The Deprived (12)





「イザーク……」
(一体、どうしたんだ……)
 明らかに様子のおかしいイザークの姿に、ハイネはどうしてよいかわからず、ただその場に立ち尽くしているばかりだった。
 ――なんでだよ……。
 どうして、俺を拒む……?
 
(ハイネ……)
 
 おまえは俺の名を呼び……
 俺は、おまえを抱いた。
 何度も、何度も……おまえをこの腕の中に抱いて……
 俺たちは互いに感じ合い、繋がった。

 おまえは、俺を受け容れてくれたのだと……。
 ――そう、思っていたのに……なぜ、今またこんな……?
 わけが、わからない。
「……駄目……なんだ……」
 イザークの声は弱々しかった。
 ハイネは眉を上げた。
「……何が駄目なんだよ?」
「……わから……ない……」
 その頼りない答えに、ハイネは苛立った。
「何だよ、それは……」
 ハイネは一歩踏み出した。
 わけもわからず、困惑と焦燥だけが胸を覆う。
「わからないのに、駄目なのか?……言ってることが、わからねーぞ。おまえ……どうしたんだよ、一体……」
 そう言いながら、ハイネはさらにイザークに近付こうとした。
「来るなっ……!」
 イザークは悲鳴にも似た叫びを上げると、後退った。
 その真っ青な顔を見て、ハイネは再び躊躇した。
「……イザ――」
「――俺に近付くなと言っている……」
 イザークの声は弱々しい。しかし、その言葉からはどこかただならぬ警告の響きが感じ取れた。
 ――わからない……
 本当に、わからないのだ。
 それは――説明のつかない感覚だった。
 夢か現実か、それさえ区別がつかない。
 ただ……
 体に響く声なき声が……。
 じわじわと自分の中を侵食してくる、その感触。
 
 ――殺せ
 
 頭の奥で、何ものかが囁く。
 悪魔のような恐ろしい、しかし同時に妖しいほど心をくすぐる、その魅惑的な声が……。
 もしかすると、気が狂いかけているのだろうか、自分は。
 わからない。ただ、恐怖心だけが募る。
 ――本当は……彼に縋りたい。
 ……はずなのに……それが、できなかった。
 なぜなら……
 今、おまえが俺に触れようとすれば……
 ――俺は……
(おまえに、何をするか……わからない……)
 さっきのように――
 あの、突然の衝動。
 あれが、また起こったら……。
(俺は……どうなる……?)
 イザークの頭は、混乱していた。
 しかし、どうしてよいかわからない。
「……おい、落ち着けよ。イザーク……」
 怯えた表情のイザークを前にして、ハイネは何とか相手を宥めようと声をかけた。
(そうだ……俺まで動揺してどうする)
 薬の副作用か何かかもしれない。
 デュランダル邸での日々も入れて、この数日間にこいつが受けてきたことを思い返してみれば……無理もない。
「……気分が悪いなら、無理すんな。今、ドクターを呼んで――」
「その必要はない、ハイネ・ヴェステンフルス」
 突然背後から降ってきたその声が、ハイネの言葉を遮った。
 穏やかだが、その声にこもるのは彼がよく知るあの強い命令の響き。
 振り返らずとも誰かはわかる。
(くそッ……!)
 ハイネは舌打ちをした。
 ――ギル……!
 音もなく、背の高い姿が通り過ぎていく。
 漆黒の黒髪が目の隅をよぎった。
「――わからないのか。……きみは、彼を怯えさせている」
 すれ違う際に、ギルバートの口からこぼれた言葉が、ハイネを再び動揺させた。
(俺が……こいつを、怯えさせている……だと?)
 何でだよ!
 そんなはず……
 即座に打ち消そうとした。
(あなたに、言われる筋合いはないだろう……!)
 こいつをあんなに虐めたあなたが……。
 怯えさせたのは、あなたの方が先じゃないか。
 ――しかし……
「イザーク、おいで」
 前へ出たギルバートがイザークに向かって軽く手を伸ばした瞬間――
 ハイネは息を飲んだ。
 ギルバートに向けられたイザークの瞳。
 さっきまでの、怯えた表情が嘘のように消え……。
(なぜ……)
 ――イザークが、ギルを……受け容れている。
 ハイネは強いショックを受けた。
(……嘘……だろう……?)
 信じられない光景に愕然と立ちすくむ。
 ――なんだよ……これ……
 イザークが怯えていたのは、この人じゃなかったのか。
 ギルバートに無理矢理犯されそうになったとき、縋るような瞳で自分を見つめたあのイザークの痛々しい表情が未だに目の奥に浮かぶ。……あれは、何だったのか。
「……ギ……ル……」
 イザークの唇がゆっくりと動く。
 ――ギル……。
 『議長』ではない。
 『ギル』……と。
 そう、呼んだのか。おまえは。
 信じられぬように見守るハイネの前で、ギルバートは満足げに微笑んだ。
「おいで……何も怖がることはない」
 
 ――私が、おまえの全てだ……
 
 強い声が、イザークの脳裏に響いた。
 痺れるような感覚だった。
 逃れようもない。
 体が、自然に求めている。
 その声を聞いた瞬間……なぜか、抗えない強い衝動が彼の全身を駆け巡り、もはや何も考えられなくなった。
「ギル……」
 再び、彼はその名を呼んだ。
 ――ギル……
 自分にとって、唯一の存在。
 ――そうだ。
 ギルバートはにこやかに微笑みながら、イザークの体をそっと引き寄せた。
 ――私が、おまえの……
 心地よい言葉が鳴り響く。
 イザークは全てを忘れ、その冷たい腕の中に身を委ねた。
「……く……そ……ッ……!」
 ハイネの口からようやく声が出た。
 喰いしばった歯の間から、洩れ出る苦渋に満ちた呻きが。
 彼は、本能的に悟ったのだ。
 これも、その一部なのだ。既に、ギルバート・デュランダルによって書かれたシナリオは、動き始めている。同じだ。あの『ラクス・クライン』と……。
 いや、それはわかっていた。ギルバート・デュランダルは、最初からそのつもりで、イザークを……。
 ただ、それがこんな風に……。
 こんなイザークを見ると……。
(何だよ、これは……!)
 ハイネはどうしようもない嫌悪感に苛まれずにはおれなかった。
 こんなこと……本当に、必要なのか。
「……あんた……こいつに、何をした……?」
 ――何をしたんだよ……!
 ハイネは拳を握り締めた。
 ギルバートは目を細めた。
「……何もしてはいないよ」
 嘲笑するかのように、吐き出される言葉。
 しかし、それが嘘だと言うことをハイネは確信した。
 それだけに憤りが増した。
「そんなはず、ないだろう……!」
 でなければ、こんな……
 イザークが、こんな風にあなたに抱かれているはずがない!……こんな表情(かお)をして……。
 ギルバートの腕に抱かれるイザークの姿を見ていることに堪えられず、視線を逸らす。
 彼は改めてギルバート・デュランダルを睨みつけた。
「あなたは……一体何を考えているんですか……」
 高ぶる心を抑えながら、敢えて冷静さを保とうと努力する。それでも声がどうしても荒ぶってしまう。
「……きみが気にする必要はない。ヴェステンフルス。私の口からもう一度、きみに警告させるつもりか」
 ギルバートはゆっくりと、そう言った。
 脅しを含んだ口調に、冷えた微笑。
 ハイネは、何も言い返すことができなかった。
 何も……。
(イザーク……ッ……!)
 手を伸ばせば、そこにいる。
 取り戻せる距離に、いるのに。
 ……なぜか、できなかった。
 彼の中に僅かに広がる不安。その揺れる心が……。
 あのようにイザークに拒まれた現実が彼を弱気にさせていたのかもしれない。
 たとえそれが、イザーク自身の意志ではないとしても。
 どう、すればいい?
 答えは……すぐに出た。哀しいくらい、簡単に。
 
 ――俺には、何もできない。
 
 ハイネは目を閉じた。
(俺には、何も……)
 自分の無力さを思い知らされ……彼は悔しさと自己嫌悪に塗れたまま、背を向けた。
 
 
(あ……)
 突然、去っていくハイネの姿が目の中に映った。
 ぼおっとしていた頭がその瞬間、現実に戻った。
「ハイ……ネ……?」
 思わず伸ばそうとしたその手首を、ギルバートの手が掴み押さえつける。
「……はな……せ……ッ……」
 弱々しい抵抗は、あっさりと無視された。
「……無駄なことを……」
 ギルバートの瞳に冷たい光が瞬いた。
(おまえの体は、もう……)
 彼はイザークの顎を掴み、自分の前に向けさせた。
「――こちらを見なさい」
 その一言に含まれた、怜悧な刃物のような感触に、イザークはびくりと全身を震わせた。
 急速に心拍数が跳ね上がる。
 彼は相手と視線を合わせるのが怖くて、自然と目を逸らしかけた。それを見て、ギルバートの指がさらにその顎を強く持ち上げる。
「私の目を見て……」
(おまえが従わねばならぬのは……)
 否応なしに、相手の瞳に向き合わされた。
 そして、視線が合うやいなや――
(……あ……っ……)
 忽ち捉えられていくのがわかった。
 ルビー色の瞳が、恐ろしいほどの輝きを放ち、彼の全身を吸い込んでいくかのようだった。
 頭の奥に鈍い痛みが走る。
(この感覚は、何なんだ……)
 このまま、意識が沈んでいくような気がする。
 自分が自分でなくなっていく。
 自分の立っている場所が、消えていく。
 自分は、どこへ落ちていこうとしているのか……。
 ――怖い……
 嫌だ……。
 虚しい抵抗を試みるが、相手の腕の中から抜け出すことはできなかった。
 恐怖で硬直した体は麻痺したかのようで、ほんの指一本すら動かすことができない。
 ギルバートが苦笑するのがわかった。
「……怖がることはないと言っているのに。なぜ、それがわからない……」
 掴む顎を引き寄せ、唇から相手の中へ侵入した。
 逃げようとする相手の舌を捉え強引に吸いつき、そのまま口腔深くまで執拗に犯していくと、やがて相手からぐったりと力が抜け落ちていくのがわかった。
 イザークの瞳が閉ざされると、ギルバートは不満げにいったん唇を離した。
「……私の目を見ろと言ったはずだが」
 ギルバートの威嚇するようなその囁きに、イザークはぴくりと反応した。
 うっすらと開く双眸に滲む涙が、普段以上に彼の瞳の透明度を増しているかのようだった。
 ギルバートはふっと微笑んだ。
(……美しい、色だ……)
 ――だが、美しすぎるな。
 怖いくらいに……混じりけのない、その瞳の色が、彼を微妙に苛立たせることもまた否めない事実だった。
「……わたしを……放して……ください……」
 聞こえるか聞こえぬかのような低い哀願の声が、その喉を震わせた。
 閉じることを許されぬ瞳の端から零れ落ちる水滴が、瞬くうちにその白い頬に光る軌跡を残していく。
「……それは、できない」
 ギルバートは冷たく答えた。
「……まだ、きみは自分の役目を果たしていない」
 しっかりと自分の役を演じてもらわねば、困る。
 そうでなければ、きみをここまで連れてきた意味がないではないか。
 まだ、きみは私の道具(もの)でいてもらわねば……。
 少なくとも当分の間は……
 いや、或いは――
(……永久に――か?)
 そう思った瞬間、ギルバートは自嘲するように、苦い笑みをこぼした。
 ――私は、どうかしている。
 しかし、否めない。
 この美しい生き物に対する滾る欲望を抑えられぬもう一人の自分の存在を。
 悪魔に魅入られたか?
 その瞳に冷たい光が閃いた。
 そして、その光に射抜かれた瞬間、イザークは逃れられぬ運命を直感した。
 ――この人は、自分を放さない。
 絶望的な思いが、彼を打ちのめしていく。
 ――自分はこの人から、逃れられない。
「そんな顔をしないでくれ。――今のきみの顔をアスランが見たら、私がきみを虐めたのだと勘違いしてしまう」
 ギルバートがからかうように言うと、イザークははっと我に返った。
(……ア……スラン……?)
 ――アスラン……。
 縋るようにその名を胸の内に繰り返す。
 しかし、なぜかそのたびに駆け抜けていくこの漠然とした不安は何なのか。
「……そう。今夜は、アスランと一緒に過ごせるのだよ。――嬉しくはないか?」
 子供をあやすようなその口調とは対照的に、酷薄なその瞳は全く別の意図を表していた。
「……だが、その前にもう少し、きみの体を躾けておいた方がよさそうだな」
 
 ――忘れるな。
 
 ――誰がおまえの主なのか……
 
 悪魔のような微笑を見つめながら、イザークは堕ちていく自分の運命の予兆をぼんやりと感じ取っていた。

                                          (To be continued...)

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