溶 闇 (2)
見たことのない顔だった。
薄闇の中にうっすらと浮かび上がる白い面を見て、ぞくりと身が竦む。
それは、彼のよく知るラウ・ル・クルーゼではない、全く別の人間の顔だった。
冷たい。
同時に神経を刺すような鋭い痛みを感じ、電流に打たれたようにびくんと体が小さく弾けた。
――この、瞳……。
目の前で妖しく揺らめく光の球。
無機質で怜悧な刃が、全身を容赦なく貫いていく。
硝子玉のような無機質さを秘めた瞳の色は、透けるように薄く、まるで生きた人のものとは思えない。
それでいて、こんなにも強く感じるこの『気』の強さ。
悪意と邪気に満ちた、この凄まじいまでの『気』は……。
――この男は、危険だ。
本能が目の前に迫る危険を敏感に察知し、さかんに警告を発する。
――これは、『人』ではない。
人間では、ない。何か、もっと別の……。
ぞくり、と悪寒が走る。
人でなければ……。
では、何だというのか。
人以外の、一体……何だ、と……。
だが、答えを探す余裕はなかった。
――逃げなければ。
衝動に駆られ、唇を無理矢理引き離した。
絡められた舌が引きちぎれそうなほど強く引っ張られ、鋭い痛みが走る。しかしそれにも構わず、相手の顔を両手のひらで思いきり押しのけた。
反動で体がぐらりと後ろへよろめく。
目の前が白くなった。
(あ……っ……)
足が床を滑る。
のけぞるように頭を反らしたまま、後ろ向きに転倒していた。
意識が残ったのは、ほんの数瞬の間だった。
がん、と固い床に頭を打ちつける衝撃とそれに伴う痛みと同時に、意識は真っ白に弾け飛んだ。
(――では、イザーク、ディアッカ、ニコル、アスランで隊を結成し、指揮は……)
平然と命じる隊長の声が鼓膜をびりびりと震わせる。
なぜか……先に続く言葉が予想できた。
――聞きたくない。
閉じた口の奥で、苦行に耐えるかのように、強く歯を喰いしばる。
仮面の下の表情は全くわからない。いったん、言葉を切り、いかにも考え込むような間を取る。
しかし、イザークにはわかっていた。それがただのポーズでしかないことを。
実際にはとうに決めていたに違いない。
最初からそのつもりだった。だが、わざと焦らした。
理不尽な処遇に対する憤りが体を熱く焦がす。
微かに抱いていた疑いの念は、ここへきて次第にはっきりとした確信へと変わった。
(ラウ・ル・クルーゼには、最初からアスラン・ザラ以外目に入ってはいないのだ)
奴がパトリック・ザラの息子だから、というだけではない。
アカデミーを主席で卒業した優秀なコーディネイターの種である彼の存在が、仮面隊長の中で明らかに特別な位置を占めているのだ。要するにナンバーワンだけが全てであり、それ以下はどうでもいいのだ。それ以下にいる者など、何の存在価値もない……。せいぜい捨て駒で使われるくらいが関の山だ。
そういう人なのだ。あのラウ・ル・クルーゼという男は……。
(あんな、出自もわからぬような、怪しげな男……)
蔑むようにぽつりと呟いていた母親の声が甦る。
彼がクルーゼ隊に配属になったと聞いたとき、母ははっと何か電流に打たれたように一瞬顔色を変えたが、すぐにその驚きの表情は露骨な嫌悪に取って代わった。それでも母はあくまで冷静さを失わず、それ以上は何も言わなかった。ただ、前線に出る隊に配属されたことを誇りに思うとだけ短く答えた。あの時の母親の表情はなぜか心に残った。何だろう、と不思議に思ったことを思い出す。
母は、クルーゼを知っていた。
とてもよく、知っていた。
しかも彼を、激しく嫌っている。
単に出自がどうとか、そんなこと以上の深い嫌悪感を感じた。
なぜなのか、未だにわかるすべはない。
ただ、そのときの母の態度が、この仮面隊長へのイザークの最初の印象へと繋がった。
何も偏見を持っていたわけではない。が――。
実際に顔を合わせ、その下で行動するようになり、まだ間もないながら、それでも……どことなく引っかかりがあった。
(――なぜ、傷を消さないのだね)
それが、ジブラルタルで合流した最初に、彼がイザークに対して放った一言だった。
仮面の下の表情は何もわからない。
しかし、その声の中には明らかな嘲笑と揶揄の響きがあった。それが、イザークには不快だった。
仮面の向こう側から、顔の傷に舐めるような視線を感じた。そのせいか、閉じた筈の傷口がまたひりひりと疼くような気にさえなった。
(……くそっ、余計なお世話だ!)
胸の内で吐き捨てる。
もちろん、さすがの彼も口に出しては言えない。相手は仮にも自分の所属する隊の隊長なのだから。
しかし……。
苛々する。
なぜか……。根拠があるわけではない。
ただ、自分へ向ける相手の見えない視線と、その声の響きで、本能的に感じているだけだ。
(この人は、俺を嫌っている……)
――直感、だった。
だから、意地悪をされているのだ。
それが卑屈な感情だ、ということはわかってはいても、ついそう思ってしまう。思い込み、といわれてしまえばそれまでだが。
(――そうだな……指揮は――)
くすり、と笑う声が聞こえてくるようだった。
わかっていた。
次にくる言葉が何であるかということを。
少なくとも、それは自分ではないということを。
そして、まるで自分への嫌がらせであるかのように……。
(……そうだな。――アスラン。指揮は、きみに任せよう)
いつもナンバーワンの座を奪われてきた相手の名前がさらりと口に上ると、わかってはいたものの、心臓を強く掴み上げられたかのような激しいショックで全身がその場に硬直するのを感じた。
自分の方に向かってちらりと投げかけられた視線が、明らかに嘲笑っているのをイザークははっきりと捉えた。
隊長であるということも忘れ、彼は思わず拳を強く握り締めながら、上官のその表情のわからぬ無機質な鉄の面を思う存分睨みつけた。
アスランの顔が驚いたように向こう側から自分を見つめている。
そんなライバルの姿を目に留める余裕すらないほどに、イザークはただ目の前の仮面だけに意識を集中していた。
――ラウ・ル・クルーゼ……っ……!
自分でも驚くくらい、強い嫌悪と憎しみの情が湧いた。
(イザーク……)
イザークの呪詛に満ちた声が聞こえたかのように、仮面の男がゆっくりとこちらに近づいてくる。
はっ、とイザークの体に緊張が走った。
憎悪の感情が、いつしかゆえ知れぬ恐怖心へとすり変わっていた。
(……あ……)
近づいてくる仮面に走る幾筋もの白い線。
線はみるみる全体に広がっていく。
すぐ目の前で、仮面は止まった。ひび割れた仮面が嘲笑うかのように揺れたかと思うと、次の瞬間、ぱっと砕け散った。
思わず片手で顔を覆ったイザークの、その腕に冷たい破片がふりかかる。
痛み、を感じた。
破片が腕の皮膚を突き破っていくのがわかった。
冷たい痛み、だった。
心臓まで貫いていくのではないかと思えるような、鋭い痛みが駆け抜けていく。
ゆっくりと目を開けた。
不思議なことに、破片が突き刺さったと思った腕は一見何の異常もないように見えた。ずきずきと心臓が飛び出しそうなほど疼くのに、なぜか見た目は出血はおろか傷ひとつついてはいない。
さっきまでいた筈の、ブリーフィングルームの光景は跡形もなく消えていた。
いつのまにか周囲は深く暗い闇に包まれている。
闇の中に、彼だけがただ一人取り残されていた。
――いや、ただ一人……ではない。
目の前に、佇んでいる一人の男。
その白く美しい面が、鮮血で真っ赤に染まっている。
血まみれのまま、彼はにやりと唇の端を歪めた。
凄惨な笑みが闇に滲む。
心臓の鼓動が速まった。
――人では、ない……。
確信が、恐怖に変わる。
逃げようと体が動くより先に相手の手がぬっと伸びてきたかと思うと、がっちりと首を掴まれていた。指先が容赦なく皮膚に喰い込んでくる。
(ひっ……!)
強く喉を締めつけられ、あまりの苦しさに声にならない悲鳴を上げた。
(う……ああっ……)
やめろっ!
やめてくれ……っ!
闇に、溶けていく。
この未知の化け物と共に……。
虚無の空間に、溶けて……なくなる。
苦痛と恐怖に竦む。
(……う……)
――うああああああ―――――っ……!
頭の中を、自分のものとは思えぬような凄まじい悲鳴が駆け抜けていった。
「……ク。……ザーク!……イザークっ!」
聞き慣れた声が、自分の名を呼んでいる。
「おいっ、イザーク!どうしたんだ。大丈夫かっ?」
体を揺すぶられ、自然に目が開いた。
心配そうに覗き込む紫色の瞳と目が合った。
「……………」
すぐには口をきけなかった。
ただ茫然と瞬くイザークを見て、ディアッカは眉をひそめた。
「どこか痛むのか?頭は……」
「……………」
肩を掴む力が強くなった。爪が喰い込むような握り方に、イザークは僅かに顔を歪めた。
「……痛……」
「――ああ、悪い」
イザークの反応を見て、ディアッカはすぐに手を離した。
「……けど、急にぶっ倒れたって聞いて、驚いてさ。……で、どうなんだよ。ドクターは軽い脳震盪だ、って言ってたけど、さっきのおまえ、何か酷くうなされてたみたいだったし……本当に大丈夫なのかよ」
「……ん……ああ……」
ディアッカの話を聞いているうちにだんだん記憶がはっきりとしてきた。
――そうだ。あのとき、第二ブリーフィングルームで、隊長と……。
(あのとき、隊長と……)
思い出すなり、愕然となった。
(あのとき、俺は隊長と何を……)
唇の感触が生々しく甦る。
あのとき……。
途端に、かっと頬が熱くなった。
「……ここは……」
「医務室だよ。クルーゼ隊長が運んできたんだとさ。何も覚えてねーのか。――一体おまえ、隊長と何やってたんだよ」
ディアッカのその何気ない問いかけが、イザークの胸に妖しい漣を立てた。
「……おまえには、関係ない」
「ってことは、やっぱ人には言えねーようなこと、とか?……ははっ、そういやあれで隊長、結構好きモノそうだからなー」
「ばっ、馬鹿っ!何考えてる?」
にやりと笑ってふざけたように軽口を叩くディアッカを、イザークは凄い目つきで睨みつけた。
「きっ、貴様という奴は……っ!仮にも、あっ、あの方は、俺たちの上官だぞっ!」
怒鳴りながらも、言葉が自ずと空回りしている感は否めない。
なぜか。
それは、ディアッカの言っていることは、案外当たらずしも遠からず、というところだったからだ。
「あはは、そうだよな。まあ、あの人のお気に入りはアスランだから、手を出すにしても、それはないよな」
ディアッカはそう言いながら、からからと笑った。
イザークはディアッカの言葉をゆっくりと反芻すると、少し瞳を暗くした。
(……アスランが、お気に入り……か)
それは、確かに最初からわかっていた。
わかってはいた、が……改めてディアッカの口からそう言われてみると、どうもいい気持ちがしなかった。
(――指揮は、アスランに任せよう)
自分を深く傷つけたあの一言。
仮面の下から向けられる意地悪な視線。嘲笑するような口元。
そして……いきなり奪われた唇。
……全てが、滑稽だった。
(――飾っておくには、きみが一番なんだが……)
飾り物。……どういう意味だ?
一つ一つの言葉が、刃物のように胸に突き刺さる。
――意地悪な、人だ。
改めてそう思った。
(人のことを何だと思っている……!)
馬鹿にしている。
誰がザラ隊になど……!
反抗心が湧き上がる。
すぐ近くにいたときの恐怖の感情も忘れ、イザークはただ怒りに没頭した。
仮面の下にあったあの不思議な素顔。
それを見たときのあの衝撃さえも、既に記憶の端に追いやられていた。
どうしても、もう一度何か言いたくて仕方なくなってきた。
やめておけ、という心の奥の警告も無視して、彼は一気に身を起こした。
まだ頭がふらつくが、何とか力を入れて床に足をつけた。
「おいおい、何だよ。まだふらふらしてっぞ。もう少し寝といた方がいいんじゃねーのか」
「うるさい!」
ディアッカを一喝すると、イザークは固い床を踏みしめて自分の体を支えていた。ぐらつかないようにしっかりと踏ん張る。確かにまだ目の前が揺らめくような気がするが、いつまでもベッドの上で横になっているわけにもいかない。
こんな体たらくでは、せっかくの赤服が泣く。
「ちょっと、行ってくる」
「え……って、どこへ?」
ディアッカは唖然とした表情でイザークを見返した。
「隊長に、まだ言い残していたことがあった」
イザークはそう言うと歩き出した。
「言い残していたこと、って……おいおい、おまえ、まさかまだザラ隊のこと言ってんじゃねーだろうな?――あーもう、やめとけって。あの人は俺たちの言うことなんか何も聞いちゃくれねーよ。おまえのせいじゃねーさ。あれはさ、単に政治の問題!パトリック・ザラ至上主義なだけだろ。気にすんなよ。――それよか、もう部屋に帰って休んだら?まだ顔色、悪いぜ」
後ろから置かれた手を、イザークはわずらわしげに振り払った。
振り返るなり、背後のディアッカを睨みつける。
「貴様はそれでいいかもしれんが、俺は違う」
イザークの口調は苦々しかった。
「――貴様のように軽々しい人間じゃないんだ、この俺は!……俺には俺なりの矜持というものがある」
「矜持(プライド)、ねえ……。けど、そんなこと言ったって、実際どうなるもんでもねーだろーが。いいじゃんか、そんなにこだわらなくたって。そうだ、どうせならさ。逆に奴に思いっきしプレッシャーでもかけて、潰してやるとか、さ。いろいろ楽しめそうじゃん」
イザークは何も答えず、ただ悔しそうに唇を噛んだ。
やがて彼はそっと顔をそむけると、再び扉へ向かって歩き出した。
「おい、イザーク!待てよ。どこ行くんだよっ……イザークっ!」
なおも背後から呼び止めようとする声を無視して外へ出る。
背後で扉が閉まると、扉の前でいったん足を止め、肩で息を吐いた。
頭の芯がずきりと痛み、片手でこめかみを軽く押さえる。
(……くそ……っ……)
思った以上に、体が疲弊しているのを感じた。
と、そのとき。
俯いた顔の前を、人影がよぎった。
「……イザーク」
急に声をかけられて、はっと目を上げた。
目の前に佇む相手を認めたとき、イザークは驚いたように大きく目を見開いた。
「――あ……」
今、一番見たくないと思っていた顔が……。
イザークは茫然と相手を見つめた。
「……アス……ラ……ン……」
自分がひどく動揺しているのがわかった。そして、そんな自分の心の内を相手に知られることをただ怖れた。
言葉の出てこない唇を悔しげに噛みしめたまま顔をそむけ、逃げようとする体に触れてくる強い手の感触。
気付いたときには、片腕を掴まれていた。
痛いほど、強い視線を感じる。
「――少し、話がしたい」
静かな、それでいてどこか拒むことを許さぬ強さの滲む声で、アスランはただ一言、そう言った。
(to
be continued...)
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