溶 闇 (7) 「隊長に、呼ばれた」 受話器を置き、振り返ったアスランの顔はどこか呆けていた。 それもそうだろう。 (こんな時間に……) まだ、夜も明けきってはいない。 突然鳴り響いた呼び出し音で、いともたやすく浅い眠りを破られた。半分ぼおっとしながらも、ベッドから体を起こし、電話を取ると何の前置きもなく、いきなり自分の部屋へ来いという要請だった。 どんな疑問の応えも差し挟む隙を与えぬような、その恐ろしく淡々とした命令口調に、ただわかりました、と答えるほかなかった。 「………?」 眠そうに半身を起こしかけていたニコルも、不思議そうに首を傾げた。 確かにこんなに早朝から呼び出されるなど、妙だ。 「……それじゃあ、ぼくも……」 慌てて寝床から抜け出そうとしたニコルに向かってアスランは軽く首を振った。 「――いや、俺だけだ」 「アスラン、だけ……?」 ますますわからない様子で、ニコルは僅かに眉をひそめる。 「――何かあったんでしょうか」 「わからない。……とにかく、行って来る」 そう言いながら、起き抜けでまだぼんやりする頭を軽く打ち振ると、アスランは手早く軍服を身に着け始めた。 「アスラン・ザラです」 「――入りたまえ」 扉が開く。 部屋の中は薄暗く、ひんやりとした空気が流れている。 一歩踏み込んだ途端にその異様な雰囲気に圧されて、アスランの足は自ずと扉の前で動きを止めた。 (……なん、だよ……) 地中海一帯の気候は、温暖で過ごしやすいとはいえ、それでも朝晩は温度が下がる。基地内は空調が完備してある筈だが、この部屋はどうしたのだろう。 ぶるっと僅かに身を震わせると、アスランは空調が壊れているのだろうかと疑った。 それにしても、電気もつけずに……。 とても人がいるような雰囲気ではないが、真正面のデスクの向こうに座っているのは確かにザフトの白服に仮面を纏う、あの見慣れた上官の姿だ。 背を向けた窓からうっすらと差し込む曙光が、幻想的なシルエットを浮かび上がらせていた。 表情のわからぬ仮面の顔が、こちらをじっと見つめている。 目が合った、と思ったとき、はっと背筋に冷たいものが走った。 未知の生き物から感じるぞわりとした、違和感が体中を覆う。 気のせいか。 「隊、長……?」 この異様な空間から脱したいがために、少し声を高めた。 アスランのよく通る声が、室内の空気をびん、と震わせる。 目の前の人影が僅かに動いた。 「アスラン。朝早くから、すまないな。――どうしても、きみに話しておかなくてはいけないことがあってね」 「……………」 軽く手招くクルーゼのもとへ、アスランはゆっくりと近づいた。 近づくにつれ、仮面の顔に浮かぶ表情がどこかいつもと違うことに気付き、彼は僅かに眉をひそめた。 (……なん、だ……?) 確かに、それは隊長の姿をしているのに。 なぜか、そこから漂う香りは……。 (何かが、違う……) 一瞬、足が竦んだ。 「――どうした?」 すぐ前で足を止めたアスランに、仮面の上官は悠然と微笑んだ。 「……私の顔に何かついているか?」 そう言うと、ああ、と思い出したように自分の仮面を軽く撫でた。わざとらしい素振りだった。 「……そうか。まあ、私の顔にはいつもこれがついてはいるがな。――だが、今さらこんなものに驚いているわけでもあるまい」 揶揄するように笑う上官を見て、アスランは困惑を隠せなかった。 冗談めかした軽い口調の中に潜む、悪意の影。 これは、本当にいつもの隊長なのだろうか。 「――あの……隊長……それで、私に話というのは……」 「ああ、そのことだが――」 クルーゼはアスランの方へ僅かに身を乗り出した。 「――『ストライク』の件だ」 その言葉が出た途端、アスランの神経は電流を受けたようにぴりっと引き攣った。 (ストライク……) 昨夜のイザークとの苦い対話が脳裏に甦る。 ……クルーゼには、既にキラのことは話してあった。 話を聞いたとき、クルーゼは一時的に彼を戦闘から外そうとまで気遣ってくれたが、それをアスランが断った経緯がある。 ただし、あの時はまだ漠然とした希望を抱いていた。 ――説得する。 そんなことが本当にできるのか、自分でも頼りなく思いながら、それでも甘い希望的観測に縋った。 ――戦闘には私情を交えない。 軍人として、誰もが念頭に置くべきそんな当然の決まりごとすら守りきれない自分がいた。 アスランは唇を噛んだ。 (くそっ……) どうしても、目の前にあの優しく頼りない少年の顔が浮かんでしまう。 あんなにいつも一緒だった……。 ――いつか、また会えるよ。 そう言って無理に笑ったとき、寂しそうに微笑んだ。あのキラ・ヤマトの顔が……。 「……キラ・ヤマト、と言ったな」 クルーゼは顎に手を置くと、考え深げに呟いた。 パイロットの名前をさらりと言ってのける上官に、アスランは少し瞠目した。キラの名は、しっかりと彼の頭に納められていたのだ。 今問題のストライクのパイロットだ。それだけ、キラの存在は脅威となっている、ということか。 「きみは、本当に討てるのだろうな。彼を」 クルーゼの声が冷やかに念を押す。 仮面の顔から、いつのまにか笑みが消えていた。 「『キラ・ヤマト』を――」 その名をやけに強く繰り返す。 ふと、妙な気分になった。 この人は、どうしてこんな風にキラの名を口にするのか。 確かにストライクのパイロットの名を教えたのは自分だが、それにしても……。クルーゼの口調には、どこかこだわりが感じられた。まるでそれが、彼のよく知る人物であるかのように。 だが、クルーゼとキラとの接点など、到底考えられない。 アスランは訝しげに、仮面の男を見返した。 「一隊の指揮を取るからには、きみにもそれなりの覚悟をしてもらわねばならんからな」 ふ……と唇が僅かに歪む。皮肉な笑み。 それを見た瞬間、酷く不快な気分になった。 「……そんなこと、は……」 言われるまでも、ない。 が―― 何か引っかかる。 アスランは背筋を震わせた。 ――この、忌まわしい感覚は、何だ? 「彼は騙されているだけなんだ、ときみはいつか言っていたな」 「……………」 「話せばわかるはずだ、と?」 (――あいつは……キラは、ナチュラルにいいように利用されているだけで――!) かつて、そんな風にクルーゼに訴えていた声が遠く掠めていく。 「……………」 説得したい。 あいつは、コーディネーターなのだから。 (――連れて、帰る) そう、思った。 機体ごと、あいつも一緒に……。 ――自信が、あった。 なのに……結局、あいつは……。 「………っ……!」 アスランはごくりと唾を飲み込んだ。 本当に、もう取り返しのつかないところまで、きているのだと実感させられた。 ただ、偶然に搭乗していた。 それだけで、終わって欲しかった。 なのに……。 あいつは、殺しすぎている。 あの、ストライクで……ザフトの同胞を……。 イザークの顔が脳裏をよぎる。 憎しみに満ちた瞳。 (――ストライクは、俺が仕留める……!) 言い放つ、あの強く激しい声が甦る。 自分には、もはやそれを止めることはできない、と思った。 無惨に走る傷。あの怨念に満ちた暗い瞳を見て、ぞっとした。 ――キラ……。 おまえは、どうしてストライクなんかに……! 「――それでも、説得できないときは――」 「――私の手で、討ちます」 クルーゼの言葉を遮るように、言い放たれた声が空気を打つ。 「……そう、言いました」 視線を落としながら、荒立つ感情を鎮めるように、そっと拳を握り締める。 「わかっているなら、いい」 クルーゼの静かな口調にも、心が鎮まらない。 胸騒ぎ……とでもいうのだろうか。 先程から、ずっと感じ続けている違和感。 今向かい合っている隊長は、やはりいつもと違う。 (この人は、俺に何を求めている……?) ――かちり。 隣の部屋に続く扉が不意に開く。 その時初めてここに自分たち以外に人がいることに気付いて、アスランは驚いた。 開く扉の影から覗く人物の姿を見て、さらに息を飲む。 「……イ……」 銀色の髪が揺れる。 「……イ……ザー……ク……?」 アスランは混乱した。 (なぜ……隊長の部屋に、イザークが……?) 軍服を身に着けているが、襟元が僅かに緩んでいる。いつも几帳面な彼には珍しい。そしてそこに覗く肌が、ほんのりと赤らんでいるように見えるのは気のせいか。 「おや、どうした?イザーク」 何を驚く風もなく声をかける仮面の男に、アスランは問いかけるような視線を投げた。しかし、クルーゼは何も説明しようとしない。 「……あ……つい……」 微かな囁きとともに、その唇から苦しげな息が洩れる。 (熱い……) 熱を帯びた瞳は、アスランを通り越し、目の前のただ一点にのみ注がれていた。 机の前にゆったりと座る仮面の男が、さも楽しそうにこちらを眺めているのを目にしたとき、アスランは激しい焦燥に襲われた。 (これ、は……?) どくん――心臓が鼓動を速める。 「……ラウ……」 クルーゼに近づきながら、色の失せた唇がそう呟くのを、アスランの耳は確かに聞き取った。 (……ラ……ウ……?) 耳にした瞬間、衝撃が走った。 ――何、だ? なぜ、隊長のことをそんな風に呼ぶ? それに、彼の隊長を見る目。あれは何だ。 (イザーク……?) 一気に不安が高まったとき、突然クルーゼが立ち上がった。 つかつかとイザークの方へと近づいていく。アスランの傍を通り過ぎるとき、仮面の下から僅かに嘲笑するような息が吐き出されたように感じた。 「まだ、具合が悪そうだな。……熱でも出てきたか」 額に手が触れた瞬間、イザークの体が揺らめいた。 そのまま、相手の肩に頭を落とし、寄りかかってくる体をクルーゼが軽く支える。 「……………!」 少し離れた所から、アスランは愕然とした面持ちでそんな二人の様子を見守っていた。 「……た、隊長……っ!」 思わず大きな声を出したアスランに、クルーゼがつと面を上げる。表情のわからぬ仮面が、これほど不気味に感じられたことはなかった。 しかし、今はそんなことで怯むわけにはいかない。 「――イ、イザークが、どうして……っ!」 ――イザークがなぜここにいるのか。 問い質したかった。 なぜ、今ここに……? 胸が騒ぐ。小さな漣がどんどん大きなうねりとなり、喧しく騒ぎ立てる。 「……イザークは私に助けを求めにきたのだよ」 クルーゼは静かに答えると、肩にもたれかかる銀色の髪をさりげなく撫でた。 「イザークはよほどきみに思うところがあるらしいな」 「………………」 仮面の下から向けられる鋭い視線を意識して、アスランは僅かに視線を落とした。 クルーゼが、まさか自分とイザークとの間の微妙な関係を知っているとは思えないが。 いや……もしかすると、全て見抜かれているのかもしれない。 でなければ、こんな状況をわざわざ作り出したりないだろう。 そう――これは明らかに、意図的に作られたものだ。そう、確信した。 (一体、何のつもりで……) 困惑するアスランを前に、クルーゼは淡々と説明を続けた。 「決定を覆すことはできないが、それでも――私も大事な部下を粗略には扱えない。……わかるだろう」 そう言いながら、わざとらしく吐息を吐き出す。 「――きみもイザークも、私には大事な部下だからな」 ふ……。 吐息が、笑みに変わった。 そのとき―― ぞくりとする悪寒とともに……突然、彼はそれを見た。 網膜が直に結んだ映像が、飛び込んでくる。 仮面の内側から、こちらを見つめる瞳。 氷のように冷たい、敵意の光に満ちた……。 「……な……」 アスランは震える声をようやく喉から絞り出した。 「……何が……言いたい――のですか……」 ――威されている。 イザークを楯にして、この男は俺に……何を……。 醜い憎悪の片鱗が、見えた。 (――殺せ――) ――奴を、殺せ! (イザークを失いたくないなら、キラ・ヤマトを殺せ……!) 凄まじい憎悪の念に、全身が総毛立った。 この男は本当に、人間、なのか……。 ――あなたは、誰だ……。 今自分が見ているものに慄きながら、胸の内で問いかける。 ラウ・ル・クルーゼ。 この人は本当は……何者なんだ。 「わからないか。私の言うことが……」 鼻で笑うクルーゼの手が、不意に支えていた少年の体を突き放す。 「あ……」 反射的に駆け寄り、その体を抱き止めていた。 腕の中に落ちてきた体は、火のように熱かった。 (どう……した……?) 相手の体の異常さに気付き、愕然となる。 はあはあ、と荒い呼吸で喘ぐイザークを、夢中で抱き締めた。 「イザークっ!」 呼びかける声に反応はない。 一体、どうしたのか。 「イザークに……何をしたんですか!」 目を上げて、佇む上官に咎めるような視線を投げた。 「――そんなに、彼が欲しいのか」 「……え……」 露骨な問いに、頬が熱くなった。 「きみは、欲張りな男だな」 クルーゼは肩を竦めた。 「大切なものはひとつだけではないのか」 ――大切な、もの……? 頭の奥で映像がぐるぐると渦を巻いた。 何、を……。 「過去と、現在(いま)と、どちらがきみには必要なんだ?」 なおも弄ぶように、声が問いかける。 ――よく考えたまえ。 大切なのは、どちらだ。 過去か、現在(いま)か。 かつての幼友達か。 それとも……。 きみは、どちらを選ぶのだ? 意地悪な問いに、心を乱される。 (そんな……!) 体が、熱い。 腕に抱く体から、熱が伝わってくるかのようだ。 潤む瞳がうっすらと開く。 目が、合った。 熱に浮かされた、青い瞳が……責めるように、そして狂おしいほどの激しさで、何かを求めてくる。 (ア……ス……ラ……ン……) ――なぜ、応えられないのか。 胸が潰れそうなほど、切なく苦しい。 (お……れ、は……) 「……そんな風に迷っている限り、イザークはきみの手には届かない」 冷たい宣告が、心を打ちのめす。 (なぜ、あなたが……) そんなことを、俺に……? 「――そして、永遠に失う」 そのとき彼は、仮面の瞳のさらにその奥に燻る怖ろしく深い闇を覗いた。 ――この闇が、先に彼を呑み込んでしまう。 その、前に……。 (――気を付けろ、アスラン・ザラ) ――それ以上、大切なものを失わぬように。 (せいぜい用心するがいい) 嘲笑う声が脳内いっぱいに響く。 ――大切な魂を、闇に攫われてしまう、その前に……
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