残 光 (2)










「ダコスタくん!」
 ぼんやりとしていたマーチン・ダコスタの背が、弾かれるように軽く叩かれた。
 不意を突かれて、彼の体はがくりと前に落ちた。
 びっくりしたように振り向いたダコスタの目を丸くした顔を見て、彼女はおかしそうに笑った。
 ダコスタは困ったように小さく息を吐いた。
「――いい加減に、そのふざけた呼び方はやめてくださいよ」
 コモンルームの中を神経質そうに見回してみる。
 幸いなことに部屋の中にいる者は少なく、しかも彼らのささやかなやり取りにはさして関心を払っていないように見えた。
「あら、何で?普通に呼んだだけだけど。何か気に入らなかった?」
 からかうようにそう返すと、アイシャはダコスタの前の空いた椅子に優雅に腰を下ろした。
 露出した長い手足は太陽の照り返しの強いこのような砂漠地帯に長く逗留しているにも関わらず、抜けるような白さと艶やかさを保っていた。
 いつ見ても、綺麗な女性(ひと)だな、とダコスタは眩しげに目を細めた。
「ここは、軍隊なんですから……ちょっとは軍内の規律というか、その……俺たちの立場ってものも考えて下さいよ」
 ――あなたは、隊長の……
 少し息苦しさを感じながら、ようやくのことでその言葉を吐き出す。
(『愛人』……か)
 自分がどちらに嫉妬しているのか、よくわからなかった。
 ふと、あの柔らかな感触が唇に甦る。
 甘く撫でるような吐息。
 喘ぐ喉元にくちづけを落とす。
(……いい匂いがする……)
 囁く自分の言葉すら、自分のものでないかのような……。
 ダコスタは頭を軽く振った。
 まただ。
 こんな風に、余計な思いに捉われると、とりとめがなくなる。
 どちらから誘ったのかわからない。
 彼女と過ごした夜のひととき。
 あれは――
 そう。
ほんの一夜限りの戯れに、過ぎなかった。
 そんなことに、なぜいつまでもこだわる必要がある?
「なあに?……怖い顔」
 アイシャはくすりと笑った。
「そんなに私と顔を合わせるのが嫌だったの?」
「――いえ……」
 ダコスタは目を伏せた。
 苦々しい表情を相手に見られたくない、とでもいうかのように。
 アイシャは気にする様子も見せず、テーブルに肘をつき、相手との距離をさりげなく縮めた。
「そういえば、あの子たち、どうなの?」
「…………?」
「宇宙(そら)から降ってきた坊やたちのことよ」
 アイシャはこころもち顔を寄せながら、囁くように言った。
「砂漠(ここ)には合わないんじゃない?――特にあの子……綺麗だけど、顔に傷のある……」
「イザーク・ジュール、ですね」
 ダコスタはさりげなく答えた。
 銀髪に青い目の美しい面が脳裏をよぎった。
 彼があのエザリア・ジュール議員の息子であるということは、ついさっき、送られてきたデータを見て知った。
 そして、もう一人がタッド・エルスマン議員の息子であるということも。
 要するに、全くのサラブレッドということか。
 やれやれ……と彼は内心肩をすくめる。
 どうしようもないな、と嘆息した。生まれたときから恐らくずっと培われてきたであろう、あのエリート独特の鼻持ちならぬ傲慢さを挫く方法など、今さらどう考えても見つかりそうにない。
「アンディは、どうするつもりなのかしらね」
「……まあ、少なくとも今度の戦いの前線には出されるつもりはないでしょう」
 ダコスタは淡々と言った。
「あの機体はもとより、彼ら自身にしたって、いきなりこの地上の砂漠戦で戦うなんて、無理じゃないですか。隊長だってそれがとっくにおわかりだから、敢えて無視されてるんでしょう」
「――悪かったな。役立たずで」
 苦々しい声が鋭く空気を切り裂いた。
 声のした方向に顔を向けたダコスタの目の中に、いつの間にかコモンルームに入ってきた当の銀髪の少年の姿が飛び込んだ。
 鮮やかな赤い軍服。
 きらびやかだが、その派手な色彩は、この艦の中では妙に浮き上がった存在のようにも見える。
 省電力化を徹底させているため、艦内、特にこのようなプライベートルームではあまりエアコンは効いていない。
 だから普段より皆、肌を剥き出しにした軽装が常となっていた。
 軍服も見栄えは地味だが、簡素な半袖の薄地で通気性もよく、着心地は良い。
 まさにこの地の気候に適したものだった。

 しかし、今目の前の彼が纏っている赤い軍服は違う。
 厚くその特殊加工を施された布地が地球の重力を得てさらに体に重く付着している筈だ。
 それをまた、首の先までぴったりと襟を止めているのだから、たまらない。
 よく見るとイザークの顔にはじんわりと汗の玉が吹き出していた。

(そういや、あの金髪の方は、こっちの服に着替えてたよな……)
 先程廊下ですれ違ったときに、見知らぬ顔の士官がいるな、と思ってよく見たら、例のクルーゼ隊の片割れだったことを思い出した。
(ああいう風に柔軟に対応できる奴だといいんだが……)
 どうやら、こちらはそうではないらしい。
 そのくせ、態度だけはでかくて、その端整な容貌と共に腹立たしいほど人目を引く。
 現に今も、彼がここにいるだけで、さっきまで気にもしていなかった他の士官たちがこちらの方をちらちらと伺い見ているのがわかる。
 厄介だな、とダコスタは小さく溜息を吐いた。
 これじゃあ、本当にそのうち何か起こっても不思議ではない。
 いや、起こらない方が不思議か……。
 そんなことを考えながら、アイシャの方を見ると、彼女も苦笑めいた瞳を銀色の髪の少年に向けていた。
「ここ、空いてるわよ。取り敢えず、座らない?そんな風に立たれたままじゃ、落ち着かないわ」
 自分の横の椅子を指して勧めると、イザークはしばし躊躇う様子を見せた。
 しかし、にっこり笑うアイシャと目が合うと、彼は少し頬を赤らめながら、黙って言われるがままに腰を下ろした。

「あなた、クルーゼ隊の――」
「イザーク・ジュールです」
 アイシャに顔を向けることなく、彼はぼそりと答えた。
「そう。私、アイシャっていうのよ。宜しくね」
「あっ、はっ、はい……こちらこそ」

 身を固くするイザークを見て、アイシャはおかしそうに笑った。
「綺麗な髪」
 手を伸ばし、隣に座るイザークの髪をさらりと指で梳く。
 イザークは驚いて身じろいだ。
「あっ……あの……っ……!」
 顔が見る見るうちに真っ赤になる。
「ここに来たら、だいぶ痛むんじゃないかな。シャワー使うときは、言って。私のトリートメント、貸してあげるから」
「あ……い、いえ。そ、そんな……ことは……別に……」
 声がだんだんか細くなる。
 イザークは戸惑っていた。
 ――何なんだ、この女はっ!
 これが他の女から言われたことなら、何だ貴様!馬鹿にするなっ!と即座に怒鳴りつけていたところだろう。
 しかし、なぜか彼女に対してはそのような衝動は起こらず、ただ戸惑いと恥じらいの感情だけが今の彼を支配していた。
(随分、初心な奴だな)
 ダコスタはそんな彼の様子を見て、呆気に取られるとともにおかしくてたまらなくなった。
 さっきまでの倣岸な素振りが嘘のようだ。
(やっぱ、ガキだな)
 そう思うと、少し鬱陶しさも薄らいだ。
 頬を赤らめたまま、固くなってアイシャの隣に座っているイザークを見ていると、何となくいじらしいというか……可愛らしささえ感じるのだ。
 ただ傲慢で生意気なエリート小僧だとしか思っていなかったが、案外中身はそうではないのかもしれない。
「あ、あの……手を、離してもらえませんか……」
 イザークの髪を撫でる白く長い指先を落ち着かなげに横目で見ながら、彼はようやくのことでそう頼んだ。
「あら、ごめんなさい。あんまり気持ち良かったから、つい」
 アイシャは笑って彼の髪からさらりと手を離した。
「あなた、いくつ?」
「……十七、歳です……」
「まあ。若いのねえ……」
 相変わらず会話の主導権はアイシャが握っていた。
 ダコスタはほっとしながら、他人事のように前で交わされる、まるで姉弟のような二人のやり取りを眺めていた。
「……で、俺たちはちゃんと戦えるんですよね」
 しばらくすると、ようやくイザークはダコスタの方に向き直り、改まった口調でそう問いかけた。
「そうでなきゃ、わざわざここまで来なかった。今さら戦力外、だなんて思われたくない」
 恨みがましく言われると、ダコスタも返答に困った。
 少し可愛げがあるかな、と思いかけたところだったので、あまりきつく言う気にもならなかった。
 しかし、かといって、立場上いい加減なことも言えない。
 自分の彼への心象が変わろうとも、彼らの置かれた立場や事実は変わらないし、今の状況であのバルトフェルドが戦略的に判断して、わざわざ彼らを前線に配置するとも思えない。
 むしろ、彼らは邪魔なのだ。余計なことをせず、おとなしく後方に引っ込んでいて欲しい。
 ダコスタは思い切ったように口を開いた。
 正直に言うしかない
「……まあ、はっきり言って、おまえたちは今回の戦闘では出番なしだろうな」
 案の定、そう言った瞬間、相手の顔色が露骨に変わるのが見てとれた。
「……だから……そんな答えは、期待していない!」
 かろうじて感情を抑えながら、そう返したイザークだったが、その瞳は既に激しい怒りの輝きを放っていた。
「冷静に考えろ。こちらにも当初からの作戦というものがあるんだ。途中から急に入ってきたおまえたちのためにぶち壊しにされたくない。宇宙(そら)ではどうだったかしらんが、ここは地球なんだ。しかも砂漠だぞ。おまえらには、無理だよ」
「……俺たちは、地上戦になったって、誰にもひけをとりはしない」
 皮肉たっぷりに、人を馬鹿にした目で見下ろしてくる相手に、ダコスタは鼻白んだ。
(ったく、小生意気なガキだ)
 やっぱり、可愛くない。
 内心吐き捨てるように思いながらも、敢えて口には出さなかった。
「乗り手の技量の問題じゃない。機体の特殊性のことを言ったんだ」
「なら、機体を変える。バクゥを貸してくれればいい」
「乗員は足りている。今さら、不慣れな坊やに割り込んでこられても迷惑だ」
「……貴様……っ、馬鹿にするなよっ!」
 イザークは怒りも露わに睨みつけてくる。
「バクゥなんぞ、すぐに乗りこなしてみせる」
 しつこく食い下がってくる彼に、ダコスタはうんざりした。
「そっちこそ、舐めてもらっちゃ困るんだよ。宇宙(そら)と地球(ここ)は違う。――何度も言わせるな!」
 少し声を荒げ、きつめの視線を向けた。
「ちょっと、ダコスタくん!そんな風に大きな声出さないで。みんなが見てるわよ」
 アイシャがとりなすように、二人の間に割り込んだ。
 確かに、やり取りが激化するにつれ、いつの間にか彼ら以外の場所はしんと静まり返っており、他の者が明らかにこちらを注視しているのがわかる。
「こんなところで、やめなさいよ。そんな話は隊長の部屋で、直接アンディと話し合ったらいいことでしょう?」
 呆れたように言うアイシャを間に挟んで、それでもしばらくはどちらも睨み合った視線を離そうとはしなかった。
「マーチン!」
 アイシャが少し強い口調で呼びかける。
 ファーストネームで呼ばれた途端、ダコスタはハッと我に返った。
「アイシャ……」
 ダコスタは非難するようにアイシャを見た。
 その名で呼ぶのは、ルール違反だ。
 しかし、お陰でなぜか彼の感情は急速に冷めた。
「ああ、わかりましたよ。俺も大人気なかった」
 ダコスタは大きく息を吐くと、椅子の背にどかっと凭れた。
「……どのみち隊長の指示に従ってもらうしかないんだからな」
 呟くように言うと、イザークが前でぷいと顔をそむけるのが目に入った。
 ふん、とこちらも鼻を軽く鳴らす。
 全く……何でそんなに戦いたいのか。
 ダコスタにはわからない。
 功を立てたいだけなのか。
 赤服を着て偉そうに歩いているだけでは飽き足らず、というわけか。
 既に宇宙で華々しく戦ってきているだろうに。
 そこまで考えて、ふとあることに思い至った。
(そう、か……華々しい、というわけじゃなかったんだな)
 特に彼らはヘリオポリス以来、あの連合の新造艦には煮え湯を飲まされてきているのだ。なら、話はわからぬでもないか。
 しかし……これは、戦争だ。
 私怨や個人の感情で動いてもらっても困る。
 個人戦で手柄を立てたり、名誉を得たり、ということにはまるきり縁がなく、またそんなことを考えもしないダコスタにとっては、ただそんなイザークの心情が理解できず、忌々しく思えるだけだった。
 取りとめもなく、そんな思いに耽っていたダコスタの耳にそのときふと――
「……で、宇宙(そら)から降ってきたんだ」
 そんなアイシャの声が飛び込んできた。
 さっきから、イザークを宥めるように話しかけていたのだ。
(宇宙(そら)から降ってきた、ねえ……)
 ダコスタは苦笑した。
 女の言いそうなことだ。
「宇宙から見ると地球って綺麗に見えるけど、こっちから空見てもとても綺麗なのよ。特に夜の星空なんて、ね」
 メルヘンチックに言うアイシャに、イザークはぎこちなく目を伏せた。
 ――宇宙から、降ってきた……。
 聞こえはいいが、実際はそのようなものではない。
 苦々しさが、満ちた。
 大気圏を突き抜けるまでのあの苦い一戦が脳裏を焼く。
 そして、落ちるときのあの恐怖と絶望に満ちた思い……。
(俺、は……)
 自分はもしかしたら、世界の終わりを見る寸前まで、いったのかもしれない。
 世界が終わるとき。
 自分自身の命が終わるとき。
 あんな幻を見るのだろうか。
 世界が焼けるような、熱い業火に呑まれ――
(俺は、なぜ、ここにいる?)
 ふと、空虚さに苛まれる。
 いっそあのまま……
 ――死ねば良かったのか、な。
「……落ちた、んです……」
 彼はぽつりと呟いた。
 アイシャはおや、と不思議そうにそんな彼の憂いに満ちた横顔を見つめた。
 ダコスタもふと眉根を寄せた。
(……何だ……)
 さっきまでと、違う。
 不思議な憂愁の影を纏った、別人のような儚い存在がそこにいた。
 まるで、この世のものではないかのような……一瞬、そんな気にさえなった。
「『落ちた』、か……」
 ダコスタは思わず声に出して繰り返した。
 その声にイザークが、つと目を上げるのがわかった。
 青い……透き通るような美しさと、同時に儚さをも感じさせる不思議な色だった。
「……で、おまえはここで何がしたいんだ?」
 ひとりでに問いが口をついて出た。
 ――おまえの求めるものは……。
 妙に、気になった。
 何か、ある。
 この少年に付き纏うもの……
 ひどく落ち着かない気分になる。
 この感じ。……これは、何なんだ。
「俺は……」
 イザークは言いかけて、いったん唇を閉ざした。
 再び俯くその表情が、複雑に揺れているであろうことは、簡単に想像がついた。
 ――あいつを……。
 誰の顔が浮かんだのか。
 フラッシュバックのように、その瞬間、激しい痛みと共に、通り過ぎていった映像。
 イザークは顔を覆った。
 傷が、疼く。
「……あいつ……あいつを討たなければ……」
「あいつ……?」
 ダコスタは訝し気な目を相手に向ける。
 本能的に、危険を感じた。
「おい……?」
 そのとき、不意に目を上げたイザークのそのぎらぎらとした妄執の渦巻く顔を見て、彼は息を飲んだ。
「……あんたたちには、わからない」
 彼は椅子を蹴るようにして立ち上がった。両脇で拳が強く握り締められていた。
「けど、俺はあいつを……どうしても、『あいつ』を討たなければならないんだ!」
 そう言い放つと、彼らに背を向けた。
「待てよ!」
 ダコスタは立ち上がり、呆然と見守るアイシャを置いて、歩き去るイザークの後を追った。
 自分でも不思議なくらい、激しい衝動が渦巻いていた。
 ――止めなければ……。
 何を?
 何のために?
 全く論理的な思考が浮かんでこない。
 にも関わらず、感情だけが、止まらなかった。
 どうして、俺はこんなに必死になっているのか。
 なぜ……。
 この衝動が、何なのか。
 それは、彼自身にもよくわからなかった。


                                        (to be continued...)

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