The Deprived (15) 「……逃……げる……?」 イザークは目を見開いた。 抱かれる腕から身を捩るように振り返って、ハイネを驚いた瞳で見つめる。 「……逃げる……って……言ったのか、今?」 「――俺は本気(マジ)だぜ」 ハイネはイザークをいったん離すと、改めてその両肩を掴み、真剣な瞳で相手と向かい合った。 「……おまえにその覚悟があるなら、だけどな」 そう言われて、イザークは困惑したように目線を下に落とした。 ――逃げる……。 ということは、つまり……。 イザークの躊躇いを見て、ハイネはふっと笑みを洩らした。 戸惑うのも、無理はない。俺だって、自分がこんなことを言い出すなんて、まさか思いもしなかった。 「そうだなあ……それに……ザフトを捨てる覚悟もいるかもな。なんせ、ここから逃げるってことは、議長への造反ってことになるんだろうから」 ――ギルバート・デュランダルの書いたシナリオから逸脱するということ、それはつまりザフト……いや、それどころかプラントをも裏切るという行為に匹敵するかもしれないのだ。 ザフトも、プラントも捨て……。この先どうなるかなんて到底わからない。上手く逃げおおせることができるかすら、定かではないのだ。 未来(さき)の見えないこの逃亡に全てを賭けて……。 それだけの覚悟と勇気があるか、おまえに。 ハイネの緑色の瞳がそう問いかけていた。 「俺は、いつでもOKだぜ」 もう、迷わない。俺にはおまえが必要だから。 ――おまえを連れて逃げてやる。どこまでも。 ――おまえさえ、それを望むなら。 (イザーク……俺は、おまえを取ると決めたんだ) ハイネの力強い声がそんな風に自分の脳内に直接語りかけてくるのがはっきりと感じられた。 (おまえを……放したくない) その思いはあまりにも強すぎて……。 イザークは目を閉じた。目眩く思いの渦の中に呑み込まれていく自分自身に戸惑い、怖れすら抱き始めていた。 (俺も……それを望んでいる……) それが果たして正しいのか。……自分でもわからない。自分の相手への思いが。自分も彼に応えることができるのか。本当に……。 しかし、溺れていく自分自身をとどめるだけの自制心ももはや残っていない。この状況下では……選択の余地はなかった。 「ハイネ……」 呟く声が震えていた。 「――俺と一緒に、行くか?」 ハイネは瞳を細め、愛しげにその銀糸の髪を軽く指で梳いた。 「……俺は……」 イザークはうっすらと瞳を開けた。怯えた頼りない表情が浮かんでいた。 「……俺は……おまえを……殺してしまうかも……しれない……」 自分でも自分のしていることがわからなくなってしまう、あの恐ろしい瞬間を思い出して、彼は不安げに瞳を逸らした。すると倒れている男の動かない肉体の一部が目の隅に映った。 「……さっきのあれを、見ただろう。……相手が誰であっても……きっと、同じようなことは起こる……」 おまえを……傷つけるのが、怖い。気が付けば、動かなくなったおまえの冷たい体がそこにあって……。――そんな風に想像するだけで、たまらなくなる。 「ばーか。そんなこと、心配すんな!」 ハイネはにやりと笑って相手の頭を軽く小突いた。 「……おまえなんかに、殺られる俺じゃねーよ」 それに…… ハイネはそっと胸の内で呟いた。 ――いいさ。おまえになら。……殺されたって、構いやしない。 「だから、さっさと答えろ。……俺と一緒に行くのか、行かないのか」 冗談とも本気ともわからぬような口調で、さらりと繰り返す。 答える代わりに、イザークは伏せた瞳をもう一度正面に向けて、改めて相手の視線に自分のそれを合わせた。 視線がぴたりと合う。 ハイネのその濁りのない、明るい緑色の瞳が彼の心の中から迷いをみるみるうちに拭い去っていくかのようだった。 何も答える必要はなかった。体の方が自然に反応した。 イザークの体がハイネのもとへ摺り寄っていく。 その体を力強く引き寄せ、抱き締めるハイネの唇が相手のそれを求め、二人は互いの気持ちを確認するかのように軽く、そしてより熱いくちづけを交わした……。 「……似合わねーな」 手渡された緑の軍服を着たイザークの姿を見て、ハイネは苦笑した。 「おまえって、派手な顔だからやっぱ、赤か白なんだよな」 そう言ってからかうように笑うハイネを、イザークは不機嫌そうに睨みつけた。 「こんなときに、ふざけるな!」 と言いながらも、彼は緑服からわざと視線を逸らすように、顔を上げた。 「俺の赤貸してやっても良かったんだけど、それじゃあさすがに目立ちすぎるからなあ。まあ、取り敢えずそれで我慢してくれよ」 「……俺は何も――」 言いかけて、イザークはふと黙り込んだ。 緑の軍服が、もう一人の『彼』の存在を突然思い起こさせたのだ。 ――ディアッカ…… あんなにいつも傍にいた彼が、今はこんなにも遠い。 そして、彼を置いたまま、自分はさらに遠い所へ行こうとしている……。恐らくこのまま、何ひとつ言葉も交わせぬまま――。 恐ろしいほどの寂寥感が襲う。 「どうした?」 ハイネは横からちらとイザークの顔を覗き込んだ。 「……大丈夫……か?」 心配そうな表情の中に僅かに滲む戸惑いの色。 「……無理しなくても、いいんだぞ。このまま、ここにいたって……」 「――そして生きた屍のような姿を晒し続けるのか……」 そう言うと、イザークは皮肉にも似た笑みをこぼした。 今は、はっきりとわかる。 ギルバート・デュランダルにとって、自分はもはやザフトの軍人でも何でもない。 一人の人間ですらない。 あの人にとって、自分は…… その先を続けることは、屈辱的すぎて彼にはとてもできなかった。考えかけただけで、頭がおかしくなりそうだった。 なぜこんなことになってしまったのか。 あんなにも尊敬し、憧れていたあの人が自分にこんな仕打ちをするなど、誰が想像し得ただろう。 彼は強く首を振った。自分自身でその意志を確かめるかのように。 ――ごめんだ。 「……自分自身を捨ててまで生き続けねばならないくらいなら、死んだ方がいい」 そして、その選択肢さえ奪われぬうちに、自分はここを脱出する。 たとえ、ザフトを裏切ることになっても。そしてその結果、プラントに帰れなくなったとしても。 イザークの瞳の光彩が放つその光の強さを見て、ハイネは安堵したようにほっと息を吐いた。 「……わかった。じゃあ、行こう」 ――たとえ、ギルの呪縛の鎖に縛られたままであったとしても、少なくとも今のおまえは、本当のおまえ自身だ。 俺が好きになったイザーク・ジュールだ。 ハイネはイザークの腕を取った。 ――そして、彼らはその道を踏み出した。 日が沈む最後の強い残光が目に染みる。 美しい夕陽をいっぱいに浴びながら、ギルバートとタリアを先頭に彼らはゆっくりとホテルの長い回廊を歩いていた。先ほどまでの緊張感はすっかり拭い去られたかのように、今では和やかな雰囲気の中、常に険しい顔を見せていたタリア・グラディスでさえもその表情を和らげていた。 「……お言葉に甘えて今夜はここでゆっくりさせて頂きなさい。――それだけの働きはしているわよ、あなたたちは」 にこやかに微笑みながら、戸惑い気味のルナマリアたちにそう答えた。 休暇と言われても何となくぴんとこない感じでルナマリアとシンは黙って顔を見合わせた。 それを見て、アスランは笑った。 「艦長の言われる通りにしろ。シンも、ルナマリアも。艦には、俺が――」 「艦には、私が戻ります。ですから、隊長もどうぞ、こちらで」 そのとき、いつの間にかアスランの横に並んでいたレイ・ザ・バレルが不意に口を挟んだ。 「……あ、いや、でも……」 「褒賞を受け取るべきミネルヴァのエースは隊長とシンです。そしてルナマリアは女性ですので、私の言っていることは順当です」 突然の彼の言葉に、アスランは驚いたようにレイを見た。その口調は丁寧だったが、あまりにもすらすらと流れすぎているようにも感じられた。まるで、何かの台本を綺麗に読み上げているかのように……。 アスランは何と返してよいのか、一瞬迷った。 そんな彼の顔をちらりと見たレイの瞳の鋭さに、アスランは気付いていなかった。同時に、前を行くギルバート・デュランダルの歩調が僅かに緩んだことも。 「……さすがレイだな。相変わらずそつがない」 ギルバートはそう言うと軽く笑みをこぼした。 「だが、おまえもだいぶ疲れているはずだ。そんなに気を遣うことはないよ。今夜はみんな、ここでゆっくりしていきなさい。これは議長の命令だ」 冗談めかしたように言うと、ふと彼はアスランを見た。 「……ところで、アスラン。きみには、実は会わせたい者がいてね」 突然の意味ありげな言葉に、アスランは不思議そうな顔をした。 「……会わせたい……私に、ですか?」 狐につままれたかのように相手の言った言葉を繰り返す。 「ああ。驚くよ。きっと……」 秘密めかしたような笑みを浮かべる。 ……きみにとっては、大事な人だろうから。 ギルバートの意味ありげな表情に、さらにアスランが何か聞こうと口を開いたとき、階下から何か騒がしそうな物音が聞こえてきて、皆の注意はそちらに逸れた。 「何か、あったのかしら」 タリアが、不審気に眉を上げ、ギルバートを見やる。 そのとき、ちょうどギルバートの携帯電話のベルが鳴った。 彼は素早くそれを取った。 「――ああ、私だ。……どうした?階下(した)で騒いでいるようだが……」 見る見るその顔が険しくなる。 「――何……っ……?」 珍しく声が高くなった。 その様子に、他の者も立ち止まって緊迫した面持ちで彼を見守った。 「……馬鹿者!」 ギルバート・デュランダルがそんなにも激しく怒鳴る声を間近で聞いて、タリアでさえも驚いたように息を飲んだ。 ギルバートは怒鳴った瞬間、我に返ったようで、すぐに自制したが、それでもかなり精神が高ぶっている様子が手に取るように感じられた。 「……とにかく制止しろ。絶対に、逃がすな!」 低声で命じると、電話を切った。 「……議長?」 アスランが不審気に声をかけると、ギルバートは肩をすくめた。 「――いや、困ったな。アスラン……『彼』をきみに会わせねばならなかったのだが……どうやら厄介なことになってきた」 『彼』という言葉に、アスランは微妙に反応した。 (……誰のことを……) 何となく嫌な予感がした。 「……ジュール隊長は、どうやらよほどきみに会いたくないらしい」 ギルバートはそう言うと、冷やかな笑みを浮かべて、アスランを見た。 「あるいは、誰かそそのかして連れ去ろうとしている者がいるのかどちらかだな」 ――きみや、私のように……彼に魅了された愚かな者が。 その答えを知っていながら、彼はわざとアスランをじらした。 「議長!」 そう叫んだアスランの声は異常なほど高まっていた。いつしか胸の内を凄まじい嵐が吹き荒れている。 「一体何がどうなっているんです!俺にはさっぱり……」 なぜ、イザークがこんなところにいるのか。 アスランは半ばパニックになりながらも、呆気に取られて立ち尽くす他の者には脇目もふらず、ただ必死でギルバートを問いつめた。 「どうして、イザークが……!」 「残念だが、きみとゆっくり話している暇はなさそうだね。……行こう。手遅れになる前に……彼らを止めねばならない」 そう促すギルバートの顔からは既に笑みは消えていた。 オレンジのザクファントムは、夕陽を浴びてさらにその色を強め、輝くようなオレンジの光を反射している。 銃撃音が響き、駆け抜ける靴音がホテルの敷地内に穏やかならぬ緊迫感をもたらしていた。 火を噴く銃弾の間を潜り抜けながら、美しい色を放つ機体の傍までたどり着いたハイネは最後の一人を撃ち抜くと、振り向きざま開いたコクピットハッチへの昇降ワイヤーに飛びついた。次いで、イザークに手を伸ばす。 「イザーク、俺に掴まれ!」 「――イザークッ!」 その手を取ろうとしたイザークの背後から、別の強い声がかかった。 聞き慣れた声にびくんと全身が震えるように反応する。 「イザーク!」 再びその声が自分の名を呼んだ。 ゆっくりと振り向くと、噴水の向こう側にいるその姿が目に入った。 赤い軍服。 ザフト時代と変わらない。 一瞬、時が戻ったかのような錯覚に陥る。 彼は瞠目した。 「……ア……ス……ラ……ン……?」 が―― 同時に横に並ぶその黒髪の背の高い姿を見た瞬間…… 「イザーク……!」 その声が、彼の中の悪夢の記憶を呼び起こした。 (あ……っ……!) 呪縛が彼の全身を金縛りにする。 心拍数が急激に上昇していく。 あの恐ろしいパニックが……凄まじい激流となって彼の中に一気に押し寄せてきた。 「……アスラン……っ……!」 (俺は、アスランを……) ……せねば、ならない。 自分のものではない声……その悪魔のようなフレーズが、体中を駆け巡る。 頭が痛み、全身ががくがくと震えた。 ――俺は……何を……? 自分の意志が捻じ曲げられていく。悪魔のようなその黒いうねりが、彼の体の中に激しい憎悪の嵐を呼びたてた。 したくない。そんなこと……。だが……。 「イザーク!何してる!」 ハイネの声が叱咤するように降りかかるのも、もはや全く耳に入ってはこなかった。 「……アスラン……」 アスラン……アスラン…… 黒い爪が心臓を捩じ上げていく。 彼は目を見開いた。体が自然に動く。 ハイネの手を振り払い…… それを見たギルバートの足が止まり、白皙の美しい面がにやりと笑みで歪むのをハイネは見た。 (ギルッ……!) 怒りがハイネの胸を満たした。 ――やらせるかよ、あんたの思い通りに……! 「イザーク!行くな!」 ハイネはワイヤーから手を放すと、イザークを追いかけた。 その体を後ろから引き掴み、激しく抵抗する相手を押さえつけながら無理矢理こちらに向かせた。 「放せ……っ……!」 「やめろっ!イザーク……!」 止むを得ず、ハイネは暴れる相手の腹を何度か殴った。 最後に鳩尾に入れた一発がきいたのか、いきなり力が抜け、ぐったりと倒れる相手をかき抱くように受け止めた。 走り寄ってこようとするアスランを見ると、ハイネはそれを制するようにすかさず右手の銃口を向けた。 「おい、何のつもりだ!」 アスランは相手が先ほど自分たちを案内したときの青年だと知って驚いたように足を止めたが、すぐに怒りを込めた眼差しを向けた。 「イザークを、どうする!」 「悪いが、こいつは俺が連れて行く!」 そう言うと、ハイネも相手を鋭く睨み返した。 (イザークは、俺と行くと言ったんだ……!) 「ハイネ!」 ギルバートの怒りに満ちた叫びも無視して、ハイネはイザークを肩に抱きかかえながら、コクピットの中へ消えていった。 (To be continued...) |