溶 闇 (1)
――嵐が、吹き荒れていた。
胸の中を、激しい風が荒れ狂っている。
心臓までばらばらに引き千切れてしまうかと思えるほどに。
どうして、こんなに……。
イザークは歯を喰いしばった。歯が砕け散ってしまいそうなほど、ぎりぎりと強く噛みしめる。
この胸の中の嵐をどうして鎮めればよいのか、わからない。
(くそっ、くそっ、くそっ……!)
なぜ、なんだ。
なぜ、こんな……。
重力のかかる床を荒々しく踏みつけ、歩いていく。
大声で叫びたかった。
(なぜ、なぜ、なぜ……っ!)
なぜ、あいつが……。
(――きみに、期待する)
アスラン・ザラの肩を軽く叩くと、後の者には見向きもせず、さっさとブリーフィングルームを出て行った仮面の男の後ろ姿を、イザークは凄まじい目で睨み続けていた。
(あの、男……っ……!)
初めて仮面の上官に憎しみを抱いた。
胸がじりじりと焼けるように熱い。
(――アスラン、きみに指揮を任せよう)
なぜ、奴なのか。
なぜ、俺じゃない。
(――ふうん……ザラ隊、ねえ)
小馬鹿にしたように傍で呟くディアッカの声も、やけに空々しく聞こえて同調する気にもならなかった。
笑い流せるほど、心は穏やかではない。
彼は唇を噛みしめると、すぐ先にいる宿敵の姿にゆっくりと目を戻した。
戸惑い、まだわけがわからないといった表情を浮かべている、その茫然とした視線に、怒りに満ちた視線が出会う。
(……イザー……ク……?)
視線の動き。緑色の瞳の驚いたような瞬き。
傷を、見られている。
それを痛いほど、感じた。
意識した途端、かっと顔が熱くなった。
(何を、見ている……!)
――俺を、笑っているのか。
貴様は俺をどこまで貶めれば気が済む。
どろどろとした感情の波が渦巻いた。
我ながら、醜い、と思った。
醜くて、惨めだ。
この顔の傷のように。
「……ふ――」
息が洩れた。
(――いいさ。笑うがいい)
「いい……気な、もんだな……」
ようやく、声が出た。怒りを押し殺すような、静かな囁きだった。
いつものような怒鳴り声ではない。
背後のディアッカがおや、という風に僅かに顔を動かすのがわかった。
「……イザーク。俺は――」
何か言いたげな瞳が目の前で揺れる。
しかしイザークはそれが見えないふりをした。
「お手並み、拝見といこうか。アスラン……――隊長」
吐き出すようにそう言い捨てると、イザークは顔を背けた。
相手の顔を見ないようにしながら、部屋を出る。
動揺する胸を抑えながら。
今はアスランの顔をまともに見たくなかった。
早鐘のように打つ心臓の鼓動。
なぜ、こんなに自分は興奮しているのか。
これは、嫉妬、か。
ただの、嫉妬、なのか……。
――ずっと感じてきたあの嫉妬と、羨望。もやもやする心をどうにもできないこの苛立ちと焦燥。
俺は、こいつが、嫌いだ。
――キライ、だ……!
何度も何度も、そう思いながら……それでも、変わっていく己自身の内側にある何かが……最後の言葉をそっと否定する。
――俺は……。
――本当は、俺は……。
肌が、覚えている。
そう思った瞬間、ぞくっと身震いした。
――肌、が……。
彼は頭を振った。
嫌だ。それを認めたくない。
少なくとも、ストライクをこの手で仕留めるまでは。
そのために、残した傷だ。
この傷がある限り……まだ、俺は……。
(おまえは、気付いていないだけだ)
ふと、耳元をそんな声が過ぎる。
砂漠の風の中で、抱きしめた思い。
あのとき……。
自分はそれを感じ取っていた。
自分の運命の予兆を。
なのに。
今、また違う道に迷い込んでしまうような不安を覚えるのは、なぜなのか。
突然、立ち止まった。
「っ……?どうしたんだよ?」
先に行きかけたディアッカが驚いて振り返る。
「……先に、行け」
「……って、言われたって……」
ディアッカはいかにも不審気に眉根を寄せると、困ったように廊下の真ん中に突っ立ったままの相手を見た。
「そんな凄まじく不機嫌なツラしてさ。まさか、もう一回アスランに喧嘩吹っかけにでもいくつもりじゃねーだろうな」
「そんなんじゃ、ない」
「なら、何だよ」
「いいから、先に行け!」
イザークの声には、苛立ちが混じっていた。
「大体何だ。俺が今から何をするのか、どこへ行くのか、そんなことをいちいち全部おまえに説明しなきゃならない義務があるとでも言うのか。一体貴様は、何だ?いつも俺と一緒にいるしか能がないのか?俺にだってたまには一人でいたいときもある!」
早口で捲し立てると、くるっと振り返った。
「ちょっ……」
呆気に取られて立ちすくむディアッカを残して、彼は再び元来た方向へと足早に戻り始めた。
「おい、イザークっ!」
呼んでも振り返りもしないその背中が遠ざかるのを、ディアッカは茫然と見送っていたが、やがて我に返ると悔しそうに顔を歪めた。
「なっ、何なんだよっ、くそ!勝手なことばっか、言ってくれちゃって!こっちだって好きでてめーのワガママに付き合ってやってんじゃねーっての!人の気も知らないで……馬鹿野郎が!」
――もう知るか、どうなったって!
ディアッカはちっと舌打ちすると、さっさと歩き始めた。
もう一度、扉を開ける。
照明は消えていた。
人の気配は……ない。
イザークはふう、と吐息を吐いた。
(当然、か)
誰もいない室内は暗く、冷え冷えとしている。
普通ならばその時点で引き返す筈が、なぜか足が自然に部屋の中へ入り込んでいた。
イザークが一歩踏み込んだ途端、オートセンサーによる予備の室内灯がぱっと灯り、室内は薄暗い暗光色の光でぼんやりと照らし出された。
――なぜ、ここに戻ってきたのか。
自分でもよくわからない。ただ、何となく、引き返したくなった。
怒りを撒き散らしながら、荒ぶる心を持て余し、それでも……自分を引き止める何かがあった。
戸惑ったような、少し切なげにこちらを見つめていたあの表情が。
(イザーク……)
(俺は……)
さっき、あいつは、何を言おうとしていたのだろう。
――俺は、馬鹿だ。
こんな自分自身につくづく呆れた。
嫌いだ、と言いながら、結局……。
自分は彼ともう一度……言葉を交わしたかったのだろうか。
わからない。あまり深く考えたくもなかった。考えるとまた心が波立ってくる。
(くそっ!)
腹立ち紛れに近くの机の上に拳を叩きつけた。
(アスランの奴……!)
何度も両拳で机を打った。
次第に興奮した心がおさまってくる。
弾む呼吸を整えると、やがて力が抜けたようにそのまま作りつけの椅子に腰を落とした。
後ろに背をもたせ、大きく息を吐き出す。
改めて室内を眺めた。
人気の失せたブリーフィング・ルームはやけにだだっ広く見える。
(『ザラ隊』、か……)
先ほど、ここで交わされた会話を再び思い出すと、イザークの唇に皮肉っぽい微笑が浮かんだ。
――馬鹿にしやがって……!
どこまで人をこけにすれば気が済むのか。
腹が立つのを通り越して、もはや笑うしかないような気がした。
(……アスラン、指揮はきみに任せよう)
クルーゼの口から発せられたその一言が、自分の胸を無惨に貫いていった。
……屈辱、だった。全く何ということだ。あいつのせいで、これまで保ってきた自分自身のプライドが今度こそ粉々に打ち砕かれる。
――『ザラ隊』、だと。
そう胸の内で繰り返すと、彼は鼻で笑った。
ザラ隊所属、イザーク・ジュール、か。
笑える。最高に笑える。
この、俺が……。
アスラン・ザラ隊長の指揮の下で動くのだ。
この、誇り高きイザーク・ジュールが……。
「くそっ!」
激しい感情の波が押し寄せた。膝の上に置いた拳を砕けるほど強く握り締める。
(冗談じゃない……!)
泣きたいくらい、腹が立っていた。
単純にアスランを憎んでいるだけなら。ただ、それだけなら、こんなに苦しい思いをすることはないのだろう。
だが、俺は……。あいつに、抱かれてしまったあの瞬間から、俺の中で何かが、変わってしまった……。
あいつが、悪いのだ。
あいつが、悪い……。
唇を噛みしめる。
――俺はどうしちまったんだろう。
こんなに感情が不安定な自分に戸惑う。
(……くそ……っ……)
不意に、扉の開く音がした。
その瞬間、イザークは飛び上がりそうになった。
「……………!」
声も出ないまま、怯えたように扉の方へ視線を動かす。
「……おや、まだこんなところにいたのかね」
穏やかではあるが、どことなく意図を感じさせる響き。
顔を覆う仮面が、薄暗い照度の下では通常以上の異様な圧迫感を与える。見慣れた筈のその姿を目にしたとき、なぜかぞくりと身が竦んだ。
「……隊……長……」
声が、続かなかった。
ラウ・ル・クルーゼは唇に不思議な微笑を浮かべて、そんなイザークをじっと見つめていた。
「どうしたんだね、イザーク。随分顔色が悪いようだが」
「わ、私は……」
言いかけて、彼は突然口ごもった。何か答えねばならないと思うのだが、咄嗟にうまい言い訳が出てこなかった。
「……………」
相手の目が見えない分、余計に仮面の下から送られるその冷やかな視線を意識せずにはおれない。思わずこのまま、逃げ出してしまいたい衝動に駆られたが、意志に反して足は凍りついたようにそこから動こうとはしなかった。
「……た、いちょうこそ、何で……」
乾いた喉から、ようやくそんな力のない言葉が零れ落ちると、クルーゼはふふっと小さく笑った。あまり気持ちの良い笑いではなかった。
「――さあ、何でだろうな」
ゆっくりと近づいてくる。
こつ、こつと軍靴が床を踏む硬質な音が耳を打つ。
「何でわかったと、思う?」
からかうように問いかけられると、イザークは返答に困って黙り込んだ。
間近まで迫ってきた仮面がひどく大きく見える。見えない瞳に直視される緊張感に耐えられず、思わず目を背けた。椅子の背に体を固く押しつける。なぜこんなに神経がきつく張りつめているのか不思議だった。相手はクルーゼ隊長だ。よく見知っている相手ではないか。確かに普通とは異なる外見であるとはいえ、もう何ヶ月も共に過ごしてきた上官である筈なのに。
なのに、なぜこんなに緊張感が高まるのか。
「きみは、さっきだいぶ怒っていたな」
急に話題を振られ、イザークははっと我に返った。顔を上げ、再び仮面と目を合わせる。
「あ……それ、は……」
「私が隊の指揮をアスランに任せると言ったことが、そんなに不満だったか」
「――不満、などとは……」
言葉を濁しながら、それとなく目を逸らしかけたイザークの顔に、いきなり相手の手が触れた。顎を掴まれると、前へ強く引かれた。体ごと前に引っ張られそうになり、イザークはあっと声を上げた。
屈み込んできた仮面の顔がすぐ鼻の先にあった。
「……きみは、嘘つきだな」
穏やかではあるが、どことなく威嚇するようなその強い声に、イザークは震えた。
「それも、下手な嘘を吐く」
ぐい、と顎を上向けられる。尊大な仮面が、嘲笑するように真っ直ぐに見下ろしてくる。
「きみは正直な人間だよ、イザーク。驚くほど自分の気持ちを素直に顔に出す。きみの顔に、はっきりと書いてあるよ。なぜ自分ではなく、アスランなどに隊の指揮を取らせるのか、と」
唇から洩れる相手の生暖かい吐息が鼻にかかる。
仮面の下の顔はやはり人の体温を持っているらしい。イザークはぼんやりとした頭でふとそんな風に思った。
「……アスランが、そんなに嫌か」
クルーゼはそう言うと、相手の返事を待たずに笑って首を振った。
「……いや、違うな。きみがアスランを見る目の中には、単純な嫌悪や憎悪といった感情だけではない……もっと他の……違う何かが見える。それが何かは私にはわからないが、ただ言えることは、きみがアスランをそんなにも強く意識しているということだ。どうやら……きみとアスランの間には、何か特別な関係があるらしい」
「なっ、何を……っ!」
驚いてイザークは目を見開いた。顎を振り放そうとするが、すかさずクルーゼの手がそれをさらに強く掴み、引いた。衝撃に、イザークはぐ、と声にならぬ呻きを洩らした。強く引かれたため、腰が半分浮き上がりかかっている。
「……ちょっ……隊……ちょう……っ……!」
両手を上げ、何とか相手の手をもぐように引き剥がす。
反動で椅子からそのまま床に転げ落ちた。
膝をしこたま床に打ちつけ、痛みに呻く。
すぐには、立ち上がれなかった。
背後に人の気配を感じた。背中に、冷たい靴先が触れる。
「イザーク」
両脇の下から、掬い上げるように引き起こされた。
抵抗できなかった。
次の瞬間には、既に相手の腕の中に捉えられていた。
「あ……」
嘘だろう、と思った。
クルーゼ隊長が……。
自分など目にも入れていないように振舞っていたあのラウ・ル・クルーゼが……。
「銀色の、いい毛並みをしているね」
髪を撫でながら、耳元で囁きかける低い声が、いつものクルーゼではないように聞こえる。ずっと甘やかに、淫靡に響く。首筋に仮面が触れた。あまりの冷たさにびくんと体が撥ねる。
――毛並み……だと?
イザークは信じられぬように胸の内でその言葉を繰り返した。
今、確かにこの人は、そう言った……。
人を、あたかも動物であるかのように……!
――悪い冗談だ、と思いたかった。
しかし、この人が言うと、冗談のようには聞こえない。
「……やはり、血統書つきは違うな」
相手が低く笑うと、その振動が直に体に伝わってくる。
言葉に含まれるその酷薄な響き。
「放して――下さい……っ!」
腕の中で軽くもがくが、相手の力は緩むどころか、反対にますます強く締めつけてくる。
「静かにしたまえ。まだ何もしていないだろう」
(う……)
窒息しそうなほど強く喉を締めつけられ、一瞬気が遠くなった。
――まだ、何もしていない……。
(――『まだ』……?)
頭がおかしくなりそうだった。
「飾りとして置いておくには、きみが一番なんだがね。……残念ながら、隊の指揮をとるという面では、相応しいとは思えないのだ。きみは少々冷静さに欠けるし、何を判断するにおいても常に感情が先行する。特に今のきみのストライクに対する執着心は、尋常ではない。その傷を消さないでいることといい……きみは私的な感情を敵に抱きすぎている。――わかっているとは思うが、隊の先頭に立つ者は、私見を捨て、常に大局を見て冷静かつ的確に判断し、指示を出すことのできる人間でなければならない。その点では今のところ、アスランの方が適格だろうと判断した。私は、間違っているかな?」
「……………」
苦しい体勢を強いられたまま、長弁舌を聞かされて、イザークは当然何の返答もする余裕がなかった。
「私の判断は、間違ってはいないな?」
繰り返すと、クルーゼは少年の体を拘束していた手の力を僅かに緩めた。その綺麗な顔を自分の方へ振り向かせると、攫うように唇を奪う。
荒々しく舌を突き入れられ、口内を掻き回されるようなその激しさに息も絶え絶えになりながらも、犯す相手を見つめるイザークの青い瞳がみるみる驚きで大きく見開かれていった。
(……な……!……)
仮面が、ない。
そこに、いるのは……。
(……誰……?)
ラウ・ル・クルーゼであって、そうではない、別人の顔が、そこにあった。
(だ……れだ……?)
おまえは、誰なんだ……。
衝撃に打たれたまま、彼は自分を犯すその見知らぬ男の顔を、いつまでも見つめ続けていた。
(to
be continued...)
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