The Deprived (13)





「元気そうだね。活躍は聞いている。――嬉しいよ」
 ギルバート・デュランダルに声をかけられると、レイ・ザ・バレルの顔がぱっと明るくなった。
 それまでの冷静なザフト・レッドの顔からは想像もつかない。
 頬を赤らめ、まるで小さな子供のように喜色満面のそのあどけない笑顔に、傍にいたタリア・グラディスはどきっとした。
 まるで……この瞬間、別人が乗り移ったかのようで……。これが、つい先程まで自分の傍にいた、あのレイ・ザ・バレルなのか。
 いや、これは……違う。レイではない。
(この子が、こんな顔をするなんて……)
 タリアは不思議そうに目を瞬いた。
 彼女には未だに彼とギルバートとの関係がよくわからない。ただ、いつもどこか不自然なものを感じて仕方がなかった。それが何なのかはわからないが……彼とギルバートの間にあるその見えない『何か』が、彼女をどことなく不安にさせるのだ。
(ギルバート……あなたは、何を考えているの……)
 政治家として最高の地位に就き、科学者としてもその優秀な頭脳をずっと内外に誇示してきた彼が、実はもっとも脆く不安定な内面を持っているということを、彼女はひそかに知っている。
 ――以前は、こんな人じゃなかった。
 タリアは過去を懐かしむようにふと瞳を細めた。
 傷つきやすく繊細で……自分の信条に忠実で、常に夢を追い求める理想家だった。
 それが……いつからだったろう。彼の熱を帯びた瞳が冷め、いつしかその双眸の奥に昏い翳りが見え始めたのは。
 そうして……ある『時』を境に、突然彼は心を閉ざした。……彼女には、彼の心が全く見えなくなった。
 彼は……変わった。
 しかし、それも仕方のないことだったのかもしれない。
 自分が彼に別れを告げたあの瞬間から、恐らく……。
 あるいは、自分が彼をそんな風に変えてしまったのだろうか。
 そう思うと、タリアの胸は痛んだ。
 決して、彼を捨てたのではない。
 心のどこかでは、まだ彼を愛していた。
 でもそれ以上に、彼女には……果たしたい欲望があった。彼女は自分の意志で、そちらを選んだのだ。
 そして結果的に……現在の自分たちがある。
 タリアは自嘲するように唇をそっと歪めた。
 愚かな自分を彼女は笑った。――時を戻すことはできない。こうしている瞬間も、時間は前へ進んでいるのだ。過去を振り返っているときではない。今は、前を見なければ……。この難局を乗り越えること……それだけを考えねばならないのだ。
 
 一方、レイは完全にタリアの存在を忘れてしまったかのようで、その目にはただ目の前のギルバートの姿しか映っていない。
 自分をいとしんでくれるただ一人の人。
 自分にとって、唯一の確かな存在。
「ギル!」
 彼は思わず叫ぶと、ギルバートの胸にまっしぐらに飛び込んでいた。
 抱きついたレイの体をギルバートはにっこり微笑って受け止めた。
(可愛い子だ……)
 その華奢な体をそっと撫でながら、彼は目を細めた。
 ――レイ。おまえは、本当に私の最高傑作だよ。
(………………?)
 ふとレイの瞳が曇った。
 ――ギル……?
 違和感を感じ、不審気にそっと視線を上げる。
(……違う……)
 ――どうしたのだろう。
 はっきりとはわからないが……どこかがいつものギルと違う。
 彼は軽い混乱に陥った。
(……違う誰かの匂いがする……)
 微かな不快感が彼の表情に翳りを滲ませた。
(……気付いたか?)
 ギルバートは相手の体からその反応の微細な変化を感じ取り、僅かに眉根を寄せた。
 ――敏感な子だな。
 彼にはわかるのだ。本能的に感じ取っている。そして……つい先程まで別の誰かを抱いていた自分を、こうして無言のうちに責めている。
 レイの鋭い視線を受けて、ギルバートは内心苦笑した。
「……どうした?私の顔に何かついているか?」
 ギルバートは笑顔を崩すことなく、穏やかに問いかけた。
「……………」
 レイは何も答えず、瞳を伏せた。
「……疲れているのだろう。今夜は艦に戻らず、ここでゆっくり休んでいくといい」
 ギルバートはにっこり微笑みながらそう言うと、そっとレイの体を離した。
 レイが瞳を上げたとき、ギルバートは既にタリアと共にテーブルへと歩き始めていた。
 そのギルバートの背中を見つめるレイの瞳はもはや何の感情も映してはいなかった。
 ただ、いったん彼の胸に生じた不審と疑念は消えることなく、むしろ徐々に彼の内側を侵蝕し始めていた。
(誰なんだ……)
 ハイネ・ヴェステンフルスでは、ない。
 彼とギルとの関係は知っていたし、このような不安を感じる要素もなかった。
 違う。
 この感じ……。
 自分を抱きながら、ギルの体は他の何かを求めている。
 こんなことは、今までになかった。
 ――何が、ギルを惑わせているのか。
 その見えぬ何ものかを睨みつけるように、レイの青い双眸が強い光を閃かせた。
 
 
(落ち着けよ……)
 動揺する心を静めながら、ハイネはホテルのロビーを歩いていた。
 玄関先に黒いリムジンが到着したと聞き、いよいよアスラン・ザラと対面することになると思うと複雑な感情が渦巻いた。
 勿論相手は何一つ今のこの状況をわかってはいない。
 このホテル内に、イザークが待っているなど、想像もしていないだろう。しかも、ギルバート・デュランダルによって微妙な『調整』を受けたあんな状態のイザークがいるなどとは……。
 俺は、あいつに警告をすべきなのだろうか。
 あいつがイザークに会う前に……。
 いやしかし――そもそもあいつがイザークに会った時、あいつとイザークの間に何が起こるのか……。俺にはまだ何もわかってはいない。
 何もこのように思い惑うほどのことではないのかもしれない。
 ギルが、あくまでアスランを手駒にするための楔としてイザークを用いるつもりであるなら。
 しかし……
 あのイザークの姿は異常だった。
 あそこまでせねばならぬものか。
 なぜ、そこまでしてギルは……。
 こんなことに本当に意味があるのか。
 あるいは……
 
(あれは、魔物だな……)
 
 そう呟いたときの、あのギルバートの憑かれたような瞳の色を思い出して、ハイネはぞくりと悪寒が走るのを感じた。
 ――あの人は……イザークを放すつもりはないのかもしれない。
 完全に憑かれている。……何かがあの人を狂わせているのだ。
 玄関の扉が開き、階段下に止まっているリムジン車からちょうど降り立とうとする人影が見えた。
 赤い軍服の三人。
 先頭を切って出てくる姿に自然に目が止まる。
 紫紺の髪に、見上げる瞳は目の醒めるような輝く翡翠の緑。
 すぐにそれがアスラン・ザラだとわかった。
(アスラン・ザラ……!)
 ハイネの瞳が自ずと厳しくなる。
 ――こいつが……
(アスラン……)
 うつろな意識の中で、自分をそう呼んだときのイザークの顔が瞼の裏を掠めた。
 激しい嫉妬に捉えられたあの瞬間が甦る。
 階段の上から見下ろすように降りてくるハイネの姿を見ると、アスランは階段の手前で足を止めた。
 ハイネがやってくると、二人はいったん間近で顔を合わせた。
 二対の緑色の瞳が真っ直ぐ互いに向き合う。
 無防備なアスランの瞳を、挑むような相手の瞳が一瞬鋭く突き刺した。
 はっとした表情のまま彼は不思議そうにハイネを見たが、すぐに元の顔に戻ると、改まって敬礼をした。後ろの二人――シンとルナマリアもそれに倣う。
 ハイネも敬礼を返す。
「ミネルヴァのクルーだな」
 驚くほど冷静な声が出た。
「……はっ!」
 アスランも形式ばった返答を返す。
「議長がお待ちだ。案内するので、俺についてきてくれ」
 事務的な口調でそれだけ言うと、すぐに踵を返した。
 階段を上がり、ホテルの中に入る。ロビーを抜け、一階上へ上がり、廊下を歩いて行く途中で、ハイネはさりげなく歩みを緩めた。
 すぐ後ろを歩くアスランにちらと視線を投げる。
「――何か?」
 それに気付いたアスランが訝し気に声をかけた。
 ハイネは躊躇った。
(おまえ――イザークを、知ってるな?)
 その一言がどれだけ相手を動揺させるか容易に想像がつく。それだけに、彼は迷った。
 今、ここで言ってよいものか。
 余計なことを言えば、本当にギルの計画の邪魔をすることになる。
(……イザークは――)
 しかし……
 ハイネはもう少しというところで、言おうとした言葉を飲み込んだ。
「……いや」
 ハイネはかぶりを振ると、再び歩調を戻した。
(………………?)
 アスランは不審気に首を傾げた。
 さっき感じた、ハイネの刺すような視線が妙に気になり、このままにしておけないような気がした。
「……あっ、あの……!」
 遠慮がちなアスランの声がハイネの背にかかる。
「……何だ?」
 今度はハイネが問いかける番だった。
「……その……」
 アスランは躊躇いながらも、続けた。
「……どこかで、お会いしたことが……あったでしょうか……?」
 我ながら間の抜けた問いだと思いながらも、咄嗟にそれくらいしか思い浮かばなかった。
「……いや。ないだろう」
 ハイネはそう返すと、ひそかに唇の端を緩めた。
(……もっとも、俺は前からおまえを知っていたけどな)
 前議長パトリック・ザラの息子でクルーゼ隊のエースパイロット。有名人であることは勿論だが……。
 俺にとってはそんなことはどうでもいい。
 俺がおまえに興味を持ったのは、何よりも……。
(イザーク……あいつがこんなにも俺の中に入り込んできてしまったから……)
 ――あいつの中に、いつもおまえはいる。
 腕の中に抱きながら、それでも……。
 イザークの中に、おまえがいることを常に意識させられてきた。
 認めたくはないが、事実だ。あんなに強い思いに……一体どうやって打ち勝てるというのか。
 イザークを思うとき、腹立たしいが、同時におまえのことを思わざるを得なかった。
 本物に会うまでに、既にアスラン・ザラの存在は自分の中にしっかりと根付いている。そう思うとおかしかった。
(俺がイザークを抱いていたことを知ったら、おまえ、どんな顔をするんだろうな)
 そんな風に澄ました面を続けているわけにはいくまい。
 嫉妬に駆られて俺を殴り倒しでもするか。
 ……そんなことを考えているうちにいつしか回廊を抜け、屋外の空気がひやりと顔を撫でていた。
 広い屋上の真ん中に設置されたテーブルの向こうに座っている議長の姿が見えた。
「残念ながら、話はまた後だな」
 ハイネは言うと、何か言いたげなアスランにきっぱりと背を向けた。
 視線の先には、優雅に微笑むあの人がいる。
「失礼します、議長……!」
 敬礼し、声をかけると、アスランたちを促して前へ出させた。
「お呼びになったミネルヴァのパイロットたちです」
 その声にギルバートは素早く反応した。
 椅子から立ち上がると、満面の笑みを浮かべながら近付いてくる。
「やあ!……久し振りだね――アスラン」
 その名を発したとき、こころなしかその瞳がちらと背後のハイネに向けられたように見えた。
(……余計なことはするな)
 そう牽制されたような気がして、ハイネはどきりとした。
「はい。……議長」
 何も知らないアスランは素直に差し出された手を取った。
 それを尻目にハイネはさっさと引き下がった。
(さて……これから、どうなるか)
 彼は室内に戻る前に一度振り返り、テーブルを囲んで会談する彼らの様子を見た。
(まだまだ芝居は続いていく……か)
 ――あなたは凄い人だな、ギル。
 あなたは演出家でもあり、同時に役者でもあるんだな。
 どうしてそんな風に落ち着いて、心にもない言葉を紡ぎ出すことができる。
 恐ろしいくらいに全てがあなたの書いた脚本通りに動いていく……。
 ――しかし……
 ハイネは息を吐いた。
 彼はふと軽い疲れを感じた。
 全てが……虚しく思える。
 今の俺にはあなたの考えが見えない。
 そのとき、不意に銀色の髪が瞼の淵を掠め、熱い吐息と柔らかな肌の感触が掌に甦った。
 忽ち軽い興奮が胸の内に広がっていく。
 自分の中の平常心はこんな風にいともたやすく崩れていく。
 ただひとつの存在――『彼』のことを思うだけで。こんなにも、俺は……。
 もう、どうなってもいいのだ。
 ただ……自分には、今、確かに失いたくないものがある。
 何かを手に入れるために、犠牲にせねばならぬものがあるとしたら……。
 ――何だか、俺は……
 溜め息が洩れた。
(俺はもう、本当にこの脚本全てを投げ出したくなってきた……)
 ――さって、どうすっかな。
 彼は壁に背をもたせかけたまま、目を閉じた。

                                          (To be continued...)

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