Pride and Sincerity












 全身に燻る熱で意識が覚束なくなっていた。
 ようやくザフトの艦に帰り着き、割り当てられた部屋のベッドに倒れ込んでから後は殆ど記憶がない。
 時折誰かの手が自分の体に触れているのをうっすらと意識することがあった。そのときはただ、ああ、自分は介抱されているのだな、と思った。しかし誰に、というところまでは考えが及ばなかった。
「ほら」
 指が熱に浮かされた唇を、優しくこじ開ける。
「……う、ん……」
 冷たい雫が唇から喉の奥へ滑るように落ちていく。
素晴らしく気持ちが良かった。
「……は――あ……」
 体が生き返るようだ。
 一滴では足りない。
 もっと、もっと――と唇がさらにそれを求める。
 そこへ、冷たい液体がどんどん侵入してきた。
 貪るように飲んだ。
 ひとしきり飲み干すと、満足の吐息が零れた。
 くすり、と頭上でひそかな笑い声が聞こえたような気がした。しかし、何も気にならなかった。再び意識を閉ざすと、彼は無防備に深い眠りの中へと落ちていった。
 
 
 
 
 
 誰かに、追われていた。
 捕まるまいと、彼は必死で走っていた。
 走っても、走っても、足音はすぐ背後を付き纏う。
 追うものの気配が、すぐ傍まで肉迫している。
 すぐに、背後から伸びてくる手に首根を引っ掴まれてしまうのではないかと思うとぞっとして、ますます速度を速め、方向も定かでないままに、ただ闇雲に駆けた。
 息が切れ、心臓が破れんばかりに拍動し、もうこれ以上はとても走れないと思いながら、それでも足を止めることはできなかった。肉体の苦しさを遥かに凌ぐ、追い詰められていくものの恐怖心が彼の足をひたすらに前へ進ませた。
 いっそこのまま意識を失った方がマシだったろう。
 走りながら、喘ぐ唇が、激しく震えているのがわかる。
 それ程……恐かった。
 まるで無力な小さい子供になってしまったかのように。
 ただ、脅えていた。
 認めたくない。
 こんな風に、恐怖に震える、惨めな自分の姿など。
 そう思いながらも、震えは止まらない。
 とにかく走るしか、なかった。
 息が切れて、地面に倒れて意識がなくなるまで、ただひたすらに、走り続けた……。
 
 
 
 
 
 びくん、と体が揺れた。
 反射的に、身を起こしていた。
 全身汗びっしょりだ。
 夢というにはあまりにリアルで、まるで本当につい今しがたまで走っていたかのように、心臓が激しく打ちつけている。まだ動悸が激しくて、息を整えるのに苦労した。
「――イザーク?」
 突然、声が聞こえた。
 薄闇の中で、むっくりと起き上がる人影が見えた。
「……なっ……――!」
 イザークはぎょっと眼を見開いた。
 反対側の壁の前に蹲っていた人影が立ち上がり、近づいてくる。
「……アッ、アスラン、貴様っ……なっ、何でここにいる……」
「何でって……」
 アスランはベッドの前で立ち止まると、眼を剥くイザークををやんわりと見下ろした。
「様子を見に来ただけだろう。そんなに突っかかるなよ」
「嘘を吐けっ!今そこから立ち上がっただろう!ずっとここにいたんじゃないのかっ……こんな、暗い部屋の中で貴様、一体何をしていたっ……」
「何もしていないよ。ただ、様子を見ていただけだって。確かにちょっと座り込んでたけど、そんなに長い時間じゃないし」
 アスランの冷静で、しかも子供をあやしでもするかのような柔らかな口調がまたイザークには気に入らない。しかし相手はそんな険悪なイザークの顔を見ながらも、全くお構いなしでマイペースに話し続ける。
「すぐに出て行くつもりだったけど、何だかうなされてるようだったから、さ。出て行きそびれて……」
「……俺なら、大丈夫だ。貴様の世話になどならん。わかったら、さっさと出て行け!」
 怒鳴りながら、額から冷たい汗が零れ落ちていく。
(くそっ、俺は何を興奮して――)
 手の甲で素早く汗を拭いながら、イザークはわけもなくパニックになっている自分を意識して、困惑した。
 どうやら神経過敏になりすぎているようだ。
(疲れているんだ、俺は……)
 オーブ潜入戦で自分が引き起こした思わぬ失態の数々を思い出すと、恥辱でまだかっと体が熱くなる。
 経緯はどうあれ、結果的にアスラン・ザラに大きな借りを作ってしまったことは確かだ。
 アスランに、助けられるとは……。
 なぜ、あんなことになってしまったのか。
 自分の短慮と感情に任せた周囲を顧みない行動が、大きく軍規を逸脱し、作戦を滞らせた。本来なら軍法会議にかけられても、文句は言えないだろう。
 それなのに、アスランは、そのことについては何も言わなかった。
 艦に帰ったときも、上に報告した様子はない。
 しかし、それが余計イザークを苛立たせた。
(恩を売ったつもりか……っ)
 相手の沈黙が、尚更雄弁にその意図を語っているように思える。少なくともイザークはそう理解した。
 ――余計な借りを、作った。
 煮えたぎるような悔しさが胸を沸騰させる。
 できるものなら、全て忘れてしまいたい。
 オーブでの出来事の、全てを……。
 全て……を――
 ふと、彼は思考を止めた。
 栗色の髪。菫色の瞳。
 淡い残像が、通り過ぎていく。
(……な、ん……だ……?)
 ざわりと、胸が騒いだ。
 ――キ、ラ……
 忘れようとしても、忘れられないことは、わかっていた。
 ストライクのパイロットであり、自分に傷をつけた人間であるということ以上に、彼とは深く関わりすぎた。彼を知りすぎてしまったのは、自分の大きな過ちだ。だが、今さらそんなことを悔いても仕方がない。
 軽い溜め息を吐いたイザークを見て、アスランは眉を顰めた。
「……体がきついなら、もう少し休んでいればいい。無理するなよ。上には俺から上申しておく」
「おい、誰がそんなことを言った?余計なことはしなくていい。俺は大丈夫だと言っている!俺のことに構うな。第一、俺の体調がどうだろうが、貴様には関係ないことだろう!」
「――関係なくはないさ。『部下』の体調管理も『隊長』の責務のうちだと俺は思っている」
「………………!」
 『隊長』『部下』という言葉をわざと強調したのはアスランの意図的なものだろう。
 イザークは歯を噛み締めた。
(この野郎……っ……!)
 しかし返す言葉もなく、彼は黙って俯いた。
 何を言っても、『隊長』という言葉を引き合いに出されると、勝てないことはわかっていたからだ。言えば言うほど自分が惨めになる。
「でも本当は、隊長である前に、俺は同じ隊の仲間として、おまえのことを気にしているんだ。こんなこと、わざわざ言わせるなよ」
 アスランは少し口調を和らげた。
「……あんなことがあった後で、艦に帰還するなり、いきなり熱出して倒れて、誰だって心配しないわけないだろう。少しは周りの気持ちも、わかれよ。俺だけじゃない。ディアッカだってニコルだって心配している」
「………………」
 そんなことは、言われなくたってわかっている。
 わかっているから、面と向かって言われると余計かっとなるのだ。
 アカデミー以来さんざん付き合ってきた、こんな自分の性格をわかっているだろうに、それでもこいつはこういう物言いをする。わざとなのか、知らずにそうしてしまうのか。
 しかしそれが、相手と自分の宿命的な構図であるような気もする。
 たぶん、こいつとはずっとこういう関係を続けていくのだろうな、とイザークは嘆息しながら思った。
 正直、もう慣れた。
 慣れたから、相変わらず腹は立つものの、それも食後の運動のようなもので、自分は意外にそれを進んで受け容れているような気もする。
 このような関係が成り立たなければ、アスランと自分はこうして共にいることはできないのかもしれない。
(別に一緒にいたいわけでもないんだがな)
 むすっとして、そう反駁してみるが、現に同じ隊で戦いに参加している以上そんなことを言うのが無意味なこともわかっている。
「……イザーク……」
 ふと気付くと相手の顔が近いところにきていた。いつの間にか相手はベッドの端に腰掛けて、自分との距離を縮めていた。
 驚いて少し身を引く。
「……なっ、何だ」
「――その……一つ聞きたいことが、ある。――キラのことだけど……」
 緑色の瞳が困ったように揺れるのがわかった。
 言いにくそうな素振りにも関わらず、相手の言わんとしていることを察して、イザークは唐突に戸惑いを感じた。
「――キラと、何かあったのか?」
「…………………」
 単刀直入に問われて、イザークは返事に詰まった。
 相手の質問の意図が、掴めなかった。
「……何か、とは……どういう、ことだ」
「――最後に見たとき……」
 そう言いかけて、アスランはイザークを射かけるように見た。
「……何か、空気が違うと感じた。第一――どうして、おまえはあのとき、キラを殺さなかったんだ……?」
 アスランが言っているのは、最後に彼らが縺れ合っていたときのことだろう。
「……そんな、こと……」
 答えられるわけがない。
 自分にも、正直あのあたりの記憶は定かではない。
 全てが、混乱と錯綜の中にあった。
 そんな中で、一生懸命に見つめてくる、あの菫色の瞳に吸い込まれた。
 ――殺してくれ。
 そう、訴えていた。
 そのくせ、瞳は生きる輝きを失ってはいなかった。
 真っ直ぐで、澄んだ、瞳だった。
 そこには、何かをいとおしむような、柔らかな光が瞬いていた。まるで、忘れていたものを、思い出させるかのような……。
 その瞬間……
 自分の目の前を覆っていた暗い霧が、一気に晴れたような気がしたのだ。
 ――生きたい。
 そして……目の前のこいつも。
 ――生かしたい。
 死という概念が、頭の中から不意に消えた。
 自然にナイフを持つ手から力が抜けていた。
 殺そうという意志は、完全になくなっていた。
 なぜ、なのか。
 そんなことは、自分にもまだ整理がつかないのだ。
 説明できるわけもない。
「……貴様に、答える必要はない」
 しかし、イザークの口から出た言葉は、そんな彼の胸の内の片鱗も感じさせないほど、冷たく無味乾燥なものだった。
「そう……か」
 アスランの眼に宿る光が、僅かに強くなった。
「答えたくないこと、か。俺には言えないことなんだ」
「おい、貴様……っ、何を……」
 イザークは頬がかっと熱くなるのを感じた。
「勝手に勘違いするなっ、俺はキラ・ヤマトを赦したわけじゃない……」
「なら、なぜ殺さなかったんだ?」
 同じ質問に戻った。
 イザークは声もなく、相手を睨みつけた。
「……だから、貴様に答える必要はないと言っているだろう」
「――キラと、何があったのか、知りたい」
「……何も、ない」
「――嘘、だ」
 アスランはしつこく食い下がった。
「キラのおまえを見る眼は……」
 ――あの眼を、俺はよく知っている。
 アスランの声が、直接脳に響いてくるようだった。
 ――あの眼が意味するものは……。
(――黙れ、黙れ、黙れっ!)
 イザークは頭の中の声を黙らせようとした。
 どうしてこんなに相手が執着するのか、イザークにはわからなかった。わかりたくも、なかった。
 アスランが……自分かキラか、どちらに対して感情を昂ぶらせているのか、わからなかった。
 アスラン・ザラにとって大切なもの。それは――。
「……貴様の大事な友だち、なんだろう」
 自分にとっては、ストライクのパイロットであり、この顔に傷をつけた憎い敵でしかなかった。
「――馬鹿を言うな」
 吐き捨てるように、言う。
 相手の目から、視線を逸らした。
 それは、これ以上アスランの顔を見ながら偽りの言葉を吐き続ける自信がなかったから、だったろうか。
「キラは、俺の大切な友だちだ。敵になった今も、それは変わらない。昔も、今も、これからも――」
 アスランの手が滑るように、動くのを意識しながら、イザークはわざとそれに気付かない振りをした。
「だったら、なおさら――」
 ぎりぎりと食い縛る歯の間から、唸るような声が洩れた。
 苛立ちが募るのは、なぜだ。
 心が波のようにうねる。
 何なんだ、この気持ちは……
 固く眼を閉じた。
 俺は、認めない。
 絶対に、認めない。
 自分自身の根っこに芽吹き始めたこのわけのわからない感情の最初の萌芽を。
「……そんなこと、あるわけがない――」
 アスランの手が、イザークの背を包むように抱いていることにも気付かないほど、イザークは自分自身の蠢く感情に翻弄されていた。

                                    (09/06/14)


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