溶 闇 (4)






  部屋を出てから、しばらくは足を止めることができなかった。
 そうしていつしか彼は自分たちに割り当てられた部屋とは全く異なる方角へ向かって歩いていた。
 人気のない静かな廊下を踏みしめる己自身の軍靴の音が鋭く鼓膜を打つ。
 重力に引かれる体がひときわ重く感じられた。
 だんだん、足の動きが鈍くなる。
 
無理だ。……これ以上、歩けない。
 気付いたときには彼は廊下の途中で立ち止まり、両手で頭を抱え込むようにその場に蹲っていた。これが公衆の場所であることも何もかもわかっていながら、どうしても体が言うことをきかなかった。
 ――動けない。
 固く瞑った瞳がじわりと潤む。
 ――何だろう。
 なぜ、自分が泣いているのかわからなかった。
 こんなところで、一人蹲って泣いている自分がたまらなく惨めに思えた。それでも、いったん零れ出したこの涙をどうしても止めることができないのだ。情けなくて、悔しくて……でも、この悲しみが止まらないのは……自分ではもうどうしようもない。
 思えば、あの宇宙での戦いから……走り通しだった。
 大切なものを失い、それでも立ち止まることを許されぬまま、恨みや憎しみ、悲しみが交差し……心を切り裂かれた。
 大気圏を抜けたときに、全てが終わってしまえばいいとさえ思った。
 心も体も、もう限界にきているのかもしれない。
「……う……っ……」
 歪められた唇の端から洩れるくぐもった呻き声が、痛々しく耳を突き抜けていく。
 ――こんなことで泣くなんて、どうかしている。
 頭ではそう思いながらも、実際には込み上がってくるものをどうしても抑えることができない。
 足音が聞こえたような気がした。
 人が来る。
 まずい……!と思ったが、急には立ち上がることもできず、そのまま顔を隠すように蹲っていた。
「――イザーク」
 頭の上から降ってきた声は、はっきりと自分の名を呼んだ。
(……あ……)
 全身が、固まった。
 聞き慣れた明瞭な声。その強い響きにびくんと心臓が跳ね上がりそうになる。
 顔を上げなくても、声の主が誰かははっきりとわかった。
 ――クルーゼ……
(……た……い……ちょ……)
 急には返答の声も出ない。
 なぜか――
 恐怖を、感じた。瞼を僅かに上げることすら、できないほどに。顔を覆う手にかかる自分の吐息がやけに熱い。
「――立ちたまえ」
 容赦なく命じる声に促され、立ち上がろうとする膝頭が小刻みに震える。
 駄目だ。――動けない。
 動けないまま、数瞬が過ぎ――
 いきなり肩を掴まれたかと思うと、強引に体を引き起こされた。
「あ……っ……」
 よろめきながら、思わず見開かれた瞳の中に、冷たい銀色の仮面が映る。
 その下に隠れていた顔を思い出すと、ぞくりと悪寒が走った。
 あの、美しいがどこか人間離れした顔……。この世のものとも思えぬぞっとするような冷たさが心臓を撫でていくかのようだった。
「……隊……長……」
「今夜のきみは、どうも変だな。一体どうしたというのだ?」
 穏やかな声にはどことなく別の含みが感じ取れた。
「医務室を出て、どこをうろついていた?ディアッカが探していたぞ」
「……あ……それ……は……。――レ……スト……ルームで、少し……」
 言い訳をしようとする先から、言葉がもつれる。
 彼は顔を俯けながら、努めて相手と視線を合わさないようにした。この涙の跡を見られたら、もう何も説明のしようがない。どう見ても変だと思われるだろう。
「ふうん……そうか……」
 いつの間にか、息がかかるほど間近まで顔を寄せられていた。
「ディアッカは、きみが私を探していると言っていたが……」
(――隊長にまだ言いたいことが……)
 そういえば、そんな風にディアッカに言い捨てて、医務室を出たことを思い出した。そうすると、あの後ディアッカがすぐにクルーゼに連絡を取ったに違いない。
 多少なりとも興奮気味だった自分が、例の件で隊長に直談判でもしにいったと心配して気を回したのだろうか。だとしたら、余計なことを……。
 と、そんな考えに耽っていた彼の顎が急にぐいと持ち上げられた。いやでも顔を上げざるを得ないように。
 
彼の顔を眺めると、クルーゼは僅かに首を傾げた。
「どうして、泣いている?」
 まだ濡れた頬を、指が撫でた。
「いっ、いえ、私は……」
 イザークはそう言いかけて、唇を引き結んだ。この顔を見られれば、そんな否定の言葉がまるきり意味をなさないということはよくわかっている。しかし……それでも、否定せずにはおれなかった。
「これは、その……」
 みるみる顔が火照るのが自分でもよくわかった。
 そんな彼を見て、クルーゼは軽く息を吐いた。
「――そうか……もう一人、きみが話したいと思うものがいた筈だな」
 それが誰のことかは明らかだった。
 彼は慌てて首を振った。
「……ちっ、違い……ます……」
「ほう……そうかな?」
「……わっ、私は……」
 声が小さくなった。
「私は……ですから、ずっと……誰とも……」
 意味のない反駁。言葉すら続かない。そんな彼の顔を射抜くように見つめる、仮面の向こうの冷たい眼差しを感じる。
 この仮面の下にあった、顔。
 自分の知らない、もう一人の男がそこにいた。
 自分たちの隊長ではない。全く見知らぬ、ラウ・ル・クルーゼという名の男が……。
 またその不思議な感触に胸を掴まれる。
「まあ、いい。きみがさっきまで誰とどこにいたかなどということは、どのみち私には関係のないことだ。それより――」
 ふっと息を吐き出す。
 こんなに冷たい仮面の下に、人肌の温かさが存在するとはとても想像できなかった。なのに、熱い吐息がはっきりとそれを証明している。不思議、だった。魅入られたように、イザークはただぼんやりと目の前の仮面を見つめた。仮面が近づくとその鋼の無機質な眼窩が奇妙なほどの圧迫感を与えた。
「――もう一度、この仮面の下を覗いてみたくはないか」
 不意にそんな言葉を投げかけられ、イザークは思わず目を瞠った。
 声が、出ない。
 仮面の下……?
 忘れかけていた、この男とのひとときの体験が再び甦る。
(それは、どういう……)
 胸が激しくざわめいた。
「――私の真実の姿を」
 頬に仮面が触れた。あまりの冷たさに、身が竦む。
 ――この人は、何をしようとしているのか。
 相手の意図が、汲み取れない。……その一方で、なぜか体が期待と恐怖でひそかに慄き始めているのも確かだ。
「……きみになら、見せてもいい」
 そう呟きながら、唇は頬を舐めた。
 鋼の冷たさと、濡れた唇の生暖かい感触が、交じり合う。
「や……」
 ――やめて、下さい……と言う前に唇を塞がれていた。
 無遠慮な舌が再び侵入してくると、さらりと口内を舐めていく。今度はそれほど強引ではなかったが、やはりその感触は生々しく、電流に触れたかのように忽ち痺れるような刺激が口内から全身へと駆け巡っていくのがわかった。
 唾液の糸を引きながらそっと離れていった唇の先が、仮面の下で艶かしく歪んだ。
「――アスランの、匂いがする」
 鼻先で揶揄するように囁かれると、イザークはびくんと肩を震わせた。
「なっ……何を……っ……」
「――違うか?」
「………………」
 返答に詰まるイザークを前に、仮面はくすりと声を上げて笑った。
「本当に、きみは嘘が下手だな」
 ――私の前では、無駄だ。何も隠すことはできないよ。
 そんな言葉が聞こえてくるかのようだった。……まるで聞き分けのない小さな子供を諭すように。
「さあ、今夜はゆっくりと聞いてあげよう。私にまだ言い足りないことがたくさんあるのだろうからね」
「は……」
 身を捩って腕から抜け出そうとする彼を、放さぬようにさらに強く抱く。
「……こっ、こんなところで……っ、やめて下さいっ……!」
「誰も来ないよ。消灯時刻はとうに過ぎている」
「そっ、それでも……っ……!」
 羞恥で顔を赤く染めたイザークを面白げに眺めながら、クルーゼは不意に腕の力を緩めた。急に突き放されて、イザークはよろよろと後退し、傍の壁に手を突いて、倒れそうになる体をすんでのところで支えた。
「たっ、たい……ちょうっ……!」
 恨めしげな瞳が仮面に向けられることにも一向に頓着せぬ様子で、男はくるりと背を向けた。
 手のひらを返したようなその態度の急変ぶりに、イザークは呆気に取られた様子で立ち竦んだ。
「……隊長……!」
 悔しげに唇を噛みしめたイザークの前で、男は再び振り返った。
 その湿った唇の上には、相変わらず人を嬲るかのような微笑みがうっすらと浮かんでいる。
 クルーゼの手がすっと上がった。
 指先が仮面に触れる。
「……………!」
 相手が何をしようとしているのかを察して、イザークは息を飲んだ。
 漏れ出そうになる声を必死で抑えながらも、その目がみるみる大きく見開かれる。
(ああ……)
 何を……
 非常灯が、ふっと明かりを落とした。
 仮面の下の顔が、薄闇の中に白く浮かび上がる。
 これは、夢か。……まるで、違う次元の中に迷い込んでしまったかのように。一瞬自分がいる場所がわからなくなった。
「隊長……」
 力なく呟く声も、いつしか闇に呑まれていく。
 白い顔が、微笑んだ。
 こんなにもはっきりと見えているのに、本当にそこに実在しているような気がしないのは、なぜか。これは、現実……なのか。本当に……?
「……イザーク」
 異次元の空間を響く声が、脳を痺れさせる。
 ――きみは、抗えない。
 妖しくも美しい面が、僅かに歪められた。
 ついてこい、と誘うように、強い眼差しが彼を射る。
 背を向けて歩き出すその後に引かれるように、自分自身の意志に関係なく、ただ体がひとりでに動いていた。
 意識が、遠くなる。
 なぜ、急に、こんな……?
 イザークは危ぶみながらも、麻薬にかかったように朦朧とした頭のまま、先を行く男の背を追いかけた。
 クルーゼは不意に立ち止まり、背後の足音に耳を傾けた。
 一歩、一歩……近づいてくる。
 背に少年の吐く息がかかる気配がした。
 一瞬の躊躇い。おそるおそる差し出されたその震える指先を背に感じたとき――
 
彼は勢いよく振り返ると、驚きに竦んだ体を腕の中に引き寄せた。顎を持ち上げると、噛みつくように荒々しくくちづけた。
 短い一瞬の激しく濃厚なくちづけに、息をすることも忘れ、少年の体は衝撃に崩折れそうになる。それを、素早く抱え上げると、クルーゼは爛々と燃える瞳を前方に据えつけながら、わき目も振らずに歩き出した。
 ――いい子だ。
 人間(ひと)として置いておくには、勿体ない。
 目を落とし、銀色の髪にそっとくちづけながら、彼は謎めいた笑みを浮かべた。
(この醜い世界の奴隷にしておくには、あまりにも――)
 ――あまりにも彼は、相応しくない。
 何という皮肉な運命か。あのエザリアの息子が、こんな風に私の腕の中に……。
 そう思うと笑いが込み上げてきた。
 エザリア・ジュール。
 彼女がこのことを知れば、さぞや面白いことになるだろう。あの女がどんな顔をするか見ものだ。
 禍々しい笑みが白い美貌を歪ませる。果てのない憎悪と怨嗟の呪縛に囚われている自分が呪わしい。
 しかし、こうなったのは自分のせいではない。
 自分が背負わされたこの呪わしく忌まわしい人の業が自分を狂わせているのだ。
 皮膚に痛みが走る。
 ああ……時間だ。
 彼は足を速めた。心臓が高鳴る。心拍数が上がっているのは、間違いなく腕の中のこの美しい少年のせいだけではない。
 また、あの発作が起こる前に……。早く部屋へ帰らねば。
 薬を飲んだら、さっそくこの玩具を楽しませてもらう。それくらいの楽しみを与えられても罰は当たるまい。
 くくく、と呻くように笑う。
 
この戦乱の果てに、生き残るものが果たしてどれほどいるものか。愚かな大義を振りかざし、誰もが己こそは正義であると信じて戦いに身を投じ……そしてその誰もがいずれ命を散らすことになるのだろう。
 戦って、死ぬことを彼らは厭わない。
 愚かな遺伝子を受け継いだ人間ども。いくら最高の遺伝子を手にしても、死ぬことからは逃れることができないというのに。
 この呪われた戦争の中に身を投じている限り、奴らは互いに殺し合うことをやめない。互いの種が滅びるまで、この殺し合いは続くだろう。愚かな奴らだ。裏切り、憎み合うことしか知らない、愚かな……。
 こんな奴らは全て滅びてしまえばいい。
 自分はそもそもそれを見届けてやろうと思った筈ではなかったか。

 
白い面に酷薄な笑みが広がる。
 
全て滅びてしまえば、いい。
 
こんな世界など……。
 
最後の一人となったときこそ、初めて自分が己自身のこの存在をその世界に明らかにし、大きな声を上げて笑ってやるのだ。
 
誰もいなくなった世界に、自分だけの笑い声が響くところを想像してみる。愉快だ。何という愉快な光景だろう。
 それでも――
 
少年を抱く腕に力を込める。
 
――そうだな。やはり、誰か傍にいた方が、いい。
 
寂しげな、色の薄い瞳が、改めてイザークを見つめる。
 
銀色の髪。青い瞳。
 
閉じられた瞳の中に宿るその青い、青い瞳の色は、自分とは比べ物にならないほどの生気と美しさに満ちている。
(――それでも、きみだけは放さないことにしよう)
 ――それが、彼の果たすべき役割なのだから。
 ……それは、この傲慢な神が与えた役割だった。
 きみだけは、守ってやろう。
 この上もなく美しい……この私だけの人形として、永遠に……。


                                       (to be continued...)


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