残 光 (16)










 目の前に、奴がいた。
 なのに、前へ進めない。
 この、機体が……。
 砂に、足を取られる。
 イザークはもがいた。
 もがいても、どうしようもないこの状況に、精一杯胸の内で毒づいた。
 こうしている間に、彼らの決着が着いてしまう。
 突然視界が開けた。
 ストライクと、隊長機が戦っている。
(ストライク……!)
 しかし――
(は、速い……!)
 目の前の光景に愕然とした。
 二機の動きに追いつけない。
 ――動けなかった。
 ラゴゥはわかるとしても、なぜ奴まであんなに動ける……?
 イザークは目を瞠った。
 あのモビルスーツで、ラゴゥと互角に戦っている。
 いや、むしろ……押されている。あの、砂漠の虎が……。
 彼は唇を噛んだ。
(くそっ……!)
 それに対して、この自分のざまはどうだ。
(なぜ……!)
 このように砂の中でもたついている自分が情けなく、悔しくてもどかしくて大声で叫びだしたい気分になった。
(なぜ、奴は……!)
 相手と自分との間にある何か特別な壁のような存在を感じずにはいられなかった。
 ――俺と奴のこの差は、何だ。
 あいつは、俺にとって何なんだ。
 自分の妄執を、ふと笑いたくなった。
 自分が思うほど、きっと奴は何も思ってはいない。
 どんな奴が乗っているのかさえわからない。
 そういえば……。
 イザークは初めてそのとき、『ストライク』ではなく、『ストライク』に乗っている見知らぬパイロットに思いを馳せていることに気付いて少し驚いた。
 そういえば、そんなことを今まで考えたこともなかった。
 あの白いモビルスーツに誰が乗っているのか、なんて。
 自分にとっては、あの機体自体が全てであって、機体に乗っている人間のことなど全く頭の中にはなかった。
 ――パイロット……か。
 体を熱く満たしていた憎悪の潮が、一瞬引いていくような気がした。
 なぜか、わからない。
 自分の標的は、機械であって、人間ではないのか。
 しかし、その機械を操っているのは、人間ではないか。そいつの意志で、機械は動く。
 ミゲルを殺したのも、俺の顔に傷をつけたのも、ひいてはそいつの意志ではないか。
 なのに……。
 おかしい。
 なぜ、こんなに虚しいのか。
 自分は少しおかしい。
 イザークは自分自身を叱咤するかのようにコンソール盤を拳で叩いた。
「俺は、何を考えている!こんなときに……っ!」
 ふとそのとき、アンドリュー・バルトフェルドの顔が思い浮かんだ。
 そして、最後に隊長を送り出すダコスタの顔に浮かんだあの切なげな表情を……。
(おまえ、好きな奴、いるのか)
 そんなダコスタの声を聞いたような気がした。
 彼ははっと我に返った。
 ラゴゥとストライクの激しい一騎打ちを目にしたとき……。
 予兆を感じた。
(……あの人はこのまま……)
 どちらかが倒れるまで、戦い続ける。
 そして、あの人は、たぶん……。
 白い悪魔は、砂漠の虎をも飲み込んでしまうだろう。
 ミゲルのジンを落としたときと同じように。
 ……きっと、それは宿縁なのだ。
 どこかで、見えない手が動いている……。
 そんな風に思ったとき、ふと彼は馬鹿馬鹿しい、と呆れたように軽く息を吐き出した。
(何を馬鹿な。神学者気取りか、俺は……)
 自分のこんな非論理的な思考に笑い出したい気分だった。だが、実際には笑えなかった。
 笑おうとした唇が震えた。
 彼は、慄いていた。
 わけのわからない恐怖に心臓まで掴まれてしまったかのように、動けなくなっていた。
 
 
 
 爆音が轟き、凄まじい熱風が砂塵を吹き上げる。
 撃破されるラゴゥの凄絶なその最後の光景を茫然と目の前にしながら、イザークは全くその場を動けなかった。
 もはや去っていくストライクを追う気にもならない。
(隊……長……?)
 あのアンドリュー・バルトフェルドが。『砂漠の虎』が……。
『……全員に告ぐ。レセップスは落ちた。乗員は全員退艦。バナディーヤに引き上げる。……以上。繰り返す。レセップスは……』
 緊急非常回線から聞こえてくる指示に、意識が現実に立ち戻る。
 レセップスが、落ちた……?
 イザークは戸惑った。
 後方を振り返ると、砲火を浴びながら砂の中に沈んでいく艦の姿が見える。その周りで交戦しながら退避する機体が種々入り混じり、一帯は激しい混乱の様相を見せていた。
 バスターは?
 レセップスは……。
 足つきが、逃げる。
 そして……。
 ふと気付いた。
 ダコスタの声、ではなかった。
「…………?」
 どうしたのだろう。
 あいつが、指揮していた筈なのに……。
 気のせいだろうか。
 イザークは思いついたように、慌てて通常回線のスイッチを入れた。
『……ザークっ!イザークっ!』
 ノイズに混じりながら、すぐに自分を呼ぶディアッカの声が聞き取れた。
「……ディアッカ?」
『イザーク!……ったく、何やってんだよっ!』
 苛立ちも露わなディアッカの声が忽ち怒鳴りつけてきた。
『いい加減にしろっ!この非常時に勝手なことばっかしやがって!……聞こえただろ?レセップスが落ちた。撤退命令が出てる!俺たちも行くぞッ!』
 イザークは返事をしなかった。
 目の前で硝煙を噴き上げる機体の残骸に目が釘付けになっている。
 そして、そこへ向かって砂煙を上げながら、凄い勢いで走っていく一台のジープ。
 ――ゲリラたちか……?
 そう思って目を吊り上げたが、よく見ると違う。
 遠目ではあるが、そこに乗っているのは……。
 ザフトの軍服が見える。
(なに……?)
 自分の見たものが、信じられなかった。
 あれは……。
(……ダコスタ……!)
 ダコスタが……。
 まさか……?
 彼は目を何度も瞬いた。
 間違いない。
 それは、ダコスタだった。
 何のつもりか……。
 いや、聞かずともわかっていた。
 彼が何をしようとしているのか。
(馬鹿な……!)
 あれだけの爆発だ。
 生きている筈がない。
 そんなところへ行ってどうなる?
 無茶としか言いようがない。
 だが……。
 ――あいつなら、行く。
 ダコスタは、きっと……。
 隊長の背中を見つめていたあの瞳を思い出した途端、確信した。
 あいつは、隊長を……。
『……イザーク?聞こえてんのかっ?』
 ディアッカが呼びかけたとき、イザークの手は再び操縦桿を握りしめていた。
 ――ダコスタ……!
 わけもなく胸が震えた。
(俺も……!)
 放ってはおけない気がした。
 デュエルは再び砂の中をもどかしい足取りで前進し始めた。
『おい、イザークッ、どこ行くんだよっ?』
「……貴様は先に行けっ!俺は後で追いつく」
『……って、何だよ!馬鹿なこと言ってんじゃねーよっ!イザークっ!――』
 驚いた声を上げる相手を無視して、イザークは夢中でダコスタの後を追った。
 
 
 
 熱風が頬を焼くようだった。
 吹きつける砂塵を避けるように片手で顔の前を覆い隠しながら、それでも真っ直ぐに目の前を見つめる。
 硝煙の匂いが濃く立ち込め、機体の無残な破片がそこここに散らばっている。立っているだけでくらくらしてくるようだった。
 こんな無防備な格好で飛び出してきた自分を、今さらながら笑った。
 自分は少しおかしくなっている。
『……俺が負けたときは、俺の死ぬときだ……』
『……俺の骨を拾おうなどと、考えるな……』
 淡々としたバルトフェルドの声が甦る。
 最後に通信画面上で見た顔には、ほんのりと微笑すら浮かんでいた。
 してやられた、という顔だった。
 敵に対する怒りや憎悪、或いは屈辱や悔恨の情を示すような泥臭い匂いは、全くといってよいほどそこには感じられなかった。
 最後の指示を受け取った瞬間、この人はやはり帰って来るつもりはないのだな、と直感した。
 既に勝敗が決しているというのなら、もはやこれ以上戦う必要はないというのに。なぜ……。
 しかし、何も言えなかった。
 何を言うことができたろう。
 自分はバルトフェルドという人間をよく知っている。
 ――滅びるまで、戦う。
 たとえ、勝敗が決していることがわかっていたとしても。
 彼は、戦うことをやめはしない。
 帰って来て下さい!と懇願しても、所詮通じるはずもない。バルトフェルドはそういう人間なのだ。
 戦って、戦って、戦い抜いて……。
 そして、最後に待っているものは――
 ダコスタは拳を握り締めた。
「バルトフェルド隊長!」
 雑念を振り払うように、大きな声で叫んだ。
 ほんの僅かでも、生存の可能性があるのならば……。
 どうしても、ここを去ることができなかった。
 彼は、全てを振り捨てた。
 ただ、自分の私的な……。本当に私的な思いを抑えることができなかったがために。
 今の自分の姿をバルトフェルドが見ていれば、間違いなく罵倒され、或いはその場で殴り倒されていたことだろう。軍人としてのバルトフェルドは恐ろしく冷徹で厳しい人間だった。
 自分がバルトフェルドに責められる場面を想像して、ダコスタは苦笑した。
 構わない。
 何と言われようとも、言い訳はしない。
 私的な感情に負けた自分を、認める。
 しかし、後悔はしない。
 大きく開いた口の中に、忽ち風に混じって吹きつけてくる砂粒が遠慮なく入り込んでくる。
 鼻がつんと痺れる。目の奥まで硝煙が沁み込んでくるかのようだった。痛みで、目の端に涙が滲んでくる。
 それとも、それは痛みのせいだけだったのだろうか。
「隊長……っ!」
 声が嗄れていた。
 ――あなたが、死ぬ筈がない。
「隊長―っ!」
 生きている。……きっと、生きている。
 狂ったように、叫び続けた。
「おい、何をしている?」
 振り返ったダコスタは、そこに立っていた銀髪の少年の姿を見て、意外そうな表情を浮かべた。
「イザーク、おまえ……」
 ――なぜ、ここにいる?
 そんな問いを発する前に、
「無駄だ。あの爆発で生きているわけがない」
 相手が先に言い放つ。
「言うな!」
 ダコスタは声を荒げた。
「……撤退命令が出た筈だ。おまえこそ、さっさと行け!」
 背を向ける男の肩にイザークの手が触れた。
「それを言うならあんたもだろうが!」
 ぐいっと強く引き戻す。
「あんた、指揮官代理だろう。それが何でこんなとこでうろうろしてるんだよ!」
 ダコスタはよろめくと、イザークに向き直り、その手を乱暴に払いのけた。
「おまえには……」
 ダコスタはイザークを睨みつけた。
「……おまえには、関係ないことだ」
 イザーク自身が何度となくダコスタに向かって投げつけた台詞を、静かに吐き捨てる。
 言ってみて、そのことに気付いたのかダコスタはふと唇の端を緩めた。
「……って、これはおまえのお得意の台詞だったな」
 皮肉っぽく微笑むと、再び背を向けた。
「ダコスタ!」
 名前を呼んだのは、初めてだったかもしれない。
 イザークは不思議な気持ちで、その名を口中で噛みしめた。
「……ダコスタっ!」
 ダコスタは振り返らなかった。
「来るなよ」
 ――おまえは、来るな。
 その柔らかな、それでいて揺るぎない拒絶の言葉を、イザークは唇を噛みしめながら、黙って受け止めた。
 それ以上、返す言葉が出ない。
(俺……は……)
 言葉にならないもどかしさ。
 胸が疼く。
 自分は、何が言いたい?
 どうしようというのか。
 そう……俺は、ただ……。
 俺は……ダコスタに……。
 俺は……。
 
 ――俺は、おまえにとって、何だったんだ……!
 
 そう、大きな声で叫びたかった。
 ……俺は、おまえにとって……。
 一時でもダコスタの優しさに縋った自分を、恥じた。
 しかし同時に、ダコスタと過ごした時間を否定したくはなかった。
 複雑な思いが駆け巡り……。
 イザークは、わからなくなった。
 ダコスタこそ、自分にとって……何だったのか。
 今、ダコスタに背を向けられた瞬間――。
 彼はそんなにも相手が自分の中で大きな存在になっていることに気付き、愕然とした。
 ――その場を、動けなかった。
 足が、一歩も前へ出ない。
 ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「……ほら、あんな目立つ機体を置いておくなよ。敵さんに叩いてくれ、って言ってるようなもんだぜ」
 誰かと思ってみると、ドクターだった。
 白衣を着ていないので、わからなかった。
「俺もはっきり言って駄目だとは思うが、気の済むようにさせてやれ」
 ドクターはそう言うと、イザークを押しのけるように前へ出た。
「まあ、万が一、ってことがあるからな。どちらにしろ、俺も見届けようと思ってな。無理矢理ついてきた」
「ば、馬鹿げてる!」
 イザークは叫んだ。
「……あんたたちだけで、何ができる?無駄だ!それに、危険だ!捜索するなら、もっとちゃんと――」
「わかっちゃいねーな。おまえさんは!……負けたんだ、俺たちは。そんな部隊に、軍がこれ以上何をしてくれる?」
「…………」
「俺もバルトフェルドには世話になったしな。最後まで付き合うつもりだ。生きてる望みはなくても、屍だけでも、ってな。あいつの気持ちは俺にもわかる」
 そう言うと、モウは砂の中を進むダコスタの後姿に顎をしゃくってみせた。
「あの虎がそう簡単にくたばるか、ってあいつと付き合った奴なら誰でもそう思うだろうからな」
 モウは僅かに白い歯を見せた。
「まあ心配せんでも、そのうちみんな戻ってくるさ。骨のひとかけくらい拾いたいって奴ばっかりだろうからな」
「…………」
 イザークは、黙って俯いた。
「じゃあな、坊や!」
 ドクターが砂を蹴って、駆けて行くのを見送りながら、彼は深い溜め息を零した。
 自分には、入っていけない世界が、そこにあった。それを、肌で感じた。
 ――ダコスタは……。
 諦めないのだろう。
 それは、わかっていた。
 最初から、そのつもりだったのだ。
 忠実な部下……いや、それ以上の……。
(おまえ、好きな奴、いるか……)
 声が、囁きかける。
 好きな、奴……。
 好き……というだけではない。それはたぶん、誰よりも強く深い絆で結ばれた……自分にとっては、ただ一人。それは、きっと運命的な存在である筈で……。
 自分には、いるのだろうか。
 ――俺にも……そんな、奴が……。
 ただ一人の、運命を運ぶ存在が。
 彼は、吐息を吐いた。
 あんなに生真面目な軍人であるダコスタが、全てを投げ出してここに留まった。
 
 生きて、いる。
 きっと、生きている。
 
 一縷の希望に縋って……。
 馬鹿げている。
 生きてなど、いるはずが……。
 拳を強く握り締める。
 だが、信じたい。
 その気持ちが痛いほど伝わり、胸を締めつける。
 なぜ、それほどまでに、人が人を思うことができるのか。
 己の身を投げ打つことも厭わない。
 それと引き換えに、全てを捨てることになったとしても、彼はきっと躊躇うことなく、それを選ぶのだろう。
 そんなにも……大切にしたい、何かがある。
 それほどまでに……。
 人は、人を……愛せる、のか。
 わからない。
 自分は……どうなのだろう。
 愛する者を失ったあのやり場のない喪失感と悲しみが、いつしか果てのない憎悪と怨嗟に置き換えられていた。
 その一方、この手で名も知らぬ多くの人間の生命を奪っておきながら……。
 なぜか、泣きたくなった。
「……俺も……」
 一緒に……と言いかけて、口を噤んだ。
 自分はここにいるべき人間ではない。
 そう、悟った。
 俺は、去った方がいいのだ。
 いつか、また出会うとき……。
(そのときには……俺も見つけているだろうか)
 自分自身の、『運命』を。
 彼は大きく息を吸い込み、背を向けた。
 ――自分には、他に行かねばならない場所がある。
 誰かが、そこで待っている。
 紡がれるべき運命が……。
 きっと、そこにある。
 
 
 
「……おーい、ダコスタ!ダコスタ、早く!こっちへ来いっ!」
 ドクター・モウの興奮した叫び声が遥か後方で聞こえたような気がしたが、イザークはもう振り返ろうとはしなかった。

                           (to be continued to the next stage...)

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