残 光 (12) ――ぽとり。 雫が頬を濡らす。 イザークはゆっくりと瞳を開いた。 生暖かい湿った空気が狭い個室いっぱいに充満し、目の前の視界をぼんやりと霞ませる。 しばらくは四肢の感覚も戻ってこず、最初はすぐ目の下に見えるその汗と体液に汚れた体がとても自分のものであるとは思えなかった。それはまるで生命の通わない、ただの無機質な物体のようにさえ見えた。 それがさっきまでさんざん犯され続けていた己の肉体に他ならぬことに気付いたとき、彼は愕然と我に返った。 忌まわしいひとときの記憶が、脳内を満たし始めた途端に、全身が冷たく慄いた。 両手の戒めは解けているのに、動かそうとした手は鉛のように重かった。見ると、締めつけられていた両手首は痛々しく赤い痣を残していた。 行為の間中、声を出さぬようにと布を詰め込まれていたせいで、口の中がざらつく。 ぺっと唾を吐き出すと、微かに朱が混じっていた。手の甲で唇を拭うと、切れた唇の端がひりひりと痛んだ。 我ながら惨めな姿だった。 女のように一方的に足を開かされ、抵抗する隙も与えられぬまま、気の遠くなるほど何度もそこを貫かれ、揺すぶられた。 男の精力で昂ぶるその大きな肉棒を慣らすこともなくいきなり狭い空間に突き入れられるショックと痛みは想像を絶するものだった。 前夜の性交である程度はほぐれていた入り口も、その無理な挿入にはさすがに悲鳴を上げた。 傷つけられた内壁が激しく痛む。精液に混じる血がじわじわと白い太腿を汚していった。 うう、ううと塞がれた喉の奥で苦しげに呻きながら、目に涙を滲ませる少年の顔を眺めては男は喜び、そのサディスティックな快感がさらに男の欲情を高めていくかのようだった。彼はますます激しく手の中の獲物を攻め立てた。 失神しかけるたびに顔に叩きつけられる冷水に、意識さえ手放すことを許されなかった。 一方的に突き込まれ、一方的に中で吐き出される。 相手が快感を得るためだけに行われた、暴力的なセックスだった。 ――これは、罰なのか…… そんな風に思ったとき、突然体の力が抜けていった。 ――これは、罰なのだ…… 目を閉じた。 頬を伝い落ちていく涙は、肉体の苦痛によるものだけではなかった。 実際に経過した時間がどれくらいだったのか、わからない。 時間感覚などとうになくなっていた。 名残惜しそうに体を離す男の下卑た顔が遠くなっていくのが最後の記憶だった。 そのときにはもはや相手を睨みつけるだけの気力すら残ってはいなかった。 解放されたとわかった瞬間、気が遠くなり、そのまま意識がなくなった。 ――そして気が付いたとき、相手は既にいなくなって、一人このシャワー室の中に残されていた。 出て行く際に蛮行の痕跡を消そうとしたものか、床は綺麗に水で洗い流されていた。 飛散した精液も血も残ってはいない。 ただ、自分の下半身にこびりつくそのねっとりとした汚れとずきずきと体を苛む痛みが、あの行為が現実のものだったのだということを認識させた。 関節が軋むような痛みに耐えて立ち上がろうとすると、今度は忽ち下半身が強烈に痛み、足元がふらついた。股間が痙攣するようにひくつく。 体を伸ばして立つことができず、再び膝をつくと、唇を噛みしめた。 たまらなく惨めで泣きたい気分だった。 しかしいつまでもここにいるわけにはいかない。そのうち人が入ってくるだろう。それまでにここから出なければ。 よろよろと壁に手をついて、もう一度ゆっくりと立ち上がる。 出る前に、体を洗い流さなければならない。 シャワーの栓に手をかけた。 そのとき、不意に人の入ってくる足音が聞こえてどきりとした。 「……イザーク!」 聞き覚えのある声に、ほっとするよりもひやりとする。 シャワー栓に触れかけた指が慌てて栓を捻った。 途端にざあーっと勢いよく水が上から降ってきた。冷たさに声を上げそうになった。見ると調節温度が冷水のゲージになったままだった。 舌打ちしながら、何とか湯のレベルに合わせる。 足音が近づいてきて、彼が入っている個室の前で止まった。 「イザーク……いるのか?」 遠慮がちな声が、呼びかける。 ディアッカだった。 彼は軽く息を吸い込んだ。 ずっと声を出していなかった。 声がすっと出るかどうか不安に駆られながら、何度も唾を飲み込んだ。 「……何だ」 波立つ胸を抑えながら、ようやく普通に声が出たとき、ほっとした。多少掠れていてもシャワー音でごまかせるだろう。 「やっぱ、イザークか」 声が近くなる。 「……ったく、いつまでシャワー浴びてんだよ」 仕切りのカーテンが開きかけるのに気付いて、イザークはどきりとした。 「――入ってくるな!」 鋭く叫ぶ声に圧されて、相手の動きが止まるのがわかった。 怒鳴った後、イザークは少し咳き込んだ。必死で声を絞り出した喉が痛む。 「何だよ。そんなでかい声出して――」 「……いっ、いいから、入ってくるなっ!」 ひととき、沈黙が下りる。相手の戸惑いが伝わってくるようだった。 「――どうか、したのか」 声が、優しく問いかける。 縋りたくなるような、柔らかな口調。 しかし、今はディアッカには何も知られたくはなかった。 「……何でも……ない」 イザークは小さく答えた。 「……あのさ。俺はただ、おまえがいつまでも帰ってこないから、どうしたのかと思っただけなんだけど……」 「……何でもないって言ってるだろうっ!」 繰り返す声が荒立った。不自然な声の掠れ方を変に思われなかっただろうか、と少し落ち着かなくなる。 立っているのが辛くなり、壁に片手をついて体を支えた。 (くそっ……!) 早く行ってくれないと、また膝が折れてしまいそうだった。 「………………」 「……向こう、行けよ。おまえもシャワー浴びにきたんだろう」 「あっ、ああ……」 「俺も、もう出るから……」 こころもち声を強める。 「……そう、か。なら、いいけど……」 躊躇いがちに答えながら、ようやく相手が離れていくのがわかり、イザークは小さく安堵の息を吐いた。 起床時間が過ぎ、そろそろシャワー室にも人が入ってくる。 人の入ってくる音。話し声が、聞こえてくる。 痛みを堪えながら、傷ついた下半身を何とか洗い流し、隣りのブースでシャワーを終えたディアッカと顔を合わせる前に、イザークは服を着て廊下へ出た。 半袖シャツと半ズボンから露出した白いすらりとした手足が目立つのか、すれ違う男たちが皆、露骨なまでに好奇に満ちた視線を向けてくる。その眼差し一つ一つが自分の体に直接触れてくるようで、ぞくりと悪寒が走った。 そんな風に怯えている自分に腹立たしくなり、彼は唇を噛んだ。 (何を怖れている……) 心の不安を拭い去るように、彼はわざと肩をそびやかし、前を睨みつけるようにして歩いた。そうすると下半身が痛くて、自然と歩調がのろくなる。 部屋までの道のりが恐ろしく長く感じられた。 「イザーク」 ――その途中で、脇から不意に声をかけられた。 一心に前ばかり見つめていた彼は横から出てきた男の姿に全く気付かなかった。 「イザーク!」 腕を掴まれて足が止まり、イザークはびくっと振り返った。 「――どうかしたのか?」 そこに、ダコスタがいた。 彼の部屋を出てからまだそんなに間がない筈なのに、妙に懐かしい顔に思えた。 「顔色が、良くない」 ダコスタはそう言いながら、イザークの顔を覗き込むように目を近づけた。 イザークは相手の視線から逃げるように顔をそむけた。 つい今朝方まで、この腕の中に抱かれていた。 優しい愛撫に、いつしか安心しきって身を委ねていた。 それが……。 ほんの僅かな間に、自分の体が酷く汚れてしまった気がして、ぞっとした。 そう感じた瞬間、思わず掴まれた腕を強く振り払っていた。 「……放せよ!」 ダコスタが驚いたように目を瞬くのが視界の端にちらと映る。 だが、やはり目を合わせることはできなかった。 「……何でもない」 シャワー室でディアッカに言ったのと同じ言葉を吐き捨てる。 しかしダコスタはそれで納得した様子には見えなかった。 「……今にも倒れそうなくらい、青い顔だぞ」 少年の顔を一瞥すると、彼は眉をひそめた。 「その唇――」 伸ばした指先が、血の滲む唇の端に触れる。 「やめろって」 イザークは鬱陶しげにそれを手で払いのけようとした。 それをさらに相手の手が掴み、引き寄せる。 ダコスタは手首の赤い痣を検分するように見た。 「何だ、これは……?」 みるみる不審気な表情が浮かぶ。 今朝はこんなものは、なかった。 僅かな間に何が……? ダコスタは詰問するようにイザークに厳しい目を向けた。 そのとき、前から不意に笑い声が聞こえた。 何人かの士官が歩いてくる。 目を上げた途端に、イザークの顔色がさらに色を失くし、全身がみるみる緊張で強張るのがわかった。 ダコスタは不審気に彼の視線の先を追った。 士官たちの一人。ひときわ体躯の大きな男。 その顔に彼は覚えがあった。 確か先日イザークが揉め事を起こして怪我をさせた相手ではなかったろうか。 士官たちはダコスタの姿を先に見て一瞬立ち止まり挙手の礼を取ったが、すぐにまた歩き出した。 「よう、まだいたのか」 通りすがりに例の男が低い声で囁くように声をかけていくのが、ダコスタにも微かに聞き取れた。 「……いつまでもそんな格好じゃ、また誰かに狙われるぜ」 シャワー室で自分を犯した男が、笑いながら再び舐めるような視線を送ってくる。 全身に虫唾が走る。レイプされたときの恐怖感が甦り、立っていられぬほど足が震え出すのを何とか耐えた。 「じゃあな、可愛い子ちゃん」 下卑た口調でふざけたようにそう言うと、軽く肩を撫でて去っていく男に、何もできずただ震えているだけの自分が惨めだった。 「……何が、あった」 ダコスタが鋭い口調で問い質す。 「何も」 「嘘を吐け!」 「……………!」 イザークはダコスタを見た。 泣きそうな顔だった。 「……あんたに、言う必要はない」 ぼそりと呟くイザークの顔がいかにも弱々しく儚げに見えて、ダコスタは不安になった。 (こいつは、何でこんな顔をする……?) まるで、今にも消えてしまいそうなぐらい……。 こんなに脆い奴だったか。 消えてしまいそうな体を引き寄せて抱き締めたい衝動に駆られた。 そっと手を伸ばすと、相手はその動きを恐れるように震えながら後退った。 「イザーク――」 「……俺に触るな!」 鋭い拒絶の言葉がダコスタの胸を射抜く。 イザークの目が悲痛な色を湛えて見つめていた。 「……んで……こんな……」 震える唇が紡ぎ出す不明瞭な音が次第にはっきりとした言葉となっていく。 「……何で……こんなところに、いるんだろうな……」 本当は…… そうだ。 俺は……死んでいた筈なのに。 コクピットを割られて、傷を受けたあのときに。 ストライクに殺られた『あいつ』と同じように。 俺も、死んでいたら、良かったのかもしれない。 もしくは、大気圏を抜けるときに、あのまま……。 業火に焼かれて、灰になってしまえば良かったのに……。 それなのに、なぜ。 なぜ、なぜ、なぜ……? 俺は今まだ生きてここにいる。 俺の生きる意味は、何だ。 「……何で、俺はここにいる……」 泣きたいほど胸が痛む。 それでも、涙は出なかった。 不思議なほど、出なかった。 ただ、乾いた目がひりひりと痛むだけで。 その痛みだけで……。 「イザーク、おまえ、何言って――」 戸惑いながらダコスタがそう言いかけたとき、イザークは突然駆け出していた。 ダコスタの脇をすり抜け、その姿がみるみる遠ざかる。 「おい、待てよ!」 不意をつかれたまま唖然とそれを見送っていたダコスタは、すぐに我に返ると、慌ててその後を追った。 何がどうなっているのか。 わからない。 ただ……追わなければならない。 そう思うと、ダコスタは必死で後を追った。 イザークは、走っている自分が信じられなかった。 少し体を動かすだけであんなに痛かった体が……。 今は何も感じない。 ただ自然に足が動く。 ここから逃げ出したい一心で。 逃げ出す……? どこへ……。 そんな疑問はすぐに頭から追い払う。 どこでも、いい。 ただ、今、この場所から……。 自分を苛むこの苦しみから……。 ハッチを開け、艦から外へ飛び出す。 忽ち乾いた砂風が顔に吹きつけた。 風に混じる細かな砂粒を顔に感じながら、砂の中に足を埋めながら歩く。 履いていたサンダルが邪魔になり、途中で脱ぎ捨てた。 素足で砂を踏むたびに、砂の中に体を吸い込まれていくのではないかという錯覚にとらわれた。 (ここは、どこだ……) どこへ行けば、いい? 焼けるような胸が苦しい。 いっそこのまま…… この砂の中に全てを埋めてしまえればいいのに。 砂の中に飲み込まれていく自分の姿を夢想した。 「……ク!……イザーク……っ!」 風の吹く音に混じって、微かに自分の名を呼ぶ声が聞こえる。 「……どこへ行く!……止まれっ!……」 ダコスタの声だ。 ちっと舌打ちをした。 しつこい奴だ。 どうして、放っておいてくれないのか。 彼は駆ける足を速めようとした。 と、その瞬間、忘れていたあの痛みが戻ってきた。 麻痺していた体に感覚が一気に戻ってきた途端に全身が悲鳴を上げた。 がくっと膝が折れる。 足がもつれた。 (あ……) ゆらりと目の前が傾いだかと思うと、一瞬後には彼の体は砂の中に転がっていた。 「イザーク……っ……!」 体が持ち上げられる。 腕の中で、闇雲にもがいた。 「暴れるな、こらっ!」 抱く腕が強く体を締めつけてきた。 相手の胸の鼓動が伝わる。 不意に、全身から力が抜けた。 「……ったく。おまえ、無茶苦茶だな……」 呆れたような声が呟く。 「どうしたんだよ」 囁く声は、優しかった。 「……………」 イザークは相手の胸に顔を埋めたまま、何も答えようとはしなかった。 そんな彼を眺めて、ダコスタは軽く溜め息を吐いた。 砂にまみれた体を軽くはたいてやると、抱いた体をゆっくりと持ち上げ、立たせようとした。 しかし相手の体は地面に足がつくかつかないうちに、既にくにゃりと力なく手折れてしまう。 「歩けない……」 目を伏せたまま、むっつりと呟く相手の声を聞き取って、ダコスタは苦笑した。 「仕方ないな。じゃあ、抱いてってやる」 「あっ……いっ、嫌だ!」 体を再び持ち上げようとするダコスタに、イザークは微かに抵抗を示す。 士官たちが行き交う艦内の廊下を、横抱きにされて通っていくところを想像しただけで恥ずかしさに顔から火が出そうになる。 「肩を貸してくれれば、それで……」 「我儘言うなよ。俺もいろいろ忙しいんだ。そんな時間のかかることやってられるか。ほら、しっかりつかまってろ」 そう言うと、無理矢理嫌がるイザークを抱き上げた。 女を抱くのとは違って、さすがに重い。 ずしりと腕にくる重みに顔をしかめながら、それでもダコスタはさっさと歩き出した。 (to be continued...) |