Sensation












 目を閉じた。
 仮眠でも何でも、少しでも睡眠を取るべきだと理性がそう囁く。
 しかし――
 一向に眠りは訪れない。
 眠りに陥る寸前で、胸を抉るような痛みが全身を襲い、頭の中が忽ち覚醒させられるのだ。
 戦場で人が死ぬのは、当然だ。
 これまでだって、それこそ何千、何万もの人間が犠牲になってきたのだ。
 あのユニウスセブンの悲劇を、思い出してみるがいい。
 死は、戦争の日常だ。
 人は、死ぬ。
 戦争は、殺し合いなのだから。
 そんなことはわかりきったことだと思っていた。
 死など恐れてはいない。
 死ぬことを、そして人を殺すことを恐れるなら、軍人になどなってはいないだろう。
 この手を血に染める覚悟がなければ、軍人など勤まらない。
 だから、何ということもないのだ。
 たとえそれが、自分のすぐ傍で共に戦っていた、友と呼べる者の一人であったとしても。





 眠れない。
 依然として、意識は覚醒したままだった。
 ずきずきと、頭が痛んだ。
 睡眠導入剤でも飲んだ方がいいか、と思いながら、錠剤を手に取る気にもならなかった。
(……くそ)
 彼は溜め息を吐いた。
 ベッドから起き上がり、ぼんやりと周囲の薄闇を凝視していた。
「――何してんだ」
 反対側のベッドでもそりと身じろぎする音が聞こえたかと思うと、金髪がこちらを向いてもこりと頭を上げた。
「……眠れねーのか」
「…………」
「今寝とかねえと、辛いぞ」
「――わかっている」
 イザークはぷいと顔を背けると、再びごろりとベッドに横たわった。
 天井を見つめていると、ふとそこに少年の顔が浮かび上がってくるような錯覚に捉われて、はっと目を見開いた。
「……ニコル……!」
 声を出した瞬間、しまったと口に手を当てたが、遅かった。
「――やっぱしな……」
 ディアッカのしんみりとした声がひっそりと呟く。
「……考えてたんだ、おまえも」
「――当然だろう」
 イザークは怒ったように天井を睨みつけた。
 少年の顔は、消えていた。
 それでもまだ、目を閉じることはできなかった。
「……仲間を殺られて、何も思わない奴がいるか」
 心がきしり、と音を立てた。
「……アカデミーからの付き合いだったもんなあ」
 深い溜め息が聞こえた。
「……堪えるよなあ……」
 ディアッカの声にはいつものような皮肉めいた口調も何もなかった。
 ただ、ニコルの死を悼む悲しみがストレートに伝わってくる。
 それを聞いていると、なぜか酷く腹立たしくなった。
 理不尽とわかっていても、その憤りを止めることはできなかった。
 せっかく鎮まった筈の、怒りと悔しさが再び彼の胸の内で渦を巻く。
「……もう、いい!言うなっ!」
 イザークは怒鳴った。
「――何を言っても、奴は帰ってこないんだ!」
 ……そうだ。
 もう、あいつは……。

(――ニコルは、死んだ)

 残酷な事実が、胸を焼く。
(アスランの奴……)
 イザークの脳裏に数刻前に見たロッカールームでの光景が不意に甦った。
 あれから、食事のときも、結局姿を見せなかった。
 まさか、まだロッカールームに引きこもったままなどということはないだろうが。
 ――………………
(ええい、くそっ!)
 彼は頭を振った。
 なぜ、こんなに奴のことばかり、気にかかるのか。
 ――一度は、引き返した。
 奴のしょぼくれた面を殴り飛ばし、しっかりしろ、と喝を入れた。
 やるべきことは、やった。それだけで、十分ではないか。
 これ以上、何を……。
 不意に思考が途切れた。
 彼はがばっと起き上がった。
 理屈では、説明のつかない気持ちだった。
 ただ――
 じっとしていられない。
 何かに追い立てられるように、慌しくベッドから下りる。
 軍服を素早く身に着けた。
「何だよ、どうしたんだ?」
 ディアッカが呆気に取られたような声を出すのを尻目に、イザークは扉へ向かった。
「……貴様といると、辛気臭くなる!」
「――……って、何だよ、それ。ひっで……俺が何――」
 文句を言う声を最後まで聞くことなく、イザークは部屋を出た。





 ロッカールームの扉が開く。
 そこには、誰もいない。
 彼の唇から、軽い吐息が漏れる。
 予想していた姿がそこになかったことに対しての安堵か、それとも……。
 そのまま踵を返して出ようとしたとき、ふと彼は足を止めた。
 視線が、一つのロッカーに向かう。
 なぜかはわからない。
 気付けば、いつの間にかそこへ近付いていた。
 片手を伸ばし、ロッカーの扉にそっと掌をつけた。
 冷たいスチールの感触が、掌から全身に伝わる。
 そのとき――
 頭の奥でふと、あのフレーズが、聞こえた気がした。
 『彼』が口ずさんだ、あのメロディーが……。
 イザークは、はっと息を飲んだ。
 瞼の裏に彷彿と甦る光景に、瞬時、意識を奪われた。
 微笑む少年の姿と、背後に広がる深く青い海の色が、目の裏を焼く。
 僅かに震える掌が、ロッカーの扉の表面をそっと撫でた。
 と、そのとき――
 突然響いた扉の開閉音が彼の彷徨っていた意識を再び現実に引き戻した。
 振り返るより早く、室内灯が消えた。
「……………!」
 驚きを堪え、彼は息を潜めた。
 近付いてくる人の気配を待ち構える間、自ずと心臓の鼓動が高まる。
「――だれ、だ……」
 呟く唇に、冷たい指先が触れた。
 それが誰か、彼にはすぐにわかった。
 それでも、目を上げることが、できなかった。
「……なにを……」
 声が、震えた。
 相手は何も答えなかった。
 答えないまま、息遣いだけが、近くなった。
 唇に触れた指先が、頬を滑り下りた。
 体が、密着する。
 動くことができなかった。
「――やめろ」
 ようやくのことで、そう言うと、彼は相手から身を離そうとした。
「……こんな、ところで――……っ!――」
 最後まで、声を発することはできなかった。
 唇が重なると同時に、強引に舌が入ってくる。
「……――ん……っ……――!」
 突き放そうとする両の手首を掴まれ、ロッカーの扉に押しつけられた。抗う隙も与えられないほど性急で、異様なまでに熱のこもった、激しい口づけだった。
 息苦しい一方で全身にじわりと疼くものを感じ、頬が燃え立つように熱くなった。
 自分では抑制できない、自然の摂理だった。
 しかし、こんなときに……。
 己の節度のなさに、彼は激しい恥辱と自己嫌悪感に襲われた。
(……く、そ……っ……)
 泣きたい気分だった。
(何で……)
 唇が離れた瞬間、彼は落ちそうになる膝を抑え、怒りを込めた瞳で目の前の暴漢を睨みつけた。
 掴まれていた手を振り切ると、握りしめた拳を相手の顔に向けた。
「……き、さまあああーーーーーっ!」
 低い獣のような唸り声が、唾液を拭う間もない唇から洩れ出る。
「……く……っ……!」
 拳は、顔の前に掲げられた掌で、あっさりと遮られた。
 失速して力を失った拳がだらりと垂れ下がる。
 自分の手に思った以上に力が入っていなかったことに、彼は初めて気付いた。
 闇を燐のように照らす、深緑色の瞳が目の前にあった。
 見たくないのに、もはや視線を逸らすことができなくなっていた。
「……何のつもりだ……貴様……」
 声が、続かなかった。
「――おまえこそ……」
 初めて、相手の声が聞こえた。
 息遣いはまだ微かに荒いが、静かな声音だった。
「……何で、またここに来た」
「……それは――」
 見つめる瞳が、和らいだ。
 心の中を見透かされた気がした。
 イザークは、それ以上何も言えなかった。
 闇の中で、瞳の色だけが映えた。
 魅入られたように、彼はただじっと見つめ返していた。
「……少しだけで、いい」
 アスランの目が、熱を帯びた。
「少しだけでいいから……」
 手を、引かれる。
 緩みかかった拳が開く。
「――もう、何も、しない……」
 懇願するような囁きを、耳朶が捉える。
 突き放そうとすれば、簡単にできた筈なのに、なぜか彼はそうしなかった。
 相手の体にまわった掌が、その背を不器用に撫でた。
 密着した体の温もりが、緊張感を和らげる。
 唇を合わせたときに感じた興奮と欲情は、波が引くように消え去っていた。
 ただ、伝わってくる温もりだけに、全身を委ねる。
 相手が、そして自分が生きているということを実感する瞬間。
 そうだ。何も恐れることは、ない。
 振り返るな。
 後戻りはできないのだから。
 死にゆくもの。
 そして、生き残ったもの。
 運命は彼らを二分した。
 その結果――
 俺たちは、まだ生きている。
 生きて……。
 目の奥がじわりと熱くなる。

 強くあれ。
 恐れるな。
 恐れるな。

 心の内で何度も繰り返した。
 相手も同じことを思っているのだろうか。
 いや……。
 もう、何も考えるまい。
 目を、閉じる。
 心臓の、音。
 どちらのものかもわからない。いつの間にか二つの鼓動が近づき、同調する。
 ゆっくりと刻み続ける命の音に、彼らはいつまでも耳を傾けていた。

                                    (10/04/18)


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