(・・・やさしくするから・・・イザーク・・・)
 
 ――その言葉通り、アスランは優しかった。
 いつかの、あの悪魔のようなひととき・・・。
 激しく相手をいたぶるような、あのサディスティックで、自己中心的な抱き方が嘘のように・・・。
 彼の手は、いとおしむように・・・ただ、ゆっくりと静かにイザークの肌の上を滑っていった。
 ただ――・・・
 イザークにとって、そのアスランの愛撫のひとつひとつの動きは、あまりにも・・・
 ・・・その優しさは、あまりにも『彼』を思い出させてしまうものであって・・・。
 ・・・体は反応しながらも・・・その一方で、空白の胸にじわじわと満ちてくる哀しみが、胸を締めつけていく。
 心地よさが、いつしか身を苛むような辛さに取って代わり・・・。
 イザークは途中で思わず、小さな苦痛の声を上げた。
「・・・・・?」
 アスランはイザークの下半身から顔を持ち上げると、いぶかしむように彼の顔を見上げた。
「・・・イザーク・・・?」
 伸び上がり、湿った手で纏いつく銀糸をそっとほぐすように掻き分けながら、その顔を覗き込む。
 閉じられた瞳から僅かにこぼれ出る涙の雫を見て、アスランは小さく息を吐いた。
 ――どうしたんだろう、イザークのこの痛々しいほどに苦痛の滲む表情・・・
「・・・ごめん・・・痛かった・・・か・・・?」
 そんなにきつく弄ったつもりはなかったが・・・。
 アスランは握っていた片手を、いったんイザークのそれから離した。
(・・・でも、こんなに濡れてるのに・・・)
 心地よく、反応しているように思えるのに・・・。
 何で・・・そんなに苦しそうな表情(かお)をする・・・?
 アスランは、困惑した。
 イザークの気持ちが、分からない。

(・・・俺を抱け)

 ・・・さっき、確かにそう言ったよな。
 俺、おまえを抱いてもいいんだよな・・・?

 戸惑い、疑念に捉われながらも、彼は再びイザークの下半身に触れた。
 イザークの体は、抗わなかった。
 なのに・・・なぜだろう。
 アスランはそのとき、相手の体と自分との間に、何か越えることのできない見えない壁のようなものが存在していることを強く意識せずにはいられなかった。
 彼の中に・・・入ることのできない、そのもどかしさが・・・アスランを悲しいくらいに苛立たせる。
「・・・だい・・・じょうぶ・・・だ・・・」
 頭の上から、イザークの微かな声が降ってきた。
「・・・このまま・・・いっても・・・だいじょうぶ・・・だから・・・」
 それでも――アスランは躊躇せずにはいられなかった。
(どこが、大丈夫なんだ・・・?!)
 この声・・・。
 この表情(かお)・・・。
 どう見ても、『大丈夫』じゃない。
「・・・イザーク・・・」
 アスランはイザークの前にぐいと顔を近づけた。
 瞳を閉じたままのイザークの頬を片手で軽く撫でる。
「・・・イザーク・・・俺を見て・・・!」
 アスランが鋭く声をかけると、イザークは驚いたように瞼を上げた。
 アイス・ブルーの瞳が戸惑ったように、目の前のアスランを見返す。

 その透明な青い色の向こう側に映っているもの・・・
 それは――本当に、自分なのだろうか・・・?
 ・・・突然、疑念が湧いた。
「・・・アス・・・ラン・・・?」
(何だ・・・その瞳(め)は・・・?)
 イザークは、少し動揺した。
 まるで、自分の今の気持ちを全て見透かそうとしているかのような・・・。
 探るようなその鋭い視線に、突然耐えられなくなって、彼は僅かに目をそらせた。
「・・・今・・・誰のことを考えてる・・・?」
 アスランは、問いかけた。
 優しい口調の陰に、微かに苦渋の響きが感じ取れる。
 イザークの唇から小さな息が洩れる。
(・・・なぜ・・・そんなことを・・・聞く・・・?)
 見透かされている・・・。
 ・・・自分の心の中の思いの全てが、今この瞬間、相手に筒抜けになっていることを、彼は強く意識した。
 アスラン・・・おまえには知られたくはない・・・
 どうしても消すことのできない、かつての・・・『彼』へのこの思いが・・・。
「・・・誰のことも・・・考えてなど・・・」
 そう言いかけたイザークの顎を、アスランの指先がいきなり持ち上げ、己の方へ向けさせた。
 否応なしに、イザークはアスランと顔を向き合わされた。
 翡翠の瞳が返答を求めて、真っ直ぐ射るような視線を投げかける。
「・・・嘘だ・・・」
 アスランは、低く呟いた。
 ――おまえのその顔を見れば、わかる。
 おまえが、誰のことを考えていたかなんて・・・本当は、聞くまでもないことだった。
(・・・ミゲル・・・)
 ――おまえは、ずるい。
 もうどこにもいないかつての友の顔を思い浮かべると、アスランは胸の内でそっと吐き捨てた。
 こんなのは、フェアじゃない。
 ・・・俺は、今ここに、こうして息をして・・・生きて、イザークの傍にいる。
 こうして、彼に触れているのは、自分。
 こんなに近くにいて・・・
 肌と肌を触れ合わせ・・・
(好きだ・・・)
(愛している・・・)
 言葉にするには強すぎて・・・
 胸の中を焼き焦がしそうになるようなこの強い思いを・・・どんなにか、彼に伝えたくて・・・。
 なのに・・・
 ・・・こんなにすぐ傍にいるのに・・・
 遠い場所から、おまえがほんの少しにっこり微笑み、手を振るだけで・・・そのたった一瞬で、イザークの心はおまえにさらわれてしまうのだ。
 ――どう・・・すれば、いい・・・?
 アスランは悄然と、己の胸の内に問いかける。
 ミゲル・アイマンは、死んだ。
 彼の乗ったジンが粉々に砕け散るのを見届けたのは、誰でもない、この自分自身だ。
 ミゲル・・・
 おまえは死ぬ瞬間、何を感じ、何を思った・・・?
 愛するもののことを、少しでも思い出す余裕があったのだろうか。
 おまえの愛するもの・・・。
 それは・・・?
 ・・・思うと、切なくなる。
 いつか・・・
 『おまえを殺したもの』を、イザークが追い詰める瞬間(とき)が、必ずくるだろう・・・。
 ――そのときがきたら・・・
 ・・・俺は、どうする・・・?
 ――そのとき・・・俺・・・は・・・?
 ・・・キラを見殺しにはできない。
 しかし・・・自分は、本当にイザークを阻むことができるのだろうか。
 イザークにとって、いつのまにかおまえの存在はこんなにも大きくなり、彼の中にしっかりと棲みついてしまっている。
 このままずっと・・・恐らく永遠に・・・
 ・・・おまえという存在は、決して彼から離れぬのだろう。
 生きたときそのままの姿で・・・。
 あの笑顔を映したまま・・・彼の中に、ずっと・・・
 アスランは、溜め息を吐く。
(――生きているこの俺が・・・)
 ・・・どうやって、『思い出』に勝てるというのか。
(ミゲル・・・おまえは・・・)
 アスランの胸に苦い思いが広がった。
 ――おまえは、ほんとに、ずるい。
 自分がこの世を去ったあの瞬間に、恐らくおまえは・・・
 自分自身と共に、こいつの心も一緒に持って行ってしまった・・・。
 俺の手の届かない場所へ――・・・
 たぶん・・・
 これからも、ずっとおまえは、こいつを放さないんだろう・・・
 イザークの瞳の奥に映るものは・・・
 きっと・・・
 ――おまえが・・・
 ――おまえだけが・・・。
 やりきれない苦渋に満ちた思いが彼の心をぎりぎりと苛んだ。
「・・・嘘を、つくなよ・・・イザーク・・・」
 アスランはもう一度同じ言葉を吐き出すと、不意に視線を落とした。
「・・・アス・・・ラ・・・」
 ・・・とその名を最後まで呼ぶことができないまま、イザークは突然目を上げたアスランに唇を塞がれた。
 甘く、そして同時に切ないほど苦い味が口内に・・・そして体全身に広がっていくようだった。
 糸を引きながら、唇がふわりと離れた。
 アスランの目を見た瞬間、イザークははっと息を呑んだ。
 その悲しみを湛えた昏い緑の色に、彼は愕然と目を見開いた。
 ぽたり・・・と、頬に落ちてくる水滴の湿った感触。
 アスランの喉からは、ほんの僅かな音声も洩れることはない。
 その瞳から次々にこぼれ落ちる涙の雫が、イザークの頬を静かに濡らしていく。
(・・・アスラン・・・)
 イザークは身じろぎもせず、そんな相手の顔をただ驚いたようにじっと見つめ続けるだけだった。
 数瞬の時が過ぎた後――
 不意に、アスランの体が自分から離れていくのを、イザークは呆然とした頭で意識していた。
(・・・アスラン・・・?)
 ――なぜ、俺から離れていく・・・?
 ――俺を抱くんじゃなかったのか・・・?
 ――何で貴様は・・・ッ・・・!
 イザークは混乱した。
 何が・・・どうして、そうなってしまったのか・・・
 彼にはよくわからなかった。
 ・・・ただアスランのぬくもりが去っていく肌の冷えていくその感覚に、小刻みに身を震わせている自分自身の存在が、やけに惨めで・・・虚しく感じられてならなかった。
 
(・・・嘘をつくな・・・イザーク・・・!)
 
(・・・俺が、嘘をついた・・・から・・・?)
 イザークは瞳を閉じる。
 ――確かに・・・俺の心はミゲルを忘れてはいない。
 どうしても・・・
 そう、おまえに抱かれながらも・・・
 気が付けば、自然にあいつのことを・・・思い出してしまう。
 でも・・・
(でも、俺は・・・ッ・・・!)
 彼は叫びたかった。
 ・・・俺は・・・おまえのことも・・・
 ・・・おまえのことも・・・あいつと同じくらい・・・
(どうしたら、伝えられる?)
 ――アスラン・・・!!
 しかし、なぜか彼の口からは一言もそういった言葉が出てこようとはしないのだった。
 ――・・・俺は・・・おまえが・・・
 続くべき言葉は鉛のように重く・・・
 ・・・それはもはや浮かび上がることもないまま、彼の胸の奥深くにずしりと沈んでいった。

                                        
(Fin)


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