Intercession
潮の匂い。
波の音。
地球の空気が、頬に冷たい。
プラントとは、違う。
自然の風だ。
揺れ動く波間に魚たちの群れが跳ねる。
あれは……何と言ったか。
昔、子供の頃、よく眺めていた地球の図鑑の中で見たことがある。
白い翼にも似た胸鰭に、V字形の尾鰭が水面を打ち、矢のように滑空していくさまを、艦の甲板から、彼は一心に眺めていた。
「わあ、トビウオですね」
背後から突然、声がかかった。
そうか。トビウオ……。
イザークはぼんやりとその名を口中で繰り返して、それから初めて声をかけてきた者に注意を向けた。
顔を向けなくても、誰であるかはわかっていた。
「……これだけいっぱいいるの、初めて見ましたよ。すごいなあ」
感嘆の声を上げる少年を背に、イザークは軽く吐息を吐いた。
せっかく一人でいるところを邪魔されて、不本意ではあるが、それでも相手を無下に遠ざけるほど鬱陶しい気分でもない。
とはいえ、ニコルを相手にするのは、ひそかに彼の苦手とするところであった。
誰にでも傲岸不遜に接するイザークではあったが、ニコルのこの邪気のない笑顔の前ではどうも調子を狂わされてしまうのだ。
「――何か用か」
不愛想な言葉にも気を悪くした様子もなく、ニコル・アマルフィはにこにこと笑顔を振り向けながら、イザークの隣りに並んだ。
「ぼくも、一緒に見て、いいですか」
「……………」
無言のまま、ふいと波間に視線を戻したイザークを横目で見たニコルの笑顔に、やれやれという苦笑が混じる。しかし彼はすぐにそれを見えないように柔らかな笑みで押し隠した。
島から引き上げてきた後、イザークは具合が悪いらしく、しばらく個室にこもっていた。あの事件のせいだろう、と察してはいたが、再び軍服姿で現れた後も、イザークはあまり誰とも口をきこうとしていないように見えた。
沈んでいる、とまでは言わないが、どうも以前より生彩がないようで、ニコルはそんな彼の様子が気になっていた。
イザークばかりでなく、アスランもそれは同様で、あれから少し表情が暗くなり、心なしか口数も普段より少なくなったように感じられる。この二人の間に何かあったのだ、とニコルは確信していた。二人の関係に重大な変化をもたらすような、何かが。とにかく、島で起こったことと関係していることは間違いない。
とはいえ、それを突きつめて問い詰めることなどできる筈もなかった。ただ、黙って見守っているより他はない。それがわかっているから、ニコルは今も姿が見えない二人を探して、何となくここまで来てしまったのだ。
ちら、と窺うように、なおも横から相手の顔を流し見る。
顔色は、さほど悪くはない。ニコルは内心ほっとした。
「――もう、大丈夫なんですか」
「……………」
「……あれから、熱が出た、って聞いていたので……」
「熱はとっくに下がっている。いつでも戦えるさ。心配するな」
強がりのようにも聞こえる言葉だったが、ニコルは頷いた。
「そうですか。良かった……」
そこでしばし沈黙が生じたl。
「……あの、イザーク?」
「――何だ」
「アスランと、何かあったんですか」
煩わしげに答えるイザークに、ニコルは直截な質問を浴びせた。
忽ち、イザークの顔色が変わるのがわかった。
「……何で、そんなことを聞く?」
険悪な口調にも、ニコルは怯むことはなかった。
「あれだけ露骨に避け合っていれば、わかりますよ。今度はアスランもどこか上の空だし……」
二人のいざこざに介入することには、アカデミー時代から慣れている。何やかや言いながら、それでもイザークはニコルを怒鳴りつけたり、面と向かって罵倒したことはない。余計なお世話かな、と思いつつ、自分がそれとなく二人の緩衝材になっていることも彼は十分自覚していた。
「おまえには、関係ないだろう」
イザークは拗ねたように言い捨てると、海を眺めた。
「関係なくないですよ。隊長があんな風じゃ、部隊の士気に関わりますからね!」
少しおどけた口調で言い返したニコルをイザークは横目で軽く睨んだ。
「そういうことは、『隊長』に直接言え!」
「アスランは、あなたしか見ていないから」
ニコルはくすりと笑った。
イザークはぴく、と僅かに眉を上げた。
「おい、くだらんことを言うな」
「……本当ですよ。イザークがいなくなったときなんて、もう大変だったんですから……」
「は!……俺なんか奴にとっちゃ、どうってことのない存在だ。敵対視すらするに当たらない、な。――厄介払いできなくて、さぞかし残念だったろうよ!」
――その言葉が全て虚言であるということを、ニコルは知っていた。
アスランのイザークを見る目は、そんなものではない。それは近くにいるものなら、誰でもわかる。ましてや本人同士が知らない筈はない。
「で、『足つきがここにいる』、ってことにはアスランと同意見なわけだ」
「………………」
言葉に詰まるイザークを見て、ニコルはふ、と意地悪な笑みを浮かべた。
アスランとイザークの間にある『秘密』と、足つきの存在はやはり深く関わっているようだ。
ニコルはイザークの整った横顔を見た。
初めて見たとき、綺麗な顔だと、思った。
口を開くと、いつも怒った口調で高飛車に物を言う。見下したような視線が痛くて、なるべく目を合わさないようにしていた。
口数が多くはないが、丁寧で優しく接してくれるアスランとは全く違う。本当に付き合いにくい人だな、と思った。
しかし、一緒にいる時間が長くなると、次第に彼の内面が見えてくる。
今は……最初ほど、イザークのことをとっつきにくいとも、高慢で嫌な人間だとも思わない。
クールぶっているくせに、むしろ、どちらかというと、実は驚くほど情に流されやすい人間なのだということを、彼は知っている。
要するに、彼は自分の感情を隠したり、コントロールするのが、下手なのだ。それがわかっていないと、彼とは付き合えない。だから、本来彼は人と付き合うのが苦手なのだろう。
そしてアスランはといえば……その逆だ。
最近、ニコルはそれを痛感することが多くなった。
本当の彼の顔は、違うのではないか、と。
彼は……見事に異なる自分自身を演じきることができる。自分の感情を隠すのが上手すぎるのだ。だから、本当の彼に触れることは、決してできない。決して……。それが、時折ニコルが悲しくなるところだった。アスランは優しい。いつも、優しい。だが、決して本当の自分を見せてくれることはないのだ。
「……アスランは……そんなに強い人じゃないですよ」
「………………」
「アスランは……」
「――何だ」
イザークのけぶるような視線が、言い淀んだニコルを真っ直ぐに射た。
彼は、知っている。
ニコルは確信した。
本当の、アスラン・ザラに触れたものにしか、わからない。
今、自分が伝えようとしたことを。
彼は、知っている。知っていて、自分が知っているという事実そのものを否定しようとしている。
「だから、何なんだ」
イザークは吐き捨てるように言うと、再び目を背けた。
「あいつがどうであろうと、俺には関係ない」
「――そう、ですか……」
ニコルは溜め息を吐くと、ようやく諦めて口を閉じた。
顔を上げ、改めて目の前の光景に目を向ける。
青く澄み渡った空と、深緑の海、その水面をたくさんのトビウオが飛び跳ねる光景が、一瞬でも、自分たちが血生臭い戦闘集団の一員としてここにいるのだという事実を忘れさせる。
ニコルは顔を空に振り向け、大きく深呼吸した。
潮の香りが鼻孔いっぱいに満ちてくる。
空気が、綺麗だ。
人工ではない、本物の地球の原風景を前にして、彼は切ないくらい、生への憧憬を感じた。
ここは、生命で、溢れている。つくりものではない、本当の生命の源が……。
不意に、メロディーが、頭の中に浮かんだ。
彼は、そのフレーズを何度か胸の中でそっと繰り返した。
自然に生まれた音が、彼の体の中でゆっくりと形を整えていくのが感じられ、彼はひそかに興奮した。
――ピアノ……。
突然、その存在を思い出した。
軍人として戦わなければならない自分には、不要である筈のもの。
軍務についてからは、心の外へ置き去ってきて、もはや思い出そうともしなかったもの。
それが、今……。
なぜだろう、とニコルは不思議に思った。
今、まさにこの瞬間……。
ピアノが弾きたくてたまらなくなった。
家に置いてきた、ぼくの、あのピアノ……。
小さな頃からずっと指を乗せて、音を奏でてきた、ぼくの友だち……。
ぼくの、あのピアノをもう一度、弾けるときは、くるのだろうか。
指がひとりでに、動いた。
唇が開く。
喉から鼻へ、歌うように、音を奏でる。
無意識のうちに、彼を動かすその行為に気付いたイザークが、驚いたようにこちらへ顔を向けたことにも、構わず、ニコルは頭に浮かんだフレーズを次々に音に乗せた。
「ニコル……?」
何か言おうとして、イザークは口を閉ざした。
今、目の前にいるのは軍人ではなく、一人の音楽家なのだ。
少年の紡ぎ出すメロディーが、心に響く。
イザークは、風に顔を晒したまま、目を閉じた。
波の音。
魚の跳ねる音。
遠くから、海鳥の鳴く声音さえ、聞こえる。
そして……
ニコル・アマルフィの音楽。
歌詞のない、ただほんの僅かなフレーズの繰り返しに過ぎない。
それなのに、それは妙に彼の心を掴んで、離さない。
(こいつ……)
茫然と傍らの少年の顔を見つめる。
生まれながらの、とはよく言ったものだ。
――彼は、違う。
そう思うと、妙に腹立たしくなった。
何に対して、とか、誰に対して、というわけではない。
ただ……
今、自分たちが置かれているこの状況。
ニコルの奏でたフレーズが、悲しいまでに、その理不尽さを訴えていたように、思えた。
(なぜ、こいつは、ここにいる……?)
彼は、ここにいるべき人間では、ない。
軍服を着て、武器を取り、多くの命を奪うために……。
……違う。
何かが、間違っている。
――ほんの数分のことに過ぎなかった。
微かな余韻を残して、その歌は波の間に消えていった。
ニコルは、はっと我に返ると、忽ち罰が悪い顔になった。
「……ぼく……今、何を……」
「…………」
イザークの視線を受けて、ニコルは目を伏せた。
「……すっ、すみません。何か、ぼく、変なこと……」
「いや」
慌てて言いかけたニコルをイザークの強い声が遮った。
「――おかしいことなど、何もない」
「え……」
ニコルは目を丸く見開いた。
頬がほんのりと赤い。
「で、でも、ぼく、今……」
「ニコル。――おまえ、何で軍に入った?」
イザークは海に目線を戻しながら、そう問いかけた。
突然の問いに、ニコルは不思議そうな顔をした。
「――何で、って……」
「おまえは、もっと別の道を進む筈だったんじゃないのか」
そう言いながら、彼は自分が余計なことを言っている、と思った。立場が逆なら、冗談にしても、余計なお世話だ、と怒鳴りつけていただろう。
しかし、ニコルはおかしそうに笑っただけだった。
「何がおかしい。俺は真剣に聞いている」
イザークはむっとした様子で、笑う相手を軽く睨んだ。
ニコルはあ、いや、と弁解するように両手を胸の前で振った。
「……すみません。真剣に聞かれたんだ、ってことはわかってます。ただ……イザークが、ぼくのことをそんな風に言うなんて、思わなかったものですから」
しかしそう言った後、彼はすぐに表情を引き締めた。
「……軍に志願したのは、単純な理由ですよ。――ぼくも、戦わなきゃいけない。――そう思ったからです」
そう答える少年の顔からは既にあどけない子供の表情は影を潜めていた。
彼自身が言ったように、それは確かにシンプルではあったが、彼の確固たる意志、そして同時に軍人としての矜持が清廉なまでに汲み取れる言葉だった。
「……そう、か」
イザークは短く答えたが、それ以上何も言おうとはしなかった。
言いたいことは、本当はたくさんあった。
――悔いは、ないのか。
――本当に、それで良かったのか。
――戦う道は、何も軍人になることだけではなかったのでは……
或いは自分と同じように、彼も父親が評議会議員であることで、無意識のうちに見えないプレッシャーを受けていたのかもしれない。
――おまえは、本当に、無理をしていないか。
本当は、そう、強く問い質したい気持ちにすら駆られていた。
しかし、喉の奥に何かが詰まったようで、結局彼は何も言うことができなかった。
「……ぼくは、後悔してませんよ。ピアノは、いつでも弾けるから。この戦争が終わって、平和な世界がくれば、ね」
ニコルはそう言うと、イザークに笑顔を向けた。
「イザークも、そう思って、戦っているんでしょう?」
「……………」
――平和な世界、か。
イザークは皮肉と希望が入り混じった複雑な思いでニコルの言葉を噛みしめた。
綺麗事だな、と思う。
平和な世界を、などと言いながら、実際に自分達のしている行為は破壊と殺戮、ただその繰り返しだ。殺し、殺され、憎しみがさらなる憎しみを呼び……。
キラとの遭遇を通して、彼はそれを実感した。
戦場に出てから、何を守ることができた?
失うものは多くても、その代わりに何を得られたというのだろう。
――俺は、何のために、戦っているんだろうな。
ナチュラルどもを一掃し、この世界を我々の手にするために。
以前の彼なら、そんな傲慢な答えを堂々と言い放っていたことだろう。
しかし、今……
彼の中で、何かが変わろうとしている。
それが何なのか、わからないまま……。
イザークは、まだ前へ進めないまま、そこに立ち竦んでいる。
たとえ綺麗事であるにせよ、戦う理由をはっきりと明言できるニコルが、少し羨ましくもあった。
「イザーク……」
ぽつりと呟かれた言葉に、彼は再び傍らの少年に意識を戻した。
「――何だ」
「……綺麗事、言ってると思ったでしょう……」
自分の考えていたことをそのまま読み取ったかのような言葉に、イザークはどきりとした。
「な、何だ。俺は何もそんなこと……」
「――いいんですよ。自分でもそう思いますから」
ニコルは、ふうっと軽く息を吐いた。彼は海の彼方に目を向けていた。その視線の先に何があるのか、その瞳に一体何が映っているのか。それは横にいるものには、所詮わからないことだった。
「でも、ね。それでも、ぼく……信じたいんです。ぼくのやっていることが、正しいんだ、って。……もう……」
彼は一瞬息を止めた。
言葉が途切れる。
しかし、ほんの一瞬で、彼は息を吐き出した。
「もう、誰も死んで欲しくない」
その言葉が、先に戦死したラスティや、ミゲルのことを指しているのは明らかだった。
矛盾している。
軍人なら、命を失うことを覚悟で戦わなければならない筈であるのに。
戦えば、どちらかが死ぬ。
それとも――どちらも命を失わずにできる戦いなど、あるというのか。
「軍人なら、命を投げ出して戦うことは、当然だ」
イザークは突き放したように、言い放った。
「――と、言いたいところだが、わざわざ無駄死にすることはない。生き残ることも、戦いだからな」
予感が、する。
振り払えない、予感が。
イザークは、鳴り響く予兆の知らせに、怯える自分の心を叱咤した。
「……生き残る、戦い……か。そうですね。お互いに……」
考え深げに繰り返すと、ニコルは不意にイザークに顔を向けて、にこりと微笑みかけた。
「イザークが後ろにいてくれれば、安心ですよね」
「馬鹿。どうして俺が貴様ごときの後ろにつかねばならんのだ」
イザークは馬鹿にしたように言うと、くるりと背を向けた。
「援護するのは、貴様の方だろう。しっかり守れよ」
「あはは、そうですね。すみません!」
ニコルはへこたれることなく、答えた。
その瞬間、彼は感じたのかもしれない。
イザークの言葉に込められた、真意を。
彼はニコルを自分より前へ出させない、と言ったのだ。
――おまえには、帰るべき場所がある。
絶対に……生き残るように、と。
(でも、ぼくはそんな弱虫じゃない)
ニコルは唇を噛みしめた。
ぼくは、戦う。
みんなと一緒に。
そして……みんな、生き残るんだ。
「ぼく、しっかり守りますからね。イザークも、他のみんなも!」
「……ああ、もういい。わかったから行けよ、いつまで無駄話してるつもりだ。――続きはアスランとでもやれ」
あっちへ行けと手を振ったイザークに、ニコルは仕方なくそれ以上会話を続けるのを諦めた。
「アスラン、どこにいるんですか」
「知るか。自分で探せよ」
にべもなく言い放つイザークの背を見て、ニコルは苦笑した。
立ち去る間際、ニコルは一瞬立ち止まった。
逡巡の躊躇いの後、彼はもう一度口を開いた。
「イザーク……!」
その声に、イザークは振り返った。眉を顰めて少年をじろりと一瞥する。
「まだいたのか。さっさと――」
「――いつか!……」
ニコルの声が不機嫌なイザークの声を軽やかに遮った。
「……いつか、必ず、ぼくのピアノ、聴きに来て下さい!」
叫ぶようにそれだけ言うと、呆気に取られたイザークを後に、少年は駆け去った。
きらめく笑顔の残像を、残して。
「ピアノ……か」
イザークは小さく呟いた。
いつか――
全てが終わった後。
『平和な世界』で……。
元戦友のピアノを鑑賞する、か。
(そうだな……それも――)
――まあ、悪くはない。
コンサートホールで、聴衆の喝采に包まれながら、笑顔を満面に振りまく少年の姿を想像し、彼は思わずにやりと唇を歪めた。
(10/02/07)
...To The Memory of Our Dear Nicole Amarfi
(亡きニコル・アマルフィに捧ぐ)
|