秘密
寝台の上で僅かに身じろぐ音がする。
雑誌を捲る手を止め、ディアッカは顔を上げた。
反対側の簡易ベッドの上で、寝転んでいる銀髪の少年が目に入る。
こちらに背を向けているため、その表情は見て取れない。
ただ、寝ているわけではないことはわかる。
背中から、微かな苛立ちの気配さえ、伝わってくるようだ。
しかし、彼にしては珍しく、沈黙を保っている。
それが、先程からディアッカには、どうも気になって仕方がない。
(――ったく、調子狂っちゃうんだよなあ……)
――静かなイザーク、なんてさ。
普段のように、どかんと爆発してくれた方が余程いい。
ディアッカは、はあ、と小さく溜め息を零した。
オーブで酷い目に会ったのが、余程堪えたか。
それにしても、実際に何があったのか、結局イザークもアスランも詳細については何も話してはくれなかった。
どうやら、あのオーブに潜り込んでいた工作員が咬んでいたことまではわかったが。
なぜ、イザークがあのとき、一人でモルゲンレーテの工場に戻っていったのか。その後、どういう経緯で彼が工場の敷地内に入り込んでしまったのか。そして、最後に彼らが見た、あの光景。アスランとイザークの傍にいた、あいつらは一体――
問いを発すれば、きりがない。
アスランもイザークも、何かを隠している。それは確実だ。しかしそれが何なのか……彼には知るすべがない。
(……秘密、ねえ……)
やってくれるじゃんかよ、とディアッカは小さく舌を打った。
面白く、ない。
だからつい、嫌味の一つも言いたくなる。
彼は聞こえよがしにわざとらしく溜め息を吐いた。
「……もう二日だぜ。いつまで、待ってるつもりだよ……。これで足つきが遥か彼方に逃げおおせてた、なんてことになれば、俺たち間抜けすぎるぜ」
彼は、そう言うと雑誌を投げ捨て、ごろりと寝転がった。
「さっさとカーペンタリアに戻った方が良かったんじゃないのかなあー……ま、ゆっくりさせてもらえて、正直俺としちゃ、ラッキーっていえなくもないけど」
「――足つきは、ここにいる」
ぼそり、とイザークが呟いた。
ディアッカは横目でイザークの方を見た。
相変わらず、銀色の頭しか見えない。
彼は、目を細めた。意地悪気な光が閃く。
「……へえー……」
ディアッカは馬鹿にしたようにわざと語尾を伸ばした。イザークを怒らせるのを承知の上でしているとしか思えない、作為的なものだった。
案の定、イザークの肩先がぴくり、と動くのが見てとれた。
それに満足感を覚えながら、ディアッカはさらに続けた。
「最初はクーデターでも起こしたがってんのかと思ってたけど、案外取り込まれちゃってたんだ。――あーあ。のしちまうんならマジに手え貸すつもりだったんだけど……なあーんだ、そうだったんだ。俺の出る幕もなし、ってわけか。ざーんねん。面白くなりそうだ、と思ったんだけどなあ……」
「――おい」
イザークは、むくりと体を起こした。
振り返った顔には久し振りに見たような怒気が表れている。
「――貴様、一体何が言いたいんだ」
「何、って……」
ディアッカは空惚けた顔をした。
「――別に……言った通りの意味だけど」
「俺が、アスランに取り込まれた、だと?……ふざけるなっ!」
ぼすっ、と打ちつけられた拳が、シーツの中に深く沈み込んでいく。
「……いや、だってさ……アスランと同意見、ってことは、そういうことなんじゃねえの?」
「おい、貴様は馬鹿か?」
イザークの瞳がぎらりとディアッカを睨みつける。
「――俺は、『足つきがいる』と言っただけだ。それだけで、なぜ奴に与していることになる?」
「んじゃ、教えてくれよ。何でおまえらがそう断言するのか、その理由(わけ)を、さ」
そう言うと、ディアッカもゆっくりと起き上がり、イザークと向かい合った。
「……――っ……」
一瞬、返す言葉に詰まったイザークを、ディアッカは皮肉な目で見た。
「――ほら、な。言えないんだろ?……ザラ隊長と二人だけの秘密、ってわけか?……ったく、おまえらさあ、示し合わせて何やってんの?」
「……ばっ、馬鹿言うなっ!……別に俺たちは、しっ、示し合わせてなど――っ……!」
「――に、見えんだよ!――ニコルだって変だ、って言ってたぜ」
肩を竦めて、ディアッカは吐き捨てた。
「……まあ、おまえらがどう付き合おうが、俺たちにはどうでもいいことなんだけどさ。こういう公の任務に関わることは、こっちも一応その、命かかってるわけだし。困るんだよな、そういう秘密主義、って奴」
「――秘密にしているわけじゃないっ」
「してるじゃんか」
ディアッカは、皮肉めいた笑みを零した。
「なら、言えよ。何で『足つきがいる』のか」
「……それは……」
イザークは、一瞬逡巡したが、やがて諦めたように吐息を吐いた。
「――奴の……幼なじみ、を……見た」
吐き出すなり、イザークは相手からの視線を避けるように、こころもち瞳を伏せた。
ディアッカは呆気に取られた様子だった。
「……はあ?――幼なじみ?……何だよ、それ?」
わけがわからない、といった顔で、軽く眉を顰める。
「……アスランの幼なじみ、ってことか?……どこで?」
「……モルゲンレーテ社の敷地内に、いた。見ただろう。アスランが言葉を交わしていた――」
「……………?」
いったん首を傾げながら、ディアッカはふと思い出した。
あのとき――
そういえば、確か敷地の方からロボット鳥が飛んで来たのだ。そしてそれをアスランが持ち主に返そうと……
「……ああ、そういや……」
あのとき、アスランの様子は少し変だった。
「……ロボット鳥、ね……。ああ、あのときだな」
ディアッカは考え深げに顎をしゃくった。
「けど、それと『足つき』が、どう結びつく?」
「……奴が、ストライクのパイロットだったんだ」
さらりと放たれたイザークの言葉に、ディアッカは一瞬唖然とした後、ええっ、と大きく眼を見開いた。
「おいおい、マジかよ?そんな……冗談だろうっ!」
「――本当だ。キラ・ヤマト……アスランの幼なじみで、ストライクのパイロットだ」
イザークの口調は冷静だった。
そんな風に落ち着いた口調で話すイザークが意外で、ディアッカは驚きながら相手を見つめた。
「……おっ、おいっ!何ともないのかよ、イザーク?それって、そいつはおまえの……ってことだろ?」
おまえの……というところで、彼が言い淀んだのは、イザークがストライクのパイロットに向けていた執着の激しさをよく知っていたからだろう。
しかし今のイザークの中に、以前のあの火のような激しい感情は、もはや宿ってはいない。
そうとは知らぬディアッカの視線が自分の傷痕に注がれていることを意識したが、イザークは敢えてそれに気付かない振りをした。
「――残念だが、そんなことで騒ぎ立てるほど、単純な頭でもないんでね」
口元を僅かに歪めながら、イザークが澄まして答えると、ディアッカはよく言うよ、という風に肩を竦めた。
しかし彼にはまだ問い質したいことがあった。
「けど、何でそいつがストライクのパイロットってわかったんだ?あの場で突然あちらさんから告白でもしたってわけか?……それとも――」
ディアッカの眼が少し険しくなった。
不意に、『それ』に思い至ったのだ。
「……まさか、アスランの奴――?……知ってた、のか?ストライクに乗っているのが、自分の知り合いだってことを……最初から……?」
ディアッカはさらに過去の出来事に思いを巡らせた。
ストライクのパイロット、か。
そういえば……
かつて、もう少しであの機体を撃破することができるチャンスがあった。あのとき――なぜ、あの優等生のアスランが命令に背いて、ストライクを無傷で持ち帰ろうとしたのか。……妙だとは思っていた。
(そう、か……)
少なくともあの時には、アスランは既にその事実に気付いていたのだ。ストライクのコクピットに乗っているのが、自分のよく知る人間であるということを。その、幼なじみとやらが、敵機のパイロットであることを。だからこそ、彼はあれほどまでに、あの機体を捕獲することに固執していたのだ――
「……なるほど、ねえ……」
そういう、わけだったのか。
ディアッカは心の中で改めて納得した。
まあ、隠したい気持ちもわからなくはないな、と思う。
よりにもよって、あの連合軍の新型に乗っているのが、自分の知り合いだった、などと……。
そんなことが知られれば、まずただでは済まないだろう。痛くもない腹を探られることになるばかりか、下手をすれば、スパイ容疑等で自分の現在の立っている位置すら危うくなる。
(けど、本当にそれだけ、かねえ……)
大筋はわかったが、まだ疑問が多く残っている。
――キラ・ヤマト、ねえ……。
頭の中でその名前を反芻する。
遠目だったから、あまりよく顔が見えなかった。
どんな奴だろう。
ストライクのパイロット。
新型を乗りこなしている、ということはやはり軍人か?
それにしては、さほど軍人らしい体躯でもなかったようだが。
見たところは、ごく普通の民間人の少年……のようだった。
何でそんな奴がストライクなんぞに乗っている?
そして……
イザークは、もしかすると、あの敷地の中で、彼とさらに深い接触を果たしたのではないだろうか。
相手が自分が仇敵と狙う、ストライクのパイロットだと知って、イザークが何もしないわけがない。
(そうか……)
ディアッカは、悟った。
(イザークの奴、それで、あのとき黙ってあそこへ戻って行ったんだな)
『ストライクのパイロット』ともう一度、対決するために。
それで……?
それで、その後……
何が、あった。
イザークと、『彼』との間に……。
何が……?
「……もういいだろう。これでわかったな?なぜ、奴らがここにいる、と俺たちが言ったか――おい、聞いてるのか、ディアッカ!」
イザークの言葉に、はっと、ディアッカは我に返った。
「あっ、ああっ――悪い……ちょっと考え事、してた」
「貴様という奴は……」
頭を掻くディアッカに、イザークは刺すような視線を向けた。
「――だから、貴様なんぞに話しても無駄だと思ったんだ。全く……大切な情報を分け与えるだけの価値もない」
イザークは不機嫌そうにそう言うと、ぷいと顔を背けた。
「いやその……そう、怒るなよ」
「――怒ってなど、いない」
イザークはベッドから足を下ろした。
「おい、どこ行くんだよ」
イザークが襟を正して、扉の方へ向かおうとすると、ディアッカは慌てて自分もベッドから滑り降りた。
「待てよ、まだ聞きたいこと――」
「――話は全て終わった」
「待てって――」
剥きになって追い縋ろうとするディアッカを、肩越しの冷たい視線が一閃で退けた。
「これ以上、話すことは、ない」
にべもない口調に、強い拒絶の意志を感じ取る。
(秘密、か……)
ディアッカは苦々しい笑みを湛えた瞳で、出て行く相手の背を見送った。
外の空気は、重く冷たかった。
地球の重力にはだいぶ慣れたつもりだったが、さらに空気が圧力を増したように感じるのは、気のせいか。
暗い波が幾重にも連なって装甲にぶつかり、飛沫を上げて砕け散る。
昼間の穏かな光景が嘘のように、深く暗い海底が、挑戦的にこちらを見上げているようで、うっかりすると足を掴まれてそのまま引きずり込まれてしまいそうだ。
――これが、地球……。
轟くような波音を耳にしながら、暗い夜空を見上げると、遥か彼方で宝石のように星々が煌めいている。
(あそこから、俺たちはやって来たのか……)
不思議な気分に駆られ、イザークはしばしその場に佇んでいた。
宇宙開拓時代以前――古来、この星に住んでいた者たちは、こうして夜空を見上げながら、さまざまな思いを巡らせていたのだろう。
(考えもつかなかっただろうな。――自分たちがその星の彼方へ実際に飛び出して行く日がくるなどと……)
――星の彼方に、何があるのか……。
憧れと怖れを抱きながら、敢えてその境界を踏み越えた結果が、今のこれ、か。
皮肉めいた笑みに口元が僅かに歪む。
――ナチュラルと、コーディネイター……か。
人類は、本当に二分してしまったのだろうか。
この戦いに、終わりはくるのか。本当に……?
以前の彼なら一笑に付していただろう。
くだらない。
優性種が劣性種を淘汰する。
当然の理だろう、と。
単純に、信じていた。
自分たちは、選ばれた存在、なのだと。
何の疑問も抱くこともなく。
そもそもこの戦争自体――
愚かな旧人類が起こした戦いなのだ、と蔑んでいた。
ナチュラルどもが、我々コーディネイターを羨み、妬んだ結果だ。非は向こうにある。
これは、正義のための、戦いだ。
なのに……
(俺は、今なぜ、こんなに迷っている……)
イザークは頭を振った。
再び天を仰ぎ見る。
満天の夜空に輝く星たちの饗宴が目の前に迫る。
人間を揶揄するかのように。
その瞬間……
くらりと眩暈がした。
足元が、ふらつく。
「――危ない!」
小さな声が聞こえたような気がしたが、彼の意識は一瞬飛んでいた。
「……あ――……」
自分でも、何が起こったのか、わからなかった。
再び我に返ったときには、自分の腕を強く引く存在に気付いていた。
「――何やってんだ!」
僅かに咎めるような口調が、すぐ傍らから響く。
「……アスラン……」
イザークは眼を瞠った。
まだ掴まれたままの腕を見て、倒れそうになった自分を止めたのはその手だったのだと悟った。
忽ち、気恥ずかしさに襲われる。
嫌なところを、見られた。
どうして、いつもこういうタイミングでこいつは眼の前に現れるのだろう。
それとなしに頬が熱くなる。
自分の表情が相手から見えないことに、彼は感謝した。
「はっ、放せよ!」
ぶっきらぼうに言うと、彼はいささか乱暴に腕を振り解いた。
そのまま踵を返して行ってしまえばよかったのだろうが、なぜか彼の足はその場を動こうとはしなかった。
傍らに立つ少年から目に見えないプレッシャーを感じたせいかもしれない。
何となく、それが忌々しくて、イザークは唇を噛みしめた。
「――何してたんだ?」
アスランの問いかけに、イザークは口を噤んだままだった。
そんなイザークを見て、アスランは溜め息を吐いた。
「……あまり無理するなよ。――こんな夜中に海に落ちたら、どうなるか……」
「――俺は無理などしていない!」
イザークは憤然とアスランを遮った。
「それに、誰が海になど落ちるものか」
「落ちかけてただろ、実際に」
アスランの語調からは、僅かに揶揄の響きが感じ取れた。それにイザークはかっとなった。
「ちょっ、ちょっとふらついただけだっ!」
「……意地張るなよ」
「――何っ……!」
イザークは気色ばんだ様子で、傍らの少年を睨めつけた。
「……貴様の方こそ、なぜこんなところにいる。――また俺に喧嘩をふっかけにきたのか」
「そうじゃない。外へ出てみたら、おまえを見かけた。そうしたら、あんな様子だったから、心配して――」
言いかけて、アスランは不意に言葉を止めた。
軽く息を吐くと、どうしようもないといった風に肩を竦める。
「――ったく、どうしてこうなるんだ。……俺はただ、おまえと普通に話したいだけだってのに」
「だったら、近づくな」
素っ気ない言葉とともに、イザークはぷいと顔を背けた。
「……行けよ。――俺は貴様と話すことなど何もないんだからな」
「……俺は話したい、って言っただろ」
冷静な口調ではあったが、そこには何ものをも寄せつけないような、彼の強い意志を感じさせるものだった。イザークはむっと眉間に皺を寄せたが、敢えて何も言い返さなかった。
そんなイザークの様子を横目で窺いながらも、アスランはさりげなく話を続けた。
「……昼間、ニコルと話したんだろ。あの後、ニコルからいろいろ聞いたよ」
何を聞いたんだ、と問い返したい衝動を抑えて、イザークはぎゅっと唇を引き結んだ。
絶対に言葉など交わさないぞ、という固い意志を見せつけるかのように。
「………………」
「……軍に志願した理由を聞かれた、って言ってたな」
「………………」
「――何でそんなこと、聞いたんだ」
アスランの声が淡々と耳を打つ。
そこには何の感情も、こもってはいない。ただ単に聞いているだけ、といった風だった。
答える必要もない、くだらない問いのように思えた。
しかし、なぜか、ひどく心が揺れた。
そんなイザークの心の動揺を見てとったかのように、アスランはイザークを流し見た。
「迷っている――のか」
ずばりと核心を突かれて、どきりとした。
彼の鋭い視線を感じ、イザークはとうとう無視しきれなくなった。
「……馬鹿を言うな!――何で俺が……」
――なぜ、この俺が迷いなど……
こくり、と喉の奥が鳴った。
彼は、愕然と目を見開いた。
……言葉が、出てこない。
「………………」
その場に凍りついたように、立ち竦んでいた。
――迷いなど、するものか……っ……!
アスランの視線を撥ね返すように、力を込めて睨みつける。
だが……
なぜか、挫けそうになった。
――奴には、何も隠せない。
全て、お見通しなのだ。
今さら、オーブで起こったことを否定するなど、無意味だ。
そして、奴は、依然として『それ』に、こだわっている。
彼は拳を握りしめながら、喉の奥に引っかかったままの言葉を飲み込んだ。
目の奥が、焼けるように痛む。
軽く瞼を閉じた。
その刹那――
「……っ……」
何が起こったのか、一瞬わからなかった。
ただ、覆い被さってくる影に呑まれてしまう自分自身を、もう一人の自分が、茫然と見つめていた。
すぐ傍で、熱い吐息を感じた。
体が、動かなかった。
慄く唇から、薄い息が漏れる。
肩に回された手が、頬に軽く触れた。
冷たい掌の感触に、思わず体が震えた。単に冷たかったから、だけでなく、掌から伝わる相手の意図に漠然とした怖れを抱いたからかもしれない。
肩を引き寄せられる。
「――迷うなよ」
彼が言葉を発する前に、相手が先手を打つかのように、低く囁いた。
「戦場で迷えば、おまえ自身が死ぬことになる」
唇が動くたび、吐息が肌を撫で、首筋からこそばゆい感触が伝わる。
全身がざわりと粟立った。
それが単なる嫌悪感からだけではないことを、彼は十分認識していた。
「……俺たちは、軍人だ。戦わなければならないんだ。相手が何であろうと……」
「……っ……!」
――そんなこと、わざわざ貴様から言われなくても、十分わかっている。
いや、むしろその言葉はアスラン自身に対して放たれねばならないだろう。
「……貴様の方こそ……」
イザークは呟いた。
「――わかっている」
アスランの声を聞きながら、イザークは、なぜ自分がこの忌々しい存在を今すぐ振り放そうとしないのか不思議に思った。
密着した体から伝わるほんのりとした相手の体温が、首筋に当たる相手の唇の柔らかな感触が、そして何よりも、そんな一つ一つの接触によって加速する、己自身の止めようのないこの胸の鼓動が、彼を捉えて離さない。
「情に捉われるのは、俺だけで十分だ」
イザークは前を向いたまま、眉を顰めた。
「俺が、情に捉われていると言うのか」
「――違うのか」
情に捉われている、か。
イザークは胸の内で皮肉な笑みを零した。
確かに……。
自分は、今、別の意味であいつに……ストライクにこだわっているのかもしれない。しかし――
……それは、アスランと同じ理由では、ない。
同じであるわけがないのだ。
自分を真っ直ぐに見つめるあの菫色の瞳が一瞬脳裏を過った。
「……違うな。俺は貴様が思っているような人間じゃない」
ようやく呪縛から解き放たれたかのように、彼の右手が動いた。
アスランが、はっと顔を上げた。目と目が合った、その瞬間――
どちらからともなく、それは突然理解された。
互いの心が抱く、その『秘密』に……。
アスランの瞳が、揺れる。
寂しげな笑みが、浮かんでは、消えた。
軽く突き放した相手の体が抵抗もなく離れていくのを、イザークは恐ろしく醒めた気分で眺めていた。
「……つまらないことを、言ったな」
「いつものことだ」
アスランの言葉に、イザークは短く答えただけだった。
「イザーク……」
そのとき吹き過ぎた強い風と打ちつける波音が、さらに何か言おうとしたアスランの声をかき消した。
死ぬな、と言ったのか、それとも――
しかしそれを聞き返すこともなく、イザークは黙ってアスランに背を向けた。相手もそれ以上何も言おうとはしなかった。
アスランが立ち去った後、イザークは急速に体が冷えていくのを感じた。
地球の夜の冷たさに身を震わせながら、彼は静かに目を閉じた。
(10/02/21)
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