The Deprived (14)





 イザークは鈍い頭を抱えながら、ソファーに寝そべっていた。
 薄いバスローブを纏った体はまだしっとりと濡れている。
 このホテルで目覚めてから、ずっと頭の中がすっきりしない。思考能力が働かず、ぼんやりする。体の動きが鈍い。手先を僅かに動かすのでさえ、苛々するほど時間がかかった。
 先程のギルバート・デュランダルとの濃厚な交わりがまだ尾を引いているのかもしれないし、あるいは幾度となく投与されてきた薬剤の影響かもしれなかった。
(……このまま、ここにいることはできない)
 彼の本能が強い危機感を訴える。
 自分は、侵蝕されている。心も身体も。
 このままでは、いつか自分は崩壊してしまうだろう。
 そして……
 ――議長は、自分を軍に帰すつもりはないのだ。
 急に冷たい恐怖が全身を掴むと、彼は倦怠感と戦いながら何とか起き上がった。
 怖い。
 彼はソファーの背にしがみつき、ただ純粋な恐怖に身を震わせた。
(このままでは、本当に俺は……)
 そう思ったとき、不意に扉が開く音が聞こえ、人の入ってくる足音が響いた。
 淡々とした規則的な歩みが近づいてくる。
 目を上げると、既に見慣れた白衣の男の姿が飛び込んできた。デュランダル邸からずっと付き添ってきた医師だった。
「……大丈夫ですか?」
 丁寧に声をかけるその眼鏡の奥の瞳が鋭くイザークを射すくめた。
 腕に触れられた瞬間、激しい拒否反応が起こり、彼は思わずその手を振り払った。
「触るな……っ……!」
 ソファーに背を押しつけながら、目の前の男を強く睨みつける。
 人の体にさんざん妙なものを投与してきて、何が大丈夫か、だ。
 ――ふざけるな……!
「――薬切れ、か」
 真上から冷やかに見下ろしながら、男は静かに呟いた。
「もう少し、打っておいた方がよさそうですね」
 イザークをじろりと見てそう言うと、彼は白衣のポケットから注射器とアンプルのセットを取り出した。
 それを見ると、イザークは青ざめた。
(冗談じゃない……)
 このうえ、まだ何か薬を打ち込もうというのか。
 恐怖感に駆られ、彼は思わず腰を浮かした。
「……やめ……ろ……」
 しかし、逃れようとするその肩に男の手がかかり、再びソファーに押し戻された。
(あ……っ……)
 抗おうとする手足が思うように動かなかった。ソファーに沈んだ体は鉛のように重い。
 なぜ、こんなにも力が出ないのか。
……ザフトの軍人とはとても思えぬほど、今の彼は弱々しく、まるで女子供のように簡単に相手に押さえ込まれてしまう。情けなくて泣きたいような気持ちだった。彼は目の前の現実から逃げるかのように、瞳を閉じた。
 ――今の自分には、何もできない。
 抗う気力すら、奪われて……
 もう、どうにでもしろといった気分だった。
 しかし――
「………………?」
 掴まれた腕を撫でるその感触にどことなく不自然なものを感じて、イザークはふと瞳を開けた。
 目を上げると、間近に接近してくる男のぎらぎらした顔がいきなり飛び込んできた。
(な……んだ……?)
 眼鏡の奥に閃くその見慣れた欲望の光に気付いたとき、ぞくりと悪寒が走った。
 まさか……。
 彼は呆然と目の前の男を見つめた。
 こいつも……なのか……?
「打つなら……早くしろ……」
 平静を装いながらそう促す彼に、相手は嫌な笑みで応えた。
「……その前に……少し私と遊んでもらえませんか」
 いつもの能面のような表情が消え失せ、その顔は醜く引き歪み、暗い欲望を曝け出している。いかにも生真面目そうなこの男がこんな顔をするとは思いもよらず、イザークはあまりの彼の変貌ぶりに驚いた。
「……本当に、あなたはどんどん妖艶になっていく……」
 熱に浮かされたかのような、偏執的な光を放つその瞳がイザークを覗き込む。
「デュランダルさまが、固執されるお気持ちもわかる。あなたを見ていると……この私まで、おかしくなりそうだ」
 男の手から注射器が離れ、床に落ちた。
「……今、何だか無性に、あなたを犯してみたくなりましたよ」
 嫌な笑いに顔面を歪めながら、男はイザークの胸に手を伸ばした。ローブの前を肌蹴けると、その手がゆっくりと湿った肌を撫でていく。
「や……めろ……っ……!」
 イザークは相手の体を押しのけようとしたが、その両手首をしっかりと掴まれ、逆にソファーに縫いつけられた。
 のしかかる男の体重を受けて、否応なしにソファーに倒されながら、彼は頭の中が空白になっていくのを感じていた。
 このような陵辱を受けて怒涛のような屈辱と怒りに身を焦がしていたのは最初だけで、もはや今は何も感じられなくなっていた。恐怖感すら、どこかへ消え去っていた。
 ただ……恐ろしく寂寞とした孤独感と虚無感が全身を押し包み、彼の魂を奈落の深遠へと突き落としていくかのようだった。
 何も考えられず、弄ばれようとしている体からさえ、意識が離れていく。現実がいったん目の前から消え……意識が落ちた瞬間……
 ――『それ』が、やってきた。
 呪縛にも似た、あの強制的な感覚が。
「……あ……っ……ああ……っ……!」
 唇から、声が洩れた。
 喘ぎでもなく、悲鳴でもなく、それは……。
(……嫌だ……やめろ……っ……!)
 陵辱しようとする男への言葉ではなく、それはどこか他の未知なる存在に向けて放たれた抵抗の言葉だった。
 ……抵抗する心にのしかかる力が、彼を圧迫する。
(……殺して……やる……!)
 殺せば、いい。
 おまえに触れるものは、全て……おまえの、敵だ。
 おまえに侵蝕するものを……その手で……
 漲る殺意と膨れ上がる憎悪の感情が源となり、自分の内に眠る暗い力を呼び覚ましていく。
 ――これは、俺の意志なのか……それとも……。
 いつしか体中が熱く沸き立ち、彼はその言葉を呪文のように口の中で呟いていた。
「……貴様を……殺す……!」
 誰を……?
 アスラン、貴様を……!
 目の前が見えなかった。ただ、そこにいる者がアスラン・ザラだと……そう確信し、彼は暗い怒りを爆発させた。押さえつけられていた手をいともたやすく振り放すと、体が飛びはねた。
 驚きの目を瞠る男に飛びかかり、床に押し倒した。
 先ほどまでが嘘のように、驚くほど全身に力が漲った。拳に力を入れて数発相手の顔面を殴ると、眼鏡が吹っ飛び、男は鼻や切れた唇から血を流しながら、乱れた呻き声を上げた。
 抵抗しようとする男をさらに押さえつけると目の隅に先ほど男が落とした注射器が見えた。素早くそれを拾い上げると、彼はそれを振り上げ思いきり男の首に深く突き刺した。
「……………!」
 声にならぬ悲鳴が部屋に満ちた。男は衝撃に目を大きく見開いた。
 それも構わず、続けて何度も針が折れるほど勢いをつけて強く刺し込む。
 血が飛び散った。凶器と化した針先の細い先端が薬液を飛ばしながら、皮膚を切り裂き、深く首筋へと食い込んでいく。
「……やっ……やめ……て……く……!」
 かぼそい哀願の叫びも途中で途切れた。
 男は目を剥いたまま、意識を失っている。
「……イザークっ!」
 そのとき、後ろの方から声がかかった。
「おまえ、何してる……!」
 血に染み、折れ曲がった針先を手に男の体の上に跨っているイザークの姿を見て、ハイネは扉の前で愕然と立ちすくんだ。
 しかし、彼がなおも針を振り上げようとするのを見ると、ハイネはすぐに駆け寄り、後ろからイザークの体に組みついた。
「おい、やめろ……!イザークっ!」
 ハイネの声にイザークはびくんと反応した。
(……あ……)
 飛び散った意識が元に戻ってくる。
 体の中を荒れ狂っていた殺気の波が嘘のように引いていくのがわかった。
 同時に、目の前に映し出されたその現実の光景を見て、イザークはあっと息を飲んだ。
 目を剥いて意識を失っている男……。
 血のついた注射針。
(……俺は……何……を……)
 全身からどっと力が抜けていく。あまりの虚脱感にくらくらと目眩すら覚え、そのまま気を失ってしまいそうだった。
「……イザーク……」
 再びかけられたその声に、彼はゆっくりと背後に顔を振り向けた。
(ハイネ……)
 ハイネがそこにいる。そこにいて、信じられぬように引きつった顔でイザークを見ている。
(……そんな目で、俺を見るな……)
 イザークは打ちのめされたように、震える瞳で相手を見返した。
(イザーク……)
 ハイネは声もなく、そんなイザークの肩を掴んでいるしかなかった。
 ――何て……姿だ、おまえ……!
「おまえ……」
 言葉が続かなかった。
 ――ち……がう……。
 イザークは力なく首を振った。
 俺……は……
 これは、俺の意志じゃない……
 しかし……狂ったような殺意の虜になっていた自分がいたことは、事実だ。
 目の前が眩み……自分が自分でなくなった。
「……ハ……イネ……」
 明るいオレンジの髪が目に優しく映る。
 今、彼の目の前にいる、この確かな存在。
「俺は……怖い……」
 怖くて、たまらない。自分に何が起こっているのか。このまま、どうなってしまうのか。
 ――俺を……助けてくれ……。
 縋るようなイザークの視線が、ハイネの胸を衝いた。
 駄目だ……。
 このまま、こいつを見捨てることなどできはしない。
(……ギル……悪いが、俺はやはり……)
 彼はその瞬間、きっぱりと躊躇いを捨てた。
 自分の気持ちははっきりしている。
 イザーク……。
 放っておけるものか。おまえを……。
 たとえ、そのために全てを失うことになったとしても……。
「……大丈夫だ……」
 そう言うと、ハイネはイザークの体を後ろからきつく抱き締めた。
「……おまえには、俺がいる」
 ――俺が、おまえを守ってやるから。
 もうギルにも誰にも……おまえに触れさせはしない。
 だから……
「――逃げるか、俺と」
 ハイネはかき抱くイザークの耳元で、不意にそう囁いた。
 ――ここから……逃げよう。

                                          (To be continued...)

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