おやすみ




 微かな水音が、聞こえる。
 誰かがシャワーを浴びているのか。

 その上に覆いかぶさるように、ぶーんという耳障りな空調機のまわる音。
(・・・う・・・ん・・・?)
 意識が戻ったとき・・・イザークは、一瞬自分が今までどこにいて、何をしていたのか全く思い出せなかった。
 ただ、異様に体が重く、けだるく・・・どこか普通ではないということだけはわかった。
「・・・う・・・」
 起き上がろうとしたときに感じた下半身に残る鈍い痛みに、思わず彼は呻きを洩らした。

 そして・・・そこで初めて自分が一糸纏わぬ姿であることに気付き、彼の頬は忽ち羞恥に赤く染まった。
 ゆっくりと起き上がる。
 
痛む下半身に目を向けた瞬間、汚れたシーツや自分の太腿にこびりついている乾いた赤黒い幾重もの血や体液の筋に、忽ち全ての記憶が甦ってきた。
 
一瞬目が眩んだ。
 
嘘だろう・・・と叫びたかったが、それが虚しい戯言に過ぎないことは自分の体が一番よく知っている。
(・・・俺は・・・)
 脳裏に浮かんだ行為の生々しい情景が、イザークの体を竦ませた。
 
自分の上げた嬌声まで、すぐ耳元に甦ってくるかのようだ。
 
激しい嘔吐感が込み上げてくる。
 
彼は自分の目からそれらの事実を覆い隠すかのように、掛布を手繰り寄せ、その中に身を縮ませた。
 
・・・俺は・・・何を・・・?
 
――何をしたのか・・・
 
――何を、されたのか・・・?
 
思い出そうとするたびに体が慄き、思考が乱れる。
 
・・・夢では、ない・・・。
 
あれは、現実・・・だった。
 
それでは、本当に、俺は・・・?
 
俺は・・・
 
・・・アスランと・・・?
 
イザークは、体の生理的な気持ち悪さも相まって、激しくえづいた。
「・・・気がついた?」
 
いつの間にか、シャワーの音はやんでいた。
 
バスルームの扉が開き、ローブを軽くまとったままのアスランが姿を現した。
 
その顔を見た瞬間、イザークは頬が燃え上がるように熱くなるのを感じた。
 
彼は、たまらず目をそらし、掛布を引き寄せ、その中に身を沈めた。
「・・・大丈夫か?」
 アスランは寝台の方へ近寄ってくると、イザークのすぐ傍らに腰を下ろした。
 洗い立ての髪から弾け飛んだ水の滴から、石鹸の良い香りが漂う。
 イザークは下からちらりと斜にアスランを見上げた。
 アスラン・ザラの瞳には、もうあの危険な色は宿っていなかった。
 イザークを捉えた、襲いかかる獣のようなあの鋭い眼差し。
 あのときのアスランはまるで別人のようだった。
 
それが・・・どんなにイザークを怯えさせたことか。
 
しかし、今は・・・元の穏やかなアスランに戻っている。
 
相手を労わるような優しい表情を見せる瞳・・・
 
いつもと同じ・・・
 
と、考えてイザークは不意に気付いた。
 
――いや、少し・・・違う。
 
この瞳は――
 
ただ、『優しい』・・・という形容だけが当てはまるようなものではない。
 
何か、もっと違う類の・・・
 
そう・・・
 
それは、まるで・・・
 
まるで、愛しい恋人に語りかけているとでもいうかのような・・・。
(・・・好きだ、イザーク・・・)
 イザークの耳に、ふとそんな言葉が聞こえてきたような気がした。
 
彼はひどく困惑した。
 
普通なら・・・
『何て目で見るんだ、貴様はあーっ・・・!!気色悪いだろうがっ!!』 
 とでも叫び出したくなるところだろうが・・・。
 困ったことに、今はこれが冗談事では済まなくなっている。
 彼らは既に・・・体を重ねてしまった。
 イザークは、女のように・・・アスランを受け入れてしまったのだ。
 その事実が、再び苦痛を呼び覚ます。
 ・・・心が寒かった。
 何だかひどく孤独感が身に沁みる。
 彼は突然、誰かに縋りついて大声を上げて泣き出したいような激しい衝動に駆られた。
 全てを忘れて、温かい胸の中に体を埋めたい・・・そんな、殆ど本能的な、誰かに救いを求める気持ち・・・。
(・・・でも、それは・・・こいつじゃない・・・)
 そう思いながらも、その実イザークの心はひそかに揺れた。
(・・・こいつじゃない・・・のか・・・?)
 本当に・・・?
 俺は、こいつを求めているのか、いないのか・・・?
 体がつながったときの、あの感覚・・・束の間の陶酔感。
 あの瞬間・・・俺はアスランを受け入れた・・・。
 でも・・・
 あれは・・・本当に・・・
 
本当に、そう・・・だったのか。
 
『愛』という言葉が・・・宙に浮いた。
 
セックスが愛であるとは限らない・・・そんな簡単な理すらわからないほど、彼は純心だった。
 
それゆえに彼は混乱した。
 
彼の胸はぎりぎりと痛んだ。
 
まるで・・・自分の心と体が引き裂かれてしまったかのようだった。
 
反応する体に、心が追いついていかない。
 
イザークは、そんな自分の気持ちに戸惑いを隠せなかった。
「・・・アスラン・・・」
 その名を呟いたとき、イザークは自分の唇が僅かに震えていることに気付いた。
 胸をぞくりと震わせる恐怖感。
 俺は・・・こいつを怖れている・・・。
 なのに、それでも俺は・・・こいつを求めているのだろうか。
 こいつの中に存在する、もう一人のアスラン・ザラを・・・見てしまったから・・・。
 それは恐ろしい存在であると同時にまた、どうしようもないくらいにイザークの心を魅きつけてしまっている。
 イザークはそれ以上言葉を続けることができなかった。
 そんなイザークの気持ちを知ってか知らずか、アスランはにっこりと微笑んだ。
「・・・気持ち悪いだろ?シャワー使えよ」
 アスランの手が、そっとイザークの肩に触れた。
 イザークは思わず、身を縮ませた。
 
体が自然に震える。
 
その過敏すぎる反応に、アスランは内心ひそかに苦笑した。
(・・・ほんとに、『処女』の反応だな・・・)
 ――いや、正確にいえば、処女を失ったあとの女の子の反応・・・ってところか。
 しかし・・・と、アスランは軽く息を吐くと、改めて目の前の銀髪の少年を不思議そうに眺めた。
(・・・いまどき、こんなにウブな反応をする『女の子』もそうはいないだろうけどな・・・)
 今まで、本当に『硝子ケース』の中に入ってきたんだ。
 誰の手にも触れられることなく・・・。
 こんなに綺麗で魅惑的な生き物が、これまでずっと手つかずのままだったなんて・・・信じられないことのように思えた。
 そして、その体を手に入れた最初の人間が・・・恐らく、この俺・・・。
 ・・・そう思っただけで、アスランの胸の鼓動は自ずと高まる。
 アスランは改めて、自分が手にした幸運に酔いしれずにはおれなかった。
 少々強引だったかもしれないが、やはり抱いてよかったと思った。
 目の前で震える華奢な体・・・それを見ると、さらにいとおしさが募った。
「・・・来いよ。処理するの、手伝ってやるから・・・」
 アスランはイザークの腕を掴んだ。
 その接触が、イザークを怯えさせた。
「・・・や・・・っ・・・!」
 彼はアスランの手を振り放そうと少しもがいた。
「・・・そんなに恐がるなよ・・・もう、何もしないから」
 アスランは苦笑した。
 しかし、彼はイザークの表情を覗き込んで、はっと口を噤んだ。
 何となく生気の失せたその蒼白な顔・・・。
(・・・何て顔だ・・・イザーク・・・)
 ようやく、彼はイザークの様子がおかしいことに気付いた。
 ――どうしたんだ・・・?
 何か・・・変だ。
「・・・い・・・い・・・から・・・」
 イザークは伏し目がちに、力なくそう言った。
(・・・おまえの手伝いなんぞ、いらんーーー!!)
 と、怒鳴りつけられた方が、よほどマシだった。
 ――どうしちゃったんだよ、イザーク・・・。
 確かに衝撃だったかもしれないが・・・最後は受け入れてくれたじゃないか。
 ・・・そうじゃ、なかったのか・・・?
 それとも――
 
違うのか・・・?
 
アスランは一瞬躊躇ったが、それでも掴んだ手を放そうとはしなかった。
「そんなこと言ったって・・・そのままじゃ、部屋に帰れないだろ?」
 宥めるように、言う。
 そう言われると、イザークは先程見た自分の悲惨な下半身の様子を思い浮かべ、湧き上がる羞恥心に思わず頬を赤らめた。
 彼の手から抵抗する力が抜けた。
 アスランはイザークをそのまま引き寄せて、優しく抱いた。
 震える体を落ち着かせるようにその背をそっと撫でてやる。
 ・・・大丈夫だから。
 ――恐がらないで。
 そんな思いが伝わったのかどうか。
 そのままバスルームへ連れて行き、小鳥の体を丹念に洗ってやった。
 
秘部に指を差し入れかけたとき、イザークはやや抵抗しかけたが、それもほんの僅かな間だった。
 
彼は一音も発することなく、ただアスランに為されるがままになっていた。
 
・・・全て終わったとき、彼はもはや立っている力もないようだった。
 
しなだれかかるイザークを、アスランはバスタオルでくるみ、そっと抱き上げると、もうひとつの寝台へ運んだ。
 白いシーツの上に横たわる彼の姿をしげしげと眺めて、アスランは思わず溜め息を吐いた。
 僅かに水滴が残り、きらきらと光を散りばめる、その透明感のある白皙の肌がたまらなく眩しい。
 あまりの美しさに・・・再び、酔ってしまいそうになる。
(ああ・・・まるで頭がおかしくなりそうだ)
 アスランは、軽く目を閉じた。高ぶる自分の心を何とか落ち着かせようとするかのように。
「・・・シーツ・・・汚したな」
 イザークが、ふと呟いた。
 ずっと黙っていたイザークの口から突然こぼれた一言に、アスランは驚いて目を開いた。
「・・・そんな・・・こと――」
 
アスランは戸惑ったように、少し口ごもった。
「・・・そんなこと、気にしなくて・・・いいから」
 言いながら、瞬きもせずこちらを見つめる薄青の瞳を見て、彼はなぜか胸を衝かれた。
 青い瞳には、何か・・・心を締め付けられるような、何か深い・・・痛みの色が現れていた。
(・・・俺がしたこと・・・なのか・・・?)
 アスランの心は、罪悪感に苛まれた。
 何で・・・?
 ・・・傷つけるつもりはなかった。
 好き・・・だから・・・。
 抱き締めた瞬間、この思いが・・・止まらなくなった。
 ただ・・・それだけだった。
 ・・・こんなに、愛して・・・いるのに・・・。
 アスランは、深い息を吐いた。
「・・・後でディアッカに・・・来てもらうから・・・。いいだろ、それで?」
 視線をそむけながら、ゆっくりと言う。
 イザークは目を閉じたまま、ぴくりとも反応しない。
 自分の声が聞こえているのか、いないのか・・・濡れた銀糸からこぼれる滴が瞼を伝い、頬を流れ落ちていく。
 アスランはてのひらでそっとその滴を拭い取り、唇に当てた。
 それがほんの少し塩っぽく感じられたのは気のせいだったろうか・・・。
「・・・おやすみ・・・イザーク・・・」
 彼は濡れた唇の先で、そっと囁いた。

                                            (Fin)


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