残 光 (8) 照度の下がった薄暗い室内は、しんと静まり返っている。 やがて、ベッドに横になっている少年の規則的な呼吸音が聞こえ始めると、ダコスタは軽く息を吐いた。 椅子の背に体をもたせかけたまま、しばし目を閉じる。 このまま、自分も眠ってしまえばよいものを、なぜか目が冴えて、横になる気分にはなれない。 自分が背後にいる『彼』をそんなにまで強く意識しているということに改めて驚く。 (ほんとに、俺はどうしちまったんだ……) 彼は頭を掻いた。 惑わされている、としか思えない。 苛立つ心を抑えるように、何度も荒々しい溜め息を吐き出した。 (――何でだろうな……) (――放っておけない……) 頭の中を、ちらつく残像。 銀色の光の小さな欠片が網膜に焼きついたまま…… どうしても、離れない。 目を閉じても、すぐ傍に感じる心臓の鼓動。 吐息の音すら、こんなにも敏感に感じてしまう。 (……何なんだ、これは――) そんな自分にうんざりした。 しかし…… (――俺は、恋をしたのかも……) ――ビーッ。 そのとき、不意に部屋に響き渡ったインターカムの音が、そんな彼の悶々とした状態を瞬時に遮った。 予期していたものの、その鋭い音にどきりと心臓が高鳴る。 続いて、応答を待ちきれないかのように、微かに壁を叩く振動が伝わってくる。 さっきと全く同じだった。 夜中だというのに、遠慮も何もあったものではない。 妄想を打ち砕かれたダコスタは、忽ち現実に立ち返ると、やれやれと立ち上がった。 (……ったく――) ――金髪の小僧が早速、やってきたか。 時計を見ると、先程の訪問からぴったり半時間経過しているのがわかった。 (やっぱり、来やがったか……) 余程、大切な相棒らしい。 それとも―― もっと他に何かあるのか……などと不埒な考えをちらつかせながら、ダコスタはちらとベッドの方へ目を向けた。 俺がもしこいつと同じような年頃で、同じ隊にいて……同じメシを食って、同じ部屋にいて、ずっと同じ時を過ごしていて……。 ずっと、ずっと傍にいて……この綺麗な顔を眺め続けていれば……もし……もし、そこにいるのがあのディアッカ・エルスマンでなくて、この俺だったなら―― 俺は……どうなっちまっていただろうか……。 そんな風に、取りとめもないことをふと思い、我ながらどきっとした。 こんなことを考える自分は、やはり相当イカれちまっている。 ダコスタは妄想を振り払うように、軽く頭を振った。 「ん……」 そのとき、イザークの唇から微かな音が洩れた。 鳴り続けるインターカムの鋭い電子音が、彼の軽い眠りを妨げたことは一目瞭然だった。 (ちょうど、いい) ダコスタは扉へ向かう前にベッドへ立ち寄り、イザークの体を軽く揺すった。 「おい、イザーク!起きろ。お迎えが来たぞ」 「……ん……あ……?」 ぼんやりした顔のイザークが、ゆっくりと体を起こしかけているのを背に、ダコスタはさっさと扉口まで歩いた。 電子錠を解除すると、扉は音もなく開いた。 「イザークは?」 怒ったように金髪の頭を振り上げてくる相手を目の前にして、ダコスタは苦笑した。 「安心しろ。ちゃんと見つけてきてやったよ。――そこにいる」 ダコスタの言葉を最後まで聞くことなく、ディアッカはどかどかと部屋の中へ踏み込んできた。 「イザークっ!」 ベッドの上でぼおっと半身を起こしたままの相手の姿を見た途端、ディアッカの目が大きく見開かれた。 「……なっ、何だよ、おまえ……その格好っ!」 肌蹴られた軍服の下……少し捲れ上がったアンダーシャツの下から覗く白い肌が、どことなく寝乱れた感じを匂わせていた。 ディアッカは一瞬その場に硬直した。 心臓がどきんと、波打った。 薄暗い中にいると、余計にその僅かに見える露出した肌がエロティックに見える。 普段はあれほど几帳面なイザークが、こんなだらしない格好で他人のベッドの上に横になっているなど、到底想像もできないことだった。 「……ちょっ、ちょっとおい、オッサン!」 くるっと振り返るなり、乱暴に呼び立てたディアッカに対して、ダコスタは忽ち不愉快そうに眉をしかめた。 「――誰がオッサンだ!」 「あんただよ、きまってんだろ!他に誰がいるんだよ」 ディアッカは容赦なく言い放った。 「――あのなあ、俺は、まだ二十……」 「そんなこと、どうだっていーんだよ。――あんたさ、まさかこいつに何かヘンなことしてねーだろうなっ!」 ディアッカはそう言うと、ダコスタをじろりと睨んだ。 その必死な形相に、思わずダコスタは笑みを洩らした。 「変なこと……って、おいおい……」 すっかり人を変態扱いしやがって……と思いながらも、一方で完全にそれを否定できない自分に、ダコスタは躊躇いとともに微かな苛立ちをも感じていた。 (何もしていない、ってだけで、確かに俺は……) ――頭の中では、既にあいつを……。 ――何度も、何度もこの手に抱きしめて……。 ――貪るようなくちづけを交わし、その肌に唇を這わせ……。 (――俺はあいつを、犯して……いた……) その考えに我ながら、どきりとした。 そんな心の動揺を悟られたのか、ディアッカの顔がさらに険悪に鳴る。 「どうなんだよ!」 そこには、返答次第ではただではおかないぞ、という脅しの響きさえ感じ取れた。 「……おい、やめろ!ディアッカ」 そのとき、ディアッカの背後からイザークが鋭い制止の声をかけた。 「……イザーク……」 ディアッカはその声に引かれたように、再びイザークの方へ向き直った。 「おまえ、大丈夫なのかよ」 イザークの方へ体を屈めると、相手のすぐ目の前に心配そうな顔を突きつけた。 そんなディアッカを、イザークは冷たい瞳で睨みつけた。 「貴様、一体ここで何をしている?」 そう言うと、イザークは近寄ってくる相手の体を冷淡に押し戻した。 「……って、何だよ。おまえがいきなり夜中にいなくなっちまうから、どこ行っちまったのかって……俺はただ心配してさ……」 「おまえは俺の保護者か?……こんな艦の中でどこに行くもないだろうが!それとも何か。俺は、いちいちおまえにお伺いを立ててからでないと、どこにも行けないとでもいうわけか。おまえ、いつからそんなに偉くなったんだ?」 叩きつけるように吐き出された毒の入った言葉の羅列に、ディアッカもさすがにむっとした。 「……ちょっと、それはないんじゃない?……大体、夜中にいなくなるなんて、普通じゃないだろうが。心配しない方がおかしいだろ?……それにさ、宇宙(そら)での戦闘からいろいろあったし、おまえが普段よりずっとイラついてて不安定になってるようなときで……この艦の中でだって、あんな風に絡まれて、派手な騒ぎ起こしたりしてたから――余計に気になったんだよ!それを、何だよ。そーいう言い方ってねえだろうが?おまえこそ、何様だよ。ああ?……おまえのこと、ちょっとでも可哀相だなんて思った俺が馬鹿だったよっ!」 「可哀相、だと?勝手に人を哀れむなっ!俺は何も――」 「――泣いてるだろう」 冷静なその一言がディアッカの口から吐き出された瞬間、イザークは、はっと息を飲んだ。 「……な……ッ……!」 言い返す言葉に詰まる。 ディアッカの瞳がふと柔らいだ。 おまえのことはわかっているんだ、と言っているようにイザークを見つめる。 イザークは唇を噛んだ。 ディアッカ……。 わかっている。 ディアッカが本当に自分のことを心配している気持ち。 本当は、全部わかっている……。 だが……だから、時に辛くなる。 そんな風に思われていることが、自分には苦しくて。 自分の全てを曝け出すことに酷い抵抗を感じてしまう。 そんなことは全て嘘だと、叫びたくなる。 自分はそんな奴じゃない、と大声で否定したくなる。 悶々とした感情が募り、抑えきれなくなった。 「……ちが――」 「違わねーよ」 瞬時にディアッカに遮られ、吐き出しかけた声が宙に消える。 「――ずっと泣きそうな顔してるだろう?そーいうの、わかるんだよ。長い付き合いなんだしさ。……ったく、素直になれよ。おまえ、ずっと辛くって、泣きたくって仕方ねーんだろうがっ!」 「……うっ……うる……さい……っ……」 ようやく言葉が明瞭な音となって外に出た。 「……うっ……るさい、うるさい……うるさい、うるさいっ!人のことを勝手に決めつけるなっ!それに、誰も貴様に心配してくれなどと頼んだ覚えもないっ!」 「頼まれなくたって、おまえといると自然にそうなっちまうんだよっ!畜生っ!」 「――おいおい、いい加減にしろよ。……喧嘩なら、自分たちの部屋に帰ってからにしてくれ」 互いに罵倒しながら睨み合う二人に、たまりかねてダコスタが二人の間に割り入った。 「一体今何時だと思ってる?人の部屋で、いい迷惑だ。――おまえもせっかく迎えにきてくれたこいつに、そういう言い方は良くない。とにかく、さっさと帰れ」 そう言いながら、ダコスタはイザークの肩に手をかけてベッドを降りるように促した。 しかし、イザークは何も返事をせず、急にふい、と壁へと顔をそむけた。 その仕草に、ダコスタは訝しげな目を向けた。 「……おい?」 妙な沈黙の時が過ぎ…… 「――俺は、ここにいる」 イザークの唇から出たその予期せぬ一言に、ダコスタもディアッカも唖然となった。 「イザーク?」 「何考えてんだっ、おまえっ!」 二人の口から同時に言葉が飛び出した。 「冗談は、やめろ」 ダコスタの口調は厳しくなった。 彼は再び苛立ち始めていた。 (何なんだ、こいつは……っ) 自分がようやく平静を保てそうになってきた矢先に、またこのように心を波立たせるようなことを言い出す。 自分のこの心の動揺が表に出ているのではないかと思うと、更に落ち着かなくなった。 「さっさと出て行け、と言っている」 低く絞り出すような声でそのように言い捨てると、ダコスタは、イザークを睨みつけた。 「……迷惑だ、とも言った。聞こえなかったのか」 そのとき、不意にイザークの目がこちらを向いた。 目が合った。 青い。 薄闇の中でもはっきりとわかる。 透徹した、氷のような青さ。 その青い、青い瞳と……。 (くそっ) ダコスタは舌打ちした。 目を逸らしたい。 だが、逸らせなかった。 ……ああ…… (――また、おかしくなる……) 見つめ返す瞳。 そこには、明らかに自分の間抜けな顔が映っていただろう。 ふっ、とその目が笑った――ように、見えた。 揶揄するかのように。 一瞬、自分の心の中を見透かされたのではないかと、どきりとした。 「……ここに、いたい」 イザークの唇が、静かに言葉を紡いだ。 「……ここに、いる」 (放っとけない、って言っただろう、あんた……) ――そう、言ったよな……。 ……拒めなかった。 「……仕方……ない、な」 喉から掠れたような声が出た。 ダコスタは、さりげなく咳払いをして、声を元に戻した。 「……じゃあ、取り敢えず今夜はここで泊めてやる」 「……おっ、おいっ!そんな――」 「――ってことだから、こいつはもう数時間、こっちで預かってやるよ。おまえは部屋に帰って休め」 ダコスタはディアッカの肩を掴み、宥めるように押さえながら扉口まで引っ張っていった。 「あんたまで、あいつの我儘に付き合うこと――」 「いいから。……今、あいつと二人きりになってもまた言い争うだけだろ。お互いにちょっと頭を冷やした方が、いい」 耳元にそっと囁きかけると、ディアッカは不承不承相手の言葉を飲み込んだ。 「……う……ん……」 ちらと、背後を振り返りながら、吐息を吐く。 「……あいつ、頑固だから」 くそっ、と軽く舌打ちするディアッカを、ダコスタは気の毒そうに見た。 「お姫様のお守りも大変だな」 イザークに聞こえないようにさらに低声で囁くと、 「――まあ、ね」 ディアッカは諦めたように肩を竦めてみせた。 「……ああいう奴だから、なあんか、危なっかしくてさ」 改めてダコスタをじっと見据える。 「寄ってくる虫も多いし」 おまえもそうじゃないのか、という露骨な視線をダコスタは笑って軽く交わした。 「俺は、数えなくていいぞ。――オッサンだから」 「いや、オッサンが、一番危ないんだよな」 まじまじと見つめる紫色の瞳をまともに受けるのが辛かった。 ――見透かされている…… そう、感じた。 「――まあ、今んとこは、あんたを信じるよ」 数瞬後、何もなかったかのように、瞳は逸らされた。 「……明日の朝は、ちゃんと帰してくれよ」 「ああ、せいぜいご機嫌を伺っておくから」 ディアッカを送り出しながら、平然と流されていく欺瞞に酷い自己嫌悪を感じた。 (俺は、嘘を吐いている……) 自分の中で醜悪な欲望の感情が蠢き始めているのを、ダコスタはもはや認めざるを得なかった。 (to be continued...) |