悔恨












「何で、あいつが死ななきゃならなかったんだ……」
 死ぬべきだったのは、俺だ。
 俺が、死ぬ筈、だった。
 なのに、なぜ、あいつが……っ……!
 後悔の言葉は尽きない。
 なぜ、なぜ、なぜ……?
(アスラン、逃げて……!)
 少年の最後の声が、まだ耳の奥に残っている。
 消したくても、消せない。
 その声を聞くたびに、彼は己を責める。
 なぜ、防げなかった。
 なぜ、むざむざと目の前で、ニコルを……。



〈――臆病者!〉
「違うっ!」
 どこからともなく降ってきた声を、即座に打ち消す。
 違う、違う、違う……――――!
 彼は拳を強く握り締めた。
 違う、違う、違う、違うんだ………!
 ロッカーの扉に拳が当たった。
 ゆるりと開いた掌が冷たい金属板の表面を擦った。
 額を扉に押し当てる。
「う……く、う……――」
 嗚咽が込み上げてくる。
 抑えようもなかった。
 なぜ、なんだ……。
 なぜ、俺は、ここに、いる……。
 なぜ、あいつがあっちに逝ってしまわなければならなかった……。
 ニコル……っ……。



 そうして、彼は凍りついた時間の中に、一人佇んでいた。
 どれくらいそうしていたのだろう。
 思考が止まり、周囲の様子もわからなかった。
 いつの間にか、そこにもう一人の人間がいることにも、気付かないまま……。



 扉口に佇む人影にようやく気付いた。
 アイスブルーの瞳が、刺すようにこちらを凝視している。
「――イザー……ク……?」
 幻を見ているのか、と思った。
 それほど、先程までのイザークとは様子が違っていた。
 顔を引き歪め、涙を滾らせていたあの悔しさと悲しさの入り混じった表情を思い出し、今そこに静かに佇むイザークを不思議な気持ちで見つめ返す。
「……何で――戻ってきた」
 乾いた声がそう問いかけると、相手はふ、と瞳を揺らした。
 やはり幻などではない。本物のイザーク・ジュールだった。
「……貴様の指示を、待っているのに、いつまでも出てこないからだ」
 ぶっきらぼうに返された言葉には、しかし怒気は感じられなかった。
「――いつまで引き籠っているつもりだ?」
 そう言われてみると、あれから思った以上に長い時間が経過していたのかもしれない。
 時間感覚の消失した自分には、わからない。
「……一人にしておいてくれ」
 消え入りそうな声で答えると、アスランは相手から目を背けた。
 心の内側では、複雑な感情が入り乱れている。
 ――なぜ、戻ってくる?
 理不尽な憤りが渦巻く。
 先程、怒鳴りつけられ、罵倒されたばかりだ。
 それでよかった。
 何も言われないよりは、その方がずっといい。
 彼はむしろ自分をもっと虐めたいとさえ思った。
 なぜなら――
 ニコルを殺したのは、自分なのだから。
「……まだ怒鳴り足りないのか?」
 皮肉めいた口調に、我ながら驚いた。
「――なら、いいさ。言いたいことがあるなら、言っちまえよ。何なら、気の済むまで、殴ってみるか?」
 どん、とロッカーを叩いて、挑発するようにイザークを睨みつけた。
 悲しみと怒りが、殺伐とした波となって胸の中を荒れ狂う。
「《――ニコルを殺したのは、おまえだ!――》」
 自分で叫んだ言葉が、自分自身の胸を抉る。
「《――おまえのせいで、ニコルが死んだ!――》」
 自分の拳を胸に打ちつけた。
 どうすれば、いいのかわからない。
 この、痛みと悲しみと、絶望を。
 何にぶつければ、いい。
「《――おまえが、代わりに死ぬべきだったんだ!――》」
 無言の相手に業を煮やしながら、さらにアスランは声を高めた。
「――言えよ!そう思っているんだろう?――だったら、俺を責めろよっ!」
「……………」
 ――なぜ、何も言わない?
「俺のせいだ、と……あいつを殺したのは、俺だと……俺が死ぬ筈だったんだ……あいつじゃなく、俺が……この、俺が……死ぬのは、俺の方で……あいつじゃ、なかった……って……俺……俺、が……――」
 いったん静まった筈の涙が、再び溢れ出す。
 見られたく、ない。
 こんな、顔を。
 普段の自分なら、できた筈だ。
 自分の感情を隠すことなど、容易い。
 これまで、いつも、自然にできていたことだ。
 母が死んだときですら……
 父親の前では、少なくとも、彼は自制心を保つことができた。
 事実をあるがままに受け止め、その悲しみを胸に深く埋め……。
 でも……
 今。
 この、瞬間。
 いつもできていたことが……
 なぜかは、わからない。
 どこか、心の箍が外れたのだろうか。
 自分には……
 できない。
 ――ただ、できないということだけが、わかった。
「……く、そ……っ……――ニコル……………」
 俯いた顔から、ぽつりと床に落ちていく滴を霞む視界の中に捉えた。だが、それを止めようとは思わなかった。それだけの余裕がなかったのだ。
 ふらりと、よろめいた背がロッカーの扉に当たる。
 彼はそのままずるずると腰を落とした。
 扉の前に蹲り、両手で頭を覆い込む。
 どんな風に見られても、構うものか、と思った。
 こんな状態で、次のことなど考えられない。
 隊長であることなど、もう頭の中にはなかった。
 自分が何をしていたのか。軍人としての責務など、毛頭消えてしまっていた。
(俺、は……)
 また――
 ……救えなかった。
 目の前で、友が死んでいくのを見ているしかなかった。
 ラスティ……ミゲル……
 そして、今、ニコルまでも……。
 いつも自分は傍で見ているだけだ。
 どうにもできず、ただ、己の無力さを思い知らされる。
 ニコルは、自分を庇って殺された。
(そうだ、俺は……)
 彼ははっと目を見開いた。
(俺は、あのとき……)
 キラを殺すことより、むしろ自分はあのとき、キラに殺されることをこそ望んでいたのかもしれない。
 なぜなら……自分には勇気がなかったからだ。
 友を殺す勇気が、なかった。
 自分の手を友の血で汚す覚悟も勇気も……。
 そんな自分の甘さが、別の友の命を奪ったのだ。
 すぐ傍に落ちている白い五線譜を見ながら、彼はどうしても立ち上がることができなかった。
 ニコルの夢と未来、その全てを奪ったのは、自分だ。
 自分、なのだ。
 そのとき、ふと目の前に影が差した。
 何かと思う間もなく、胸倉を掴まれ、引きずり上げられた。
 まるで、スローモーションのように、彼の体が引き上げられ、同時に固い拳が頬を打ち――
 一瞬後には、アスランの体は床に転がっていた。
 頬に痛みが走り、唇が切れて口の中には鉄の味が広がっている。
 アスランは呆然と、それでも予期していたかのように、自分を殴った当の相手を見上げた。
 傲然と見下ろす薄氷の瞳と視線がぶつかる。
「……殴れと言われたから、殴っただけだ」
 今さら文句を言うなよ、と言わんばかりの高慢な口調だった。
「――腑抜けた貴様など、殴る価値もないがな」
 そう付け加えると、イザークは再び彼の方へ体を近づけた。
 もう一度殴られるのかと身構えたアスランの傍を、見向きもしないまま、銀色の頭が通り過ぎた。
 彼が手を伸ばした先は、アスランではなく、その傍に落ちている五線譜の方だった。
 散らばっていた楽譜を全て拾い集めると、それを綺麗に揃えて手前のロッカーの中に戻す。
 彼の淡々とした手の動きを、アスランはじっと眺めていた。
 落ち着いた動作だった。
 自分は先程、動転して、あの楽譜を取り落としたのだ。そして、そのままどうしても、それに触れることができなかった。
 ニコルのピアノの旋律が、楽譜に触れた指先から、直に伝わってくるような気がして。
 そうすれば、もう自分は本当に正気ではいられなくなってしまうような気がした。
 しかし今、目の前で黙々と楽譜を片付ける少年を見ているうちに、奇妙なことに、そんな自分の爆発しそうだった感情が、徐々に鎮まっていくのを感じた。
 イザークの端正な横顔をちらと見ると、アスランは不思議そうに瞬いた。
 今、この少年は何を思っているのだろうか。
 怒りや恨みというより、ただ、純粋な好奇心が湧いた。
「――何だ?」
 そんなアスランの視線を感じたのか、ニコルのロッカーの扉を閉めると、イザークはアスランを振り返った。
「……いや」
 アスランは、戸惑いながら視線を逸らせた。
「――言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「……いや……」
 口ごもるアスランを尻目に、イザークは鼻を鳴らした。
「――貴様は、やはり腑抜だな」
 尊大な言葉の割に、棘はなかった。
「俺が代わりに隊長になってやりたいところだが――三人くらいじゃ隊というだけの値打ちもない」
 皮肉のようで、皮肉ともとれない、寂しさがこもる。
 だが、それも一瞬のことだった。
「俺が指揮をとるのは、まだ先のことだ。――それまでは、一応貴様の顔を立ててやる」
 尊大な瞳が、アスランをじろりと見据える。
「俺もディアッカも、貴様の部下だ。――ニコルがいなくなっても、俺たちはまだここにいる。どうだ?満足か」
「……イザーク……」
 アスランは、何と答えてよいかわからず、茫然とした顔で相手を見返した。
 それが精一杯のイザークなりの励ましなのだということに気付くのに、少し時間がかかった。
 気付いた時には、妙に罰が悪くなり、彼は自ずと視線を落とした。
「……すまない」
「――謝るな」
 イザークの軍靴が床を打つ。
「……俺は貴様を、許してはいない」
 通り過ぎた後、振り向きもせず、彼はそう言った。
「――貴様も、『あいつ』も……」
 それが誰のことを指しているのかは、明らかだった。
 その言葉が、アスランの胸に漣を立てた。
 今、ここで……
 自分は、決断しなければならない。
 不意に、彼はそう思った。
「……イザーク……!」
 アスランは、立ち上がり、去っていく背に向かって叫んだ。
 目の前の少年の動きがいったん足を止める。
 アスランが何か言うのを待っているかのように。
「……俺、は……」
 アスランは、躊躇った。
 しかし、次の言葉を飲み込むわけには、いかなかった。
 彼は、小さく息を吸い込んだ。
 それが、自分への呪詛の言葉になることがわかっていても……。
 自分は、それから逃げることはできないのだ。
 もう、次は……。
 引き返せない。
(俺は、キラを……)
 大切な友だった、少年を……。
 もう一人の大切な友を殺した、あいつを……。
 どこか遠くの方から、ピアノの旋律が、微かに聞こえたような気がした。
 少年の微笑みが、浮かんでは、消えた。
 それが何の兆しなのか、知るよしもなく――
 アスランは、瞳を強めた。
「――ストライクを、討つ!」
 そう言い放ったとき、空気が変化したように感じた。
 銀色の頭が、僅かに揺れたかに見えた。
 一瞬だけ……
 ほんの僅かな瞬間の、変化だった。
「……ストライクを討つのは、俺だ。馬鹿野郎」
 そう答えると、イザークはロッカールームの扉を潜った。

                                    (10/03/27)


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