どうしたんだ?(後編)
ふと気付くと・・・正午近かった。
長い間、眠り込んでいたらしい。
少し肌寒い。
彼は寝台の中で、ぶるっと身を震わせた。
(・・・すっかり、サボっちまったな・・・)
何となく体が窮屈だと思ったら、制服を着たまま、昨夜部屋に帰ってきたときそのままの格好で眠ってしまっていたらしい。
体の上に掛布がかかっていたのは、ディアッカの気遣いだろう。
それにしても・・・こんなだらしない寝方はしたことがない。
・・・制服が皺になったかな・・・。
くだらないことだな、と思いながらもそんなことが頭を掠めた自分が我ながら滑稽に思えた。
(しかし、まあ・・・)
イザークは苦笑した。
(こんなことが母上に知れたら、大変だな・・・)
幼い頃・・・学校へ行くのが嫌で、一度だけこんな風にサボったことがあった。
それがばれたとき、どんなに母から叱責を受けたことか・・・。
あれは、確か――
そうだ。
何がきっかけだったかは覚えていないが、いつかクラスで女の子みたいだと囃し立てられたことがあった。
当時、おとなしくて何も言い返せなかった彼は、耳まで真っ赤になってうずくまり・・・涙の溜まった目で級友たちを睨みつけているしかなかった。
(・・・くそっ、くそっ、くそっ・・・!・・・こんなところ・・・二度と来るものか・・・!)
幼い彼は内心そう毒づいていたが、それだけで終わっていたなら、さほどのこともなかったろう。
しかし、まだその事件には続きがあった。
・・・その日の帰り道、彼は待ち伏せしていた同級生の少年につかまり――
そこまで考えて、イザークはうっと呻いた。
自分でもとうに忘れていたはずの、苦い思い出が甦る。
あのとき・・・自分よりひとまわりも大きな体格の少年にがっしりとつかまえられて・・・抵抗するまもなく、突然・・・『キス』されたのだった。
――イヤなことを思い出した。
イザークは顔をしかめた。
子供同士が興味本位でやるような、単なる唇を重ねただけの行為。
性的な嫌がらせ・・・とまでいうほどの行為ではなかった。
それでも当時の彼にとっては十分衝撃的な行為だった。
女の子となら、まだしも・・・。
母親や周りの女の子たちからは頬や唇に軽くキスされることは何度もあった。
しかし、こんな風に無理矢理、乱暴に・・・しかも、同性から・・・!
彼は、涙をこらえながら走って帰った。
こんなこと・・・母親にはおろか、誰にも言えるわけがない。
(こんな・・・こんな恥ずかしい・・・屈辱を・・・ッ!)
彼のプライドはずたずただった。
翌日、彼は学校へ行くことができなかった。
誰にも会いたくなかった。
ましてや唇を奪われた相手の顔を見るなど・・・考えただけでぞっとした。
『気分が悪い・・・』
彼は生まれて初めて、仮病を使った・・・
(・・・あれ・・・?)
イザークはふと眉を上げた。
――よく考えたら・・・
・・・なんだ。今の状況とおんなじじゃないか。
違うのは・・・
もう、彼が母親の庇護の下にある子供ではなく、ザフトの赤を着ている軍人であるということと、今度のキスが単なる子供の戯れのようなものではなかったということ・・・。
そして・・・
相手が『アスラン・ザラ』だということ――。
その名が頭に浮かんだ瞬間、イザークの頬はかっと熱くなった。
(・・・くそっ・・・なんで・・・っ・・・!)
何で、あいつ、あんなことしたんだ・・・?!
よりにもよって、自分が最も忌み嫌う奴から、あんな・・・あんな行為を受けるなんて・・・。
それは、あの子供の頃に受けた単なるショックなどというどころのものではない。
なぜか・・・。
それは――
あの、濃厚な長いキスの間に、彼自身わからぬ何か新たな感情が目覚めた衝撃、とでも言おうか。
(――イヤ・・・だ・・・ッ・・・!)
拒絶する自分がいる一方・・・。
(――アス・・・ラ・・・ン・・・ッ・・・)
何なんだろう。
その名を心の中で呟いたときの、あの奇妙なまでの胸の高ぶりは。
(・・・俺は・・・いったい、どうしたんだ・・・?)
自分でもわからない、もう一人の自分の影。
それが彼をたまらなく不安にさせる。
あの瞬間に、突然アスラン・ザラの存在がそれまでとは全く異なるものになってしまったかのようだ。
だから・・・今はあいつの顔を見たくない。
イザークは指でそっと唇をなぞる。
するとたちまち胸がどきっと震えた。
ゆうべの、あの感触が再び甦る。
・・・舌先が口内を犯していく、あの溶かされそうなぞくりとする感触。
イザークは激しく頭を振った。
(・・・ちっくしょおお・・・ッ・・・なん・・でだ・・・ッ!)
思い出すたびに、こんなにも体が震える。
あいつの顔を見るのが、こんなにも怖いなんて。
――そのとき。
彼はドアが開く微かな音を耳にした。
「・・・ディアッカ・・・?」
イザークは反射的にそう呼びかけた。
しかし、返事はない。
代わりに、一瞬の間を置いて・・・
「・・・俺だよ、イザーク」
その声に、イザークは思わず飛び上がりそうになった。
振り返った目の前に、今一番会いたくないと思っていた当のアスラン・ザラ本人が静かに佇んでいる。
いつもと変わらぬ落ち着いた表情。昨夜のことなどまるでなかったかのように、ごく自然な微笑を浮かべて。
イザークは我知らず身をすくませた。
「・・・ア、アスラン?!・・・貴様・・・な、何しにきた・・・?」
動揺する胸を必死で抑えながら、彼はようやくそれだけ言ったが、声が異様に裏返っているのがわかって、我ながら情けなかった。
「・・・これ、ゆうべの忘れ物」
アスランが差し出したのは、綺麗に折り畳んだイザークの水色のアンダーシャツだった。
そう言われれば、あれからシャツを着ないまま、夢中で上着に手を通して逃げるように部屋を飛び出たのだった。
だんだん昨夜の記憶が鮮明に甦ってくる。
につれて、ますますイザークの心は乱れ始めた。
全身がかああっと熱くなる。
彼はわざと視線をアスランからそらせた。
アスランのけぶるような瞳が、そんなイザークをじっと見つめる。
「・・・イザーク、どうしたんだ?・・・熱でも出た?」
彼の手が、つとイザークの額にのびた。
指先が触れかけた瞬間、反射的にイザークの手がそれをなぎ払った。
「・・・や、やめろ!」
イザークは叫ぶなり、アスランに背を向けた。
その両肩が僅かに震えている。
「・・・さ、触るな・・・ッ・・・」
その声はどこか弱々しい響きを帯びていた。
「・・・イザーク、こっちを向いてくれよ。それじゃ、話ができない」
「貴様と話すことなどない!」
イザークはにべもなく突っぱねた。
アスランは軽く首をすくめた。
「昨夜のこと、まだ怒ってるのか?」
「・・・当たり前だ・・・っ・・・!」
イザークの声が一瞬上ずったかと思うと、彼は再びアスランに顔を向けた。
その顔が怒りで紅潮しているのがわかる。
「・・・あんな――あんな・・・ことっ・・・!」
言葉が続かず、イザークはそこまで言いかけて、また黙って視線を落とした。
「イザーク・・・」
アスランが言いかけたとき、イザークがふと顔を上げた。
その目がアスランを真っ直ぐ射た。
アイス・ブルーの、透明感のある怜悧な瞳がいつも以上に美しく、蠱惑的にさえ見える。
「・・・忘れてやる」
しかし、聞こえてきた言葉は、アスランの面から一瞬にして笑みを消した。
「・・・忘れ・・・る・・・?」
彼は呆然と相手を見返した。
(・・・ワスレル・・・)
言葉が針のようにちくりと胸を刺した。
彼は息を深く息を吸い込み、吐いた。
自分の荒立とうとする心を、宥めるかのように。
・・・昨夜のことは全てなかったことにしろ・・・。そう、言うのか、きみは。
「・・・ああ、忘れてやるとも・・・!」
イザークは挑むかのように、アスランを見返した。
二つの瞳が鋭くぶつかった。
思いが・・・すれ違う。
(・・・なんで・・・わからない・・・?)
アスランは苛立った。
――俺は・・・
――こんなに・・・!
彼はぐっと拳を握り締めた。
(・・・俺は、こんなにおまえのことが・・・!)
しかし、言葉が出なかった。
この瞳を前にしては・・・。
ただ、いいようのない寂しさが募る。
このまま、もう一度こいつを捕えてみようか・・・。
そんな猛々しい考えがふと彼の中に浮かんでは・・・虚しく消えた。
体は捕えられても、心まで捕えることはできない。
そんなことは、わかりきったことだ。
アスランは溜め息を吐いた。
「・・・わかったよ。イザーク。俺も・・・忘れる」
言いながらも、心は全く裏腹だった。
――忘れるものか。
彼はそっと呟く。
――いつか・・・
――そう。いつか、きっとおまえを・・・とらえてみせるさ――この腕の中に。
(Fin)
|