体 温 (後編)
『さあ、早く脱いで。イザーク』
にっこり微笑むあいつの口から、悪魔のような台詞がこぼれる。
いかにも、何でもないことであるかのように。
『・・・俺に、おまえのそのきれいな体を見せてくれよ』
言いながら、じりじりと詰め寄ってくる相手に、改めて恐怖感が湧き上がってくる。
『・・・よ・・・よせ。来るな・・・!』
・・・罰ゲームだったろう?逃げるのか?
たかだか、ハダカになるだけじゃないか。
――か、簡単に言うな・・・そんなことッ・・・!
抗議するイザークに、アスランが冷たい視線を差し向ける。
――臆病者。
そんなに腰抜けだったのか、おまえは・・・?
嘲笑うような翡翠の瞳が逃げようとするイザークを射すくめる。
獲物を追い詰める狩人のような、鋭い光を閃かせるその冷えた緑の色がイザークの心を芯からすくませる。
・・・怖い・・・。
いいようのないその恐怖心がイザークの頭から一瞬にして理性を奪い去った。
もはやプライドも何もあったものではない。
こいつは、狂っている。
正気じゃない・・・。
・・・逃げなければ・・・!
しかし、逃れようとするイザークの腕を相手の腕が強い力で掴んだ。
『わっ・・・貴様・・・何をする!放せ・・・!』
叫ぶイザークの前に、アスランの体が急接近する。
『自分でできないなら、俺が脱がしてやろうか?イザーク・・・』
『や・・・やめろったら・・・この・・・変態・・・ッ!』
いやだ、いやだ、いやだッ!!・・・やめろーーッ!
俺に、触るなーーッ・・・!!
なおも必死で叫ぼうとするその唇を、相手の唇が否応なしに塞いだ。
冷たい・・・冷えるようなそのくちづけに、全身がぞくりと震える。
――いや・・・だ・・・!
こんな・・・こんなのは・・・
なぜか、涙が頬を濡らしていく。
何で・・・こんなひどいこと、するんだ・・・
――アス・・・ラン・・・!!
冷たい手が額に触れる感覚に、ふとイザークは瞼を上げた。
燃え上がるような熱い体に、そのひんやりとした感触は奇妙なくらいに心地よい。
霞んだ視界の中に、誰かの顔の輪郭がぼんやりと映った。
「・・・あ、気がついたか?」
・・・アス・・・ラン・・・?
その声の主に気付いたとき、イザークの心臓はどきんと大きく波打った。
さっきの悪夢が甦った。
彼は一瞬、声が出なかった。
「・・・まだ、熱下がらないな」
アスランはそう言うと、イザークの額からそっと手を引いた。
その動作に、イザークの緊張が緩んだ。
彼は小さく息を吐いた。
・・・馬鹿げている。
夢と現実を混同するなんて・・・・。
しかし――
唇の感触は妙に、生々しかった。
やはり、数日前のあの夜の記憶がまだそれだけ強く脳裏に刻み込まれているのだろう。
イザークはいやな記憶を振り払うように、軽く頭を振った。
・・・そうだ。
ところで・・・ここは、どこなんだ?
医務室・・・ではなさそうだ。
自分の部屋でもない・・・。
でも、どこか見覚えのあるような――
「・・・こ・・・こは・・・?」
掠れた声で、イザークが問いかけると、向こうへ行きかけたアスランがふと足を止め、振り返った。
「ああ、俺の部屋だよ」
こともなげに言う。
「・・・・・?!」
イザークは目を見開いた。
「・・・貴様の・・・部屋・・・だと・・・?!」
「ああ、それが何か・・・?」
アスランが不思議そうに問い返す間に、イザークの顔がみるみる気色ばんだ。
「・・・じょ、冗談じゃない!・・・なっ、なんで、俺が貴様の部屋にいるんだ・・・?!」
イザークは混乱した。
訳がわからない。
確か・・・あのとき、医務室へ行くということになっていたはずだが。
「・・・覚えてないのも無理はないけどね。・・・医務室へ行って処置してもらってから、ここへおまえを運んできたんだ。イザーク、そのときには殆ど意識なかったから。そのまま医務室に放っておくのもなんだったし・・・」
「・・・って、そういうことじゃなくて、何でおまえの部屋なんだよ!俺の部屋へ運べばよかっただろうが!」
「だって、おまえたちの部屋、医務室から遠いだろ。俺の部屋の方が近かったから・・・」
それは単なる言い訳にしか聞こえなかった。
何で・・・何で・・・ッ・・・?!
そのまま医務室に放っとけばよかったんじゃないか。
別に身に危険が及ぶ場所にいるわけでもなし・・・。
少し休んで、意識が戻れば――勝手に部屋に戻るはずだったんだ・・・。
それが何で・・・?!
イザークは頭にかっと血が昇る思いだった。
何で、わざわざこんな余計なことをするんだ・・・!!
アスランの考えが読めない。
(・・・何なんだよ、こいつは・・・!何考えてる・・・?!)
この間の一件があるだけに、イザークはなおさらここにいるのが嫌だった。
彼は肩肘をついて、必死で重い体を起こそうとした。
「・・・何してんだ、イザーク」
「決まってるだろうが!・・・自分の部屋へ帰るんだよ!!」
――こんなところで、ゆっくりと寝ていられるか!!
しかし焦る心とは裏腹に、身を起こそうとしても、どうしても体に力が入らない。
「・・・無理するなよ。そんな体で、一歩だって歩けるもんか」
アスランがすっと体を寄せて、イザークの体を支えた。
「・・・じゃあ、またおまえが運んでいきゃあ、いいだろう!・・・ほら、早く連れて行け!」
イザークがアスランを睨んで、倣岸に命令する。
そんな彼を見て、アスランは思わず笑みをこぼした。
「・・・なっ、何をにやついてる!!」
イザークは苛立たしげに怒鳴りつけた。
「・・・いや、別に・・・ただ、イザークに怒鳴られるの・・・久し振りだなって思ってさ。――ほら、ここんとこずっと、俺と口きいてくれてなかったから・・・」
アスランに見つめられて、イザークはハッと息を止めた。
・・・確かに、そうだった。
この数日間、何となく・・・口をきくことはおろか、アスランと目を合わすことすら避けていたのだ。
「・・・まだ、忘れてないんだ。やっぱり・・・」
アスランがぽつりと言った。
――忘れてやる・・・最初にそう言ったのはきみだったのに。
だから、俺も忘れたふりをしていた。
きみが、そう望んでいると思ったから・・・。
なのに・・・。
「・・・ち、違う!!」
イザークは思わず大きな声で否定した。
――俺は・・・ッ・・・!
しかし・・・彼はそこでふと口を閉ざした。
言葉が・・・出てこない。
何て言えば、いい?
彼は自分自身の気持ちを整理することができなかった。
アスランはそんなイザークを、瞬きもせずにじっと見つめていた。
・・・ほんと、口を開けば、わがままで負けず嫌いの意地っ張りで、いつも偉そうに威張ってて・・・。
でも、ほんとのおまえは違う・・・
そのとき、アスランの脳裏を、ふといつかの夜の場面がよぎっていった。
ほんとは、この中に、もっと違うイザークがいる。
誰も知らない、イザークの別の顔が・・・。
俺は、それを知りたい。
知って・・・そして、それを自分だけのものに・・・したい。
アスランの胸にひそかにそんな欲望が渦巻いた。
そんな彼の思いを露とも知らず、イザークはぷいと顔をそむけた。
「・・・とにかく、俺は自分の部屋へ帰りたいんだ!!・・・おまえがいやなら、ディアッカを呼べ!あいつに連れて帰ってもらう・・・!」
イザークはそう言うと、アスランの腕から身を離そうとした。
しかし、その前にアスランの手がイザークの体を乱暴に寝台の上へ押しつけた。
何をする・・・と文句を言いかけて、イザークは言葉を呑み込んだ。
見下ろすアスランの顔から、穏やかな笑顔が消えていた。
「――ダメだ」
アスランの強い一言。
イザークはアスランのその真剣な表情に、やや気を呑まれた。
「なっ・・・なんで・・・?!」
それでも、何とか言い返す。
「・・・貴様に、そんなことを言う権利があるのか・・・?!」
アスランは一瞬冷ややかな笑みを浮かべて、イザークを見た。
「・・・そうそういつも、自分の思う通りに人が動くと思ったら、大間違いだよ、イザーク。少なくとも俺は――ディアッカみたいに、おまえのわがままに付き合ってやれるほど、お人好しじゃないから」
言葉が皮肉を帯びて、いちいち胸に突き刺さるようだった。
(・・・なっ・・・!)
何か言い返してやりたいが、凍りついたように唇が動かない。
それだけの異様なまでの迫力が、アスランにはあった。
(・・・わがまま・・・だと・・・?)
冗談じゃない。
貴様の方が、わがままなんじゃないか。
勝手に俺を自分の部屋に連れ込んで・・・
人が動けないのをいいことに、上から見下ろしては、こんな風にねちねちと苛める・・・。
おまえのやってることは、わがままじゃないのかよ・・・!
イザークはただ黙って唇を噛み締めた。
何だか頭がくらくらする。
一体何でこういうことになってしまったのか・・・。
考えると、ますます熱が出てきそうだった。
そんな彼の様子を見て、アスランはふと表情を和らげた。
「・・・なんてね。意地悪言ってるつもりないんだ。悪く思わないでくれよな」
・・・だと!
これが、悪く思わずにいられるか!馬鹿野郎!!
イザークは胸の内で思いきり毒づいた。
「あ、それから、ニコルにはちゃんと言っておいたから、気にすることはないぞ。今夜はイザークの部屋で寝るって・・・」
(な・・・にい・・・っ・・・?)
イザークは呆気にとられた。
(すると・・・なにか?今夜は――)
――こいつと、ここで二人きり・・・?
何か・・・嫌な予感に襲われて、イザークは再び身を起こそうともがいた。
「・・・だから、ダメだって・・・。おとなしく寝てろよ。そんなんだと、いつまでたっても熱が下がらないぞ!」
すかさずアスランがイザークの体を寝台に押し戻した。
「・・・うっ・・・や、やだ、放せって・・・俺は、自分の部屋に・・・!」
「まだそんなこと言ってんのか?」
アスランは抵抗しようとするイザークの両腕を無理やり寝台の上に押さえつけ、そのまま半身を乗り出して、イザークの前に屈み込んだ。
イザークのすぐ目の前に相手の顔が急接近する。
その瞬間――
翡翠の瞳の奥に、何か妖しい焔が燃え立ったかのように見えた。
本能的な危機感が襲った。
悪夢が・・・甦る。
同じだ・・・さっきの夢の中のシチュエーションと・・・。
・・・怖・・・い・・・!
身内が恐怖に震えた。
(・・・い、いやだ・・・っ・・・!)
「・・・ア、アスラン・・・放せ・・・っ・・・!」
イザークは思わず悲鳴に近い声を上げていた。
自分でそれに気付いた瞬間、彼はたちまち頬を朱に染めた。
・・・バ、バカ・・・何やってる・・・?!
これじゃあ、まるで・・・
まるで・・・男に襲われかけている女みたいじゃないか・・・。
アスランは、じっとイザークを見据えていたが、やがてふーっと息を吐くと、くつくつと笑い始めた。
笑いの波はだんだん高まり、彼は次第にこらえきれなくなって、ついに大きく吹き出した。
彼の手がイザークを離し、アスランは寝台の上に座り込んだまま、笑い続けた。
「・・・きっ・・・きっさまあああーーーーっ・・・!!」
イザークは我に返ると、屈辱と憤怒に満ちた瞳で、猛然とアスランを睨みつけた。
「ふ、ふ、ふざけるのも、い、いい加減に・・・っ・・・!!」
それでもなぜか出てくる言葉が震えるのが、我ながら情けなかった。
「・・・イザークってほんとに、かわいいなあ・・・」
まだ笑いを抑え切れないまま、アスランはようやくそれだけ言った。
いかにも面白そうに、イザークを見下ろす。
か・・・『かわいい』・・・?!
その一言が、イザークの逆鱗に触れた。
「・・・き、気色悪いこと言うな!!バカッ!!」
腹立ちまぎれに、そう吐き出す。
しかし、そんな言葉も相手には全く影響を与えるはずもないことはわかっていた。
興奮して、いきりたっているのは、自分だけ。
相手は腹の立つくらい、悠然と落ち着き払ってこちらを見返している。
「・・・だって、おまえの今の顔、まるきり・・・『女の子』だったから」
くすくす笑いながら、アスランが言うと、イザークの頬は今にも火を噴きそうになった。
「俺が、怖かったんだろ?」
なおも問いかけるアスランの視線から、イザークは思わず顔をそむける。
「バ、バカ!!・・・誰が・・・!!」
――意地でも『怖かった』などと言えるものか!
アスランはからかうように、再びイザークを覗き込んだ。
「・・・正直に言えよ。怖かったんだろ?イザーク」
「うるさいッ!――貴様なんぞ、誰が怖がるか!!」
イザークは目をそらしたまま、力いっぱい怒鳴り返した。
アスランはふうと息を吐いた。
――この、意地っ張り・・・!
「・・・くそっ!・・・アスラン・・・きっさま・・・おぼえて・・・!」
興奮しながらも、意識が朦朧としてくるのがわかった。
体がどうしようもないくらい熱くて、熱くて・・・。
(・・・何で、こんなにいやな奴なんだ・・・?!)
おまえなんか、怖くない・・・
怖いものか・・・っ・・・!
震える胸を抑えながら、必死に繰り返す。
「・・・アス・・・ラ・・・ン・・・ッ・・・!!」
その名を我知らず何度も口走るイザークの声が弱くなっていくに従って、その反対に彼の息遣いは次第に荒くなっていった。
潤んだ瞳の上に半分落ちかかった瞼。
赤く上気した頬。
「イザーク・・・?」
アスランはそっとイザークの頬に、そして額に手を当てた。
触れる肌が驚くほど、熱い。
(・・・ちょっと、苛めすぎたかな・・・)
アスランはそう胸の内で呟くと、朱に染まったイザークの頬に一瞬だけ、静かに唇を当てた。
――このおまえの体温が元に戻るまで・・・
――もう少し、おまえをここへ置いておけるかな・・・。
(・・・こんな気持ち、おまえにはわからないんだろうな・・・)
その刹那――
・・・彼の胸に、届かぬ相手へのいとしさが満ちた。
(Fin)
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