残 光 (7)
「……………?」
イザークは、瞬いた。
自分がどこにいるのか……あれから、何が起こったのか。
記憶が錯綜する。
確か、自分はあのとき、バルトフェルドの部屋にいて――
「目が、覚めたか」
そのとき、突然ぬっと目の前に現れた顔を見て、イザークは思わず声を上げそうになった。
「……あ――?」
――そうだ。
記憶が鮮明になる。
バルトフェルドの部屋で、彼は自分を無理矢理連れ出そうとしていた……。
赤い髪の副官。
なぜ、こいつはこんなにも執拗に自分の行動を阻むのか。
忽ち、苦い怒りが甦る。
起き上がろうとしたが、なぜか力が入らない。
もがいても疲れるだけだということがわかって、すぐに諦めた。
仕方なく、ただ目の前の顔を睨みつけるしかなかった。
「……いい加減にしろ、よ……っ……」
ようやく搾り出すようにそんな言葉を吐き出した唇は、どうしようもなく震えていた。
「俺に、構うな……!」
何度言えばわかるのか。
自分のことは、放っておいて欲しい。この男には、どうしてそれがわからないのか。
ぎりぎりと歯を喰いしばり、相手の顔を睨み続ける。
そんな自分を黙って見つめ返すその悔しいほど冷静な顔を見ていると、余計に苛立ちが増した。
「……どうして、俺の邪魔をするんだ。あんたは……!」
声が掠れた。
情けない声だ。
(……くそ……っ……!)
――何か、言えよ。
何も言わない相手が疎ましかった。
相手に見られているのが嫌で、彼は顔をそむけると目を閉じた。
自分が醜態を晒しているのがわかった。
こんな姿では、何を言っても説得力がない。
「――俺のこと……軽蔑してるんだろう……」
あんな、忌まわしい取引をしようとした自分を……。
(俺に、抱かれてみるか……)
バルトフェルドの冗談とも本気ともつかぬ一言に、惑わされた。
抱かれても、いいと思った。
それで、自分の望みが叶うなら……。
淫売だ、と言われても否定することはできない。
それだけのことを、自分はしようとした。
(俺は……本当に、何をしているんだ)
わからなくなった。
混乱している。
引き金を引いた、自分の手。
死人の顔が、幾重にも重なる。
悲鳴と、呪詛の声が。
自分は既に業火に焼かれ、地獄に堕ちたのだ。
もう、後へ戻ることはできない。
この汚れた体は自分のものであって自分のものではない。
このまま、肉体の最後の一片が朽ち果てるその瞬間まで――
自分はただ、歩き続けていくしかない。
どんなことだって、する。
何ものも、自分を止めることはできないのだ。
だから……
「……俺には、他にどうしようもない」
吐き出されたその声には、痛々しいほどの苦悶の跡が滲み出ていた。
――どうしようも、ない。
そんな、果てのない孤独感に飲み込まれていく感覚が、彼の心を震わせた。
何も怖れることは、ない筈なのに。
そう自分自身に言い聞かせようとしても、どうしても心は震え慄く。そうして、いつしか無意識に助けを求めている。
声のない悲鳴を上げながら、暗い空間の中で必死にもがき始める。
闇の中へ飲み込まれていく自分自身を救い上げてくれる誰かの手を求めて、虚しく手を伸ばす。
こんな風に、自分は一体どこまで、無駄なあがきを続けるつもりなのか。
我ながら、呆れた。自嘲の笑みが零れる。
――そんなにまでして、この世界に執着しているのか、俺は。
(何のために……)
(何が、俺をここに引き留める……)
――イザーク……
あれは、誰の声、だ。
頭のずっと奥の方から、微かに聞こえてくる。
ずっと、気になっていて……それでも気付かないふりをしていた。
俺を、引き留めるもの。
鮮やかな、深い緑の色が、じっとこちらを見つめる。
あいつは……
目の前をよぎる影に、慄く。
――たぶん、俺は……
ずっと……
(馬鹿な……!)
……認めたくない。
せり上がってくる自分の感情を拒み、否定する。
それでも……結局は、引き合ってしまう。
まるで、磁石の対極のように。
(おまえは、気付いていないだけなんだよ……)
笑いながら、そんな風に囁いた声が、ほろ苦い思いを呼び起こす。
(いつかきっと、わかる。おまえが、本当に求めているものが、何なのか……)
――おまえが、本当に好きなのは……
(――それは、俺じゃない……)
その瞬間、胸を貫いていく痛み。
衝撃に全身を打ち震わせながら、イザークは必死で否定した。
違う。
違う、違う、違うっ!
悲痛な叫びが胸を打ちつける。
そんなこと、ない。
俺は、おまえのことを……。
おまえの、こと……。
渦巻く不安定な思いを、無理にまとめようとする。
だから、俺はあいつをこの手で打ち砕く。
おまえを殺したあいつを、決して赦さない。
あの白い悪魔を、撃ち落とすまで、俺は戦うことをやめない。
それが果たせれば……。
そのときには……。
全てが終わり、俺はもう他には何もいらなくなる……。
金髪の顔がからかうように笑っている。
馬鹿なことを言うな、と笑っている。
そんなことは、嘘だ。
まだおまえには何かが残る。
おまえの求めるものは……まだ他にある、と。
馬鹿なことじゃない。
嘘をついてもいない。
俺は本気なんだ、と叫びたくても、声が出ない。
喉にぺたりと言葉が貼りついて、どうしても外に出ようとはしない。
それがもどかしくて、どうにもしようがなくて、たまらなかった。
俺には、何もない。
ああ……俺は、おまえの傍にいきたいんだ。
俺はもう、独りでここにいるのは、嫌だ……。
こんなに辛くて苦しくて、寂しくて……どうしようもない心を独りで抱えているのは、もうたくさんだ。
涙、が滲む。
今ここで涙を零すのが嫌で、瞼を固く、固く閉じる。
「俺には、何もない……」
小さな呟きが零れた。
わかる筈もない。
こんな俺の思いが。
誰にも、わかる筈……。
そのとき、不意に頬に触れる手のひらの暖かい感触を感じた。
びくっとしたが、ぽんぽんと優しく叩かれるたびに伝わるぬくもりが心地よくて、そのままじっとしていた。
意識がじわりと現実に戻ってくる。
この、部屋のベッドに横たわる自分と、それを目の前で見守る赤毛の男と。
奇妙な、光景だった。
それでも……
「……おまえは、馬鹿だ」
声が、そっと囁く。
静かに打ち寄せる波のように。
鼓膜をそっと撫でていく、その響きが懐かしくて、思わず唇から吐息が洩れる。
「……馬鹿だよ」
笑いながら、囁き続ける。
『馬鹿』だと言われているのに、なぜか怒りは湧いてこなかった。
むしろ、もっとそう言われていたい。穏やかなその声に潜む優しさに、縋りたい、と思った。
不思議だった。
自分は、この男のことを知らない。
何も、知らない。
この砂漠の駐屯部隊で出会ってから、まだほんの少しの時間しか過ごしていない。しかも顔を合わせてちゃんと話をしている時間ときたら、ほんの数時間にも満たないだろう。
たったそれだけの時間しか共有していないこの男が、なぜ今こんなにも自分の中に入り込んでしまっているのか。
そんな不思議を思い、イザークはそっと目を開けた。
頬に触れる手に、自分の手を重ねる。
払いのけようとした筈なのに、気付けばそれを握り締めていた。
「……どうした?」
手から視線を伸ばすと、すぐ上から揶揄するような瞳が覗いていた。
暗い海の底を思わせるその濃い瞳の色は、厳しいと同時に包み込むような懐の深さをも感じさせた。
「俺は、おまえのことを知らない」
ダコスタは呟くように、ゆっくりと話しかけた。
「おまえの背負っているものを、何も知らない」
静かな声が、イザークを包み込んでいく。
「それでも、おまえをこのまま、行かせたくない、と思った」
――行かせたくない。
どこへ――とは、言わない。だが、彼の言おうとしていることは自ずとわかる。
生命感に溢れた言葉。
強い瞳が瞬く。
生きろ、と強く呼びかける。
「……自分をよく見ろ。おまえは、そんなに弱い奴じゃない」
イザークは、何も言い返せなかった。
何と言えばよいのか、わからなかったのだ。
この男は、何なのだ。
(なぜ、こんな風に、俺を……?)
「……な……んで――?」
握っていた手を放す。
ゆっくりと身を起こしかけたが、その肩を上から軽く押さえつけられた。
やんわりと、しかし有無を言わせぬような圧力のある指に押されて、彼の体は再びベッドの上に押し戻された。
「なん、だよ……」
イザークは不思議な目で相手を見た。
「何で……なんだよ……」
口をついて出るのは、同じ問いばかりだった。
ただの好奇心か、それとも単なるお節介なのか。
何も知らないのなら、放っておけばよいではないか。
そこまで世話を焼く必要はない。
本当に、この男の気持ちが掴めない。
しかし、それでも相手に対して、わずらわしいとか鬱陶しい、という気持ちは起こらなかった。
自分は、この人の好い男のことを、知らず知らずのうちに受け容れ始めているのかもしれない。
なぜそんな風に思えるのか、自分でもよくわからなかった。
そして、戸惑っているのは、相手も同じようだった。
「さあ。何だろうな……。俺にもわからない」
ダコスタは少し困った顔をしていた。そして、そんな自分の困惑を振り払うように、笑った。
年齢の差を感じさせない、親しみのある人懐こい笑顔だった。
普段は目立たぬように思える顔が、突然強い生命力を帯び、生き生きと輝いて見える。
イザークは、不思議そうに相手の顔を眺めていた。
(なぜ……)
そんな問いに答えるように。
「――何でかな」
ダコスタの瞳がふと真剣な光を放つ。
「おまえを、放っておけない」
白くて線の細い、綺麗な顔立ちを見て、眼を細める。
不思議な生き物だ。
弱くて脆い。
それでいて、驚くほどの芯の強さを感じさせる。
このまま、手折らせたくない、と思った。
彼を縛りつけている、呪いを解いてやりたい。
過保護な感情だな、とそんな自分の滑稽さを笑いたくもあった。
しかし、どうやら笑っているだけでは済まないようだ……。
不意にその顔から笑みが、消えた。
もしかしたら、これは……。
自分は、本当に……。
(俺は、恋をしたのかもしれないな……)
澄んだ青い瞳を覗きながら、ふとそう思った。
思った瞬間、はっと我に返り、馬鹿げた感情だ、とすぐに自分自身を戒めた。
恋……だと。
いい大人の男が、何を言っているのか。
しかも相手は同性の、年もずっと離れた少年ではないか。
(俺は、何を考えているんだ)
深く息を吐き出す。
血迷っている、としか思えない。
先程のバルトフェルドやアイシャが仕掛けたあの悪戯に、自分まで取り込まれてしまったようだ。
彼は軽く頭を振ると、イザークを見た。
衝動が駆け抜ける前に、それを理性で押しとどめた。
彼は敢えてしかつめらしい顔を保った。
「もう少し、休んでおけよ。せめて薬が抜け切るまで、な。――俺は隊長みたいなことは、しないから」
そう言うと、彼は何とか自制心を保ったまま、イザークから身を離し、ベッドに背を向けた。
(俺は、隊長みたいなことはしないから……)
本当かな、とひそかに首を振る。
本当は――
ずっと、抱きしめたい衝動に駆られていた。
抱きしめて、くちづけてみたい。
あの白い肌に手を這わせてみたい、とさえ思った。
そんな自分の思考にぞくりと痺れた。
いつか、冗談で軽くキスをした。
あのときから、既に自分はこの少年に、魅かれていた……。
(俺は、偽善的な大人だな……)
ダコスタは苦笑した。
わかったような口ぶりでいるその裏では、狂った欲望の渦に呑み込まれそうになっている。それを敢えて理性の薄い壁で覆い隠して……。
(どうする……?)
自分自身に問いかける。
そのとき、ふとデジタルクロックに目がいった。
――そうだ。あれから、もうそろそろ三十分が経過しようとしている。
(そろそろ、お迎えがやってくるかな?)
ダコスタは、金髪の少年の姿を思い浮かべ、苦笑した。
残念なようで、どこか心の重荷が取れるような、複雑な気分だった。
夜はまだ半分残っている。
このまま同じ部屋の中に、『あんなもの』を置いて……。
本当にすんなりと眠れるかどうか。果たして己の自制心をどこまで信用してよいものか。
正直に言って、ダコスタにはあまり自信がなかった。
それでは、迎えが来るまでもう少し我慢していることにしようか。
そう思って、彼は軽く吐息を吐いた。
(to
be continued...)
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