欲望(のぞみ) (前編) 




 逃げようとするイザークの体は、あっという間もなく強い力で押し倒された。
 頭が床にぶつかった衝撃で、目の前が一瞬くらくらした。
 首に触れる冷たい床の感触が、彼の意識をすかさず現実に引き戻す。
 すぐ目と鼻の先に、アスランの顔が迫っていた。
 ・・・アッ・・・アス・・・ラ・・・ン・・・ッ・・・!
 叫ぼうとするその声が、全く出てこない。
 アスランのまるで感情の抜けきったような、冷えた翡翠の瞳の色。
 その瞬きもしない矢のような視線に射抜かれた途端に、出ようとする言葉は、舌の上で完全に固まってしまう。
 ただ、ぞくりとする・・・氷のような冷たい恐怖が全身を覆っていく。
 ――は・・・な・・・せ・・・ッ・・・!
 必死で抵抗しようとするが、もがけばもがくほど、なぜか全身から力が抜けていくようで、どうしてもアスランの腕をもぎ離すことができない。
 ・・・な・・・んで・・・?!
 こ・・・んな・・・っ・・・?!
「・・・イザーク・・・じっとして・・・」
 アスランが耳元でそっと囁いた。
「・・・怖くないから・・・」
 そう言いながらも、イザークの体を押さえつける手の力は一向に緩まない。
 アスランでは、ない・・・
 ・・・そう悟った瞬間、それまで相手に対して抱いていた対抗意識やプライド、矜持心といった頑なな感情が一気に抜け落ちていった。
 ただ、未知の恐怖に怯えきった薄青の瞳。
「・・・い・・・やだ・・・」
 ようやく出てきた言葉は情けないほどに弱々しく、哀願めいた響きさえ帯びていた。
 ・・・怖い・・・!
 これから起ころうとしていることが何なのか、彼にははっきりとわかっていたわけではない。
 ただ、それがとてつもなく恐ろしいことであるような嫌な予感に襲われた。
 ――怖くないから――
 その言葉とは裏腹に、アスランのイザークを見つめる表情は、とても人を安心させるような穏やかなものではなかった。
 何か・・・ぞくりとするような、妄執めいたものすら感じさせる・・・その鋭い瞳の奥に燻る微かな焔の影が、イザークをたまらなく不安にさせた。
 ――何が・・・したいんだ・・・おまえは・・・?
 そのイザークの心の呟きが聞こえたかのように、アスランはふと息を吐いた。
「・・・俺は、おまえが欲しい・・・」
 暖かな息が、イザークの鼻先を撫でた。
「・・・おまえのすべてが、欲しい・・・」
 アスランは繰り返した。
 ――俺が、欲しい・・・?
 イザークは瞳を見開いた。
 ――一体これ以上、俺の何が欲しいというんだ、貴様は・・・
 これだけ俺の心を蹂躙して・・・
 俺の人生を狂わせて・・・
 おまえのせいで、俺が今まで大切にしてきたものは、全てめちゃくちゃになってしまった・・・
 ・・・アスランに、いつもトップを奪われて・・・。
 二番の座に甘んじなければならなったアカデミーでの屈辱の日々・・・。
(・・・しっかし、もうどう考えても勝ち目ないんじゃない・・・?)
(・・・婚約者はラクス・クラインだし、父親は国防委員長だし・・・)
 ディアッカのいつかの台詞が脳裏に甦ってくる。
 ・・・どうせ、俺の母は平の評議員で、婚約者はいねーよ!
 口を尖らせて、ディアッカに噛みついた。
 くそっ、くそっ、くそっ・・・!!
 年下のくせに・・・
 いつも澄ましたツラしやがって・・・
 人を馬鹿にして・・・!!
 ・・・何とかこいつを見下ろしてやりたい。
 一度でいいから、こいつの鼻を明かしてやりたい。
 おろおろしたり、悔しがったりするところをゆっくりと眺めてみたい。
 ・・・それだけを念じてきた。
 しかし、実際には、そんな機会は全くといってよいほど巡ってこなかった。
 悔しがったり地団駄踏んでわめき散らしているのは自分の方。
 いつでも、相手は何もかも俺より先にいってしまう。
 どうしても手の届かない・・・年下の同期生。
 こんなに・・・こんなに俺を踏みにじってきておいて・・・
 今さら俺のすべてが欲しい・・・だと?
(ふ・・・)
「――ふ・・・ざける・・・な・・・!」
 イザークは、アスランを睨みつけた。
 ・・・これだけ俺から多くのものを奪っておいて、まだ、おまえは俺から何か欲しいものがあるというのか・・・?!
 俺のすべて・・・だと?
 それは、どういうことなのか・・・
 ――俺の・・・
 ――・・・俺の、体・・・か・・・?
 ぞくりと悪寒がした。
 ――じょ、冗談じゃない・・・!
 その瞬間、怒りとそれを上回る恐怖心とに突き動かされるかのように、イザークは再度全身の力を込めて、のしかかってくる相手の体を押しのけようと試みた。
 よほど必死だったせいか、思いのほか力が出た。
 アスランの手が僅かに緩んだ隙に、その体を一気に振り放す。
 ふたつの体がもつれ合い、しばし彼らは床の上で激しく取っ組み合った。
 筋力ではアスランの方が上回っていたとはいえ、イザークも元々はトップを競い合うほどの力の持ち主だ。
 伊達にザフトの赤を着ているわけではない。
 床を横転しながら、組み合ううち、イザークは何とか相手を突き放すことに成功した。
 よろめきながら立ち上がり、扉の前へ動くと、センサーに触れた。
 ――動かない。
 内側から、既にロックがかかっている。
 オートロックではなく、パーソナルキーで施錠されているのだ。
 帰ってきてから、またアスランが自ら施錠したに違いない。
 普段は人が室内にいる間は、余程のことがない限りロックするなといわれていたはずなのに。
 イザークは扉の前で一瞬硬直した。
 ――アスランの奴・・・!
 では、朝出て行くときも、やはり意図的に扉を施錠していったのだ。
 イザークは凍りつくような思いで、そう悟った。
「・・・無駄だよ。俺のパスワード入れないと、開かないようにしてあるから」
 アスランの氷のような声がすぐ背後から響いた。
 イザークは扉を背に、振り向いた。
 一瞬遅れて床から立ち上がったアスランが、暗い瞳でじっと彼を見据えていた。
「・・・アスラン、貴様・・・っ・・・」
 声が喉元で掠れた。
「・・・悪いけど、まだ帰さないよ。イザーク・・・」
 その言葉はイザークには、まるで悪魔の囁きのように聞こえた。

                                          (to be continued...)


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