溶 闇 (8) 目が、覚めた。 一体、今までどこを彷徨っていたのか。 (――まただ) 彼は、苛立たしげに瞼を動かした。 記憶が途絶えている。 気だるい疲労感が全身を覆っていた。 もう、どこからどこまでが現実だったのかさえ、定かではない。 脱力したように息を吐き出すと、目の前で何かが動く気配がした。 視線を動かすと、すぐ傍に誰かの背中が見えた。 手を伸ばせば届く距離。 ベッドの端に背中を向けて座っている。 今その人物が、ゆっくりと顔を振り向けるところだった。 「……ア……スラ……ン?」 瞳が大きく見開かれる。 彼はがばっと身を起こすと、引かれたように後退った。 ベッドの後ろの壁にがつんと背中がぶつかる。 「……イザーク」 緑色の瞳は、困ったように眉を下げた。 「……な……」 白い頬に僅かに朱が差した。 すぐには声が出てこなかった。 ごくりと唾を飲み込む。喉がこんなに渇ききっているのはどうしたことか。 「き……さま……」 ようやく出てきた声は、ひどく掠れて上ずっていた。 「――倒れてたんだ」 アスランは素早く説明した。 「隊長の、部屋で……」 ――隊長の、部屋……。 「動かせなくて、取り敢えず、ここに寝かせた」 その言葉に周囲を見回す。 どことなく見慣れた様子に、目を瞠る。 「……こ、こは……――」 「隊長の部屋だ」 その答えに、イザークは息を飲んだ。 「俺が隊長に呼ばれてここへ来たら、おまえがここにいて……」 唐突に、記憶が流れ込んでくる。 (ラウ……) 艶めいた、甘い囁き。 あれは……誰の声、だったのか。 急にじわりと汗が滲む。 わけのわからぬ焦燥と恐怖感が、胸を締め付ける。 たぶん、自分はどうかしている。 体が妙に熱くて、だるくて……。 記憶が脱落する。 (そもそも、俺はここにどれくらい長くいるんだ?) そう考えると我ながら怖くなった。 昨夜から……この部屋に……。 あの男の傍に……ずっと……囚われている。 怖ろしさに指先が震えた。 ――いや、だ。 自分が隊長と交わした行為を思うと、おぞましさに身が竦む。 ――嫌だ。……思い出したく、ない。 頭を振り、軽く目を閉じた。 呼吸を整えると、そっと瞼を開ける。 心配げにこちらを見つめる緑色の瞳と目が合った。 (何だ、くそっ……!) 途端に忌々しさが満ちた。 ――何で、そんな目で見る! 自分は何も恐れてはいない。 そんな、哀れむような目で見られるようなことは、何も……。 イザークは努めて何でもない風に、顔をそむけた。 さりげなく胸元に手をやって、初めて自分がまた軍服を脱いでいることに気付いた。首筋を覆うシャツの襟に手を触れるとじとりと汗ばんでいる。 そういえば、室内の温度が少し高いようだ。 「……熱い」 ぼそりと呟く。 アスランがすぐにそれに反応するのがわかった。 「空調、下げるか」 立ち上がり、壁へ向かって歩く。 「さっきまで、空調が切れていて、ずいぶん冷えていたようだったから、少し温度を上げたんだ。――悪い」 歩きながら、そんな風に説明を加えるアスランの姿を眺めていたイザークは、何か言おうとして、不意に咳き込んだ。 乾いた空気が喉を詰まらせる。 「大丈夫か、おまえ――」 「……………!」 咳が止まらず、答えられなかった。 駆け寄ったアスランに背中を撫でられた。 放っておけ、と言いたかったが、声が出ない。 そのうち、咳がようやく静まると、背中を擦る手の感触ももう気にならなくなっていた。 暖かい。 手から伝わる温もりが、背中に染みる。 すぐに振り払う勇気のない自分自身に少し苛立ちながら、 「……もう、いい」 それでも、何とか呼吸ができるようになると、むすっとした顔で、アスランの手を軽く払いのけた。 「……薬、飲んだろ?」 アスランはそのままイザークのすぐ傍に腰を落とした。 「薬……?」 イザークは眉をひそめた。 嫌だと言うのに、無理に飲まされた、あれのことだろうか。 「……おまえの体には、合わなかったんだと思う」 「…………」 (体に、合わなかった……?) アスランに言われた言葉を胸の内でゆっくりと繰り返してみる。 ――そんな、単純なことだったんだろうか。 あの、薬……。 自分は嫌だと言ったのに。――口をこじ開けられ、無理に飲まされたことを思い出すと、忽ちクルーゼへの憤りと疑念が湧き上がる。 (わざと、だ……) 彼は、唇を噛んだ。 アスランが来るとわかっていて。……タイミングを計ったように、あんな妖しい薬を自分に飲ませたのだ。 (でも、何の為に……) どうも相手の意図がわからない。 しかし、気になった。 自分は……アスランの前で、どんな様子だったのか。 憶えていない。 ただ、体が熱くなって、どうしようもなくて……。 (――ラウ……) ――あ…… イザークは羞恥に目を伏せた。 頬が熱くなる。 (ま、さか……俺、は……?) どんなことを口走り、どんな様子でアスランの前に姿を見せたのか。 恐ろしくて、とても聞けなかった。 「……イザーク……」 呼びかけるアスランの声が、イザークの胸の鼓動を速める。 (こいつは、見ていた……) (俺が、隊長の前で、乱れる様を……) (きっと、見ていた……!) 羞恥と屈辱に押し潰されそうになるのを、何とか堪える。 伏せた目をぐっと上げ、相手に挑むような眼差しを注いだ。 「な……ん、だ……?」 「……おまえ、その……隊長と――」 アスランは途中で口ごもった。 妙な間があく。 「……何だ。言いたいことがあれば、言えばいいだろう!」 「……………」 アスランは僅かに目を伏せる。 その瞬間、かっと、怒りが噴き上げた。 「アスラン、貴様……ッ……!」 我慢できずに、イザークは怒鳴りつけていた。 「……貴様は……ッ!……知っていて、そんなことを……ッ!」 歯を喰いしばって、拳を握る。 (見ていた、くせに……!) ――自分の、痴態を……。 興奮してはいけない、と思いながらも自ずと顔が熱くなる。 今自分はどんな顔を相手に晒しているのか。そう思うとますます動揺した。 アスランは、何も答えない。 気まずい沈黙が続く。 「……隊長、は……?」 しまいに、イザークがぎこちなく問いかけた。声にまだ怒気が滲んでいる。相手に対するというよりも、自分自身への苛立ちが強かった。 「朝のミーティングだ。俺は、イザークをここで休ませておくようにと言われた」 アスランはそう答えると、ふっと溜め息を吐いた。 (二人で、ゆっくりと話し合いたまえ) ほくそえむように、そう言って出て行ったクルーゼの姿を見送った時の不快感が再び甦る。 「おまえと――」 「……行けよ!」 言いかけた言葉を荒々しく遮られたアスランは、すかさずイザークに鋭い視線を放った。 「イザーク……?」 俯いた姿勢のまま、こちらを見ようともしない相手に、その目がみるみる険しくなった。 荒々しい漣が胸をかき乱す。 小さく息を吸い込むと、 「――嫌だ」 アスランは、きっぱりと答えた。 イザークは、顔を上げた。戸惑った青い瞳が、やがて凄まじい怒りの光を湛えると、真っ直ぐにアスランを睨みつける。 「アスラン、貴様……ッ――」 「こんなところに、おまえを残して行けるかっ!」 怒鳴り返したアスランに、イザークは意表をつかれたようにはっと黙り込む。その瞳が、動揺の色を見せた。 アスランの目には、今やはっきりとした怒りが滾っていた。 怖いくらいの……激しい憤りの焔が、彼の全身から放たれているかのように。 (おまえ、わかってるのか?) 「隊長は、おまえを……っ……」 (あの人は……おまえを、俺との取引きの材料にしているんだぞっ……!) 言葉には出せぬ、不安と焦燥に胸を焼かれるようだった。 あの時―― ほんの半時間も経たぬ前の出来事が、苦々しく脳裏に再現される。 『……この抑制剤を打ってやれば、いい。数分で、正気に戻る筈だ』 クルーゼに注射器とアンプルのセットを渡されても、アスランはしばしその場を動くことができなかった。 (……この、男……!……) 仮面を引き剥がして、その下に潜む悪魔の面を曝け出してやりたい衝動に駆られる。 そんな彼の心の中を見透かしたように、仮面の男は薄く笑った。 『妙なことは、考えぬ方がよい。お父上のことも、ある。それに――』 急に声が、低くなった。 『……きみは、まだ全てを失うことに耐えられるほど、強くはない』 明らかな脅しを含んだ声色に、アスランは凍りついた。 仮面の見えない視線が行き着く先を強く意識する。 腕に抱くイザークの体がずしりと重く感じられた。 『大切なものを、失いたくないだろう』 そう言い捨てると、仮面の男は去っていったのだ…… 「イザーク……」 今、目の前にいる銀色の髪の少年に、必死で手を伸ばす。 この手に、掴めないとわかっていても、それでも求めずにはいられない。 中途半端な自分の感情に苛立ちながら、空を掴む拳をぐっと握り締める。 「……俺は、おまえを……っ……!」 (――きみは、どちらを選ぶのだ?――) クルーゼの問いが甦る。 ――イザーク……。 ――俺は…… 「……おまえを、失いたくない……」 ここにいれば、おまえは闇に呑まれる。 あの仮面の奥で蠢く闇の中に……。 「………………」 イザークは驚いたようにアスランを見つめた。 (何だ……?) 今の言葉は……。 (俺を……失いたく、ない……だと……?) 青い瞳が、揺らめいた。 「……アスラン……」 明らかに自分を求めている、手。 背中を撫でたあの優しく暖かい手の感触を思い起こす。 この手を――取れば。……目の前に差し出されたその手を取ってしまえば、いっそ楽になれるのに。 誘惑が心をくすぐる一方で、何かがそれを拒む。 (もう、おまえは引き返せない……) 喉元を何かの手が強く掴むのを感じ、恐怖に身を竦ませた。 「駄目、だ……」 声が震えた。 (駄目だ……) ――俺を、そんな風に見ないでくれ。 この息苦しさは、何だろう。 焼けるように熱く、刻まれた傷跡が疼く。 (また、だ……) イザークは額を押さえた。 この、焼きつけられた刻印が、彼を縛りつける。 (なぜ、消さない……?) 消さない、のではない。 消せない、のだ。 消そうとすると、それは火を噴き、体の中で暴れ出す。 絶対に、消させないぞと脅しをかけるかのように。 (――おまえは、罪を背負っている) 嘲笑うかのように、どこからともなく声が宣告する。 業火の中で、永遠に焼かれ続けなければならなかったのに。 なのに…… (おまえは、なぜここにいるのだ?) 「う……!」 イザークは頭を押さえた。 痛みと責め苦に耐えられなくなって。 (わかっている、そんなことは……!) わかっている。 知らぬものも、知っているものも、全て……この手が殺した。 愛するものも……。愛された記憶も……。 灰になって、消えた。 だが…… ――俺は、その罪業をどうやって償えばいい? 「……だめ、だ……っ……!」 苦しい。 息が、できない。 焔に焼かれようとする、あの苦しみが甦る。 そのとき、急にアスランが身を乗り出してきた。逃れる暇も与えず、素早くイザークの肩を掴む。 距離が狭まった。 すぐ目の前に、アスラン・ザラの顔が迫った。 (……あ……――) 緑色の瞳が非難の色を浮かべて真っ直ぐに自分を見つめてくる。 「何が、駄目なんだっ?」 肩に食い込むような強い力。 イザークは慄いた。 「しっかり、しろよっ!何を言っている?イザークッ!」 「……は……な、せ……ッ……!」 イザークは全身の力を込めて、それを振り解こうとした。 アスランを押しのけ、ベッドから飛び下りる。 それを後ろから組みつかれた。 「あ……っ!」 抗う間もなく、床に押し倒された。 床に思いきり肩を打ちつけて、うう、と呻く。 だが、起き上がる前に相手の体重がのしかかってきて、完全に組み敷かれた。身動きが取れない。 もがこうとする体をアスランの全身が押さえつける。 弱っている体は抵抗する力もない。 「……や、め、ろ……っ……!」 唸るように、喉を動かす。 アスランの顔が……憤怒に満ちた顔が、目の前に迫った。 イザークは、怯えた。 「い、や、だ……!」 アスランは一言一言投げつけるように、返した。 「俺、は……おまえ、を――……」 声が、震えた。 (どうして、いつもこの思いは……届かないのだろう) こんなに、近いのに。 近くに、いるのに……。 胸を満たしていくのは、怒りか、哀しみか……。 震える唇が、堪えきれぬ思いを、吐き出していく。 「――おまえを、失いたく、ない……」 「あ――……」 首筋に、アスランの頬が、そして唇が触れた。 洩れる吐息が、熱い。 シャツをたくし上げる手が、肌を撫でる。 冷たさに、震えた。 が、次の瞬間、冷たさは焼けるような熱さに変わる。 アスランの唇が、剥き出しの肌を舐めた。 熱い。 焼けるような、熱さが……痺れるような疼きが、全身を駆け巡る。 (や、め……ろ……) 泣きそうな瞳が、虚空を彷徨う。 抗えない。 アスランの体がぴたりとくっついている。 心臓の、鼓動。 肌の温み。 「……わかるか」 アスランが呟く。 イザークの手を取り、そっと自分の衣服の下へ滑り込ませた。 相手の体温が、じわりと伝わる。 「俺は、生きている……」 ――生きて、ここにいる。 「…………」 (何が、言いたい……) 下から見上げる緑色の瞳が、答えを求めるように一心にこちらを見つめてくるのがわかる。 生きて、いる。 生命の鼓動が、手のひらに伝わってくる。 それは、おまえも生きろ、と必死で叫んでいるようにも聞こえた。 そうか。 そのとき、理解した。 自分がいかに危うい間に立っているのかということを。 生と死を分かつ、その危うく脆い橋の上にかろうじて足を乗せている自分……。 (ああ……だが、俺はまだ……) それでもまだ、ここから抜け出すことができないのだ。 それは、自分の背負っている罪過のせい、だ。 彼は目を閉じ、顔をそむけた。 相手が悲しげな吐息を吐く音が耳膜を打つ。 「……放せ、よ」 小さく呟く声に、相手の力がすっと抜けていくのがわかった。 体が、離れる。 瞼を上げると、傷ついた顔で見下ろすアスラン・ザラの姿がそこにあった。 彼はゆっくりと立ち上がった。 乱れた衣服を元に戻す。 ベッドの端にかけられていた軍服を手に取り、のろのろと身に纏った。 心が、重い。 どうして、こんなに苦しいのか。息もできぬほどに。 自分の中から、感情がどんどん抜け落ちていく。 空っぽの心だけが、残る。 やがて唇が勝手に動いていた。 「……俺を、失いたくない……だと……?」 イザークの目には冷たい光が浮かんでいた。 「……嘘を……吐く、な……っ」 自嘲するような笑みが唇を掠める。 「おまえには、捨てられないものが、ある……俺を失っても、それだけは捨てられない、何かがある……そうだろう……?」 胸を抉るような言葉に、アスランは硬直した。 菫色の瞳。 無垢な微笑み。 目の前から、どうしても消え去らない、顔。 彼は、頭を抱えた。 自分の中から、消え去らない、もの。 (そう、なのか……?) ――俺は、本当に……? わからない。 わからなくなった。 だが、迷っている暇はない。 失う。 目の前のこの大切なものを失ってしまう。 恐怖が胸を掴む。 「……イザークっ、俺はっ――!」 「――俺にも、ある!」 イザークの燃えるような視線がアスランを直視した。 片手がゆっくりと上がり、指先が顔の傷に触れると、逃れられぬくびきに締め上げられるかのように、美しい顔が苦悶に歪んだ。 「――これ、だ……」 冷たいものが、アスランの心臓を撫で上げていった。 わかってはいても、目の前に突きつけられるとやはりその重さに耐えられなくなる。 「だから、何度話しても、同じだ……」 ――俺たちの思いは、永久に交わることはない。 「……そんな、傷……っ……!」 (――消して、しまえばいい!――) そう言いたいのに、なぜか言葉は途中で力なく消えた。 否定したいのに、できない。 二人を阻む、どうしようもない壁の存在を、感じた。 (な、ぜ……) アスランの問いかけるような視線を、イザークの凍えた瞳が一笑に付した。 諦めと、自嘲に満ちた瞳が、冷やかに答える。 ――無理、だ。 この傷を、消すことなど、できはしない。 傷が、消えてくれないのだ。 忘れさせてはくれない。何もかも。 過去の傷も痛みも、永遠に消えることはない。 「……イザーク……」 触れようとする指先から、それはするりと身をかわし、離れていった。 追いかけることができない自分がもどかしい。 何度同じことを繰り返すのか。 手に触れたかと思うとすぐにすり抜けていく、大切なもの。 (どうして、こうなる……?) 拳を握り締める。 ――けれど…… 「……俺は、諦めない……」 去っていく背中に向かって、彼はそっと呟いた。 (諦めるものか……) 銀色の髪が遠くなる。 扉の向こうへ消えていくその姿をまだ追いかけながら。 自分を見つめる青い瞳の色を思い浮かべ、唇を噛んだ。 ――この闇と、俺は闘う……。 おまえを連れ去って行こうとするものと、俺は闘う……。 確かに自分には捨てられないものがある。 しかし、何かを捨てて、その代わりに何かを得るなんて……そんなのは、違う。 絶対に、違う。 何か……ある筈だ。 俺たちが、共に生きる方法が……。 彼の瞳はまだ光を失ってはいなかった。 ――おまえのために……。 大切なものを失いたく、ない。 だから……。 (俺は、闘い続ける……) (to be continued to the next stage...) |