The Deprived (20) 舌が耳を舐めるその生々しい、濡れた感触に、 ――あ…… びくん、と跳ね上がろうとする体を、背後から優しく押さえ込まれた。 定まらぬ視点の先にいる誰か。 おまえは…… ――だ……れ…… 開きかけた唇は瞬く間に塞がれた。 とくん、とくんと再び力強く動き始めた自分自身の心臓の鼓動が、はっきりと感じられる。 薄れかけていた意識が、戻ってこようとしている。 ――俺は……まだ、ここにいる……。 この強い腕に抱かれて。 魂を強く揺すぶるようなこの強い思いが、自分を呼び戻す。 まだ、行ってはいけない。 ――行くな、と。 痙攣する体を、宥めるように押さえるその両の手から伝わるぬくもりが、彼をここに引き留める全てだった。 (あたたかい……) 自分はまだ、ここに繋がれている。 まだ……自分には存在理由が残されている。 ……嫌だ。俺は、まだここから離れたくない。 自分を愛してくれる者のいる、この世界から……。 そして、自分も……愛しているのだ。 こいつらを。こいつらの存在する、この世界そのものを。 だがその一方で…… 暗い思いが陰を差した。 再び、この世界に舞い戻れば、俺は……。 この狂った脳は、もはや俺自身には抑制できそうにない……。 (……だ……めだ……っ……) 必死で相手の唇を離そうとする。 「……お……れ……」 離れようとするその唇の先を、それでもまだ相手のそれに触れ合わせながら、苦痛に震える声が微かな音を引き出す。 ――俺は……おまえ……を…… 「……こ……ろして……」 音をなさぬ、そんな掠れた声が、引きつる唇からぽつりと零れ落ちた。 ――殺して、しまう…… 「――いいさ」 アスランは、答えた。 それでも、俺はおまえをこのまま抱き続けていたいんだ。 おまえと地獄の底に堕ちても、構うものか。 ――そう。たとえ、おまえに殺されたって……。 「俺も、だ」 ハイネがそっと背後から囁いた。 熱い吐息が首筋に触れる。 ――こんなに、おまえのこと……。 ただ、愛しさが溢れて、この体を抱きしめて、抱きしめて……触れているだけで、こんなにも胸が熱く疼く。 (……ハイネ……) おまえの唇がもう一度俺の名を呼ぶのを、俺はこんなにも切ない気持ちで待っている。 「……見苦しいな」 不意に、冷たい声が響いた。 少し距離を置いた場所から、抱き合う彼らに氷のような視線を投げつけるレイ・ザ・バレルがいた。 嘲笑する唇が微かに歪み、その腕がゆらりと動いたかと思うと、持ち上がった手の先に、鋼の硬質な光がきらりと閃いた。 (なぜ、そんなにも執着する?こんな世界に――) ――この世界は、もう長くはない。 冷たい笑みが零れる。 そうだ…… こんな愚かな世界は、いつか必ず崩壊するだろう。 今踏みしめているその地面がいかに脆く、頼りないものか。 それがまだわからないというのか。 おまえたち人間は、どれだけ愚かな生き物なのだ。 (……それとも、他の手によって終止符を打たれぬ限り、おまえたちはそのようにしていつまでも愚かな過ちを繰り返し続けるのか) ならば……。 いいだろう。 この俺が、終止符(ピリオド)を打ってやる。 おまえたちの罪業の全てを背負ってこの世にかくも残酷な生を受けた―― 「……この俺の手で、全て終わらせてやる」 鋼のような無機質な声が、躊躇いもなく言い放った。 かちり、と金属が擦れ合う音が響く。 その手に握られた銃口が絡み合う3人の間を行き来し、やがて真っ直ぐにイザークの頭に狙いを定めた。 ゲージレベルを一気に上げる。 ――殺してやる。 その冷えた青い瞳の中には、今や明らかに殺意に溢れた憎々しげな光が閃いていた。 イザーク個人に対する憎しみ……というよりも、むしろそれはこの世に存在する全ての人間に向けられた彼の暗く根深い呪詛の念とでも言った方がよかっただろう。 こんな呪われた存在を生み出した者たちに対する憎悪と怨念の情が胸の中で激しく渦を巻く……。 「――殺して、やる」 唸るように、低く呟く。 イザークの瞳が突然、大きく見開かれた。 薄氷の瞳の中に映る敵意ある影。 (……あ……っ!) 覚醒する意識。 ただ、危険を直感する本能のみが、彼の四肢を動かした。 「……離れろ……ッ……!」 無我夢中で二人の腕を押しのけると、一瞬で息を吹き返した体が敏捷に起ち上がり、ふわりと宙に飛ぶ。 一瞬の出来事に、アスランもハイネも完全に虚を突かれた。 呆然とするその目の前から、白い肢体が離れていく。 天使が、羽を伸ばし天上へ舞い上がるかのように……。 「……イザ――」 すり抜けていくものを取り戻そうと、同時に腕を伸ばす。 しかし、間に合わない。 「……ちっ!」 レイは軽く舌打ちをすると、銃口を逃げていく裸体へと動かした。 レイの指先が、今にも引き金を引こうとする。 「……やめろ――っ!」 手を伸ばしたまま、ハイネが大声で叫ぶ。 悲鳴に近かった。 しかし、まだ痺れの残る体は自由がきかない。 ――イザークっ! (撃つな――っ!) 「――レイ!」 突然背後からかけられた強い制止の声に、レイの全身がびくんと激しく反応した。指先が震え、銃口が揺れる。 その、声。 聞き違えようもない。 (ギ……ル……?) 動揺し、狙いを外した銃口から飛び出した光線が矢のように駆け、数メートル先のイザークの体の淵をすれすれに掠めていった。 しかし、標的を逃したことも、もはや今のレイにはどうでもよいことだった。 「ギル……」 振り向いたレイの不安げな視線が彷徨う先に、その人の姿があった。 自分にとって唯一の存在。ただひとつの縋るよすがである、その人が。 見つめる瞳が、今にも泣き出しそうに揺れていた。 ギルバートはそんなレイを宥めるように、静かな笑みを浮かべて佇んでいた。 「――おまえは、そんなことをしなくてもいいのだよ。だから、銃を放しなさい」 その言葉を聞くと同時に、レイの手からあっさりとこぼれ落ちた銃が地面にぶつかり、鈍い音を立てて転がっていった。 「イザーク!」 ギルバートの後ろから、不意に金髪の頭が飛び出した。 遠目ながら、いきなり目の前に裸体で立ち尽くすイザークの姿を見て、さすがに愕然とした表情を浮かべる。 (……何……だよ……一体、何が、どうなって……?) 銃を捨てたレイ。放心した顔のイザーク。 少し離れた場所にやはり茫然とした顔のまま、身を置くアスランとハイネ・ヴェステンフルス。 そして、ここに今新たに、ギルバート・デュランダルと彼自身が加わる……。 妙な組み合わせだ。なぜ、こんな……? 全てが錯綜している。 何がどうなっているのか、ディアッカにはさっぱりわからなかった。 ただ、異常な事態になっているということだけは、わかる。 (何が、あった……?) ――それまで彼が無事でいれば…… 少し前に聞いたばかりの、議長のあの悪魔のような冷笑を含んだ声が不意に耳元に甦った。 傍らにいるギルバート・デュランダルの横顔を見たディアッカは身内を走るその凄まじい悪寒に、ぞくりと身を震わせた。 一見穏やかな瞳の奥に潜むその悪魔のような酷薄な光の瞬きに。 笑っているようで、実は全く笑ってはいない、氷のようなその冷やかな笑顔にまさしく身が竦んだ。 「……イザーク」 静かではあるがどこか強い響きを含んだその声が、イザークの全身を貫いた。 (……あ……) 自分を捉えて離さないその声の主の姿を、慄く瞳がはっきりと映していた。 闇の向こう側に、ひっそりと佇むギルバート・デュランダルの姿を。 夜の闇に溶け込むような長いぬばたまの髪に、透けるような白い肌がまるでこの世のものではないかのような、妖しく魔性めいた気配を感じさせる。 「イザーク……」 誘うように、その長い腕を伸ばす。 その瞬間、イザークは抗いきれぬ力にとうとう屈せざるをえなくなった。 頭の中が空白になる。 彼の中に存在するのは、ただその人だけ。 (……ギル……) 目が離せなくなった。 ゆっくりと体を起こす。 引かれるように、ふらりと足が前へ出た。 「――行くな」 イザークの前に、紫紺の髪の若者が立ちはだかった。 「……イザーク!」 ……アスラン・ザラ。 改めてその姿を認識した瞬間、彼は激しい衝撃に襲われた。 なぜ……。 薄氷色の瞳が、大きく見開かれる。 おまえは、なぜここにいる……? アスラン・ザラ……。 「……そこを、どけ……」 俺は、行かなければならない。 あの人のもとへ。 「――駄目だ、行くな」 アスランは動かなかった。 「……貴様……」 ――そこをどかなければ、俺はおまえを……。 (……こ……ろ……せ……) 悪魔のような囁きが、遠くからこだまする。 ――俺は、おまえを、殺してしまう。 「……どけ!」 「嫌だ」 「アスラン……っ!」 苦渋に満ちた声が呻くように喉の奥から洩れ出る。 「……イザーク」 背後から、別の手が触れる。 首筋にかかる熱い吐息に、目眩がしそうになった。 「……は……」 放せ……という言葉を最後まで言うことができなかった。 「殺したいなら、殺せばいい」 ハイネは、そう言うと笑った。イザークを抱きながら、前に佇むアスランに意味ありげな視線を送る。 瞳が合う。 アスランは何も言わなかった。 しかし、ハイネは心得たように僅かに口元を緩めた。 「――きっと、あいつもそう思ってる筈だ」 おまえになら、殺されたって構わない、と。 ハイネは目をさらにその後ろの背の高い姿に向けた。 挑むような視線が、射抜くようにただ真っ直ぐに相手に注がれる。 ――俺はもう、あなたなど怖れてはいない。 「ギル……一つだけ言っておく。あなたは、絶対にこいつを手に入れることはできない!」 ギルバートは、氷のような瞳でそれに応えた。表情は変わらない。 それでも、ハイネは構わず続けた。 「……だから、こいつを解放しろ!今すぐに……でないと――」 そこで一呼吸置くと、意を決したように彼は眼差しを強めた。 躊躇いは、ない。 「――俺があなたを、殺す」 明瞭な声が、そう宣言した。 そのとき、はっと腕の中のイザークが身じろぐのがわかった。 「ハイネ……っ」 「いいから――動くな」 そんなイザークを今度こそ離さぬように、ハイネはさらに相手の体をしっかりと腕の中に押さえ込んだ。 ギルバートをさらに睨みつけるように見る。 「俺は、本気だ」 このままあなたがイザークを放さぬつもりなら、本当に俺はあなたを……! 「ハイネ……」 アスランは驚いたようにハイネを見た。 ――本気、なのか。 プラント最高評議会議長であるこの人を相手に、こいつは本気でこんな台詞を叩きつけている。 イザークの、ためだけに。 こいつは、全てを投げ出す覚悟でいるということだ。 複雑な思いが駆け抜ける。 この僅かな期間に、こいつとイザークとの間にどんな経緯があったのだろうか。 どんな会話が交わされ、その間にどんな思いが行き来したのか窺い知れないが、それはほんのお遊びのような軽々しい程度のものでなかったことだけは確かだった。 そして、この二人がどれだけ深く、交じり合ったのか……。 恐らくは…… 羨望にも似た思いが、苦々しく胸をよぎる。 そのとき、不意にギルバートの口から微かな笑いの息が洩れたようだった。 靴音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる。 その面に冷やかな笑みが広がっていた。 「……やれやれ。これは、思ったより大変なことになったようだ」 震えながら立ちすくんでいるレイのすぐ傍までくると、その体を軽く抱き、安心させるように耳元で何かそっと囁いた。 「……ギル……っ」 その途端、レイはギルバートの胸に顔を埋めた。 必死で縋りつくように体を擦りつけてくる相手の背をあやすように優しく撫でながら、やがてふとギルバートは視線を上げた。 静かな、何かを含むような眼差しが目の前にいる三人に向けられる。 「……あまり虐めないでやって欲しいものだな。この子は普通よりずっと繊細なものでね。ちょっとしたことにもすぐに過敏に反応してしまう」 悠然とそのように言い放つギルバートに対して、ハイネは呆れたように小さく息を吐いた。 「冗談言うな!虐めたのはどっちだよ」 ――イザークをこんなにぼろぼろになるまで、辱めるような真似をしやがって……。 そう……あんたらはどちらもよく似ている。 皮肉な笑みが口元に浮かんだ。 「そいつが狂っちまったのは、あなたのせいだろう。あなたがレイを不安にさせたんだ。あなたにだって、わかっているくせに。――みんな、あなたの責任だろうが……っ!」 吐き捨てるように叫んだハイネに、ギルバートは困ったような微笑を見せた。 「……酷いことを言う」 「本当のことだ」 ハイネはたじろがなかった。 「……全てを自分の思い通りにすることができると思ったら、大間違いだ」 思い通りにならぬこともある。そして…… ――決して手に入らぬものも、ある。 どんなにあがいても、決して自分の手に入ることはない……。 それが、この人には本当にわかっているのだろうか。 いや、わかってはいない。 わかろうともしていない。 なぜなら、この人は、既に『奪われてしまった』からだ。 自分の命となるべき、なにものかを。 ……大切なものを、奪われたまま――永遠にその空白を埋められることはなく……。 (寂しい人だ) ふと、そんな哀感が彼の胸を切なく締めつける。 これ以上、この人を苦しませる必要があるのだろうか。 ふと、彼は疑問を抱いた。 ――ギル……ギルバート……。 プラントの最高権力をその手にした今も、空白となった彼の心を満たすことのできるものは、何もない。 「……何を思っている?ヴェステンフルス」 不意に、ギルバートの微笑が消えた。 相手の胸の内を見透かしたようなその瞳の奥には、恐ろしく暗い憤りが渦巻いているように見えた。 激情に駆られたように、彼の顔は見る見るうちに激しい怒りに歪んだ。 「……私を、哀れんでいるのか?」 そんな目で、見るな。 なにものも、そんな風に哀れみのこもった瞳でこの私を見ることは許さない。 (私は、何も……) 強く否定しようとしたとき、手に抱く金髪の青年が、不意に別の誰かのイメージと重なった。 別の……? それとも、同じ……。同じもの、なのか。 ギルバートは激しく動揺した。 「ギ……ル……?」 無心に見上げるその幼子のような面に、切ないくらい胸を締めつけられた。 これは……違う。 彼であって、彼ではない。 自分の求めるものでは、ないのだ。 たとえ、その体を構成するものが、同じであったとしても。 やはり、同じではない。 彼では、ない。 「……う……」 ギルバートの唇から、小さく苦悶の呻き声が洩れた。 「……ラウ……」 ……おまえは、どこへ行った……? 私をこの冷たい世界にただひとり、残したまま…… おまえは、どこへ……? 手を伸ばしても、どこにも届かない。 わかっていた。 自分がこんなにも、孤独であることが。 『奪われたもの』であることが、こんなにも辛く苦しく胸を苛む。 「ギル……」 そのとき、ふと暖かい息が頬に触れた。 生きた、人間の息吹き。 ラウであって、ラウではない。 しかし、それはこんなにも自分に思い焦がれ、その愛を欲している。 (私は、応えてやらねばならないのだろうな……) 彼の代わりにはならないが、それでも彼の命の一部がここにある。 彼のものであって、彼のものではなく……。 「……私は、何て馬鹿なんだろうな……」 ギルバートはレイを抱く手に力を込めた。 「大丈夫だよ。レイ……すまないね」 もう、おまえを不安にさせたりしない。 こうして、おまえをしっかり抱いていてやるから。 ――だから、何も心配することはないんだよ。 レイを抱きながら、彼は顔を上げ、イザークを見た。 銀色の光が網膜を焦がす。 アイスブルーの瞳の色が、心に染みる。 なぜ、こんなにも胸がさざめくのか。 ギルバートは自嘲するように、小さく息を吐いた。 しかし、おまえは私の所有するものには、ならない。 そんなことは、とっくにわかっていたことだ。 最初から、終焉は目に見えていた。 なのに…… ――私は、何を求めていたのか。 滑稽な自分の姿に、笑みが零れる。 これ以上、このような茶番劇を続ける必要はない。 わかっているのだ。 私はアスラン・ザラのために、おまえを手に入れたのではなく。 奪われたものの代償となるべき存在を、心のどこかで求めて……。 イザーク…… おまえを、この手の中に捉えたと思っていた。 しかし、そうしていつのまにか、囚われていたのは私の方だった。 そう……。 ――私は……私自身を解放するべきなのかもしれないな。 ゆえに…… 瞼を閉じ、息を潜める。 沈黙が通り過ぎた後―― ようやく開いた唇が、その言葉を静かに呟いていた。 「……liberer(おまえを、解き放つ)……」 (To be continued...) |