The Deprived (18)





(う……)
 ハイネは呻いた。
 頭の奥がずきりと痛む。
(俺は……どうしちまったんだ……)
 動かそうとした手足がびくんと痙攣した。
 全身に、まだ強い痺れが残っている。自分の体であってないかのような、鈍い感覚。
 瞬時に襲ったあの全身を貫く衝撃を思い出して、彼は舌打ちをした。
(くそっ……!)
 ……スタンガンを使われたに違いない。
 自分としたことが……。全く、何というザマだ。
 実弾でなかったことを幸いと思わねばならないのだろうが……それにしても受けたダメージは大きい。
 忌々しげに頭を振って目を開けると、霞む視界の向こうで微かに蠢くものの姿が目に映る。
(……あ……れは……)
 喘ぐ微かな声。乱れた呼吸音。
 ――イザーク……?
 何が……あった?
 俺が、意識を失っている間に……。
 彼は必死で体を起こそうとした。
 イザーク……?
「イザーク……っ……!」
 喉の奥から絞り出すように、叫ぶ。
 彼は膝をつき、這いずるように前へ進んだ。
 その前を、不意に影がよぎった。
 見上げる目の前に、金属の光が閃いた。
 銃口を突きつける手の先で、レイ・ザ・バレルの端整な顔が、冷やかに彼を見下ろしていた。
「……レイ……」
 その冷たい瞳と目が合った瞬間、ハイネは何が起こったのか漠然とながら理解した。
 相手の唇が、僅かに緩む。突き刺すような青い瞳の奥に閃く嘲りの光。漂う淫猥な香り。
(こいつ……イザークを……?)
 頭をよぎるそのおぞましい想像に思わず身が竦んだ。
「おまえ……!」
 ハイネはかっと相手を睨みつけた。
「イザークを……!」
 そのとき――
 不意に、相手の手から銃が離れた。
 床に金属の硬い物体が当たり、転がる音が堂内に大きく響き渡る。
「……………?」
 不審気なハイネの視線を受けるやいなや、相手の無機質な表情に僅かな変化が生じた。
 嘲笑めいた光を今やはっきりとその青い双眸の中に瞬かせながら、彼は肩を揺らしてくつくつと笑い始めた。
「何を……」
 戸惑うハイネを見て、レイは切れ長の美しい目をふと細めた。
「……終わった……」
 満足げな呟きがこぼれた。
 ――俺が、終わらせた。
「……彼は、自由だ」
 ――ギルの戒めから、俺が解き放ってやったのだから。
「……レイ、おまえ……何を……した?」
 言葉に含まれたその邪悪な意志を鋭く嗅ぎ取り、ハイネは嫌な予感に震えた。
 ――イザークに、何をしたんだ……?
 ハイネの問いには答えぬまま、レイはただ満足げな笑みを浮かべていた。その瞳に宿る狂気にも似た光を見て、ハイネは息を飲んだ。
 答えは、聞かずともわかった。
 彼は、力を振り絞って立ち上がった。
 くらくらとする頭を抑えたまま、レイを押しのけるように、その背後の床に横たわっているイザークの元へ駆け込んだ。
「イザーク……っ……!」
 両手を拘束されたまま、目を閉じて横たわるその生気の失せた顔を見て、彼は眉をしかめた。
 何度も打ちつけられた頬が赤く腫れ上がり、切れた唇からはなおも血が滲み出ていた。そして下半身に刻みつけられたその見紛うことのない、陵辱の跡が生々しくハイネの目を打ちすえる。
「……くそ……っ……!」
 ぎりぎりと喰いしばる歯の間から自然に呪詛の声が洩れた。その間にも、もどかしげな指先でイザークの手の拘束を解いてやる。
 ベルトが外れた後、その擦れて傷ついた両手首を撫で、そっとくちづけを落とす。
「……イザーク……俺だ。目を開けろよ……」
 小さく耳元で囁いた。
 相手の微かな喘ぐ息遣いと、体のぬくもりがやるせないほど愛しかった。
「……イザーク……」
 と、そのとき突然イザークの瞳が開いた。
 それをまともに覗いた瞬間――
 ハイネの全身にぞくりと冷たい悪寒が走った。
「……おまえ――」
 彼は衝撃に打たれ、言葉を失った。
 その暗く冷えた瞳の色に、心臓を鷲?みにされたかのようだった。
 この目……。
 イザークは、こんな目をしていただろうか……。
「……だ……れだ……?」
 苦しげに息を吐きながら、震える唇がようやく喉の奥からそれだけの言葉を引き絞る。
 両手が探るようにハイネの顔を撫でた。その手を再びぎゅっと掴むと、ハイネはイザークの体を軽く揺らした。
「イザーク……おい、しっかりしろ!何してんだ?俺だよ、わかんないのか?」
 そう荒々しく叫びながら、彼はもどかしげに相手の反応を待った。
 しかしイザークの瞳はぼんやりと、目の前の相手に焦点を合わせていない。
 瞳が……。
 暗い濁ったこの瞳……これは……。
 ――どうしたんだ……?
 嫌な予感がした。
「イザークっ!返事しろよ!」
 何も映さない瞳。
 イザークの瞳ではない。あの美しい透き通るようなアイスブルーの瞳の色が……こんなにも澱み、光を失っている。
 ハイネは震撼した。
 これは……何だ。
 イザーク……おまえの精神は本当にここにあるのか。
(……まさか、おまえ……)
「おいっ……!」
 焦る気持ちに急かれてひときわ激しく体を揺すると、イザークはびくっと短く体を痙攣させた。驚いたような瞳が大きく見開かれる。
 ただ、恐怖に脅える幼子のような瞳が震え……。
「……あ……」
 ぽろぽろと涙だけが、零れた。
 苦痛を搾り出すように……。
 引きつるような唇からは、まともな言葉は出てこない。
「……や……っ……!」
 ――嫌だ……っ!
 声もなく泣きながら、彼はハイネに掴まれた手を振り解こうと、必死にもがいた。
 純粋な恐怖の感情だけが、伝わってくる。
 痛々しいまでの、抗い。
 ――イザーク……何でだよ。俺は、おまえを傷つけたりしないというのに。
 何度となく拒まれた体。
 しかし、今この瞬間ほどそれが辛く、胸の深奥までぐさりと突き刺さったことはなかったように思われた。
 思わず手を離したハイネの前から、転がるように床に蹲り、がくがくと震える体をかき抱きながらただ喘ぎ続けるその姿。
 頭を埋める両腕の下から、嗚咽にも似た音声が、ひっきりなしに洩れ聞こえてくる。
 今にもぼろぼろに壊れ落ちてしまいそうな、この脆さは何なのか。
 ハイネは愕然とただその姿を眺めているしかなかった。
 駆け寄って抱き締めてやりたい。
 大丈夫だと……。
 俺がついているから、と。
 しかし……。
 手を伸ばし、触れた瞬間に、その姿は儚く溶け去ってしまいそうな錯覚すら、感じ――。
 彼は、躊躇った。
 本当は、先ほどの強い拒否反応を感じた瞬間から……彼の心は脅え、竦んでしまっていたのだ。
 ――イザークは、俺を……認知していない。
 さっき……あいつの瞳の中には……何も、なかった。
 恐ろしいほどの、空白だけが広がっていた。
 くそっ……!
 ハイネはどうしようもなく、立ち竦んだ。
 そんな自分が情けなく、憤りすら感じる。なのに、それでも動くことはできない。
「……もはや、人ではないな」
 背後で冷たい声が響いた。
 振り向くと、レイ・ザ・バレルの氷のような微笑が目に入った。その瞬間、ハイネの怒りが一気に噴出した。
「何だと……っ!」
 ハイネは声を荒げ、凄まじい怒気を込めて、レイを睨めつけた。
「人に見えるか、それが?」
 ハイネの視線も全く気にせぬ様子で、レイの唇は相変わらず嘲りに満ちた言葉を吐き続ける。
 レイの目は真っ直ぐに、蹲るイザークの姿に注がれていた。それはあたかも――自分自身の手で破壊したその哀れな生き物のなれの果てを見届けようとするかのようにも見えた。哀れみのかけらすらない。冷徹な視線が、イザークを見据える。
「……いい加減にしろよ……。おまえが、イザークをこんな風にしたんだろうがっ……!」
 高ぶる感情を露出しながら、ハイネはレイの前へ突き進んだ。
 拳を握り締め、レイの軍服の襟を掴む。
 ――人ではない、だと……?
「……おまえが……っ……!」
 おまえが、言えるのかよ!
 俺は知っている……。
 おまえが……
「何が、言いたい?」
 初めてレイの目に、感情の変化が見えた。
 彼はハイネを睨み返した。
「……殴りたいなら、殴ればいい。でも、俺にはどうすることもできない」
 そもそもあいつが、あんな風になったのは。
 誰のせいだ。誰が仕組んだか、思い出せ。
 俺では、ない。
 ギルが……
 ギルが彼を……。
 だから、俺は――
 睨みつける目の中に、僅かな悲しみが見え隠れすることに、敢えてハイネは気付かぬ振りをした。
(わかっている……)
 胸が痛む。
 しかし、今はこいつに構っている余裕はない。
「そんなことは、わかってる!」
 ハイネは怒鳴った。
「けどな。あいつは、人なんだよ。生きて、ここにいる!」
 触れた体には、確かなぬくもりが感じられた。
 こいつは、イザークだ。
 イザーク・ジュールだ……!
 この世で唯一……俺が愛し求める、その……。

「だから――そんな風に言うおまえを、俺は許せない……」
 ハイネは瞳を怒りで滾らせたまま瞬きもせず、相手を睨み続けた。
「……イザーク!」
 そのとき、涼やかな声が堂内を駆け抜けた。
 暗闇の中から、ゆっくりと足音を響かせ近づいてくるもう一人の赤い軍服の姿。
 闇に溶け込む紫紺の髪が縁取る面に、滲むような翠の双眸が瞬いている。
 ハイネは思わずレイから手を離した。
 ――アスラン・ザラ……!
 今、この瞬間、奴の顔を見るとは……。全く何というタイミングだろうか。
 彼は息を吐いた。
「アス……ラ……」
 顔を上げたイザークの唇がゆっくりと動き、呪文のようにその名を呟く。
 まだおさまらぬ体の震えを抑えながらも、意識だけは真っ直ぐにその姿に向けられていた。
「アスラン……」
 潤んだ瞳の奥で、僅かに閃く光。
 ――イザーク……おまえ……。
 ハイネは動くことさえできなかった。
 アスランと、イザークの間にあるその何かが、彼の動きを封じた。
 なぜだろう。今、彼は痛烈に自分の存在の弱さを実感せずにはおれなかった。
 イザーク……。
(俺は、おまえにとって、何なんだ)
 イザークは、ギルに捉えられた。
 しかし、それでもなお……恐らく、イザークを取り込んだつもりの当のギルバート・デュランダルにさえ、手の及ばないところで、まだこの二人の関係は、生きている。
 それは、誰にも阻むことができないのだ。
(そう……なのか)
 自分はそう納得するよりほか、ないのか。
 何があっても、最後にイザークの向かうところは、やはり、『彼』のところだと――それを今、認めねばならないというのか。
 ……それはあまりにもハイネにとっては残酷な事実だった。
 こんなに、彼の中に深く入り込んでしまった今となっては。たとえほんのひとときの邂逅であったとしても、今感じているこの気持ちは真実だ。
 イザーク……おまえだって……。
 縋ってくる瞳。自分の名を呼ぶ声。かき抱く腕の中に感じる鼓動とぬくもりの全てが、偽りであったとは思えない。
 ――イザーク……行くな……。
 ハイネは口を開いた。
 潮のように押し寄せるこの熱い感情の波の中に呑まれそうになりながら、必死で声を上げようとした。
 ――行くな!……イザーク……っ!
 そんな彼の気持ちをよそに、イザークは立ち上がり、アスランの方に顔を向ける。
 濡れた全裸のその美しい姿が、艶かしく闇の中に浮き上がった。
「……イザーク……来たよ……」
 呟くアスランの声がやけにはっきりと響く。
 両手を広げ、近づいてくる彼の方へ向かって、イザークの体が揺らいだかに見えた。
「……イザーク――……っ……!」
 絞り出したかのようなそのハイネの声がイザークの体の動きを一瞬止めた。
「……………」
(あの声は……)
 ――ハイネ……
 もう一つの名前が、彼の頭の中を掠めた。
 ――ハイネ……ヴェステンフルス……。
 イザークは軽い呻きを洩らすと、両手で顔を覆った。
 鋭い刃で抉られたかのように、痛みが全身を駆け抜けていく。
(おまえは、どこへも逃れることはできないのだよ)
 頭の奥で、声がこだました。
 どうにもできなくなったとき……。
 それは、同時におまえが、おまえでなくなるときだ……。
(俺は、壊されたのか……)
 イザークは目を閉じた。
 体が傾いだ。
 そう思った瞬間、彼の意識は不意に曖昧になった。
 息が……できなくなる。
 こうして、俺はこの世界から締め出されていく……。
 彼は笑った。
 こんな風に、俺はこの世から去っていかねばならないのか。
 それが、俺に約束された結末なのか。
 もはや苦痛を感じることもなく、ただ脳内の意識がどんどん薄れていくその不思議な感覚に、彼は酔い続けた。
 これでわかっただろう。
 ギルバート・デュランダル。
 俺が、決してあなたの思う通りにはならないということが。
 俺は、あなたのものにはならない。
 俺は、誰のものでもない。
 俺は、俺だ……。
 永遠に……。
 ――アスラン……
(ハイネ……)
 そうしているうちに……最後に自分がどちらの名を呼んでいたのかさえ、わからなくなっていた。
 
 
 アスランの腕が抱き取った体は既に冷たくなり始めていた。
「イザークっ……!」
 アスランは顔色を変えた。
 胸の鼓動が弱々しい。腕の中で、ぴくんと体が痙攣するのがわかった。
 彼ははっと目を見開いた。
「……息が……?」
「何だとっ!」
 駆け寄ってきたハイネが、困惑したように怒鳴った。
「イザーク!……おいっ!」
 彼は身を乗り出し、ぐったりとしたイザークの頬を数回軽く打った。
「イザーク……!」
(……息をしろっ!)
 体を掴み、何度も揺らす。
 その間も、次第に弱々しくなっていく心臓の鼓動が、儚く手の下に感じられる。
 そんなこと……。
 ありえない。
 ハイネは目を閉じた。
(そんなこと……)
 さっきの自分自身の叫びが、リフレインのようにぐるぐると頭の中を回る。
(行くな……!)
 
 ――行くな、イザーク……!

                                          (To be continued...)

<<index       >>next