溶 闇 (3)






 「話、だと?何を言ってる、貴様……!」
 イザークは馬鹿にしたように言うと、自分の腕を掴む相手の手を振り払おうとした。
 しかし、強い力がそれを阻んだ。
 イザークは息を飲んだ。
(アス……ラン……?)
 その瞬間、相手からかかってくるその無言の圧力に、言い知れぬ恐怖を感じた。
 目を合わせると、その瞳の強い色に飲み込まれてしまいそうになる。
 思わず目をそむけるイザークの腕が、さらに強く引っ張られた。
 掴まれた手を振り解くことができない。単に力の強さというだけではなく、それ以上の何か抗しきれない力に捉えられた、と感じた。悔しいが、今の自分にはそれを拒むだけの力が残っていない。
 イザークは唇を噛んだ。
 ずきり、と頭の芯が痛む。全身が今にも崩折れそうなのを堪えるのが精一杯だった。
「――来いよ」
 そう言うと、有無を言わさぬように歩き出す相手に引かれながら、止むなくその後に従った。
 
 
 
 部屋の中に入ると同時に、ようやくはっきりと意識が戻ってきた。
「……はっ、離せっ……!」
 我に返ると、突然渾身の力を振るってその腕を引き戻そうとするイザークに、虚を突かれたアスランの力が緩み手が離れた。
「何のつもりだ、貴様……っ……」
 まだ頭が重いが、それでも声を出せるくらい力が戻った。
 こんなところまで、引きずられてきた屈辱に改めて怒りが湧き上がってくる。目の前の相手を強く睨みつけた。
 しかしアスランは顔色も変えずに平然と見つめ返す。
「だから、話があると言ったろう」
「俺には貴様と話すことなど、何もないっ!」
「――倒れた、って聞いて心配した」
 イザークの言葉など耳にも入らなかったように、アスランはただそう言って、微笑んだ。
「………………」
「……隊長と一緒だったんだろう。……何、話してたんだ」
「……貴様には、関係ない」
「――俺のこと、じゃないのか」
 問いかけとともに、鋭い眼差しに射抜かれて、イザークは忌々しげに視線を落とした。
「……俺が指揮を取ることが不満なんだろう。なら――」
「だっ、誰もそんなことは言ってないっ!憶測でものを言うなっ!」
 ずばり核心を突かれ、イザークは思わず反論の声を上げた。
「誰が指揮を取ろうが、俺には関係ないことだ!それに貴様が指揮を任されたからといって、俺たちが対等であることに変わりはないからな。そんなくだらんことをこの俺がいちいち気にするとでも思っているのか。……馬鹿にするな!」
 見事に心と裏腹な言葉を叩きつける。
 偽りの言葉が、胸を荒々しくかき乱す。
 言いながら、こんな自分は惨めで醜い、と思った。しかし言わずにはおれなかった。アスランには見抜かれている筈だ。冷静で落ち着き払ったその顔を見ていればわかる。だからこそ、余計やっきになってしまう。
「俺は貴様のことなど何も気にしていないんだっ!勘違いするなよっ!」
 言いながら、苛立ちが募り始めた。
 黙って微笑む相手の顔……。
(……何なんだっ……!)
 なぜ、何も言わない。
 自分ばかりに言わせて、卑怯ではないか。
 無性に腹立たしい。そして……悔しかった。相手の落ち着いた顔を見ていると、動揺している自分が一層情けなく、惨めに思えてくる。
 一体なぜ自分はこんなに興奮しているのか。
 もっと冷静に……。
(自惚れるな。おまえなど、俺の目の中には最初(はな)から入ってないんだよ)
 
そう言って相手を鼻で笑ってやるくらいの余裕があれば……。
 そのとき、ふっと相手の口から小さく息が洩れた。
 
と思った次の瞬間には、くつくつと肩を震わせて笑い出している相手の姿が目に入った。
「きっ、貴様……っ……!なっ、何を笑っているっ!」
 イザークは眉をますます吊り上げて険悪な顔を見せる。しかし怒った顔と同時にそこにはやはり隠しきれない戸惑いと動揺が現れていた。
「――イザークは、嘘が下手だな」
 アスランはひとしきり笑うと、なおもからかうような視線を向けた。
 からかいながらも、真剣な光が瞬くその鋭い瞳にどきりとする。
(――きみは、下手な嘘を吐く……)
 つい先刻、同じ台詞を囁かれたことを不意に思い出した。
 胸がざわめいた。
「俺のことで隊長に何か言いたいことがあったんじゃないのか」
「うるさい奴だな。俺は何とも思っちゃいないと言ってるだろうが!」
 イザークは噛みつくように言うと再びそっぽを向いた。横顔から上気した頬と拗ねたように突き出た唇を見て、アスランは目を細めた。
「……それじゃあ、俺が隊長役をするってことを認めるんだ?」
「――クルーゼ隊長の命令だ。仕方なかろう」
 あくまで『クルーゼに言われたから』だというところを強調するイザークの言葉から、その相変わらずの負けん気の強さを感じ取ってアスランは苦笑する。
「……そうか。だったら、少しは俺の言うことを聞けよ。――俺はおまえと話がしたいと言ってるんだ」
「なっ……」
 やや高圧的な響きを帯びた声に、イザークはぴくりと不快な反応をした。
「……貴様、調子に乗るなよ。それとこれとは――」
「違わないよ。俺は隊のリーダーとして、おまえと話がしたいんだ。――おまえには俺の言うことに従う義務がある。今、おまえ自身がそう認めたじゃないか」
 そんな風にごく冷静に言い返されると、イザークはかっと目を見開いた。
「だからッ……!――俺はおまえの格下になったわけじゃない、と言っているだろうが!」
「それはおまえの勝手な理屈だろう。指揮を取る立場にある俺と、おまえが対等であるわけがない」
 冷たい瞳に射竦められると、全身の熱がすっと引いていく。
「……………」
 イザークはきつく唇を噛んだ。
 何も、言い返せない。
 怒鳴りつけてやりたいが、それだけの力が一気に失せた気がする。
 急にまた、頭の芯が痛み出した。
(……ああ……)
 イザークは拳を握り締めた。
(いつだって、こいつはこうなんだ)
 
こんな風に、無理矢理俺を自分の手の中に取り込もうとする。
 さも優しげに微笑みながら、平気で酷いことをする。
(くそっ……!)
 悔しかった。
 こんな奴に翻弄されている自分。
 それを、認めない訳にはいかなかった。
 
頭が、痛む。どうしようもなく気分が悪い。
 二、三歩よろめくように後退すると、後ろの壁に凭れかかって片手で軽くこめかみを押さえた。
「……痛むのか?」
 目を閉じたまま苦しげな息を吐くイザークを見て、アスランは気遣わしげに声をかけた。
「構わないから、ベッドに横になれよ」
「――ここで、いい」
 不機嫌な声で、イザークはぼそりと答えた。何だか体がだるくて、瞳を開けることもできなかった。
「顔色が、悪いな……大丈夫か」
 自分からこんな風にストレスをかけておいて何を言っている、と怒鳴り返したかったが、本当に気分が悪くてそれどころではなくなっていた。
「いいから、さっさと話を済ませろ」
 力なく呟く。
「……イザーク――」
 ふとすぐ前に人の体の気配を感じた。
 あっ、と思って目を開けたときには既にアスランの顔が間近に迫っていた。
 逃れようとするより早く両手を掴まれ、そのまま壁に縫いつけられる。
 頭を壁に押しつけるように、唇を奪われた。
「……ふ……ッ……うッ……」
 否応なしに歯列を割って侵入してくる舌に、口内を激しく愛撫される。逃げ場を失い、絡め取られた舌が強く吸い上げられ、痛みと自然に起こる例の疼くような刺激にたまらず悲鳴を上げたくなった。
「……っ!」
 突然、唇が離れた。
 端整な顔を僅かに苦痛に歪めたアスランが、下半身を押さえながらがっくりと床に膝をついて倒れる。
 イザークの渾身の膝蹴りがまともに腹に入ったのだ。
「――ひどいな。いきなりそれは、ないだろ?」
 軽く咳き込んだ後、ゆっくりと立ち上がると、アスランは苦笑混じりにそう言った。
「……アス……ラン……っ……!」
 イザークは、まだ苦しげに意気を弾ませながらも、必死で目を怒らせて相手を睨みつけた。
「……いきなりは、きっ、貴様の方だろうがっ……!一体、貴様、何を考えて――」
「――イザークのこと」
 アスランの声が遮るように答えた。
 食い入るような瞳に宿る熱を帯びた光に、どきりとする。
 何度もこんな瞳(め)をするこいつと対峙してきた。そして、そのたびに……。
 相手との以前の苦い体験を思い出して、ぞっと身が竦んだ。
 欲望を、感じる。
 
これは――犯そうとする獣の眼だ。
「……ずっと、おまえのこと、考えてた」
 距離が狭まる。
 警戒心に駆られながらも、合わせた目を離すことができなかった。
 ――また……だ。
 逃れたい恐怖と、それを押しとどめるもうひとつのひそやかな心の疼き。
 求めているのか、求めていないのか、もはや自分でもよくわからなくなっていた。
 こんな風にして、結局ずるずると抱かれるのだ。
 ――完全に相手に翻弄されている。
 そう思うと怒りと屈辱感に身が焼かれるようだった。
「……よせ……アスラン……」
 迫る相手に押されて後退ると、再び背後の壁にぶつかった。
 ――逃げなければ。
 しかし、体はなぜか動こうとしない。
 欲望と愛情に濡れた翡翠の瞳が、食い入るように見つめてくる。
「……俺、は……」
 最後に肌を合わせたときの情景が不意に甦る。
 気付かぬうちに零れていた嘘の欠片。
 言葉もなく、抱き合いながら……いつしか互いの心が見えなくなっていた。
 
見えないまま、ただ高まる情欲を鎮めようとするかのように、虚しく相手を求めた。そして何も得られぬまま……虚しさだけが残った。
 あんなことをまた、繰り返すのか。
 彼は目を閉じた。
 目を閉じて、ただ待った。
 ――抱きたいなら、抱くがいい。
 抱かれて、やる。
 それによって、何が変わるわけでもないのなら。
 ……ならば、何を躊躇うことがある。
 そう思ったとき――微かな溜め息が零れる音を聞いた気がした。
 同時に額に何かが触れた。
 瞼を上げると、指先が見えた。
 す……と額に触れた指が、醜悪な傷痕をそっとなぞっていく。
「……酷い傷、だ」
 アスランは吐き捨てるように呟いた。
「……なぜ、消さない」
 ひそかな怒りが垣間見えるようだった。
 指先は執拗に、傷をたどる。
 そっと、愛撫するかのように。一本だった指が二本になり、三本になって、ついには手のひら全体が彼の顔を覆うように、何度も何度も行き来する……。
 払いのけようと思うのに、手が動かない。何かの呪縛にかかってしまったかのように。
「こんなの、すぐ消える筈だろう」
 消せよ、と迫るような語調だった。
「……貴様には、関係な――あ……っ!」
 そのまま顔ごと引き寄せられ、再び唇を合わせていた。
 今度は触れるだけですぐに離れた。
 その代わりに唇はそっと頬を撫で、先ほどまで指を這わせていた傷痕を唾液で湿した。
(あ……)
 イザークは小さく喘いだ。
 甘くほろ苦い疼きが傷口からせり上がってくるかのようだった。
 傷、が……。
 この俺の傷が……。
 溶けて、いく……。
 そんな錯覚に陥った途端、はっと我に返った。
(……駄……目だっ……!)
 鋭い痛みが頭の芯を貫いていく。
 傷が、再び暴れ出したかのように。
 ――痛……っ……
 痛みが駆け抜ける。
 焼けつくような灼熱の炎の中に投げ込まれ、のたうち回る自分自身の姿が見える。
(やめろ……っ……!)
 ――やめ……
「う……あああ……っ……!」
 突然腕の中で体を捩じらせ、悲鳴を上げ出したイザークに、アスランは驚いて手を離した。
「やめろっ!やめろーっ……!」
 アスランを突き放すように床に崩折れていった体をなおもがくがくと震わせながら、イザークはゆっくりとその面を上げた。
 涙の滲む怒りのこもった瞳が、愕然と佇むアスランを恨めしげに見上げる。
「……どうして、貴様はそうなんだ」
「………………」
「……そうやって貴様は、いつも俺の邪魔をする!」
 吐き捨てるように言うと、相手を睨みつける。
 誰にもこの気持ちはわからない。
 自分がなぜこの傷を消さないのか。
 その理由を……。誰にもわかってもらおうとも思わない。
 なぜなら……本当は自分自身にだってわかってはいないのだ。
(……俺が傷を消さない……消せないのは……)
 嘲笑うように駆け抜けていく白い機体。
 堕ちていくジン。
 業火の中で焼かれる己自身の姿。
「……俺はあいつを……ストライクを倒すまで、この傷は消さないと誓ったんだ。ただ、それだけのことだっ!そのことで貴様にとやかく言われることは――」
 そこまで言いかけたイザークは、相手の顔を見て不意に口を噤んだ。
 アスランの顔に一瞬浮かんだその言いようのない深い悲しみの影。それは自分がアスランを拒んだことに対するものだけではないように思える。何だか妙に気にかかった。
 そういえば……。
 あのとき。――戦闘中に、ストライクを討つチャンスを阻んだのは、他ならぬあいつだった。
 あいつは、知っていた。ストライクのパイロットを。
 何と言っていたか。名前を……あのとき奴はその名前を口走っていた。
 ストライクのパイロットの名……。
 確か……。
「――キラ」
 その名がイザークの口から零れた途端、今度こそはっきりとアスランの表情が変化した。
「……イザーク……おまえ……?」
「――おまえは、奴を知っている」
 青ざめた顔のアスランを、イザークの鋭い視線が貫いた。
 ――ストライクに乗っている奴は、おまえの……。
 その名を口に出した瞬間のアスランの反応を見て、イザークはそれを確信した。
 
ただの知り合いでは、ないのだ。
 彼は驚愕した。
 なぜ、なぜ、なぜ……?
 
相手はナチュラルではないか。なぜ、そんなことが……?
「奴は、おまえの――」
 
次の言葉が出る前に、唇が慄きに震えた。
(奴は、おまえの何なんだ……?)
 彼は激しく動揺していた。
 
憤り……だけではない。
 違う。もっと、別の……。
 
なぜ、こんなに胸が痛む?
 
唇の先で言葉が、凍りつく。
「――イザーク」
 アスランの静かな声が響いた。
 緑色の瞳。そこに映るのは、見たこともないような深い悲しみと苦痛の色。
「……友だち、なんだ」
 ゆっくりと紡がれていく言葉が、重く胸に沈む。
「月の幼年学校にいた頃の……幼なじみなんだ」
 ずっと、一緒だった。
 ずっと、ずっと……。
 戦争が起こって、こんなことになるなんて、まさかあの頃は思いもしなかった。
「――だから……俺は、あいつを殺したくない」
 最後にそう言い放つ声が僅かに震える。ほんの一瞬、アスランは泣きそうな顔になった。
 予期してはいたものの、それでもその最悪の告白を前に、イザークは激しい衝撃に打たれた。
「……殺したくない、だと……」
 瞳に激しい炎を燃え上がらせて、彼は唸るように言った。
「奴は、ミゲルを殺したんだぞっ!」
 憎悪に満ちた悲鳴のような叫びだった。
「……それは――!」
 アスランも声を上げた。
「――そんなことは、わかっている!だが……!」
 ミゲルという名が、二人の間に微妙な波紋を投げかけた。
 アスランは辛そうに目を伏せた。
「……そうだな。悪かった。今あいつが俺たちの敵であることには変わりはない。俺も戦争に個人の感傷を持ち込むつもりはないよ。次に会ったときは、全てを忘れて戦う」
 そこまで言うと、彼は再び視線を戻す。
 淀みのない真剣な瞳が真っ直ぐにイザークを射た。
「だから、おまえもストライクにこだわるのはよせ。これは戦争なんだ。おまえ個人の私闘じゃない」
 しかし、イザークはさらに目を怒らせてアスランを睨みつけた。
「うるさい!……貴様にそんなことを言われたくはないっ!」
 叩きつけるように叫んだ。
「……俺は、必ず奴を倒す……。それまでは、奴につけられたこの傷は絶対に……絶対に、消さないからなっ!」
 ――ストライクにこだわるな、だと?
 ――全てを忘れて戦う?
 イザークは息を吐いた。
(……嘘だ)
 唇が歪んだ。皮肉な笑みが零れる。
 
――できるものか。
 貴様には、できはしない。
 苦々しい思いを噛み締める。
(だから、俺が奴を倒すしかない)
 それが、おまえの大切な誰かであったとしても。
 そんなことは、関係ない。
 ――俺は、俺の大切なものを奪ったそいつを、赦すことはできないのだ。
 彼は迷いを振り切るように頭を振った。
 肩に触れようとする手を、冷たく振り払う。
「……俺に、触るな」
 イザークは目を伏せると、重い体をゆっくりと起こした。
 立ち上がるとふっと眩暈がするようだった。
「……貴様が隊長だなどと……吐き気がする」
 ストライクのパイロットを助けようとしている、貴様などがどうして隊の指揮を取る……?
「……貴様など……」
 胸の内を冷たい風が吹き抜けていく。
 返事はない。
 アスランは、何も答えずただ黙って立ち尽くしていた。
(貴様など……)
 泣き出したい心を無理に抑えつける。
 こんなに寂しさを感じたことはなかった。
 自分から手を振り切ったのに。
 それでもまだ、こんなにもそれを求めている。
 自分はいつからこんなに脆い存在になってしまったのか。
 そんな自分の不安定な心が忌まわしかった。
 背を向けて歩き出す。
 追いかけてくる足音を聞くことはなかった。


                                       (to be continued...)


 ☆珍しくコメントを。(笑)
   久し振りに初期アスイザ風味になったかと思います。
   あんまり初期の頃から書いてる時間が長いので、自分でも読み返さないとわからなくなったり。
   前回のアスランとイザークの接触はちなみに19話の「嘘」になります。
   お忘れの方はもう一回そのあたりを読み返して下さると、おわかり頂けるかと。
  (ちなみに作者も半忘れでもう一回読み返しました。・・・苦笑)          (2006. 10. 21)


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