「……疲れてないから、大丈夫ですよ」
 マードックの背中に向かって断言すると、キラはストライクの中へ乗り込んだ。
「……ぼくのこと、気遣ってもらうことないですから」
 コクピット席の操作画面を見ながらキイを叩く手を休めることもなく、やがて少年はぽつりと口を開いた。
「ぼくは、もう民間人じゃないんです。だから……今はこれに集中させて下さい」
 撥ねつけるような口調に、フラガは表情を僅かに強張らせた。
「――何だよ、それ」
 上から覗き込むと、栗色の頭に厳しい目を向けた。
「おかしいぞ。おまえ」
 フラガは語調を強めた。
「軍人でも、おまえはおまえだろうが!……ご両親、会いたがってるぞ。おまえだって、会いたいんだろう?無理すんなよ!今を逃せば、いつ会えるかわかんねーんだぞ!」
 怒鳴りつけるように声を上げると、不意に相手が顔を上げた。振り仰ぎ、真っ直ぐに見つめてくるその静かな瞳には、深い絶望と諦観の色が宿っていた。フラガは虚を突かれたように、一瞬言葉を失った。
「――こんなことばかりやってます……ぼく」
 自嘲的な笑みを見せると、キラはスクリーンに向き直った。
 キイを叩く音が狭いコクピット内にリズミカルに響く。
「モビルスーツで戦って、その開発やメンテナンス手伝って……ぼくには、それが出来るから」
「キラ……」
 『出来る』という言葉の中に込められた皮肉さに、フラガも苦々しげに口の端を歪めた。
 『出来る』から。
 類稀な能力。
 コーディネイターの優秀さ。
 それが、少年の運命を呪われたものにした。
「オーブを出ればまたザフトと戦いになる……」
 人殺しをしなければ、ならなくなる。
 この能力を人殺しの為に、使わなければならなくなる。
 コーディネイター、だから。
 キラは一瞬手を止めた。
 自分の意志でこんな能力を、望んだわけじゃないのに。
 何で……。
「――おーっと、そうだ。それからなー!……」
 下から誰かが叫んでいる。
 キラは機械的にそれに返事を返していた。
 渦巻く感情とは別に、頭と手は淡々と作業を続けている。
 自分の肉体と精神がばらばらに乖離していくような、奇妙な危機感に襲われる。
(ぼくは、どうなっていくんだろう……)
 泣きたいほど怖いのに。
 もう嫌だ、と叫んで全てを投げ出してしまいたい。
 父さんと母さんに――会いたい。
 もう一度、自分を愛してくれる人の優しい腕の中に、抱かれたい。でも……。
 自分の中に燻るこの負の感情。
 それが、歯止めをかける。
 両親の顔を見れば、安堵すると同時に……きっと、自分は……。
 ぶつけてしまう。
 父さんと母さんに、この殺伐とした暗い思いの全てを。
「――今、会えば言っちゃいそうで、嫌なんですよ」
「……ん?」
「何で、ぼくをコーディネイターにしたの、って」
 或いはもっと酷いことを言ってしまいそうで。
 そんな抑制のきかなくなった自分の姿を想像すると、怖かった。
「……そう、か……」
 フラガはそう言ったきり、何も言おうとはしなかった。
 しかしそこから離れようともしない。
 自分を見守る相手の気配を感じる。
 不思議なことに、それを煩わしいとは、思わなかった。
 それが、少佐の優しさなのだ、とわかるから。
 こんなにぼくは臆病で、弱虫で……。なのに――
 ――口を開けば、誰も寄せつけないような、冷めた言葉しか出てこなくて。
 今、フラガ少佐の優しさに縋れたら、どれだけ楽になるだろう。
 ――どうしてぼくにはそれができないのか?
 ぎゅ、と唇を噛んだ。
「なあ、キラ。……軍人、やめたっていいんだぞ」
 突然投げかけられた言葉に、キラは驚いて顔を上げた。
 真上から覗き込むフラガと目が合う。
 フラガは、真剣な瞳(め)をしていた。
 
 
 
 ――軍人を、やめろ。
 そう、言った。
 言ってしまった後、つまらないことを言ったかな、と思った。
 軍人になったことは、本当に彼の意志だったのか。
 こんな風に彼を追い詰めてしまったのは、自分たちなのに。
(……くそっ……!)
 どうしてこんなに腹が立つのか。
 自分が本当のところ何に対して怒っているのかよくわからない。ただこの相当無理をしている少年の姿を見ていると、やるせなくなる。
 いい大人が、みんなして……こいつの能力を利用しようと群がって……国家や自分たちの都合で動いている。こいつの今置かれている状況や、こいつの気持ちなんかまるで知らん振りで……。
 自分もその一人なのかと思うと情けなくて、恥ずかしくなる。
 誰か一人くらい、こいつ個人のことを考えてやる者がいたっておかしくないだろう。
 保護者、か。
 そう言われるなら、それでもいい。
 彼を放っておけない、と思った。だから、関わろうとする。相手に疎ましがられようとも、構うものか。
 自分と彼らとは違う。
 血に濡れた場所に立つのは職業軍人である自分の役割で、元々ただの学生だった彼らの領域ではない。
 偶然が必然に変わった。ならば、その必然を偶然に戻せばいいだけのことだ。
「こんなこと、やめちまえばいい。おまえには、合ってないよ。……今なら、まだ間に合う」
 フラガはそう言うと、表情を緩めた。
「俺が、何とかしてやる」
 できるかどうか。
 軍の秘密に深く関わった少年たちを、殊に今一番必要とされるストライクガンダムを操れるパイロットを……軍が簡単に手放すかどうかは、疑問だった。
 しかし、このままでは……。
(こいつは、いつか壊れる)
 そうなる前に何とか少年を解放してやりたい、と思った。
 いい加減な気持ちではない。
 戸惑うキラを、穏やかな眼差しで見つめた。
「……フラガさん」

 キラは、目を閉じた。
 フラガの気持ちを噛み締める。
 フラガは決して気まぐれや冗談で言っているわけではない。今の彼の顔を見ればそれは明らかだ。
 彼の気持ちに感謝しながらも、それが無理だとわかっていた。
 もう、自分は引き返せないところまできてしまっている。
(まだ、間に合う……)
 違う。
 もう、手遅れだ。
 自分は既にこの手を血で、汚してしまった……。
 耳をつんざくような爆音と、炎。銃声。
(――キラ……!)
 あの、懐かしい声。
 驚いた顔。
 紫紺色の髪の少年の姿を瞼の裏に思い浮かべる。
(――アスラン……!)
 一緒に来い、と差し伸ばされた手を、拒んだ。
(あの艦には、友だちがいるんだ!)
 友だちを見捨てられなかった。
 友だちを守るために、戻った。
 そして……。
 友だちを、殺さなければならなくなる。
 友だちを殺すために、今、ぼくは……。
 キラの頭の中をぐるぐると暗い絶望の思いが巡った。
 自分に、それができるのだろうか。
 でも、しなければならない。
 そうしなければ……。
 少女の笑顔。
 閃光とともに、消えていった笑顔。
 守れなかった、命。
「……ありがとうございます。少佐……でも――」
 キラはゆっくりと瞳を開いた。
 自分の今いる現実を見る。
 自分は今、ここにいる。
 自分には、しなければならないことがある。
 そう、思った。
「……ぼくは、もう少し頑張らなくちゃならない」
「キラ……?」
 そのとき、それまでずっと静かに肩に止まっていたトリィがひょいと顔を上げた。
「トリィ?」
 機械鳥は小首を傾げると、急に飛び立った。
「あ、こら、トリィ!」
 キラは慌てて立ち上がった。
 急にどうしたのか訳がわからぬまま、ただ飛んで行く機械鳥を目で追った。
「あぁ?どうしたんだ?」
「トリィ!」
 真っ直ぐにどこかを目指して飛んで行く機械鳥に大きな声で呼びかける。
 キラは作業のことも忘れて、トリィを必死で追いかけた。
「おっと!」
 今にもぶつかりそうな勢いで飛び出して来たキラを、フラガはすんでのところでよけた。
 あまりにも必死な少年の姿に半ば呆れて肩を竦めながらも、フラガはゆっくりとした足取りで少年の後を追った。

 
 
 
「――やっぱ軍港より警戒が厳しいな」
 柵に凭れかかって、目の前に広がるモルゲンレーテ社の広大な敷地を眺めながら、ディアッカは小さく肩を竦めた。
「どうやって、中に入る?」
 視界の淵で、銀色の頭がちらと動く。
「……チェックシステムの攪乱は?」
「何重にもなっていて、けっこう時間がかかりそうだ。通れる人間を捕まえた方が早いかも知れないな」
 アスラン・ザラはそう言うと、溜め息を吐いた。
 イザークの目が険しくなる。
「通れる人間?誰だよ、それ」
 イザークより先に、ディアッカが馬鹿にしたように口を挟んだ。
「なーんか、めちゃくちゃ無計画なんだけど。こんなんで、大丈夫なのかねー?」
「……ディアッカ!」
 イザークに睨みつけられて、ディアッカはおやと意外そうに瞬いた。
「何だよ。何で俺が睨まれなきゃなんねーわけ?」
「――いいから、少し黙ってろ」
 イザークは不機嫌そうに顔を背けた。
 へえー、とその横顔をディアッカは呆れたように見つめた。
(何だよ、えらくアスランに従順じゃん)
 らしくねーな、と首を傾げる。
 何が、あったのか。
 数時間前の光景が頭の中をよぎる。
 二人が戻ってきたとき、様子がどこか変だと思った。
 イザークに、生彩がない。
 アスランに対する態度も、どこか遠回しで、いつものような直截さが感じられない。
(何だよ。何か弱みでも握られちまったか?)
 そう思って、ディアッカは苦笑した。
 いや、あのイザークがそんなに簡単に相手に屈したりするものか。
『なあ、何かあった?』
 さりげなく近づくと、耳元に口を寄せ、こっそり聞いてみた。
『どういう意味だ?』
 イザークは鬱陶しげに眉を寄せた。
『いや、何となく……おまえら、変な感じだからさ』
『……………』
 イザークは軽く睨みつけただけで、何も答えなかった。
『なあ……まさか、あいつから何か――』
『うるさい』
 なおも問い続けようとするディアッカを、イザークはぴしゃりと遮った。
『いい加減にしろ。今はそんなくだらんことを、喋っている場合じゃないだろう!』
 それきりイザークとの会話は途絶えた。
 やはり変だ、と思いながらその原因を突き止めることを結局は諦めざるを得なかった。
 確かにそんなことに拘っている場合ではなかったからだ。
 それでもディアッカの胸の中のもやもやした気分は消えなかった。
 何か、隠している。
 自分たちが街中で別れてから過ぎた僅かな時間……。
 何が、あったのか。
 戻ってきた二人はそのことについては何も話さないし、ニコルも彼も敢えて追及もしなかった。
 しかし、気にはなった。
 イザークが何かトラブルに巻き込まれたらしいということがわかったとき、珍しく堪え性がなくなってイザークを突き放してしまった自分の軽率さに対して、ディアッカは苦い思いを抱かずにはいられなかった。
 その後、車を調達してきた男が再び彼らの前に現れたとき、その恐ろしく腫れ上がった顔を見て、ディアッカはぎょっとした。
 ――どうしたのだろう。明け方会ったときには、あんな顔ではなかったが。
 思わず隣りにいたニコルと顔を見合わせた。彼も驚いているようだったが、何も言わなかった。
 イザークは、ずっと男に背を向けたままだった。
 そして――淡々と言葉を交わす男とアスランの間に、微妙な緊張感が感じられたのは、気のせいだったのか。
 そんな光景を思い出しながら……。
(アスランの奴……)
 イザークとちょうど反対側……自分の斜め前に佇む背中に視線を向ける。
 アスランが未だにイザークに執着していることは、わかっている。だから余計気になった。
(まあ、そのうち突き止めてやるさ)
 任務が一段落すれば、問い詰めてやろう。
 そう、思ったとき。
「トリィ」
 不意に頭上から降ってきたその奇妙な音声は、考え込んでいた彼をはっと驚かせた。
 ぎこちない羽ばたき。
「なっ、何だ?」
 見ると、他の三人も驚いて空を仰いでいる。
「あれ……」
 緑色の小さな鳥が、ぱたぱたと舞う。
 しかし、どこか動きが変だ。
「ロボット鳥だ……!」
 感嘆したように声を上げたのは、ニコルだった。
「へえー、ロボット鳥、ねえ……」
 ディアッカが不思議そうに目を瞬かせるうちに、その緑色の小さな鳥は彼らの上空をひらりと一周しながら、やがて目指すものを見つけたように一声鳴くと、羽ばたきを緩め、舞い降りてくる。
 それへ向かって、アスラン・ザラがゆっくりと手を差し出すのが見えた。
(……ん?……)
 後ろからディアッカは不思議そうにその光景をぼんやりと眺めていた。
 まるで最初からアスランだけを目がけて飛んできたかのように、機械鳥は差し伸ばされた手の上に、満足げに止まっている。
「トリィ?」
 きょとんと、小首を傾げて手の持ち主を見つめる仕草は機械とは思えぬほど愛らしく生き生きとしており、本物の鳥かと見紛うほどだ。
「うわあ、凄く精巧にできてますね、それ。――本物みたいだ」
 無邪気に鳥を眺めて微笑むニコルをよそに、アスラン・ザラは蒼白な顔でその場に立ち竦んでいた。
 
 
 
(……どうしたんだ……?)
 イザークは不審気に傍らのアスランを見た。
 ――動揺している。
 機械鳥を見た瞬間、彼の顔色がさっと変化した。
 驚いたように大きく見開かれた目。
「は……――」
 息を飲む声を押し殺そうとするその僅かな音を、イザークの耳は聞き逃さなかった。
(アス、ラン……?)
 イザークは呆然と、彼を見つめた。
 こんなに度を失ったアスラン・ザラを見るのは初めてかもしれない。
 ――何が、これほどまでに奴を……?
 しかし一瞬後――アスラン・ザラは、それでも何とか平静を取り戻したようだった。
 厳しい表情で、その視線が向かう先。
 何が、ある?
「――トリィー!」
 若い男の声に、びくりとする。
 人が、いる。
 フェンスの先……すぐ手前の建物の陰から飛び出した人影に気付いた。
「トリィー!」
 間違いない。機械鳥を呼んでいるのだ。
「あ……」
 そのとき、アスランの喉から奇妙な音が漏れた。
 イザークは訝しんだ。
 ――どうしたんだ……?
 イザークは自問した。
 相手から伝わってくる、この僅かな感情の漣が……。
(この、緊張感は、何だ……)
「ああ、あの人のかな?」
 ニコルの声と同時に、イザークの目が、その視線の先にあるものを捉えた。
 夕陽を背に、ゆっくりと近づいてくる人影。
 それを見ていたアスランが、突然歩き始めた。
「アスラン?……」
 ――どこへ、行く……?
 声が、出なかった。
 一歩、二歩……ついて行きかけた足が、止まる。
 何か……そこには、彼を阻む見えない壁があった。
 彼は、躊躇った。
 その間にアスランは、フェンスのすぐ際まで近づいていた。
 ロボット鳥を手に乗せたまま、立ち止まる。
 その目が見つめる先……人影がだんだんはっきりとわかるようになった。
 栗色の頭が、何かを探しているかのように、せわしなく動いている。
 イザークはアスランの背中越しに、目を細めてその姿を眺めた。
 まだ、若い。オレンジ色の作業服を着た、少年。彼らと同い年くらいだろうか。
「ああー、もう!どこ行っちゃった――……」
 少年の言葉が、ふと途切れた。
 こちらを向く顔に、驚きの表情が広がる。
 その表情は、今しがたアスランが見せたものと全く同じといってよかった。
「あ……」
 驚きに見開かれた瞳は、瞬きすら忘れてしまったかのようにただ一点に止まったままだ。
 彼の目は、背後にいる自分たちなど見てはいなかった。
 彼の視線は、ただ一人……。
 アスラン・ザラにのみ、注がれていた。
 フェンス越しに、二人の少年はすぐ間近に向き合ったまま、しばらく黙って見つめ合っていた。
「……きみ、の?」
 沈黙を破って最初に声をかけたのは、アスランの方だった。
 ぎこちない、声。
 機械鳥を差し出す手。
「あ……――う、ん……」
 少年の目は、機械鳥を見てはいない。
 菫色の瞳が、ようやく瞬いた。
 ぱさぱさ、と羽ばたく音に、はっと我に返る。
 少年の手の上に、緑色の鳥が飛び移った。
 鳥を見る少年の瞳が、和む。
「――あり、がとう……」
 震えるように小さく呟いたその声を、アスランは黙って受け止めた。
 それきり、だった。
 それ以上、言葉は続かない。
 見つめ合う瞳は、なかなか離れようとする気配を見せなかった。
 言葉は、ない。
 しかし、何か……。
 何かが、彼らをその場に引き止める。
 背後から、それを眺めていたイザークの胸に微かな動揺が広がった。
(何、なんだよ……)
 知り合い、なのか。まさか――
 馬鹿な、と頭を振る。
(ここは、オーブだぞ。どうしてこんなところに奴の知り合いが……)
「……おい、行くぞ!」
 不思議な空間を破るように、少し強い語調でイザークは背後から声をかけた。
 その声に、アスランははっと現実に立ち戻ったように、振り返った。
 イザークと、目が合う。
 強い眼差しがぶつかった。
「ああ」
 アスランは軽く目を閉じた。
 全てを吹っ切るように……。
 後を振り向くこともなく、そのまま、歩き出す。
「……あ……!」
 背後の少年が、はっと息を吐き出す音が聞こえた。
「……昔――……!」
 いきなり切り出された言葉に、アスランの足がぴたりと止まる。
「……昔、友達に……!」
 少年の声が強くなる。
 アスランの足は、動かない。
 僅かな、表情の変化。
 それが、イザークを苛立たせた。
「アスラン、何をして――」
 イザークの声が、風に消えた。
「――大事な友達にもらった――」
 少年の声が覆いかぶさる。
「――大事な、ものなんだ……!」
 アスランは、目を開けた。肩越しにゆっくりと振り返る。
「……そう……」
 彼はそう答えただけで、それ以上何も言おうとはしなかった。
 ちらと相手に目を合わせる。
 ほんの束の間の……それが最後の邂逅だった。
 やがて視線を前に戻し、ゆっくりと歩き出すアスランの背中をいつまでも見送る菫色の瞳が、イザークの心に不思議な漣を立てる。
(なぜ、だ……)
 あいつは、何なんだ……?
 ただの、行きずりのナチュラルの少年、ではないのか。
「イザーク」
 呆然と佇むイザークの肩を、今度はすれ違いざまにアスランの手が促す。
 その、とき。
「――おーい、キラーーー!」
 突然、新たな声が耳を打った。
 少年が出てきたのと同じ建物の裏から別の人影が駆けてくるのが見えた。
 背の高い、金髪の……。
 遠目からでも、よくわかる。
 よく通る声は、妙に聞き覚えがあった。
 思いがけない顔を見たことで、イザークの胸は激しく動揺した。
 いや、それだけでは、ない。
 もうひとつ……。
 何だ?
 なぜ、こんなに胸が騒ぐ……?
 最初、すぐにはわからなかった。
 自分が衝撃を受けているその要因が、何なのか。
(……キ……ラ……)
 今、そう呼んでいたのか。
 ――キ、ラ……?
 どこかで、聞いたことのある……。
(……な……――!)
 ――キラ……。
 その名前は、確か……。
 頭の中をぐるぐると回る。
 悪魔のような白い機体。
 かつてのアスランと交わした会話。
 
(――友だち、なんだ……)
(――だから、俺はあいつを殺したく、ない……)
 
 ――まさ、か……。
 今、目の前にいる、こいつが……?
 衝撃に、足が竦んだ。
 だから、すぐに背を向けてしまえばよかったのに、それができなかった。
「あ……っ……」
 忽ち駆けてきた金髪男と、目が合った。
「……あれー?」
 相手は目ざとくこちらを認めたようだった。
 金髪の頭が僅かに傾げられる。
「ちょっと、きみ……!」
 やはり、オレンジの作業服を着ているが、遠目ではあってもその顔や声にははっきりとした覚えがあった。
「フラガさん?」
 不思議そうに問いかける少年の声が聞こえる。
「イザーク!」
 アスランがぼんやりしているイザークの腕を強く引いた。
「行こう」
「……あいつだ……」
 イザークは呟いた。
「どうした?」
「あの、男が……」
 ちら、と視線を背後に走らせたアスランの顔が忽ち険しくなった。
「――イザーク?」
 名前を呼ばれて、どきっとする。
「……まずい、な」
 アスランが舌打ちした。
 強引にイザークの腕を引き、相手に背を向けさせると、耳元で囁いた。
「振り返るなよ。……知らない顔をしていろ。走らずに、ゆっくりと戻ろう」
 言われるまま、よろめく足で何とか車の傍まで戻る
 しかしイザークの頭の中は混乱したままだった。
「おーい、何やってんだ。早く乗れよ」
 既に運転席に乗って車を出そうとしていたディアッカが、戻ってきた二人に声をかける。
「行くぞ」
 アスランは茫然とした顔のイザークに強い視線を向けると、後部座席に乗り込むよう促した。

                                      (to be continued...)


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