溶 闇 (6)
「……ん……」
イザークは瞳を開くと、僅かに瞬いた。
ベッドの上に寝かされている。
カーテン越しに差し込む淡い朝の光が薄暗い部屋をほんのりと照らし出していた。
ここは、どこだろう。自分たちの部屋……?
落ち着きない視線を彷徨わせ……ごくりと唾を飲んだ。
――では、ない。
寝台がこんなに大きくはなかった。何より広い。
起き上がろうとして、その体の軽さに驚いた。
(……あ……れ……?)
いつのまに、軍服を脱いだのだろうか。しかも……。
自分の格好を見て、思わず、ずずっと再びシーツの中に沈み込む。
(何て……格好してるんだ……)
全裸……だった。
(……お……れは……)
必死で記憶の糸を手繰り寄せようとしながら、身を起こしかけたそのとき。
「……っ……!」
下半身から突き上げてきたその痛みに、彼はうっと顔を歪め、シーツの下で身を竦めた。
覚えのある痛みだった。
(……はっ……あっ……ああ……んっ……)
途端に、自分の淫らな喘ぎ声が耳元に甦ってきて、思わず声を上げそうになった。
(あ……)
悪夢のようなひととき……。
相手の腕の中で乱れ、喘ぎ、信じられぬほどの痛みと快感のせめぎあう中で、いつしかもっともっとと艶かしい声で貪欲に欲しがっていた……あの淫猥な情夫のような姿を晒していたのが、本当に自分だったのか。
あれは、現実――だったのか。
己自身の卑猥な残像が脳裏を掠めると、羞恥にかっと頬が熱くなる。
そしてそれを笑いながら見つめていた、氷のように美しい貌……あれは……誰だったのか。
あれは……。
周囲を彷徨っていた視線が不意に一点で止まる。
サイドテーブルに載っている銀色の仮面と錠剤の入った小瓶。
見覚えのある、仮面……。
(え……?)
ぎくりとした。
――まさか……。
信じられないように瞳が大きく見開かれる。
(――ウ……)
耳の奥で微かにリフレインする声。己のものとも思えないような甘く妖艶な響き。だが、それは誰でもない、己自身の声だ。
焦燥に駆られたように、掠れた喘ぐ声が、しきりにその名を繰り返す。
(――ウ……ラウ……ラウ……ッ……)
笑いながら、応える相手の胸の中に頭を埋め、甘い声で喘ぎながらもっと抱いてとねだる。
(――しようがない子だ)
相手の指が、唇が甘い疼きを高めるのを、うっとりと見つめながら……。唇が震え、あられもない声が零れ出るのを止められない。頭の中が真っ白になる。痺れるような悦びに酔う。
(……あ……ふ……あっ……んっ……い……い……あ……ん…ぁ……)
――不意に、彼は耐えられなくなって目を閉じ、耳の奥で鳴り響く己自身の声を振り払うように強く頭を振った。
(う……そだ、嘘だ、嘘だっ……!)
シーツの中で震える全身を抱きしめる。
(そんな……っ……そっ……――)
――ラウ……。
銀色の仮面が笑う。
(嘘だ……)
隊長……と……?
まさか、そんなこと……。
――ことり、と音がした。
人の気配にぎくり、と目を上げる。
錠剤の瓶をテーブルに置いた白い手が、今度はその隣りの仮面を取り上げるのが見えた。
かちり。金具が止まる音。
おそるおそる見上げたとき、既に男の顔にはいつものように銀色の仮面が装着されていた。
不思議なことに、その姿を見ると、もうその下の顔を思い出すことができなくなっていた。
だが……。
自分は確かに見ている。
この男の素顔を。
そう思うとぞくぞくするような興奮と畏怖が全身を捉えた。
――自分は禁忌の扉を開いてしまったのだ。
「……どうした?」
男がゆっくりと問いかける。
びくっとした。
(……隊――長……?)
穏やかな、それでいて人を撥ねつけるような硬質な響き。
イザークは瞬いた。
いつものラウ・ル・クルーゼだ。
「……た……い……ちょう……」
男の口元がふっと緩んだように見えた。
哀れむような、同時に嘲笑うかのような微笑が浮かんで、消えた。
「気分は、どうだ」
「……………」
何事もなかったかのように、淡々と声をかけてくる相手を前に、返答に窮して黙り込む。
一瞬、全てはただの悪夢に過ぎなかったのではないかという気がした。
自分はただ、隊長の部屋で、倒れて……。そして……。
いや、倒れたのは、ブリーフィングルームだったか?
昨夜の出来事がぐるぐると頭の中を回る。
どこからが現実で、どこからが夢だったのか。
記憶が錯綜する。
自分は、どこかおかしくなっているに違いない。
アスランのことで、すっかり頭に血が上っていて……。
アスラン。
そうだ。奴が悪いんだ。
あいつが……。あいつが、俺を……。
だが……。
生々しい濡れた感触が体をざわめかせる。
あれ、は……。
仮面の向こうの顔。
美しく、酷薄な笑み。人であって、人でない……。
ああ……あれは、現実、だったのか……?
それとも、自分の頭が生み出したただの妄想だったのか。
なら、どうして今自分はこんな風に一糸纏わぬ姿で、ここに横たわっている……?
(俺……は……ほんとう、に……)
隊長、と……。
思わずシーツを握り締めた。指先が僅かに震え、頬が熱を帯びる。
とても相手を正視できなかった。
つ、と頬を撫でる感触に、びくっとベッドに背を固く押しつけた。
「――何を、怯えている?」
さらりと撫でただけで、手は離れた。安堵の溜め息が零れかけた瞬間――
「……あ……――」
いきなり顎を掴まれ、顔を上向かされる。
否応なしに合わせられた視線に、凍りつく。
冷たい……刺すようなその瞳が、仮面の向こうからじっと自分を見据えているのがわかった。
「あ……わ、私……は……」
意味もなく、呟きかけた声は途中で力なく途切れた。
「ずいぶん、顔色が悪いな。そんなに体が辛いか」
意地悪気に唇が歪む。
「――そんなに酷く扱ったつもりはなかったが……軍務に差し障りが出るのは困るな。……これを飲むといい」
差し出された手のひらの上には一粒の錠剤が乗っていた。
「……………」
さっき、サイドテーブルの上に乗っていた錠剤の瓶を思い出して、胡散臭げにそれを見る。
勿論それとは別のただの痛み止めか何かだろうが……なぜか、今はこの男の手からどんなものも受け取りたくはなかった。
本能的な、警戒心が芽生える。
――これ以上、体を弄られたくない。
「だ……大丈……夫、です……」
拒否するように視線を落とす。
目の隅に映った仮面の下の唇が僅かに引きつったように見えた。
次の瞬間、ぐい、と顎を持つ手に力が込もるのがわかった。
「全く……毒を飲まされるとでも思っているのか。……しようのない奴だな……」
ぞんざいな口調には、僅かな怒りが滲んでいた。
不意に恐怖に喉元を掴まれる。
顔をそむけようとしたが、強い力で掴まれたまま、逃れようもなかった。
「ほら、口を開けるんだ」
躊躇う表情を見て、クルーゼの声にさらに苛立ちが増す。促すように、顎を持つ手を乱暴に揺さぶった。
「い……」
いや、だと言いかけたときには、既に口を無理矢理開かされていた。
クルーゼの開いている手がイザークの口をこじ開け、錠剤を流し込む。吐き出そうとする口の動きを封じるように、いきなり相手の唇が押しつけられてきた。
「……っ……!」
突き入れられてきた舌が容赦なく、異物を喉の奥へと押し込んだ。
ごくり、と喉が鳴り、気が付くと呆気なくそれを嚥下させられていた。
唇が離れると、イザークは苦しさにはあはあと喘ぎながら、いびつに喉下を通り抜けていった異物に噎せて何度か咳き込んだ。
「――は……あ……っ……」
咳が治まると、イザークは顔を上げて仮面の男を睨みつけた。
「……なっ、何を……っ!」
羞恥に頬がかっと熱くなるのを感じた。
「きみが言うことを聞かないからだよ」
愉快そうに笑うと、濡れた舌が艶かしく唇の端から滴る唾液をぺろりと舐めた。
「もう少しここで休んでいけ、と言いたいところだが……」
声が淡々と続ける。
「いつまでもそんな格好でいてもらっても困るのでね。きみも、嫌だろう。朝早くから隊長の部屋で裸で寝ているところを見られたりすれば――」
冷やかな声が、肌を刺す。
剥き出しの上半身を凝視する仮面の視線を痛いほど感じた。
「――早く、着替えるがいい」
『隊長』が命じる口調で、横の椅子に掛けられた衣服を顎で指し示す。
「そんな格好のまま、アスランと顔を合わせたくないだろう」
「え――?」
イザークはぽかんと口を開けると、仮面の男をおもむろに見返した。
(――今、何て……)
自分の耳が信じられなかった。
「……ア……スラン……?」
(アスランが、ここに来るのか……?)
そう思った瞬間、彼は動転した。慌ててベッドから下りようとしたが、改めて己の全裸の姿に目を止めると、忽ち羞恥心が頬を染める。彼はベッドから足を下ろしたまま、居すくんだ。
そんな少年の様子を見たクルーゼの口元が、僅かに歪む。が、それも一瞬のことで、すぐに皮肉めいた微笑は唇から消え失せた。
「シャワーを使っていくといい」
一言そう言い残すと、クルーゼはさっさと背を向けて隣りの部屋へ続く扉の向こうへ姿を消した。
「……………」
イザークはぼんやりとした表情でクルーゼが消えた扉をしばらく見つめていた。
(――そんな格好のまま、アスランと顔を合わせたくないだろう――)
先ほど言い放たれたクルーゼの言葉を改めて頭の中で反芻する。
言葉の中に含まれた、冷たい嘲笑と侮蔑の棘。
――そんな格好でベッドの中にいるきみを見たら、彼は何と思うだろうな。
――まるで、隊長の情夫のように……。
そこまで考えると、もう耐えられなくなって、彼は激しく頭を振って余計な思考を振り払おうとした。
(くだらない!)
惑わされている。
イザークは悔しげに唇を噛んだ。
――意地の悪い男に……翻弄されているだけだ。
くそっ、と拳をシーツの上に打ちつける。
「俺は、そんなんじゃない……!」
たとえ、隊長と寝てしまったとしても……。
かっと全身が熱くなる。
まがいようのない事実に愕然となる。
(俺は……隊長と……)
胸が圧迫されるかのように、息苦しさが募った。
何事もなかったかのように、冷たくこちらを見下ろしていた仮面の視線を思い出し、背筋にぞくっと震えが走った。
(――あの人にとっては、この俺など所詮、たいした存在ではないのだ)
ただ、体を弄るだけの道具としての価値しかない……。
屈辱と憤りに体がかっと熱くなった。
(隊長にはアスラン、情夫にはイザークを指名する)
……そういう、ことなのか……?
(――ばっ……)
「――馬鹿に、するな……ッ!」
絞り出すように、怒りに満ちた声が洩れた。
「くそっ、馬鹿に……馬鹿にしやがって……っ!」
シーツを拳で何度も叩きつける。
「俺は……俺はそんなんじゃ、ないっ……!」
声が大きくなる。隣りの部屋に聞こえても構わないと思った。
(俺は、隊長の慰み者などになるつもりは、ない……!)
怒りに任せてベッドから腰を上げ、衣服を掴むとそれを手早く身に着け始めた。
もう、一刻も長くこんなところにいたくはない。
呑気にシャワーを浴びる気になどとてもなれなかった。
情事の残り香が残る体を気持ち悪く思いながらも、敢えて服を掴む。
首筋に残っているかもしれない鬱血の跡を完全に覆い隠すようにぴったりと軍服の襟を立てる。
そうして着替えを済ませると、まだ鈍痛の走る下半身を中心に、どことなくだるい体を無理に伸ばして、部屋を出ようとした。
が――
その瞬間、目の前が不意に揺らいだ。
(…………?)
どう……したのか。
がくり、と膝をつく。
同時に体の奥が妙に熱く、むず痒い感覚に襲われる。
おかしい。
「……は……」
声が、洩れた。
「………っ……!」
思わず両手で口を押さえた。
(何だ、この声は……)
そう思う間にも、いつしか心臓が飛び出しそうなほど、強く激しく打ちつけているのがわかった。
「あ……」
――どうしよう。
微かな痙攣に震える。
おかしい。変だ。
やはり……。
唇を噛んだ。
さっき、無理矢理飲まされた薬が、何か関係しているに違いない。
(イザーク……イザーク……)
声が、聞こえる。
誰のものともわからぬ、声が自分を呼ぶ。
(……う……)
だが、喉がきりきりと締めつけられ、答えることができない。
「……う……くっ……!」
体の奥で、何かが蠢いている。
何かが……。
暴れ出そうとする体を両腕で抱き締めながら、床に蹲った。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……っ……!)
奥歯を噛み締めて、突き上げてくるその激しい波に耐えた。
何を、されたのか。
自分の体が……壊れていく。
不意に、そんな嫌な映像が見えた。
(……う……)
ひとりでに、言葉が迸る。
(……う……ら……う……ラ……ウ……)
――ラウ……!
ふらふらと立ち上がる。
求めていた。
あの仮面の向こうの顔……。
人ではない魔の棲む光を湛えた瞳を……。
熱に浮かされたように、扉に向かって歩き出す。
異界の空気に触れた者が持つ狂気の光が己自身の瞳を曇らせていることにすら、気付かぬまま――。彼の目はただ扉の向こうにいる人物にのみ向けられていた。
(to
be continued...)
|