残 光 (14)










 頭の中が燃えるように熱かった。
 何も考えられない。考えたくない。
 自分の中で沸騰するその思いを抑えきれなくて、どうすればよいかわからない。
 苛々しながら、廊下を強く踏みつけ、足早に歩く。
 気が付けば、いつの間にかそこへ戻ってきていた。
 扉を開くと、中はしんと静まっていた。ドクターの姿も見えない。
 躊躇うことなく、一直線に奥ヘ向かう。
 仕切りのカーテンを一気に開けた。
 ベッドの上に横たわったままの少年の姿を見た途端、体の中を荒々しい感情が吹き抜けていった。
 衝動が駆け上がる。
 それは、あまりに突然で。
 抑え込むには、あまりにも強く、激しく……。
 暴発寸前の感情を、これ以上押し止めることはできなかった。
 不思議なことに、厳密にはそれは目の前の少年に向けられたものではない。それがわかっているにも関わらず……。
 ……抑えられなかった。
 今、吐き出さなければ、自分自身がどうにかなってしまいそうで。
 ものも言わずに、いきなりベッドの上に膝をつき、掛布を剥ぎ取るとそこに横たわる体の上に覆いかぶさった。
 はっと相手の体が身動きし、逃れようとする気配を感じながら、それをさせまいと全身でのしかかり、少年の柔らかな体をきつく、これ以上ないくらい力いっぱいに抱き締めた。
(おまえを……)
 嵐のように感情が吹き荒れる。
 どうしたいのか、わからない。言葉すら、出すことを忘れてしまうほど……。
 もはや自分で自分のコントロールができなくなっていた。
 ただ、離したくない。今、この体を抱いていることだけが、自分がここに存在している意味の全てであるような気がした。
 最初は僅かな抵抗を示しかけていた体も、すぐに諦めたのか次第におとなしくなる。
「……はっ……あ……っ……!」
 吐き出される暖かな吐息を頬に感じた。
 シャツをたくし上げ、暖かな肌に手を這わせる。
 生きている。
 その脈動を手の下に、リアルに感じた。
「あ……」
 忽ち生々しい欲望が突き抜ける。
 このまま、一気に犯してしまいたくなった。
 そっと体をずらして、相手の顔に視線を向ける。
 その顔を見た途端、どきりとした。
 青ざめた顔で目を閉じ、犯されようとするその瞬間に耐えようとするその表情。
 その切なさに胸を衝かれ、ダコスタは一瞬手を止めた。
(ああ……)
 ――俺は……一体、何を……。
 そのとき急に自分の中で警告を発する声が聞こえた。
 いや、それは警告、というよりも……。
 違う。それは……。
 なぜか、同じ言葉が繰り返し聞こえる。
 
(……好きな奴が……いる……)
 
 その人のことを思うと、胸が痛くなる。
 ずっと……ずっと、胸の奥から消えなかった。
 それが、何なのかもわからぬまま、時は過ぎ……。
 いつの間にか、忘れていた。いや、忘れた振りをしていただけだったのかもしれない。
 本当はその思いはまだ、ここに残っていた。
 こんなにも強く、溢れるほど、どうしようもなく……胸の奥にずっと、ずっと影を潜めていただけで。
 自分の全てを投げ捨ててでも、守りたい。
 失くしそうになって、初めてその思いの強さに気付く。
 自分は、その人を失いたくない。
 その人は、こんなにも自分にとって大切な存在だった。
 失うことを考えただけで、この命が震えるほどに……。
 この強い思いは……何だろう……。
 今まで、なぜ気付かなかった……。
 
 そのとき、不意にイザークが目を開けた。
 青い……青い透明な色が、目の前にぱっと開ける。
 ダコスタは、息を呑んだ。
(あ……)
 眩しさに、目を瞬いた。
 青い色に吸い込まれていく。
 一緒に自分の心まで透けていくようだ。
「……あんたにも、いるんだな……」
 声が、静かに鼓膜に沁み込んでくる。
 不思議なほど、穏やかに。
 何事もなかったかのように。
 ――どう……した……?
 ダコスタは不意に目を閉じた。
 これ以上、見ていられない。
 相手の手が、自分の頬に触れてくる。
 ――おまえの心が、本当に求めているもの。
 ――その手が触れ、温もりを感じ、ひとつになりたいと望んでいるもの。それは……。
「――俺じゃなくて……」
 低い囁きに、心を射抜かれた。
 ――他に……あんたが心の底から焦がれ、望んでいるものが……。
 不意に肩の力が抜けていく。
 吐息が洩れた。
 ――そう……だ……。
 声のない笑いが零れ落ちる。
「……そう……おまえじゃ……ない……」
 捕まえていた体から手を離した。
 ゆっくりと身を起こすと、ベッドの上から床へ足を落とした。
 イザークに背を向け、ベッドの端に腰を下ろしたまま、彼はしばらく動こうとはしなかった。
「……だが、おまえを欲しいと思ったのも、嘘じゃない……」
 そう呟いている間に、背後でイザークが起き上がる気配を感じる。
 人肌が背に触れた。
 イザークが後ろからそっと体を擦りつけてきたことに、驚きながらも、敢えて彼は振り返らなかった。
 暖かな息が、かかる。
「……俺も……」
 躊躇いがちに、声が囁く。
「……好きな奴、いるんだろ」
 先にそう言ってしまうと、ダコスタは笑った。
 自分が投げかけた、問い。
 何の気なしに聞いたその問いが、今度は自分自身に撥ね返り、こんなにも心の中をかき乱すことになろうとは、思いもしなかった。
 なぜ相手があのとき、あんなに怒ったのか、今なら何となくわかる。
 ――それは、踏み込んではいけない領域だった。
 それに触れられることを、誰もが怖れ、怯える。
 わかっていても、そこから逃れたいと思う……。
 その気持ちが強ければ、強いほど……怖くなる……。

 
(――好きな奴が……)
 
「わかってるよ、そんなことは」
 答えなど聞かなくても、わかっていた。
 そして、それは自分も同じだった。
 彼に聞いた問いは、本当は自分への問いかけだった。
「……それでも……」
 イザークは続けた。
「……あんたは、暖かくて――」
 言葉が不意に途切れた。
 ――何でだろうな……。
 相手の戸惑いが体から伝わってくる。
 背中で、言葉にならない思いを感じ取る。
 その不器用さが、切ないくらい愛しかった。
 自分の本当に求めているものは、こいつではない。
 それでも……。
 それでも、こいつを愛しいと思う心も本当だ。
 それではいけないだろうか。
 ダコスタは首筋に触れる髪に指を絡めた。
 さらさらと指の間を流れる滑るような感触を心地良く感じる。
「俺も、だ……」
 彼は指先に絡めた髪の房を引っ張り、少し笑った。
 さらさらと銀色の糸が指から零れ落ちていく。
 それを視界の隅で捉え、吐息を吐く。
 それでも、俺はおまえを抱きたい、と思った。 
 だから、抱いた。
 それだけだ。
 人が人を抱きたいと思うのに、理由は要らない。
 たとえ、その心が本当に望んでいるのが、別の誰かであったとしても。
(そういや、何で俺、ここに来ちまったんだろうな……)
 そう思うと、ダコスタは自分のやっていることの滑稽さにくつくつと笑った。
(本当に、何でだろうな……)
 荒々しい心は去っていた。
 後には、なぜか不思議なくらい穏やかな気持ちだけが、胸を満たしていた。
 両手を背後へ回し、そこに触れた相手の腕を掴みそっと引き寄せた。
 体をぴたりと密着させたまま、何も言わずしばらくじっとしていた。
 
 
 
「……ったく、なーにやってんだ、おまえらは!」
 不意にカーテンが開いたかと思うと、そこから現れたのはドクター・モウのいかにも呆れ果てたと言いたげな顔だった。
「――ちょっと人が離れてりゃあ、もうこれだ……。ここはおまえらの密会所じゃねーんだぞ!そういうことがやりてえんなら、自分らの部屋でやってくれ!」
 大きな声でぶつぶつと苦言を呈する医師を前に、ダコスタは困ったように頭を掻いた。
「いや、これはその――」
 弁明しようとして、ダコスタは不意に言葉を止めた。
 元々ここへ入ってきたときの自分の行動を振り返ると、確かに相手の言葉を否定できない。
「――すみません。……でも、取り敢えず、何もしてませんから」
「はん、どうだかな!」
 モウはふん、と鼻を鳴らした。背後のイザークに無遠慮な視線を注ぐと、わざとらしく大きな溜め息を吐いてみせる。
「……ま、仕方ねーよなあ。これだけキレイなのが目の前にいりゃあ、な。……ま、俺もほんとのとこいうと、ちっと味見してみたい気もせんでもないんだがな」
「ドクター!」
 今度はダコスタがモウに非難の視線を向ける。
 モウは、ははっと笑った。
「わかってるって。そんな目で見るなよ。俺だってこれでも一応医者の端くれだからな。いくら何でも、そーいうえげつねーことはしねーよ」
 そんな風に言い切る医師を、どうだかな、という目でダコスタが見返したとき、
「――イザーク!」
 扉が開く音と共に、別の声が割り込んできた。
「……ディアッカ」
 声を聞いた途端に、イザークが呟いた。
 相手の体からさりげなく力が抜けていくのを感じ、ダコスタは自然に口元を緩めた。
「ようやくナイトくんがお出ましになったようだから、俺は退散するかな」
 掴んでいた手が緩み、密着していた体が離れる。
 ダコスタは立ち上がると、後を振り返ることもせずに歩き出した。
「……イザークは……!」
 すれ違いざま、息を弾ませて声をかけたディアッカに軽く顎で寝台の方を指し示す。
「何が……あったんだよ、あいつ……」
「大丈夫だ。疲れて倒れかけてたのを拾って連れて来ただけだ。心配ならしばらくついていてやればいい」
 何でもないようにそう説明すると、ディアッカの肩を軽く叩いて早く行けと促した。
 ディアッカもそれ以上は何も聞こうとはせず、急いでカーテンの向こう側へ飛び込んだ。
 ベッドの上のイザークが目に入った途端、大きな声で問い質すディアッカに辟易して、イザークはさりげなく視線をそむけた。
「――何でもない。騒ぐな」
 俯きながら、ぼそりと無愛想に答える。
「何でもない、って……」
「――お友達か。……ふうーん、こんな美人のお守りじゃ大変だな」
 その声に振り向いたディアッカは、そこでようやく背後に佇む医師の存在に気付いたようだった。
「あっ……と、こいつの具合は――」
「とっくに診察済みだ。たいしたこたあねえよ。――もう部屋に連れて帰ってやっていいぞ」
 モウはそう言うと、にやりと笑った。
「……ここに置いとくと、いろいろ悪い虫が寄ってきそうだし、な」
「……え?」
 目を丸くするディアッカの背後から、少し頬を赤らめつつ、それでもきっと睨みつけてくる銀髪の少年の整った面差しを楽しそうに眺めた後、モウは笑いながら背を向け、カーテンの向こうへ姿を消した。
「……なっ、なあ……ほんとに何でもないのか?」
 困惑した様子で、なおもしつこく覗き込んでこようとするディアッカをわざと避けるように、イザークは視線を落とし顔を背けた。
「……いいから――」
 そう呟いたきり、後は何の言葉も出てこなかった。
 そのまま、彼は一人だけの思いに沈んだ。
 まだ、体の表面に僅かに残る温もりをさりげなく両腕でかき抱く。
 ――どうして……。
 頭を落とし、そのままベッドの上で蹲ると、彼は唇を噛んだ。
 いつの間にか、できあがってしまっていたこの不思議な関係に、なおも戸惑いを感じずにはいられなかった。
 お互いに、違うものを求めている筈なのに……。
 それなのに、なぜか目をそむけることができなかった。
 体を寄せ、相手の温もりに触れている心地よさに、酔った。
(これは、何なのだろうな……)
 手の中に残る余韻が、彼の心の片隅を微かに震わせていた。
 この感情を何と呼べばよいのか……
 ――わからない。
 惑うその思いだけが、いつまでも震えるように、彼の内側で小さな漣を立て続けた。

 
                                        (to be continued...)

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