墓 標
風が、吹く。
アスラン・ザラは足下にそっと視線を落とした。
そこには小さな墓標がたっている。
墓石の表面に刻まれた名――レノア・ザラ。
彼の母の名だった。
・・・アスランの瞳が曇った。
1年前のあの日・・・突然の訃報を聞いたときのあの衝撃。
――嘘だろう・・・。まさか・・・そんな・・・っ・・・!
あまりの悲嘆に、声も出せぬまま、ただその場に崩折れた。
――母さんが・・・死んだ・・・なんて・・・!
・・・思い出すたびに、まだどくどくと心臓が激しく波打つ。
母さん・・・。
美しいあの微笑みと慈しみに満ちた瞳は永遠に閉ざされた。
もう二度と帰ってはこない。
(・・・アスラン・・・元気そうで、良かった・・・)
(・・・体には気を付けて・・・無茶しないのよ・・・)
(・・・愛してる・・・)
当たり前のように繰り返されてきた言葉。
定期的にスクリーンを通して見る母の笑顔に、心が和らいだ。
会えなくても、寂しくはなかった。
母の笑顔が・・・彼を見つめる優しい瞳が・・・
そのまぎれもなく伝わってくる深い愛情が、たとえスクリーン越しにではあっても、孤独に挫けそうになる彼をどんなにか勇気づけ、励ましてくれたことか。
(俺も・・・愛してるよ、母さん・・・)
いつまでも・・・
あなたのことは、忘れない。
・・・アスランは目を閉じた。
微風が髪を揺らし、舞い散る花のほんのりと香る甘い匂いが僅かに鼻腔をくすぐった。
1年前・・・
そう、まだたった1年しか経っていない。
なのに・・・こんなにも、全てが変わってしまった。
突然ユニウス・セブンを襲った一基の核ミサイル・・・。
それが一瞬にして多くの命を奪い、地球連合とプラントをそのまま一気に開戦へと突入させた。
人々は、怒りと悲しみにただ身を焦がし、我を忘れてしまったかのようだった。
憎しみが憎しみを生む、その果てのない復讐の連鎖の環に巻き込まれたまま、いつしか人々は戦争という無意味な殺戮の海に呑まれようとしていた・・・。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
今でも時々、まだ信じられぬような思いがアスランの胸を掠めていくことがある。
ただ長い悪夢を見ているだけで、やがて目覚めれば元の平和な世界に戻っているのではないかとすら思えるような・・・。
今、この瞬間にも母からのメッセージの到着を知らせる電子コールが鳴るのではないかと・・・そんな虚しい期待を僅かでも胸に抱かずにはいられない。
アスランは溜め息を吐いた。
一片の骨のかけらすら、残さずに宇宙の藻屑と消えてしまった母の遺骸は、当然この土の下には眠っていない。
あるのは、ただ冷たい墓石に刻まれた簡単な追悼の文言と、それを偲ぶ者の追憶の思いだけ・・・。
母さん・・・あなたはどこへ行ってしまったのか・・・。
アスランは、ふと思う。
痛みは一瞬で終わったのだろうか。
長く苦しむことはなかっただろうか。
・・・今はもう苦しみも痛みもない世界で、安らかに眠れているのだろうか。
痛みも苦しみも・・・そして悦びをも・・・
何も感じることのない永遠の生命が支配する無窮の昏い空間を・・・未だに漂い続けているのだろうか・・・。
――涙はとうに枯れ果てたものと思っていた。
なのに、なぜだろう・・・。
今、頬を濡らすこの感触は・・・。
悲しみに浸っている暇などないというのに。
アスランはこのような犠牲を二度と生み出さないためにも、戦わねばならないと心に固く誓ったのだった。
――『正義』は、どこにある?
絶対的な正義など、存在しない。
それはわかっている。
しかし・・・
愛する者を無惨に奪われたあの苦しみと向かい合ったとき、彼は『戦うしかない』のだということをはっきり痛感したのだ。
自分たちを・・・このプラントを・・・
守らねばならない。
コーディネイターである自分たちの存在を脅かすものがあれば・・・
あくまで戦うしかないのだ。
これ以上、大切なものを失わないためにも・・・。
選択の余地は残されていない。
戦わねば、滅びるだけだ。
戦うしか、ない・・・。
大切なものを守るために、戦う。
そう、決意した。
もはや何も迷うことなどない。
・・・ない、はずだった・・・。
・・・それが、今――
彼の心に一点の曇りが生じ始めていた。
(なぜこんなにも、俺の心は弱くなっている・・・?)
アスランは歯を食いしばった。
――なぜなんだ・・・?!
ラスティ・・・ミゲル・・・。
大切なものを失いたくない。
そう思って、戦っているはずなのに・・・。
既に・・・二人もの友を失ってしまった。
目の前で爆発して無惨に散っていくジンを、ただアスランは眺めているしかなかった。
そして、それを撃ったのが・・・
(・・・キラ・・・!)
アスランは苦い思いを噛みしめた。
思いがけないキラ・ヤマトとの再会が・・・彼の心を狂わせ始めているのか。
――なぜなんだ、キラ・・・?!
何でこんなことが・・・。
何とか、キラを説得しようとした。
無理にでもプラントへ連れて行こうと・・・。
彼は自分の立場も忘れ、あのとき・・・
アスランは思い返して、込み上がってくる悔しさに拳を固く握り締めた。
もう少しで、取り戻せると思っていた友が、手の中からすり抜けていったあの瞬間――アスランは、もはや止められない残酷な運命の手の触手を感じ、身を震わせた。
(俺には・・・本当にもう、戦う道しか残されていないのか・・・)
――たとえ・・・
たとえ、相手がかつてあんなに親しみ、心を通わせた親友であったとしても・・・。
(戦うしか・・・ないのか・・・)
そう思うと、急速に胸の内を広がる孤独と寂寥感に呑まれていくようだった。
誰もが、自分から離れていく。
大切なものが、ひとつひとつ・・・崩れ去っていく。
がらんどうになっていく、自分自身の空虚な心がいかにも寒々と眼の底に映った。
風が空気を揺らすと、体が急に冷えていくかのようだった。
このまま何も残らず、全てが潰えていくのか・・・。
――そんな絶望的な思いが、彼の心を冷たく震わせた。
心が重く、暗澹たる思いが突き上げてくる。
(・・・どうすれば・・・いい・・・?)
ふと、脳裏に浮かんだ――
青く透き通る氷の瞳・・・。
じっと自分を睨みつけてくる・・・真っ直ぐな、何ものにも屈しない、孤高の瞳・・・。
「・・・アスラン」
急に呼ばれたその声に、アスランはハッと我に返った。
振り返ると・・・
銀髪に青い瞳――
たった今、脳裏に思い描いた『彼』がいた。
「・・・イザー・・・ク・・・?」
アスランの声は掠れていた。
ここでまさか、彼を見ようとは思いもしなかった。
驚きに打たれながらも、その面を見た瞬間・・・心がざわめいた。
忘れようとしていた、あの思いが・・・
空っぽの彼の心の中を、再び静かに満たしていくかのようだった。
所詮、相手に届かぬとわかってはいても・・・
――風が、ひとしきり強く吹いた。
イザークの銀糸のような髪がさあっと風に舞い上がり、彼の白い面の縁できらきらと光の滴を煌かせた。
「・・・アスラン・・・」
その青い瞳が放つ冷えた視線が、アスランを矢のように射抜いた。
アスランは、凍りついたようにその場に立ち竦んだ。
イザークの鋭い瞳が語るもの・・・それは・・・。
――ミゲルを殺したストライクのパイロット。
キラ・ヤマト・・・。
アスランの大切な親友だった少年。
アスランが助けようとした仇敵・・・
・・・この恐るべき・・・そして皮肉な事実。
全てを見透かしたようなイザークの冷やかな視線が、アスランには辛かった。
(・・・そんな目で、俺を見るな・・・イザーク・・・!)
イザークはゆっくりと彼の傍に近づいてきた。
息のかかるほどすぐ近くに、詰問するようなその青い瞳が迫った。
「・・・イザーク・・・」
アスランは言葉に詰まった。
言うべき言葉が見つからない。
イザークはただじっとアスランを見つめた。
その瞳が一瞬、潤んだように見えた。
しかし同時にその瞬間、彼の唇がゆっくりと動いた。
「・・・俺は、必ずあのストライクを倒す・・・」
――たとえ、あれに乗っているパイロットがおまえの知っている誰かであっても。
――おまえが助けたいと思っている、誰かであったとしても・・・。
アスランには、そんな彼のさらなる心の声が聞こえてきたように感じられた。
「・・・そう・・・か・・・」
アスランは、暗い瞳でイザークを見返した。
何を言っても無駄だということはわかっていた。
ミゲルを殺した者をその手で討ち取るまで、彼は決して諦めない。
そう・・・イザークはどこまでもキラを追いかけていくだろう。
ただ・・・
――ストライクを撃って、本当に全てが終わるのか?
・・・アスランはイザークにそう問いかけたかった。
イザークは、しかしそのとき、不意に彼から視線をそらした。
アスランの傍をすり抜け、彼の母の墓標の前に佇む。
「・・・おまえも、奴らに母上を殺された・・・あの『血のバレンタイン』を決して忘れないだろう・・・?」
イザークの声は恐ろしいほど静かだった。
それが却って彼の怒りの深さを表しているかのようにも感じられた。
「・・・ナチュラルどもなど、全て滅びればいい・・・!」
イザークはそう吐き出すと、振り返ってアスランを見た。
「・・・貴様も、もう余計なことは何も考えるな・・・!」
燃えるような眼差しの中に、微かな悲しみが垣間見えたような気がした。
アスランは黙ってイザークを見返した。
相手を見つめながら、彼はふと気付いた。
相手の中に映っているのは、紛れもない自分自身の姿だ。
・・・立場は微妙に違ってはいても、同じ苦しみの中に囚われ、抜け出せなくなっている・・・。
それでいて、誰かに救いの手を求めることもできないまま・・・。
暗い空間の中で、ただひとり・・・流す涙も尽きて・・・。
涙の跡はいつしか、絶望に変わり・・・
目の前の敵を殺すことでしか、その苦しみを贖うことはできない。
ただ、相手を傷つけ、殺すことでしか・・・。
――何という・・・
アスランの口から深い溜め息がこぼれた。
――自分たちは、何という深い孤独の中にいるのか・・・。
彼は震撼した。
どうすれば、この闇から抜け出せるのか。
それとも、もはや己の命が尽きるその最後の瞬間まで、この檻の中から抜け出すことは不可能だというのか。
気が付くと、アスランはそっと手を伸ばしていた。
イザークの腕に軽く触れる。
その微かなぬくもり。
生きているその鼓動を感じて・・・
たまらなく、切なさといとしさが胸を満たした。
イザークはその手から逃げようとしたが、その前にアスランが彼の腕を今度はしっかりと掴んで、引き寄せた。
「・・・アスラン・・・?」
アスランの体がイザークの体に密着する。
イザークは僅かに震えた。
しかし・・・なぜか、怯えはしなかった。
ただ・・・やるせない悲しみに似た思いが胸を覆った。
今のアスランは、まるで・・・
風に舞い散る花弁のように、弱く脆く・・・危うい存在のように感じられる。
(アスラン・・・どうしたんだ・・・貴様・・・)
――こんな貴様は貴様じゃない・・・!
いつか・・・自分をあんなにも荒々しく組み伏したあのアスランはどこへ行ったのか・・・。
「・・・イザーク・・・頼む・・・」
アスランは目を閉じ、そっと顎を相手の肩にもたせかけた。
「・・・ほんの少しの間でいいから・・・このまま・・・」
――このまま・・・こうして、いたい・・・。
たとえこの思いが偽りであったとしても・・・
これが一時だけのぬくもりであったとしても・・・。
とにかく今・・・
今の自分には、こうしていることが必要なのだ。
でないと・・・
俺たち・・・本当に壊れてしまう。
おまえもきっとそうなんだろう・・・イザーク・・・?
・・・そんなアスランの思いに応えるように、イザークも黙ってそのまま相手の体を支え続けた。
(・・・アスラン・・・貴様は・・・)
イザークは困惑気味に、もたれかかるアスランの横顔を見つめていた。
そのとき・・・
ようやく、初めて――アスランが自分よりも年下の少年なのだと・・・彼はふとそんな風に実感した。
しかし、この虚しさは何だろう・・・。
イザークは瞳を相手の横顔からそらすと、視線をゆっくりと前へ向けた。
そこには、風に散る無数の花びらに飾られたその墓標があった。
今、生きている彼らをやさしく見守るように・・・。
花びらが墓標の周りをいつまでも美しく舞い続けていた。
(Fin)
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