欲望(のぞみ) (前編)
――おまえを、帰さない・・・
・・・帰さない・・・って・・・?
その一言は、イザークにとってはまさに衝撃だった。
(何を・・・言っている、アスラン・・・?)
イザークは目の前に迫るアスランに圧されるように、じりじりと後退った。
逃げようとするイザークをとどめるように、アスランは両の手を素早く扉に押し当てた。
イザークの顔がちょうどアスランの両腕の間に挟み込まれる形となり、彼はそこから動けなくなった。
――捉えられた・・・?!
その瞬間、彼は身に迫る危機を本能的に察知し、恐怖に足を竦ませた。
恐ろしいまでの緊張感が彼の全身を強張らせた。
顔をそむけたイザークの首筋にアスランの指がそっと触れた。
びくっと、イザークの肩が微かに震える。
「イザーク・・・」
自分の名を呼ぶアスランの声は、いつもの彼とは思えないほど、妙に甘く艶めいて聞こえた。
そして、そのいつもと違う言葉の響きがイザークの恐怖心をさらに煽った。
(・・・な、何なんだよ・・・)
イザークは軽いパニックに陥る自分を感じた。
(・・・なんで、そんな風に、俺を呼ぶ・・・?)
甘く、切なく、優しげで・・・。
同時にそれは、ひそかなる欲望をも微かに感じさせずにはおかないような、妖しい抑揚をもつけて・・・。
まるで・・・
まるで、愛しい者の名を呼ぶかのように・・・。
男女が臥所で囁くとしたら、こんな風に名を呼び合うのではないかと思わせるような・・・。
こんなのは、普通じゃない。
普通じゃ・・・
イザークは頭を振った。
「・・・い、いい加減・・・に・・・」
イザークはアスランをわざと斜に見た。
自分の意識を何とか正常に保とうとする、それが彼の精一杯の努力だった。
(・・・冗談なら、今すぐやめろ・・・アスラン・・・!)
悲鳴に近い心の中の叫び。
「・・・いい加減に・・・ふざけるのは、やめてくれ・・・」
そう言うイザークの口調は、いつものように力任せに怒鳴りつけるのとは異なり、切実なほどの真剣さを感じさせた。
アスランの指がイザークの首筋を撫で上げ、そのまま顎に手をかけるとそっと持ち上げた。
視線をそらそうとする彼の顔を無理矢理、自分の方へ向けさせる。
アスランの翡翠の瞳がイザークの揺れる薄青の瞳を射た。
(・・・泣きそうな顔をしている・・・)
その表情を見た瞬間、アスランはふと手を放そうかと迷った。
しかし、彼の中でいったん火のついた欲情はもはやとどめようがなかった。
アスランの瞳が昏くけぶる。
獣のような暗い欲望の光がちらちらと閃くその双眸を見た途端に、イザークの膝はがくりと崩折れそうになった。
その両膝の間にアスランの片足がすかさず入り、彼の体を押しとどめた。
「・・・ふざける・・・?」
アスランの声は低いがよく通った。
イザークの胸が震えるくらい、強いその響き・・・。
「・・・まさか、この状況でまだ俺がふざけてるだけだなんて思ってる?」
その口調は、どことなく諧謔的でさえあった。
――やめろ・・・アスラン。
イザークは思わず本当に悲鳴を上げそうになった。
それほど、アスランの瞳には明らかに危険な焔が揺らめき、今にも激しい火の粉を散らして燃え上がらんばかりとなっていたのだ。
――そんな・・・そんな目で、俺を見るな・・・ッ・・・!
イザークがたまらず目を閉じた刹那、アスランの手がぐいっと彼の顔を乱暴に自分の方へ引き寄せた。
たちまち唇を塞がれる。
「・・・ん・・・んんっ・・・!・・・」
アスランの舌先がイザークの口腔内を容赦なく犯していった。
3度目のキス・・・。
しかし、今回のキスはさらに濃厚だった。
首を振り、抵抗しようとするイザークの動きを阻止するかのように、アスランの体がそのまま強くイザークの体を扉に押しつけた。
激しく吸いついてくるアスランの唇。
息ができない。
逃げようとする舌先にアスランの舌が貪るように喰らいついてくる。
まるで噛みつかれそうなくらい、激しい勢いの舌の動きに、イザークは完全に圧倒されていた。
二人の唾液が混じりあい、気持ち悪いと思う間もなく、イザークはそれを次から次へと嚥下していた。
飲みきれなかった分が口の端から溢れ出し、顎の下を伝い落ちていくのがわかる。
イザークはあまりの衝撃に、潤んだ瞳をうっすらと開いた。
霞む視界の中に、ただアスランの端正な顔がクローズアップする。
アスランの生暖かい息が・・・絶えず顔に吹きかかる。
翡翠の瞳を見た瞬間、そのあまりの暗さに恐ろしさが倍増し、イザークは恥じも矜持も忘れて、再びぎゅっと目を瞑った。
アスランにこのような行為をされたのはこれが3度目だったが・・・
今回は・・・
今回は何かが違う。
この、キスの激しさ。
あまりにも、ひどい。
乱暴すぎる。
最初に感じたあの衝撃。
・・・だが、今はそれ以上に熱く、どこかおどろおどろしいものすら感じる。
何よりアスランの表情が・・・いつもと、まるきり違う。
本当に・・・違う。
眸の奥底に、暗い・・・獣じみた光が宿っている。
まるで・・・まるで肉食獣が獲物を追い詰めたときのような・・・欲情に燃え立った・・・緑の深く激しい瞳の色。
別人のように暗く、何かを狂おしく求めているかのように、貪欲な眼差しで自分を真っ直ぐ見据えてくる。
・・・どう・・・したんだ・・・?
アス・・・ラ・・・ン・・・!
氷のような恐怖が、全身を覆う。
弱々しいながらも、抵抗しようと振り上げた両腕はあえなく、アスランの力強い両手に拘束され、扉に押さえつけられた。
こんな・・・
こんなことを・・・何で・・・する・・・?!
アス・・・ラン・・・?!
涙がこぼれそうになるのを最後のプライドで何とかこらえながらも、イザークの胸の中は不安や絶望の感情が荒れ狂い、まさに恐慌状態であった。
こんな風に、唇を奪われるとは・・・まるで・・・
これでは、まるで・・・
『強姦』ではないか。
その言葉がイザークの中の屈辱と恐怖を一層高めた。
そうして――
イザークにとっては、悪夢のように長い時間が過ぎたように感じられた。
イザークの唇がようやく解放されたとき、彼はまだ呼吸も荒く、激しい喘ぎに全身を大きく震わせていた。
「・・・ふざけて、こんなことできると思う?」
そう静かに言い放つアスランの声は笑っていなかった。
イザークは目を開くと、目の前の見知らぬ少年をただ怯えた表情で見返した。
大きな声で罵倒し、殴り倒してやりたい。
――そんな漢的な感情は、そのときのイザークからはすっかり抜け落ちていた。
「・・・何が・・・したいんだ・・・貴様は・・・っ・・・?」
彼の声は弱々しく、掠れていた。
普段のイザークを知る人間なら、まるきり別人だと思ったことだろう。
その潤んだ瞳・・・怯えながらも、その透けるような薄い碧はアスランの目には、ひときわ美しく魅惑的に映った。
彼は思わずぞくりと体が震えるのを感じた。
美しすぎる・・・のだ。
ただ見つめるだけで、こんなにも胸が震えてしまうほどに・・・。
なぜ・・・
なぜ、こんなにも、こいつは俺を誘うのか。
――こいつの全てを手に入れたい・・・。
今まで抑えてきた思いが一気に噴出してくるかのようだった。
追い詰めた獲物。
鳥籠から逃げた白い小鳥の震える羽のイメージが、脳裏を掠める。
「・・・俺はふざけてなんかいないよ。イザーク」
いつだって・・・俺はおまえだけを見ていた。
おまえが俺のこと、嫌っているとわかっていても。
おまえの瞳の中に俺への憎しみの光が宿っているのが見えていても・・・。
それでも・・・俺はおまえが好きだった。
いつだって・・・。
今でも・・・変わらない。
おまえへの思い・・・。
たとえ、これが俺のエゴでしかないとしても・・・俺はもう、自分の気持ちを抑えることができないんだ。
そう・・・たとえその結果、おまえを傷つけることになったとしても・・・。
アスランの胸に、一瞬自嘲の思いがよぎった。
きっと・・・
これから俺がおまえにすることは、おまえにとっては許されないことになるんだろう・・・。
このことで、おまえが俺をさらに恨むことになったとしても・・・。
いいさ。
俺は、構わない。
これが、俺の愛し方・・・。
俺の望むこと・・・。
今は・・・俺には、こんなことしかできない。
おまえを、傷つけ――おまえの瞳からこぼれ落ちる真珠のようなその滴を舐めては、一時の愉悦に浸る。
そうやって――恐らく自分自身の中にも、癒しようのない黒い傷跡を残し・・・。
ごめん、イザーク・・・。
俺は、たぶん、今、普通じゃない。
でも、そうさせたのは、おまえだ・・・。
おまえが、俺をこんな風にしてしまった――
「・・・このまま、ここで続けようか・・・?それとも・・・ベッドの上が、いい?」
耳元で静かに囁くアスランに、イザークから返る言葉はなかった。
彼はただ震えながら、睫毛を伏せる。
少女のような、その仕草。
肯定とも否定ともとれないその動作に、アスランの胸に突然、どうしようもないほどにいとおしく・・・そして切ない感情が潮のように押し寄せた。
彼はその華奢な体を引き寄せ、抱き締めた。
強く、強く・・・。
全身を滾る欲望(のぞみ)の罠に捉われたまま・・・。
腕の中から泡のように消えてしまうのではないかと恐れているかのように、必死に、ただ強くその体をかき抱き続けた・・・。
(Fin)
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