The Deprived (19)





「あの機影は何だ?」
 忽ち周囲がざわめいた。
 そのモビルスーツは突然現れ、ホテルの上空を威嚇するかのように旋回していた。
「ザクファントムじゃないか。基地から飛んできたんじゃないのか」
「何の前触れもなく、あんなに派手にやって来るか、普通?」
 慌てる周囲とは対照的に、ギルバート・デュランダルは顔色一つ変えることなく、平然とその場に佇んでいた。
 そんな彼の前に荒々しく急降下してくる機体。
 凄まじい振動が地を揺らす。
「議長っ!」
「――うろたえるな!」
 刃のような一言が瞬時に空気を切り裂き、慌てふためく男たちの動きを止めた。
「……ギルバート?」
 後方から不安げに見つめるタリア・グラディスの視線に気付いて、彼は安心させるように片手を振ってみせた。
「……あれが何なのか、大方予測はついている」
 ギルバートは僅かに唇の端を歪めた。皮肉な微笑が浮かぶ。
 身じろぎもせず立ち尽くす彼の前で、着陸した機体のコクピットハッチが開いた。ワイヤーに掴まって降りてきた背の高い姿に向かって目を細める。
「……隊を離れる許可を、誰からもらったのだね?――ディアッカ・エルスマン」
 涼しげに問いかけるギルバートを前にして、相手はおもむろにバイザーを取り去った。その中から現れた鮮やかな金髪と、褐色の肌のコントラストが人目を引く。
 ディアッカ・エルスマンはプラント議長の最初の尋問に答えるより先に、空いた片手を上げ、大仰に敬礼をしてみせた。その勢いで乱れた金の髪の幾筋かが僅かにこぼれ落ち、額にはらりとかかった。
 それを払い上げようともせず、瞳を真っ直ぐ前へ向けたまま、彼はおもむろに口を開いた。
「――許可は得ておりません。……自分の独断です」
 紫色の瞳が瞬きもせず、挑むように議長を見つめる。その顔には普段のおどけた表情は微塵も見られない。真剣な厳しい光を放つ瞳が、軍人としての美しく精悍な容貌を際立たせる。
(ふむ・……)
 ギルバート・デュランダルの唇から、僅かな息が洩れる。
 イザーク・ジュールをはじめ、アスラン・ザラにこのディアッカ・エルスマン――
つくづく優秀な種馬(サラブレッド)たちだ。そんな彼らがみなクルーゼ隊に配属されていたというのだから――
 ギルバートはひそかに苦笑した。
 ラウの奴め……。どこまでも抜け目ない。悪運も強かった。
 しかし、その悪運も最後には、彼を見捨ててしまったわけだが。
 そのことを考えると胸の奥が微かな痛みに疼く。
 彼は雑念を捨て、目の前の若者に改めて目を向けた。
「なるほど……」
 ギルバートはあくまで穏やかな表情を崩さなかったが、瞳だけは異様なまでに鋭い光を放っていた。
「軍規違反は承知の上です。が――」
 ディアッカは一瞬間を置いた。ゆっくりとその手が下へ滑り落ちる。
「……この時局の中、これ以上ジュール隊長を議長の私的な理由でとどめ置かれることについては、どうにも承服しかねます。ですので……」
 ――こちらには、正当な理由がある。
 そんな怒りのこもった視線がギルバートを射抜く。
「――隊長を、返して頂きに参りました」
 堂々と言ってのけた相手に、ギルバートは思わず笑い声を上げた。
「あっはは……!随分大胆だな。それほど、隊長が大事か。それも私的理由ではいのかな」
 平然と見返す瞳の奥に、からかうような光が瞬く。
 ディアッカの目の色が変わった。素早く動いた手の先に閃く鈍い鋼の光がギルバートの胸を僅かに隆起させた。
「何をする、貴様っ……!」
 周囲が騒然とさざめき立った。しかし――
「騒ぐなよっ!」
 ディアッカの怒号とギルバート・デュランダルを真っ直ぐ狙う銃口に手の出しようもなく、ひととき緊迫した空気が流れた。
「これだけ軍規違反しまくりで、今さら何したってもう怖かねーんだよ!」
 いきなり口調が変わり、険悪な視線を受けて、ギルバートは苦笑した。
「やれやれ、困ったな……」
 何とか宥めようと口を開きかけても、興奮しかかった相手は既に聞く耳も持たぬようだった。
「――イザークは、どこだ!」
 遮る言葉が切り裂くような鋭さを伴って目の前の空気を揺らした。
「イザークを、返せよ!」
 同時にかちっと耳障りな音がした。
 ディアッカの銃を持つ手に力がこもる。
 ギルバートは眉を上げた。
(本気か……?)
 彼は舌打ちをした。これ以上、あまり面倒な方向へ事を運びたくはなかった。それでなくとも、既に計画は破綻しかかっているというのに。
 しかし……。
 それも、仕方がないことなのかもしれない。
(全く、どうして、どいつもこいつも……)
 彼は軽く嘆息した。
 そもそも頼りにしていたハイネ・ヴェステンフルスがあれほど、イザークにのめりこんでしまうなどと、誰に想像できただろう。
 もっとも、自分も人のことを言える身ではないわけだが。
 そうだな。
 元を正せば、イザーク・ジュールをターゲットに選んだこと自体が過ちだったのかもしれない。
 彼は……他に影響を与えすぎる。彼の中に、狂おしいほど人の欲望を刺戟する何かが……存在するのか。
 なぜなのか。わからない。
 ギルバートは深い息を吐いた。
 ――取り敢えず、この馬鹿を何とかせねばなるまい。
 彼は相手を制するように手を上げた。
「――待て。私を殺せば、イザークも無事では済まなくなる」
「………………?」
 ディアッカの動きが固まった。
 今の議長の言葉の意図するところがわからない。
「どういう……ことだよ」
 訝し気に首を傾げながらも、ギルバート・デュランダルの酷薄な表情を見るにつけ、ふと嫌な想像が頭の中を駆け巡った。
 その顔色がみるみるうちに蒼白と化す。
 急にディアッカは激しい不安に駆り立てられた。胸が漣のようにざわめく。
「あんた……イザークに、何を――」
「――彼を解き放てるのは、私しかいない」
 にやりと笑うその氷のような笑みが、ディアッカの背をぞくりと震わせる。
(……な……んだよ……。この人は……!)
 一体、何をしたっていうんだ。
 イザークを……?
「一緒に来たまえ。君自身の目で見ればわかる」
 ギルバートはそう言い放った。
 それはほぼ命令に近い口調だった。
 ディアッカの銃を持つ手が自然に下がっていく。
「……って、どこへ……?……何を……?」
 口を突いて出る短く力のない問いは、相手の耳には届いてはいなかった。
 ディアッカの銃口が逸れたのを見て、ギルバートは全身の力を緩めた。
 二人の間に飛び込んでこようとした周囲の男たちを目で制し、彼は余裕のある歩調で、ゆったりと相手の方へ歩み寄った。
 愕然とした様子の相手の肩に軽く手を触れると、わざとらしいほどの穏やかな微笑を向ける。
「……もっとも、それまで彼が無事でいればの話だがね」
 ぴくんと相手の肩先が揺れるのを、触れた指先が感じると、彼の顔にはさらに満足げな微笑が広がった。
 ――迷っている時間はないぞ。
 ――どうする?
 相手の動揺するさまを楽しむかのように。
 自分の操る言葉が人の心を弄ぶことを、こんなによく知っている人間もいないように思われた。
 
 
 心臓の鼓動が弱まっている。
 だんだん、体からぬくもりが消えていく。
「――イザークっ!……イザーク―っ……!」
 大声でその名を呼ぶハイネを前に、アスランはただ茫然と居すくんでいた。
 ちらとそれへ目をやると、ハイネは途端に険しい表情になった。
「おいっ、おまえっ!何してる?」
「……あ……えっ?」
 ハイネにいきなり怒鳴られて、アスランはびくんと体を揺るがせた。
「ぼーっとしてんじゃねーよ!呼びかけるなり、体揺するなり何かしろってんだよ!」
 ハイネは必死だった。
 自分でも、わかっている。
 そんなことをしても、どうなるものでもないだろうということは。
 それでも、何かせずにはいられない。
 このまま、黙って見ていろというのか。こいつの魂が、遠い場所へ行ってしまうのを、ただ、黙って眺めていなければならないのか。
 そんなこと……
(できるわけ、ねーだろうがっ!)
 くそっ!と拳を固める。ぎりぎりと歯を喰いしばる。
 嫌だ。黙ってこのまま、むざむざと……。
 何か、しなければ。……何か、できることがある筈だ。
 でないと――
 震える唇を抑えながら、口を開き、怒鳴りつける。
「――でないと、本当にこいつは行っちまう!行っちまうだろうがっ!おまえには、それがわかんねーのかっ!馬鹿野郎っ!」
 アスランはうっと言葉を詰まらせた。
 胸の奥から込み上がってくるさまざまな感情を全て飲み込むように一瞬その瞳を閉ざす。
 ――そんな……こと……っ……おまえなんかに言われなくても、わかってる……!
 怒りが潮のように押し寄せる。
 どこへ向ければよいのかわからぬ、怒りと悲しみの波が。
「俺に、どうしろと言うんだ……」
 瞼を上げたアスランの燃えるような眼差しの強さに、ハイネはいったん怯んだ。
「………………」
 彼は言葉を失った。
 その翡翠の瞳の奥から沸き立つ燃えるような激しい感情の渦に呑まれそうになって。
(……何だ……こいつ……っ……?)
 自分の思いがこいつより下だなんて、絶対に認めたくはない。
 絶対に……
 俺だって、こいつに負けないくらい、イザークを……!
 心が虚しく叫ぶ。
 ――なのに……っ……!
 苦しい。
 何だ、このきりきりと刺すような鋭い胸の痛みは。
 アスラン・ザラ……。
 おまえは、イザークの、何だというんだ?
 黙り込むハイネの前で、アスランはやにわにイザークの体を持ち上げ、立ち上がった。まるで重さを感じさせぬような抱き上げ方だった。
(……あ……っ……?)
 虚を突かれたハイネは、愕然とその場に膝をついた。
 一瞬前までイザークに触れていたハイネの手が空を掴む。
 ――イザー……ク……?
(……イザークを……?)
 さっきから目の前で起こっていることが、急に何もかも信じがたい光景のように思えた。
 冷たくなっていくイザークの体。
 儚く、脆く……こんなにも弱い存在だったなんて。
 そして、そんな彼をアスラン・ザラが攫っていく。
 どこか……自分の手の届かぬところへ……。
 そう思った瞬間、はっと彼は我に返った。
 ――冗談じゃない!
 全身を駆け巡る憤りが彼を突き動かす。
「……待てよっ!」
 ハイネは叫ぶなり、慌てて身を起こした。
 アスランの前に回りこみ、行く手を塞ぐように、立ちはだかる。
「……どこへ行く?」
 ハイネは相手を睨みつけた。
「おまえには、関係ない」
 アスランも冷えた瞳で睨み返す。
「……関係なくはないっ!」
 ハイネは叫んだ。
 自分でもおかしくなるくらい、全身がかっと熱く燃え立っている。
 ――取られて、たまるか!
 イザークを……
「イザークは、おまえだけのものじゃねえだろうがっ!」
 ――そうさ。おまえだけのものじゃない。
 そう吐き出しながら、ハイネは両手が痺れるくらい強く拳を握り締めていた。
「勝手に連れてくんじゃ、ねーよっ!」
「――おまえの指図は受けない!」
 激しい言葉を交わしながら、ハイネとアスランは対峙し、しばし睨み合った。
 どちらも一歩たりとも引く気配を見せない。
 似ているようで異なる色を映す翠の瞳が激しい勢いでぶつかり合う。
 険悪な沈黙が続く中で――
「……さむ……い……」
 弱々しく、今にも消え入りそうな声が、冷たい夜気を微かに震わせ、睨み合っていた二人は同時にはっと意識をそちらへ向けた。
 うっすらと開いていた青い瞳が微かに瞬く。
 苦しげな息を洩らす唇。
 呼吸が……戻っている。

 僅かな生命の灯。しかし、まだ消えてはいない。
「……き……さま……ら……っ……」
 弱いながらも、その怒ったような声音は、いつものイザークの口調と変わりなかった。
「……くだらん……言い合いを、しやがって……っ……」
 途切れがちな声が、続ける。
「……そんな……ことを……している暇があれば……この体を……何とか……あたためる……方法を……考えてみろ……バカども……が……ッ……!」
 そんな風に文句めいた言葉を投げつけながらも、イザークの意識は実際には半分以上、現実から遠のいていた。
 二人の声もどこか遠くから微かに聞こえてくる程度で、自分が夢をみているのか何なのかはっきりわからない。
 ただ、体が恐ろしく冷たい……その感覚だけが、はっきりとわかる。
 全身が震えて仕方がない。凍りつくような寒さが、同時に恐怖心をも生み出す。
 自分が滑り込んでいこうとする空間は、あまりにも暗くて深く、凍りつくような冷たさに満ちていて――沈んだら最後、二度と浮かび上がってこれなくなることは明らかだった。
 ――寒いんだ……。
 こんなにも、寒くて暗い。
 どこにいる……?
 もう、視界にも映らない。
 あまりに、暗くて……。
 バカ……。
 バカども……!
 俺をこんなところに放っておくつもりか。
 何とか……しろよ。くそっ……。
 冷えていく体。
 肉体も、精神(こころ)も、どんどん……冷えていく……。
 怖い。
 俺は……このまま、死ぬのか……?
 ――死んでもいい。
 そんな風に思いもした。
 それでもいい、などと。
 でも……実際に、死を目の前にすると、こんなに竦んでしまうなんて。
 怖い。怖くて、たまらない。
 本当は、俺はまだ……この世界から出て行きたくないのだろう。
 まだ……俺はここにいたい。いたいのに……。
「……さむい……」
 体ががくがくと小刻みに痙攣し始める。
 誰か……。誰でもいい。
 ――俺を、抱いてくれ。
 強く、暖かいその手で……抱いてくれよ。
 どこへも行かないように。
 おまえたちの、そのぬくもりを、俺に分けてくれ。
「イザーク……!」
 戸惑うアスランを前に、ハイネがいち早く身を近づけ、その唇にそっとくちづけた。
 舌を差し込み、優しく絡め合わせながら……。
 相手の舌が動きを示すのを感じた。
(………………)
 ハイネは力を得たように、ひくつく相手の舌をやんわりと己の舌で転がし、唾液で濡らしつつ自分の方へきつく吸い寄せた。
 その唐突な行為をすぐ目の先で捉えながらも、アスランはなぜか、それを阻もうとはしなかった。
 彼は腕に力を込めながら、視界を横切る鮮やかなオレンジの髪の色をただじっと眺めていた。
 数瞬の間を置いて、唇が離れる。
 ハイネは乱れた呼吸のまま、呆けたように後退った。
(俺……今、何を……)
 正気とも思えない。
 一瞬の衝動が、彼を動かした。
 口の中に、感応する相手の舌の感触やその緩やかな動きがまだ生々しく残っている。
 アスランがハイネを見た。
 視線に誘われるように再び傍へにじり寄る。
 言葉を交わさぬまま、二人でイザークをそっと地面に下ろした。
「……まだ、取り戻せる」
 そう呟くとアスランは上着を脱ぎ捨て、シャツも脱いだ。露わになった上半身が躊躇うことなくイザークの上に覆いかぶさっていく。
 肌と肌が接触し、イザークの胸を這うアスランの濡れた唇はそのまま下肢へと移動した。
 ――おまえは……まだ、ここにいる……。
 この手の中に……。
 ぴくん、と体が震えた。
 ハイネがその撓る体を背後から強く抱きしめる。
 白い項にそっとくちづけを落とした。
「……そうだ。まだ……」
 耳を舌で撫で上げながら、同じように囁く。
 イザークの意識は、まだどこかでこの甘い息吹を感じているのだろうか。 もどかしい指先が自らの衣服を剥ぎ取る。ほんの僅かな体の動きや撓り具合を敏感に察知して、さらに肌を密着させる。
 おまえは、まだ生きている。
 おまえを、ここに留めるもの。それは――何だ?
 俺たちのこの思いが、おまえをここに留めているのだと……そう自惚れてもよいのなら――
 おまえのためなら、何だってしてやる。
 そうさ、何だって……。

「イザーク……」
 背後から回した手で、そっと顎を掴む。
 こちらを向かせようと僅かに力を入れると、傾いだ頭の向こうで睫毛がぴくんと揺れた。
(……誰だよ、おまえ……)
 イザークの霞む視界には、何も映らない。
 ただ、ほんの少しだけ、凍てつく体をやんわりと融かすように、体の中心から心地よい熱がじわりと広がる気配を感じた。
 これは、何だろう。
 ハイネなのか……。
 それとも、アスラン……?
 ――俺に、何をしている……?
(は……あっ……)
 唇が開き、吐息を洩らしてはまた閉じる。
 下肢が、熱い。
 激しくせり上がってくる熱の潮が、彼を少しずつ霞がかった夢の世界から現実へと引き戻す。
 ――イザーク……!
 アスラン……。見下ろす瞳の先に、普段は静かな翡翠の色が激しい感情の焔を燃え滾らせている。
 目を合わせた途端、自分自身が焼き焦がされていくかのような錯覚にさえ陥った。
 同時に、後ろからしがみつくもう一つの体からも、燃えるような激しい熱の放射を直に感じ、肌がびりびりと震えた。
「……おまえを、行かせやしない」
 熱い吐息とともに吐き出される言葉が、鼓膜を震わせていく。
 
 ――イザーク……愛している……
 
 肉体を捉えることによって、その魂まで引き留めようとするかのように、二人は自らの感情のすべてを注ぎ込んで、イザークの体を狂おしく愛撫し続けた。
 

                                          (To be continued...)

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