The Deprived (11)





 黒海沿岸都市ディオキア。このザフト軍基地に、今ミネルヴァが寄港した。
 ミネルヴァ……か。
 ハイネ・ヴェステンフルスは愛機のコクピットの中から挑むように艦の方を見た。
 するといよいよ、お出ましってわけだな。
(アスラン・ザラ……か)
 ハイネの瞳に、挑むような強い光が閃いた。
 
 
 ラクス・クラインの歌声が響く。
 ピンク色の鮮やかなMSの手の上で軽やかにリズムを取りながら、最高の微笑をふりまいて。
 周囲一帯は、その微笑みに魅了され、熱狂的な声援を送る人々の群れで溢れ返っていた。
(……まるでコンサートホールだな)
 コクピットから外へ降り立ったハイネは歓声の起こっている方向へちらと顔を向けると、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
(……くだらない)
 天才的頭脳を持ったギルバート・デュランダルも、どうやらイベントのプロデューサーとしてのセンスは持ち合わせていないようだ。
 全てが空々しい茶番に見える。
 金網の向こうからディオキアの人々がどう思ってこの馬鹿騒ぎを見ているのか。
(あの女もあの女だな……すっかり、いい気になってやがる)
 所詮、偽者は偽者に過ぎないというのに。
 本物が出てくれば……一発で終わりだ。それだけだ。
 本物のラクス・クラインは、あんなものじゃない。明らかに、違うのだ。
 誰もがそれを知っている。本当は……。
 どこかが違う、と。……そう思いながらも、ただ気付かない振りをしているだけだ。本物を見れば、わかることなのに。
 おまえは、ラクスじゃない。ラクスには、なれない。
 人は、自分以外の誰かにはなれないのだ。ごく当たり前のことだった。
 そんなことすら、わかってはいないのだろう。あの女は……。
 周囲にもてはやされ、その気にさせられて……思えば哀れなものだ。
 偽者が、いつしか自分を本物だと思い込んでしまっている。
 馬鹿な女だ。自分がギルの手の上で踊らされているとも気付かないで……。
 ハイネは冷めた視線でモビルスーツの上の歌姫の遠い姿を眺めた。
 しかし、とはいっても、彼女ばかりを一方的に責めることもできない。
 ――この見え透いた一連の茶番劇を仕掛けた者こそ、最も非難されるべき人間なのだろうから。そして、そこに加わって涼しい顔で猿芝居を続けている自分たちも。
 彼は自分自身に対して自嘲じみた思いを抱きながら、着陸したばかりの搬送機の方へ向かった。
 昇降口から姿を現したギルバートを出迎え、さっと敬礼をした。
 ギルバートはちらと意味ありげな笑みを向けた。
 地面に降り立つと、ハイネのすぐ近くで一瞬立ち止まる。
「……どうした。何を怒っている?」
 ハイネにだけ聞こえるような低声で囁く。
「別に……怒ってなんか、いませんよ」
 ハイネは淡々と答えた。
 そんなことより、彼には気になることがあった。
 相手の落ち着かない視線に気付いて、ギルバートは苦笑した。
「イザークは、いないよ」
 面白そうに言う。
「機内で叛乱でも起こされたら困るのでね。薬で眠らせて……先の輸送機で、搬送した。今頃は、ホテルだろう」
 ハイネの瞳が険悪な光を放った。
「……まるで、荷物扱いですね」
 悠然と微笑むギルバートを見ていると、無性に癇に障り、つい余計な言葉が口に出た。
「そう、突っかかるな。彼にはちゃんとドクターもつけてある。十分、大切に扱ってるよ」
 ハイネはそれ以上何も答えなかった。
 何を言っても無駄だということはわかっていた。
 自分がこのように、一緒についてこれたことだけでも良しとせねばならない。
「……アスラン・ザラが、いるよ。この近くに」
 ギルバートはそう言うと、ハイネに鋭い視線を向けた。
 そんなことはわかっている。ミネルヴァが降り立ったときから。わかりきったことではないか。第一、そうでなければ、自分たちはここにはいない。
そう思いながらも、改めてそう言われると、忽ち胸がざわめいた。
(……アスラン・ザラ)
 その名はいつしか、さながら禁句(ブロック・ワード)ででもあるかのごとく、耳にするたびに自分の中に不思議な影響力を与える言葉になっていた。
「……後でミネルヴァ乗員をホテルに呼んでいる。きみは、それを玄関で迎えてくれたまえ」
 さらりと用件を伝えると、ギルバートはさっさと歩き去った。
 ハイネは黒髪をなびかせながら悠然と立ち去るその優雅な後ろ姿を恨めしそうな面持ちで、見送った。
 
 
 ――アスラン・ザラは、敵だ。
 頭の奥に深く強く穿たれたその一言に、イザークは激しい衝撃を受けた。
 ――誰だ……そんな、馬鹿なことを言うのは……?
 彼は震える唇の端を無理に歪めてみせた。
 そんなことを言っても無駄だ。俺は、そんなことを鵜呑みにするほど単純じゃない。
 彼は頭を強く振って否定した。
 自分は何も怖れていないということをはっきりと示すために。
 ――勿論、そんなはずはない。
 誰がそんなことを信じる?
 しかし……
 ――アスランを、殺せ。
 同じ言葉が再び強要する。
 今度はもっと頭の深奥までじんと響いた。逃げることを許さぬかのように。
 イザークは思わず呻いた。
 一瞬感じたその鈍い痛みに。
 ――おまえが奴を殺さねば、アスランはおまえを殺すだろう。
 嘲笑するような、声。
 イザークは震えた。
 その脅迫するような声の響き。そしてそのたびに襲ってくる頭の中をかき回されるような痛みを伴う衝撃が、彼を怯えさせた。
「やめ……ろ……っ……!」
 彼は悲鳴を上げた。
(……俺はそんなこと……っ……!)
 抗う彼の顎を掴む手の向こうに、冷やかに見つめるあのルビー色の瞳。
 霞む周囲の光景の中で、ギルバート・デュランダルのその何の感情も感じさせぬ酷薄な美しい面だけが、なぜかはっきりと目の奥に映っていた。
 ――デュランダル……議長……
 助けを求めるようなその弱々しい呼びかけにも、相手は全く動じる気配を見せない。
 ――議長ではないよ。
 柔らかいが、決して優しくはない声音が頭の上から降ってくる。
 ――何度言えばわかるのだね、きみは。
 ここでは、肩書きなど必要ない。
 きみは、単なるイザークで、私も単なる一個人だ。
 ――ギル、と呼べばいい。
 その言葉を最後まで聞くこともできず、彼の唇に相手の唇が重なる。
 朦朧とする意識の中でも、その濃厚なくちづけだけは、はっきりと感じ取れた。
 敏感な己の身体の反応を、彼は恨んだ。
(あ……)
 唇が離れる。と同時に、残酷な言葉が彼の頭の奥から全身に浸透する。
 ――おまえの主人は、私だ。
 おまえが従わねばならぬのは、この私だけだ。
 ――私が、おまえを支配する。
 おまえに、選択権はない。
 ……覚えておくがいい。
 ――私が、おまえの全てだ。
 自分に一体何が起こっているのか、頭では全く理解できぬまま、ただ体だけがその異変を感じ取っていた。
 抗う力が次第に薄れていく。
 見えない手が、自分の喉を締めつけていくような息苦しさを覚えながら、イザークは暗い深遠の中へ意識を沈めていった……。
 
 
 ……不意に意識が、戻った。
 空調のきいた快適な空間の中にいる。
 もう、息は乱れていない。
 イザークは瞬いた。
 自分の体はごく普通の状態に戻っていた。
 ――一体、何だったんだろうな。
 安堵の吐息を吐きながらも、彼は微かに訝しんだ。
 単なる悪夢――に過ぎなかったのだろうか。
 夢……にしては、何だか妙に記憶に生々しく残っているような気がする。
 あの、議長の冷たいくちづけ。瞳に映る自分の怯えた姿。この体の慄き。頭の奥に残るこのもやもやとする不快感は、一体何なのか。
 彼は、ゆっくりと身を起こした。
 周囲の光景を見て、自分が豪奢な広い一室の中にいることに初めて気付いた。
 最高級ホテルについている迎賓用のデラックス・ルームのようだ。
(……ここは……どこなんだ……)
 彼は必死で記憶の糸を手繰った。
 確か……地球へ行く、と言われて……。
 いきなり嫌がる彼の腕に注射針が打たれ、突然意識がなくなった。そこから先は……あの悪夢の記憶以外、何も覚えていない。
 彼はベッドから降りると、その目の覚めるような緋色の絨毯の上に足を乗せた。
 その足触りで、自分が素足であることに思い至った。
 次いで視線を胸に落とし、半袖シャツに半ズボンといったアンダーウェアしか身に着けていない自分の姿を見て、彼はふと眉をしかめた。
 この豪華な部屋には見事にそぐわぬようなみすぼらしさに、彼の自尊心はひそかに傷ついた。
 汗ばんだ肌に吸着するシャツの感触が不快さを増す。
 立ち上がり、数歩歩くと途端に胸が悪くなった。
 口元を手で押さえ、思わずその場にうずくまったイザークの耳が、人の入ってくる足音を聞き取った。
 彼が目を上げるより先に、駆け寄ってきた相手が素早く屈み込む気配がした。
「……大丈夫か」
 差し伸ばされたその手の先に、心配そうに覗き込むハイネの顔が見えた。
「これ、飲めよ。すっきりするぞ」
 イザークをベッドの淵に座らせると、改めて彼は水の入ったグラスを差し出した。
「ヘンなもんは入れてないから、心配すんな」
 怪訝そうに一瞬それを見つめたイザークに、ハイネは笑って保障した。
「ただのミネラルウォーターだよ」
 イザークは黙ってグラスを受け取ると、冷たい水を一気に飲み干した。
 少し汗の残る体に、冷たい水が一挙に浸透していくと、確かに目の覚めるような気分になった。
「……ここ……は……」
「地球だよ。ディオキアのザフト基地近辺のホテルん中」
 ハイネはイザークの横に身を滑らせると、そう答えた。
「VIP専用超豪華スウィートだぜ!隊長クラスだって、めったにこんな豪華部屋、泊まれるもんじゃねーからな。まあ、せいぜい楽しんどきなよ」
 茶化したように言うハイネを横目で見て、イザークはつと視線を落とした。
「……気軽に言うな。こんな状態で、そんな気分になれるかよ」
 暗い面持ちで、ぼそりと言う。
 ――こんな風に、囚人みたいに護送されて……。
 それなら部屋は悪くとも、隊長服を着て颯爽と議長の後をついて歩ける方がずっとマシだ。
「まあ、な。気持ちはわかるが、しゃーないだろう。今さらそんなこと言ったって」
 前向きに考えろよ、とぽんと肩を軽く叩いた。
 そんなハイネをイザークは恨めしげに見た。
「……貴様になんか、わかるものか。俺が今、どんなに惨めな思いをしているかなんて……」
 彼は拳を握り締めた。
「俺は、ジュール隊の隊長なんだぞ!」
「わかってるって。そんなこと」
 ハイネは肩を竦めた。
「俺は、本来なら白服を着て、一隊を指揮する身分なんだ!」
「はいはい……隊長さん!」
 拗ねたように怒鳴るイザークに、ハイネはわざとらしく敬礼してみせた。
 その仕草がイザークをむっとさせた。
「ハイネっ!貴様っ!……こんなときに、人をおちょくるな!俺は真剣に――」
 剥きになって突っかかるイザークの体をハイネの手が不意に掴んだ。
 慣れた指先で顎を上向かせると、さっと唇を奪う。
「……………!」
 短いキスの後、イザークは頬を赤らめたまま、ハイネをきつく睨みつけた。
「馬鹿!いきなり、するなっ!」
 いきまくイザークを見て、ハイネはにやりと笑った。
「ヒステリー鎮めんのは、これしかねーかな、って思ってさ」
「ヒ、ヒステリー、だと……っ……!」
 その言葉に、イザークのプライドがひどく傷ついたことは確かだった。
「おっ、俺はヒステリーなどっ……!」
「うるせーなあ。それ以上わめくなら、もっと黙らせちまうよーなこと、しちまうぞ」
 本気とも冗談ともつかぬ瞳が真っ直ぐにイザークを射抜く。
 イザークは、はっと息を飲んだ。
 体が硬直した。
 ――何か……おかしい。
 ハイネの手が頬に触れ、そのままイザークの体の上に覆いかぶさるように体重をかけてくる。
「……ハイネ……っ……」
 ベッドの上に押し倒されようとした瞬間――
 なぜか、『それ』は突然起こった。
 激しく体の底から湧き上がる、その波のような黒いうねりが、息もつかせぬような勢いで彼の全身を覆い尽くしていく。
(……あ……っ……!)
 あまりの恐怖に声すら出すことができなかった。
 全身ががくがく震え出すのがわかる。
 ただ、体が激しく相手を拒む。
それは――彼自身の意志ではなかった。何か……彼の意志を越えた、何ものかによる強制的な力が働いている。
 
 ――おまえを支配するのは、この私だけだ……
 
 突然脳裏に響くその声が……
 恐るべき呪縛となって、彼の体を締め上げていくかのようだった。
 そのとき、彼の本能が危険信号を放った。
(……ハイネ……やめろ……っ……)
 俺に……
 
 ――俺に、近づくな!
 
 警鐘が鳴り響く。
 同時に、体が激しく拒絶した。
 彼は衝動に駆られるまま、無我夢中でハイネの体を押しのけた。
「イザーク……?」
 思いもかけぬその突然の強い拒絶に、ハイネは戸惑った。
(……どう……したんだ?)
 ――わけがわからなかった。
 冗談……
 では、なさそうだ。
 彼は改めて、イザークを見た。
 おかしい。……さっきまでと、違う。
 どこか、様子が変だ。
 その異常なまでに怯えた瞳。全身をがくがくと震わせながら、こちらを恐怖の表情で見つめる相手の姿に、ハイネはどうしてよいかわからず、ただ困惑するばかりだった。
「イザーク、おまえ……?」
 ――一体、どうしたというのか。
 そんな目をして……。
 おまえは、何に怯えている……?
「……わからない……」
 イザークの喉からようやく掠れた声が洩れた。
「……俺は、何も……」
 そう言いながらも……
 彼の耳は、いつしか『それ』に耳を傾けていた。
 
 ――おまえが従わねばならぬのは……この私だけだ……
 
 暗い声が、彼の頭の奥で執拗に繰り返し続けた。

 
                                          (To be continued...)

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