抱 擁




 ・・・微かに残る意識の中で、彼は自分を犯した相手が背を向け、去っていくその冷酷な姿を視野の片隅に捉えていた。

 
(・・・いつか・・・)
 イザークは唇を噛んだ。
 再び、切れた箇所から血が滲み始めた。
(・・・いつか、貴様を・・・殺して・・・やる・・・ッ・・・!)
 そう胸の中で吐き出しながらも、その一方で潤んだ瞳からは涙が零れ落ちて止まらない。
 ・・・惨め・・・だった。
 イザークは、血と涙と汗にまみれた顔を床に伏せた。
 起ち上がろうとする気力もない。
 全身から気力が萎えてしまっていた。
 凄まじい拷問を受けた後の虜囚が味わうような深い絶望感と悲壮感が彼の心を完全に制圧しきっていた。
 肉体的な痛み以上に、切り裂かれてぼろぼろになった心がひっきりなしに悲鳴を上げていた。
 それでも・・・いつまでもこんな状態のまま、ここに残っているわけにもいかない。
 早く起き上がってここを出て行かねば・・・。
 今この瞬間にも、こんな姿を誰かに見られたら・・・。
 ・・・そう思うとぞっとした。
 しかし、そうは言っても・・・どうすればいい?
 イザークは困惑した。
 ・・・部屋へは帰れない。
 帰りたくなかった。
 ディアッカに詰問されるのは目に見えている。
 彼が何も答えずとも、すぐに何が起こったのか理解するだろう。
 そして・・・彼はどんな反応を示すだろうか・・・?
 その情景を想像すると、イザークはかっと頬が火照った。
 俺が・・・こんな風に・・・一方的な暴行を受けて・・・女のように、なすすべもなく・・・
 つまり――
 アスランに『レイプ』された、などと・・・!
 イザークはそう思うと、恥辱で眩暈がしそうになった。
 こんなことを・・・ディアッカに知られたくない。
 イザークは思わず呻いた。
 ディアッカ・・・悪い奴じゃない。
 皮肉屋で周囲をやや斜に構えて見ている節はあるが、人は好い。
 
友人としては長い付き合いだし、自分のことはそれなりによくわかってくれている。
 だからこそ自分の我儘にも辛抱強く付き合ってくれているのだし、特に最近・・・あのアスランとの一件以来彼なりに気を遣ってくれているのもわかる。
 そう・・・彼は自分とアスランの関係には薄々気が付いているのだろうが、敢えて知らない振りをしているのだ。
 それは口に出さずとも、同じ部屋で共に過ごしていて、肌で感じることだった。
 彼を見つめる瞳が心配気な色を浮かべたり、泣きたいくらい優しい声音が彼を包み込もうとすることが幾度となくあった。
 そんなとき、イザークの不安定な心は一挙に揺らいでしまうのだ。
(やめろよ・・・俺を何だと思っている・・・?!)
 ディアッカの気持ちはわかってはいても、彼の僅かに残った矜持心がそれを受け入れることを強く拒んでしまう。
 ・・・そんな目で、俺を見るな・・・!
 そんな・・・
 いかにも哀れみのこもった・・・同情めいた目で、見られたくない。
 余計、自分が惨めになる。
 そんな風に、時に腹立たしい気持ちが湧き上がってどうしようもないくらい心をかき乱されてしまうこともあった。
 同情なんか、されたくない・・・。
 だから自ずと会話を交わす声も刺々しくなった。
 しかしその反面、ディアッカのやんわりと見つめる紫色の瞳を見ているうちに、いっそ全てをぶちまけてすがりつきたい・・・不意にそんな衝動に駆られることがあったのも、また事実だ。
 
それでも敢えてその行動に出ることがなかったのは、イザークの最後に残った自尊心がどうしてもそれを許さなかったからだ。
 ・・・ダメだ・・・。
 今、部屋へは帰れない・・・!

 それでも、このまま横になっていても仕方がない。
 痛む体を無理に動かして、イザークはゆっくりと起き上がった。
 下半身に走る鈍い痛みが先程の地獄のようなひとときをいやでも彼の頭の中に再現させてしまう。
 彼は敢えて頭を振ると、その記憶を一時的にでも、とにかく自分の中から追い払おうとした。
 傍に投げ捨てられたままになっている制服の上着に手を伸ばし、自分の方へ引き寄せる。
 そのとき、突然・・・
 鈍い金属音を伴って、扉が開いた。
 イザークの全身がそれにびくんと反応した。
 ハッと顔を向けた途端、廊下の常夜灯から差し込む光が彼の目を貫いた。
 人が覗き込む気配。
「・・・誰かいるのか・・・?」
 声が凶器のように彼の胸を射た。
 イザークは文字通り、その場に凍りついた。
 しかし、どうしようもなかった。
 ただ、時が過ぎるのを待つしかない。
 音を立てて、再び扉が閉まる音がした。
 人影が照明装置に手を伸ばしかけたとき、
「・・・灯を――つけるな!!」
 イザークの鋭い声が相手の動きを瞬時に止めた。
「・・・イザーク・・・?」
 その驚いたような声が、イザークの心を覆った緊張感を一瞬緩めた。
 聞き覚えのあるその声・・・。
 特に今聞いた瞬間、なぜか涙が出そうなくらいほっと心が和んだ。
(・・・ミゲル・・・アイマン・・・?)
 イザークは近づいてくる人影が薄闇の中で次第にはっきりとした輪郭をとり、その姿かたちがはっきりとわかるようになるまで、ただ呆然とした表情で相手が向かってくる方向をじっと見つめていた。
「・・・イザーク・・・おまえ、何してんだ?こんなとこで・・・」
 ミゲルは言いながら、顔を寄せてよく相手の顔を見た途端にはたと口を噤んだ。
 暗闇の中でも、その瞬間彼の顔色がさっと変わったのがわかった。
「・・・おまえ・・・」
 ミゲルはそこで一瞬躊躇した。
 相手の顔を、次いで全身のそのひどい様子を目に入れて・・・彼は何と言ってよいかわからなかった。
「・・・おまえ・・・どうしたんだ・・・その・・・顔・・・」
 痣だらけのその腫れ上がった顔。
 
未だに血の滲む切れた唇。
 
一目でひどい暴行を受けたことがわかる。
(・・・こりゃ、ひでえな・・・)
 ミゲルは不快そうに顔をしかめた。
 下半身に目を落とすと、さらに血と汗と白濁した体液にまみれたそのひどい有様に、何が起こったのかミゲルは忽ち理解した。
 彼は思わず目を閉じた。
 暗闇の中でさえ、直視しがたい無惨な暴行の跡。
 口元から自然と大きな溜め息が漏れた。
 彼の頭の中で、今日のレストルームでの例の光景が忽ち鮮やかに甦ってきた。
 誰が彼にこんなことを行ったのかは、明らかだった。
(・・・アスランに、やられた・・・か)
 そう思った瞬間、なぜかとめどない激しい憤りが彼の中で沸々と湧き上がってくるかのようだった。
 アスランの奴・・・!
 これは、いくら何でもやりすぎだ。
(・・・なんで・・・こんなこと・・・!)
 嫉妬に駆られた彼の激情を引き起こす原因となったのが、そもそも自分自身であるということにも全く気付かぬまま、ミゲルはただ怒りを募らせるばかりだった。
「・・・大丈夫か?」
 彼はイザークに手を伸ばした。
 触れた体が微かに震えているのがわかった。
「・・・いいから・・・放っといてくれ・・・」
 そう言いながらも、イザークには、ミゲルの手から伝わるそのほんの僅かなぬくもりが・・・なぜかとても心地よかった。
 
・・・その感触は・・・懐かしいほどによく自分が知っている感覚で・・・今、本当に彼の欲しかったものかもしれなかった。
 言葉とは裏腹に、見上げたその瞳がすがるようにミゲルを凝視した。
 目が合った瞬間、ミゲルは不思議な高揚する感情の波にとらわれた。
 そして・・・
 衝動に突き動かされるかのように、彼は無意識のうちにイザークを抱き締めている自分に気付いた。
(・・・何してる・・・俺・・・?・・・)
 ミゲルは半分戸惑いながらも、自分の行動を止めることができなかった。
 理性が・・・働かなくなっているのか?
(・・・やべえぜ・・・これって・・・)
 この腕に触れる肌の柔らかな感触・・・
 
何だか、野郎を抱いてるって気がしねえ。
(畜生・・・これ以上、ヘンな気にさせんなよ・・・!)
 そう思って腕の中を覗き込むと、イザークは抵抗するでもなく、黙って身を委ねている。
「・・・おまえなー、ちっとは抵抗しろよ・・・」
 ミゲルは苦笑した。
「・・・抵抗するのに、疲れた・・・」
 イザークはむすっと答えた。
 ミゲルはそんなイザークの顎に手をかけると、自ら顔をぐっと近づけた。
「・・・それにしてもほんと、ひどい顔だなあ・・・おまえ」
「――うるさい!」
 こうなったのは、俺のせいじゃない・・・。
 イザークの顔がそう語っていた。
 薄氷の瞳が心なしか潤んでいる。
 それがまた闇の中で妙に映えて、妖しいほどに美しく見えた。
(・・・はあー・・・こりゃあ・・・まあほんとに・・・誘ってるとしか言いようがないなあ。アスランの奴がトチ狂っちまうのも、しゃーねーか・・・)
 胸の鼓動が急速に速まり・・・危機感を覚えるほどに、この腕の中の不思議な生き物に魅入られ始めている自分自身がいることをもはや認めざるを得なかった。
「いいのか。・・・そういうこと言ってるとさあ・・・今度は俺に襲われちまうかもしれないぜ」
 間近で目を合わせながら、ミゲルは冗談とも本気ともとれぬ口調でそう言った。
 イザークは一瞬怯えたように瞳を震わせたが、やがて目を閉じると軽く息を吐いた。
「・・・好きにしろ」
 ミゲルはふっと目を細めた。
 その瞬間、相手の痛みが直に伝わってきたような気がした。
 切なさが胸に沁み・・・
 同時に・・・愛しさが満ちた。
 イザークに対してこんな感情を持つなど、考えもしないことだったが・・・。
 しかし、そのときのミゲルには相手の性は問題ではなかった。
 相手を抱いた確かな感触、そこから伝わってきた感情・・・それを受け入れる自分自身の存在・・・。
 
眩暈のしそうな、熱い感覚だった。
 
女と一緒にいるときにすら、こんな気持ちになったことがあったかどうか・・・。
 不意に衝動に駆られ、彼は唇をそっと相手の頬に落とした。
「・・・見ろ。とうとう、俺まで変態になっちまった・・・」
 耳元でそっと囁く。
 ベッドで女の耳元に囁くときと同じ、相手をとろめかせてしまうようなその甘い声で・・・。
「俺のせいじゃ・・・ない・・・」
 そう答えるイザークの声にも、相手につられたかのように、何とはなしに妙な艶かしさが満ちていた。
 互いの吐き出す息が驚くほど熱かった。
「・・・これきりだぞ・・・」
(・・・これが、最初で最後・・・)

 ミゲルがまるで自分自身に言い聞かせるかのように言うと、
「・・・あたり・・・まえだ・・・!」
 イザークも口を尖らせて言い返した。
 ――こんなこと、何度もあってたまるか・・・!
 しかし、唇が合わさった瞬間、その甘い接吻に彼はたちまち我を忘れてその欲情の波の中に自らの意識を沈めた。
 ・・・こんなに暖かい抱擁、そして・・・
 
・・・こんなに優しいキスがあることを・・・
 ――彼はそのとき初めて知ったような気がした。

                                              (Fin)


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