残 光 (9) 「……どういうつもりなんだ?」 扉が閉まり、再び二人きりになると、ダコスタは早速イザークに詰問した。 眉を上げ、怒ったような顔をしたつもりだった。 しかし、何の迫力もないことは自分でもよくわかった。 なぜなら……。 (俺は、本当はこうなったことを怒ってはいない――) むしろ…… ――むしろ、喜んでさえ、いる……。 だから、こんな顔をして取り繕ってみても、無駄なのだ。 ダコスタは、忌々しげに視線を落とした。 自分が今どんな顔をしているのかと思うと、とても目の前の少年と顔を突き合わせる気持ちにならなかった。 「……ここにいたいと思ったから、そう言っただけだ。悪いか……?」 イザークはゆっくりとそう答えた。 何の躊躇いも感じられない。 ――一体こいつは何を考えているのか。 ダコスタには相手の考えがよくわからなかった。 「こんなところにいたって、面白くもないだろう。寝るだけなら、どこだって同じだ」 なぜ、さっさと自分の部屋に戻らない。 そう、責めたい気持ちにもなった。 余計なことで悩まなければならないこちらの気持ちにもなってみろというのだ。 「ああっ、もう、いい。わかった!取り敢えず、早く寝ろ!」 イザークが返事を返す前に、ダコスタは苛立った口調でそう言うと、相手に背を向けた。 「……何で、そんなに怒ってるんだ?」 のうのうと問いかける少年の声を背に受けると、ダコスタの苛立ちは頂点に達した。 「……あのなあっ……!」 思わず口を開きながらも、どうも後が続かず、そのまま中途半端に口を噤む。 ――おまえがここにいるから……っ! ――おまえがここにいることが、俺を…… 何と言えばよい? おまえの存在が俺を欲情させるのだ、とでも言うのか? そんなこと、言えるわけがない。 ダコスタは眉を寄せて黙り込んだまま、クローゼットを開けた。そこから予備の毛布を引っ掴むと、壁際の調光スイッチを一気にオフにする。 室内はいきなり真っ暗になった。 「……今どんな状況かわかってるんだろう。いつ戦闘に入るかわからないんだ。休めるときには休みたいんだよ!」 苛々とした調子も露わにそう闇に向かって叫ぶと、ダコスタは床に座り込んだ。 固い床面が体に触れるとその冷たさに思わず身震いし、毛布を体に思いきり巻きつけて横になった。 (どうか、している……) もやもやする思いを振り切るように、ダコスタは固く目を閉じた。 寝てしまえば、それで終わる。 朝になれば、こんな思いもしなくなる。 この夜の空間が、自分をおかしくさせているのだ。 こんなに狭い場所で、この夜の空間を、『彼』と共有しているということが……。 ――がたん。 突然、妙な音がした。 誰かがよろめき、倒れた気配。 眠りかけた頭がまた現実へ押し戻された。 「……どうした?」 慌てて起き上がった目の前に、膝をついて起き上がろうとする人らしき影が見えた。 「イザーク……?」 「あ……すまん。起こした……か――」 躊躇いがちの声がそっと答える。 「――どうしたんだ」 ダコスタは毛布を払いのけると、そろそろと相手の傍までにじり寄った。 ちょうど立ち上がりかけて、よろめいた体を反射的に受け止める。 「わっ、ちょっ、ちょっと待て……!」 のしかかる体重を支えきれずに、イザークを抱いたまま、後ろ向きに尻をついた。 意外にも筋肉のついた逞しい体でありながら、それでいてそのしなやかな触感が妙に艶かしくて、ダコスタは一瞬ぎょっとした。 そのまま押し倒してしまいたくなるようなむず痒さを感じた。 (……ああ……何だよ、これ……) くそっ、と舌打ちしながら、必死で衝動を堪え、イザークの体を敢えて突き放す。 「何やってんだよ。……ったく。――大丈夫か」 呆れたように声をかけると、ようやく相手はのろのろと体を動かし始めた。 「……くそ、足が……っ……」 ぼそりと吐き出された言葉。そのいかにもきまり悪げな、ふてくされた顔に、ダコスタは思わず苦笑した。 (ベッドから出ようとして、落ちたか) ――そりゃあ、格好悪いよな。 まだ先程飲まされた薬が体から抜け切っていないのか。それとも単に寝ぼけ眼で四肢がうまく動かないだけなのか。 ダコスタはなおもイザークの横顔を眺めながら、目を細めた。 暗い中でも、はっきりとわかる。 その白い項に、纏いつく銀糸の閃き。 溜め息がこぼれそうになるのを、すんでのところで押さえた。 (これじゃあ、本当に変態になっちまう) しかし、どうもいけない。 先程、おさまったと思ったあの妙な疼きが、また体の底から湧き上がってくるかのようだ。 そんな風にまたひそかな葛藤に悩まされながら、彼もまた少年から視線を逸らした。 このまま直視していると、ますます変な気分になりそうで、抑制できなくなる自分自身がどこまで暴走するのか、それを想像すると何となく空恐ろしい気がした。 白い肌。 弾力のある、柔らかな肉感。 若い命の鼓動が伝わる。 こぼれるような、銀色の雫が目の中に落ちてくる…… くらりときた。 抱き……たい…… この美しいものを、自分自身の腕の中に…… (全く……俺は……) 何でこんなことばかり考えて―― 「……ず……」 不意に聞こえてきた声が、ダコスタの意識を現実に引き戻した。 「――あ……なに?」 「……水……」 イザークはぶすっと呟いた。 「……喉が、渇いた――から……」 ダコスタは瞬いた。 「……あっ、ああ、なるほど。――水、ね……あ、ちょっと待て!」 立ち上がろうとするイザークを、ダコスタは両手で押しとどめた。 「水なら、俺が今持ってきてやるから!」 イザークの瞳が訝し気にダコスタを射る。 「……いい。自分で――」 「いいから、おまえはここにおとなしく座ってろ。また転んじまうぞ」 「……さっ、さっきのは、ちょっと足がふらついただけで――」 「急に起き上がったりするからだ。どうせまだクスリが残ってるんだろ。とにかく、じっとしてろ」 有無を言わせぬ口調でそう命じると、ダコスタはさっさと水を取りに立ち上がった。 ちょうどよい。 イザークの傍をいっとき離れることによって、この変な気分を何とか押し戻すことができるかもしれない。 そう自分に言い聞かせながら、バスルームの扉を開ける。 入った途端、オートセンサーで煌々とついた眩しい光の渦に目が眩みそうになる。 鏡の前に立ち、そこに映る自分自身の間抜けな顔を眺めて、一瞬吐息を吐いた。 情けない顔をしている自分に軽い苛立ちを感じる。 振り回されている……と思った。 (――全く手間のかかる……) ぼやきながらも、いそいそと水をコップに汲んでいる自分がたまらなく滑稽に思えて、彼は思わず笑みをこぼした。 (……ったく、ほんとになーにやってんだか。俺は……) まるで、本当にお姫さま付きの召使にでもなったような気分だ。 しかもそれを不愉快とも思っていない自分がいる。そこが困った点だ。 (……ダメだ、ダメだ。もう何も考えるな……) 頭を振りながら、コップを持って戻った。 おとなしく蹲っているイザークを見ると、忽ちまた心がさざめき立った。 「ほら」 差し出すと、イザークは案外素直に受け取った。 「………………」 手に持ったコップをじっと見つめたまま動かないイザークの様子に、ダコスタは首を傾げた。 「……なんだ、飲まないのか?」 その声にイザークは、僅かに頭を落とした。 「……いや……」 「変な奴だな。どうしたんだ?さっさと飲めよ」 どこか気分でも悪いのか、とダコスタはしゃがんで、相手の顔を覗き込もうとした。が、そのとき不意にイザークは顔を上げた。 近すぎる距離で目と目が合う。 「……その――わる……かったな」 もぞもぞと小さな声でそう呟いたかと思うと、彼はきまり悪さを振り払うように固く目を閉じた。そしてそのままコップに口をつけ、水を飲み始めた。 相手の口からそんな殊勝な言葉が飛び出したことに、ダコスタは少し意表をつかれた。 (へえ……) 水をごくごくと飲む相手を呆気に取られたように眺めながら、 (――悪いと思ってるんだ) 不器用な感謝の表し方に、ダコスタは少し胸を衝かれた。 その瞬間、目の前の少年が愛しくてたまらなくなる。 もう、ごまかしようもなかった。 (……イザーク……) 胸がざわざわと騒ぎ出す。 (……なんで、おまえ、ここにいるんだよ) さっさと出て行ってくれたら、良かったのに。 これ以上ここにいる理由など、ないだろうに。 ……それとも、何か理由があるとでもいうのか。 ここに、いなければならない理由が……。 俺の、傍に……。 (――ここに、いる……) ――くそっ。 ……全くくだらないことばかり、考える。 「それ飲んだら……」 早く寝ろよ……と言いかけて、ダコスタははっと息を飲んだ。 ……水を飲み込んでいくたびに、動く白い喉。 僅かにこぼれた水滴が唇の端から、伝わり落ちていく。 ごくり、ごくりと聞こえる音が、鼓膜を刺激する。 ダコスタは目を瞠った。 (……あ……) 自分がおかしくなっているのか。 いったいどうしたというのか。 こんなに、胸が激しく鼓動するのは……。 目の前の光景がこんなにも艶かしく、欲情をそそるのは……。 俺がただ、おかしくなっているだけなのか。 だが、俺をこんな風におかしくさせているのは、こいつ……だ。 こいつが、俺を……。 その瞬間…… 限界、だった。 ダコスタは、もうそれ以上、突き上げてくる衝動を抑えることができなくなった。 ――ええい、くそっ。もう、知るか……っ……! 彼はいったん目を閉じ、軽く息を吸い込んだ。 (……あ……っ……) イザークは、はっと目を開いた。 顔にかかった熱い吐息に驚いたように上げた瞼の先に、ダコスタの真剣な顔が迫っていた。 どうしたのか。 こんな、顔……。 それまでの彼とはどこか、違う……。 イザークは、わけもなく怯えた。 逃れようとした瞬間―― コップが口から離れ、残った水を撒き散らしながら床へ落ちていく。 床に落ちた途端、金属製のコップは派手な音を立てたが、既にその音は彼の耳には遠く感じられた。 こぼれ散った水が顔や膝を濡らす。伝い落ちていく水滴が胸の中に沁み込んでいく冷たい感触すら、気にしている余裕はなかった。 突然押し倒され、床に頭が激しくぶつかった。鈍い痛みに一瞬ぼおっとなりかけたが、すぐに彼は激しく抗い始めた。 「……やっ……あ……ッ……!」 のしかかってくる肉食動物の貪欲な爪の下に捉えられた無力な獣のように、彼はただ虚しく四肢をばたつかせた。 そむけようとした顔を乱暴に掴まれ、忽ち唇を奪われる。 遠慮なく舌が入ってくるのを拒みようもなかった。 体がどんどん熱を帯びてくる。 せっかくおさまったと思ったのに……。 イザークの体は再び魔に犯されたように興奮し、全身がじくじくと熱く疼き始めた。 舌をあまりにも強く吸い上げられ、息苦しさと舌を引きちぎられるかとも思えるような痛みに、思わず涙が込み上がった。 やめろ、と必死で突き放そうとしても、がっちりと四肢を床に縫い付けられて身動きひとつできない。そして、激しく口内を犯されているうちに、抗う力も抜けていき、反対に下半身の部分のみがはしたなく反応していくのが感じられ、我ながらぞっとした。 心臓が突き破られるのではないかと思うほどどくどくと激しく全身を打ちつける。 こんなに体が刺激に反応しているのは、先程の薬がまだ体内に留まっているからだろうか。 おかしくなる。 どんどん、意識が薄れていく。 止めたいのに、止められない。 止めて欲しいのに、体は正反対のことを望んでいる。 (イヤだ……っ……) ようやく唇が解放されたときには、もう止まらなくなっていた。 涙を滲ませながら、イザークはそれでも相手の男を必死で睨んだ。 「き……さ……ま……っ……」 文句を言おうとしても、ぜいぜいと息をするだけで精一杯で、声らしい声が出ない。 ダコスタも息を弾ませながら、そんなイザークを見てそっと目を細める。 「嫌、か……?」 冗談の欠片も感じられない、真剣な瞳がイザークを射る。 それは、まだこの行為が続くことをはっきりと予感させた。 恐れと期待に自ずと体が慄く。 (……い……や……?) 問いかけられて、イザークは戸惑った。 四肢を押さえつけていた力が僅かに緩んだ。 ――嫌……にきまっている。 こぼれる涙を拭うこともせず、せっかく自由になった両手足を力なく床に押し当てたまま……。 イザークはただ、憑かれたように目の前でじっと自分を見つめる男と視線を合わせていた。 血液が逆流していくかのような……。どくん、どくんと高鳴る鼓動に、押し潰されそうになりながら……自分がもう後戻りできぬところにきてしまったことをぼんやりと自覚した。 「……悪いが、俺は止められそうに、ない……」 す――と手のひらが胸の下を這った。 「――は……あっ……!」 それだけで、体が激しく反応した。 彼は目を閉じ、身悶えた。 気が付くと、空へ向けて両手を伸ばしていた。 (どうして……) 理由など、ない。 ただ、抱き止めてくれる手を求めていた。 「……イザーク……」 抱き上げられた腕の中に、子供のように縋りつく。 「……嫌、か……?」 ぎゅっと抱き締められ、耳元に再び囁かれたとき、彼は必死で首を振った。拒んでいるのか、求めているのか……わからない素振りだった。 (こんな、筈じゃ……) 肩口に唇をつけながら、シャツの下の肌を軽く噛んだ。 髪を撫でていた手がぽん、と嗜めるように軽く頭を小突いた。 イザークは肌にそのまま鼻を押し当てた。 軽く汗ばんだ肌の中に、ダコスタの匂いを感じた。 「悪いが、止められない……」 ダコスタは囁きながら、イザークの体をさらに強く胸に押しつけた。 「……おまえは、嫌か……?」 何度も同じ問いを繰り返す。 答えを求めているのかいないのか。 「……わ……から……ない……」 そう呟きながらも、軍服を脱がされていくことにもはや抵抗の欠片すら感じていない。おとなしくダコスタの指が服を剥いでいくのを、まるで他人事のように眺めているのだ。 しかし、相手の手が下肢に及ぶと、さすがに彼はびくんと身を竦ませた。 「あ……!」 膨らんだそこをぎゅっと掴まれて、彼は思わず喘ぎ声を上げた。 「あ……や……っ……!」 びくんと跳ねかけた体をダコスタは笑いながら抱き締めた。 「……落ち着けよ。何も取って食いやしない……」 熱い息が耳をくすぐる。 (――優しく、する……) 唇が項から首筋を這い、優しく愛撫していくその感触をイザークは夢の中にいるかのようにぼんやりと感じていた。 (こいつは、誰だ……?) ――誰、なんだよ…… ああ……俺、何か変だ。 やっぱり、変だ。 どんどん……わからなくなってくる。 「――何も、考えるな……」 相手の声がそっと囁く。 ――今、おまえは何も考えなくて、いい。 いつのまにか、その声に不思議な信頼を寄せている自分がいることに気付いた。 ――どうか、している。 でも…… 本当に、何も考えなくてよいのなら……。 突然、頭の中を白い光が弾けた。 轟音。呪詛の悲鳴。 (ストライクううーッ……!) 醜く歪む自分自身の顔に刻まれた一筋の赤い傷跡がどんどん大きくなり……。 あまりの恐ろしさに一瞬パニック状態に陥り、悲鳴を上げそうになった。しかし声は掠れて喉の途中で止まった。喉から僅かに洩れる息がひゅうひゅうと笛のような音を立てるのが自分でもひどく耳障りで、厭わしくて、また怖ろしくもあった。 「い……やだ……いやだ……あ……あッ……!」 急に発作を起こしたかのように激しく暴れ始めた体に、ダコスタは驚いた様子を見せたが、彼はそれでも相手の体を放しはしなかった。 優しく、同時に強く力を加えながら、胸元に引き寄せる。 興奮する体が落ち着くまで、ダコスタは無言のまま少年の体を抱き続けた。 「……イザーク……」 自分の名を呼ぶそんな低い囁きがようやく聞き取れるようになるまで、だいぶ時間が経ったような気がした。 ――あ……あ……。 イザークは息を吐き、ゆっくりと瞳を開いた。 「……お……れ……?」 暖かい手応えに安堵する。 震える指をそっと自分の顔に当てると、傷の手触りがリアルに感じられ、どきっとした。が、その指の上に相手に指が重なった。 傷を優しく撫でる指先が自分の指なのか相手の指なのかもはやわからなくなった。 ただ、傷の存在は……さっきほど、恐ろしくは感じられなかった。 イザークはほっと吐息を吐いた。 傷を撫でる指先が、瞼から鼻先、そして僅かに湿った頬を伝い、唇をなぞる。 顎を持ち上げられたとき、自然に唇を開いていた。 もう一度、くちづけを交わした。 啄ばむような軽いキスの後、唇が首筋から胸へと落ちていく。 もう、本当に何も考えられなかった。 ただ…… 本当に何も考えず、この腕の中に縋っているだけでよいのなら…… ならば、俺は……。 (――俺……は……?) 熱を帯びた体を相手に預けたまま、イザークは静かに目を閉じた。 (to be continued...) |