The Deprived (3)





 目が覚めると、ベッドに一人横たわっているのがわかった。
 静まり返った部屋。
 傍には人の気配はない。
 イザークは思わず安堵の吐息を吐いた。
(あの人はいない)
 ――恐ろしいひとときだった。
 実際にはどれくらいの時間を、あの人と共に過ごしていたのか。イザーク自身にはもはや何もわからなかった。
 そのようなことを考えるには、あまりにも肉体の痛みが強すぎて……。
 まるで人が変わったかのような猛々しさで覆いかぶさってくるギルバート・デュランダルに、心底恐怖を感じながらもその組み敷かれた強い腕の下から逃れることはできなかった。
 つまり……
 自分は議長に犯されたのだ――と思うと、イザークは心の底から震撼した。
 心から崇拝し尊敬の眼で見つめてきたあの人に……。
 あんな風に乱暴に唇を吸われ、痛いほどの愛撫を受け……そして遂には……一気に体の深奥まで侵入された。何の慈しみもない、愛の欠片も感じられぬ、ただ荒れ狂う猛獣の精液を体の中に突っ込まれたかのような不快感と苦痛のみが残った。
 一体なぜ……あの人はあんなことをしたのか。
 信じていたものが、突然ばらばらと崩れ落ちていくような虚しさを感じながら、イザークはゆっくりと体を起こそうとした。
 しかし――
 僅かに体をずらしただけで、忽ち鈍い痛みが下半身を襲う。
 あれだけ長い間、幾度も執拗に肉襞を擦られれば、痛みも残るだろう。
 途中で半分意識を失いながらも、快楽か痛みかはっきりしない感覚に呑まれ、ただ淫らな喘ぎ声を上げ続けていた自分。
 その記憶が生々しく呼び覚まされると、イザークは耐えられぬように目をきつく閉じた。
 瞼を閉じても脳裏に映し出されるその映像は決して彼の前から消え去りはしないだろうに。
(……俺……は……)
 ――どうして、こんなところに来てしまったのか。
 彼はふと、後悔に駆られた。
 プライベートな誘いだと、議長は言った。
 軍部内の命令ならいざ知らず、私事ならば、何とか理由をつけて断れた筈だ。
 それなのに、なぜ自分は……。
(……きみの瞳は母上より、青いな)
 ……いつかの、あの日。
 ミネルヴァから、ヴォルテールに乗り込んできたギルバートが何気なく呟いた言葉。
 覗きこんでくる瞳の光の鋭さに、イザークは痺れるような衝撃を感じた。
 その指先が彼の髪を撫でた一瞬の動作に、彼は驚くほど過敏に反応した。
 それだけ、だった。
 それ以上、彼は何をするわけでもなかったが、その動作、言葉、視線……それら全てがイザークをはっきりと挑発していたのだった。
 しかし、イザークは敢えて気付かない振りをした。
 そんな筈はないと自分自身に暗示をかけるかのように。
 そしてそうしたことがあまりにも楽観的観測であったことを今になって強く思い知らされた。
 ディアッカの言う通りだった。
 自分はどうも油断していたようだ。身に迫る危険に対してあまりにも鈍感すぎた。
 イザークは唇を噛みしめた。
 また、同性からこんな風に屈辱的なセックスを強要されてしまった。
 泣きたいような虚しさが胸を蝕んだ。
 ――そのとき、不意に扉が開く音が聞こえた。
 彼はびくりと緊張に身を固めた。
 拷問のようなあのひどい性行為を交わした後の今、どんな顔であの人を見ればよいのか。
 ――怖い。
 漠然とした恐怖感に、全身が竦んだ。
 だが、逃げようにも痛む体はそう簡単には言うことを聞いてくれそうにない。
 イザークは身を起こすことすらできず、ただベッドの中に力なく横たわっているしかなかった。
 足音が近づいてくると、彼は募る緊張に耐えられず、その瞳を閉じた。
 ベッドのすぐ傍まで来て、足音は止まる。
 人の気配が間近に感じられると、息すらできないような圧迫感を受けた。
 突然――
 ひやりと頬に触れたその冷たい手の感触に、イザークは思わずはっと息を吐き出した。
 反射的に瞳が開く。
 すぐ目の前にあったのは、オレンジ色の髪に囲まれた青年の端整な顔。
 あっ……!と、再び声が出そうになった。
 その鮮やかなオレンジの色に、脳内を懐かしい友の顔がフラッシュバックする。
(……ラスティ……?)
 では、ない。
 一瞬でそうとわかるほど、意識はまだしっかりと保たれていた。
 そう、明らかな別人だった。
 しかし……彼はまだ驚きに打たれていた。
 その髪のオレンジの色が、一瞬にして……彼を過去のザフトレッドの時代に引き戻した。
 自分はまだ……こんなにも、過去の記憶を引きずっている。
「……なんだ、気がついてたんだ」
 目の前の顔が、にやりと笑った。
 そうすると、気のせいかその少し悪戯っぽい笑みまで、かつての戦友とよく似ているように感じられた。
「寝たふりをしてた――わけでもないよな?」
 彼は、掛布に手をかけるとそれをめくろうとした。
「やめろ……っ……!」
 イザークはすかさず相手の手から掛布を引っ張り、そうさせまいとした。
 布を取り上げられれば、その下にある一糸纏わぬ姿が露わとなってしまう。
 羞恥が彼の全身を熱くさせた。
「……何だよ、ひょっとして、恥ずかしがってんの?」
 くすりと笑うと、彼は大仰に肩を竦めてみせた。どこか芝居がかったその仕草が、イザークには気に入らなかった。
 彼が顔を露骨にしかめるのを気にもせずに、
「今さら隠すようなもんでもないだろうが。俺は、議長――ギルから言われてきたんだからな。あんたとあの人が何をしてたかなんて、とっくに承知済みなんだ」
 そう言うと、さっと掛布を取り上げて、一気にめくり上げる。
 その動作はあまりにも素早く、あっと気付いたときには、既にイザークは驚いたように目を見開いたまま、ベッドの上でその裸体を相手の目の前に晒していた。
 彼の全裸の体を見て、青年の目が僅かに瞬いた。
(これは……)
 体の美しさよりも、何よりも先に、そのおぞましい刻印に目がいった。
 全身につけられた赤い所有の印。
 濡れた下半身が情事の後の生々しさを曝け出す。
(……凄いな、これは……)
 ふと青年の瞳が曇る。
 これは、愛撫の跡ではない。
 これは……
 まさしく、『拷問』の跡だ。
 この跡を見ると、先程までこの二人の間で行われた行為がいかに一方的で荒々しく、強引なものだったかがよくわかる。
(こりゃ、殆ど強姦に近かったんじゃ……)
 複雑な気分のまま、彼はそっと手を伸ばして相手の体に触れた。その胸に触れ、そしてそのまま下半身へと撫で下ろすように手のひらを滑らせていった。
 肌を撫でるその感触が少なからず自分に刺戟を与える。
(何て――)
 滑らかな感触なのか。
 そのあまりの白さ、艶やかさに、一瞬どきりとする。
 まるで……女を抱いているような錯覚にすら陥りそうで。
 ――これが、あの人を狂わせたのか。
 ただ……なぜ、そこまで――という疑問は残る。
 自分なら……こんなに美しい獣に酷いことはできない。
 ふとそんなことを考えて、彼はふっと唇を緩めた。
 自分はなぜこんなことを考えている?
 自分もどうやら、この目の前に横たわる魔性の生き物に少々惑わされかけているのか。
「……ったく、あんたって……いやらしい体してるんだな。こうしてると何か俺まであんたを抱きたくなってくる。なあ――ジュール隊長」
 からかうように付け加えると、相手が鋭く反応するのがわかった。
「こんなところで、肩書きを言うのは、ルール違反だろうが……!」
 青い瞳がじろりと睨みつけてくる。
 その燃えるような激しい光を覗き見て、彼はまた不思議な感覚に捉われた。
「あっ……と、悪い。そうだよな。ここは、プライベートな空間なわけだし」
 にやりと笑う。
 面白い奴だ。打たれっ放しというわけでもないらしい。
 綺麗な顔をしているが、相当なじゃじゃ馬のようだ。
「……あんたの面倒見るように言われてきたけど、なあーんか、ほんとに妙な気になってきそうだ……」
 その手が陰茎に触れそうになったとき、
「……触るな……ッ……!」
 その手から逃れようと、身じろぎしたイザークは途端に軽く呻いた。
 下半身から上ってくる強い痛みが、全身を突き刺すようだった。
 目の前の青年の手の動きがふと止まる。
 彼は痛がるイザークを見て、眉をひそめた。
「だいぶ、ひどそうだな。大丈夫か?……自分で体、起こせないのか?」
 手伝ってやろうか、とその肩を軽く抱いた。
 意外にも相手は素直に体を傾けた。
 ゆっくりと抱えながら、体を起こしてやる。
「……つ……ッ……!」
 イザークは呻きながら、彼にしがみついた。
 しがみつかれながら、彼は相手の局部に指を差し込んだ。
「……………!」
 イザークが抗うまでに、既に指はぬるりと肉襞を触ってその傷つき具合を確かめていた。
 白い白濁した精液と血が、突き出した指先にべったりとこびりついている。
「……だいぶ、中が傷ついてるな。取り敢えず、少しでも体動かせるなら、シャワー室へ連れて行ってやる。俺が処理を手伝ってやるから」
「……手伝いなどいらん。……自分で……ッ……!」
 そう言いながらも、イザークは一歩足をベッドから出した瞬間によろめいた。
 歩こうとすると中に痛みが走る。
「くっ……」
「ムリすんなよ。俺につかまれ」
 ふわりと体が浮き上がった。
 抱き上げられたとわかると、イザークは少し抵抗を示した。このようなことをされるのは初めてではないが、やはり自分の中のプライドがすんなりと受け容れることを拒む。
「……くそっ……一人で……」
「いいから、黙ってろ」
 顔を赤くするイザークを面白げに見ながら、彼は強い語調で一蹴した。
 シャワー室へ入ると、壁に手を突いて立たせたまま、ぬるめの湯をかけ、中を優しくかき出してやる。
 イザークは痛みを堪えるのに必死で既に何も言わずにされるがままおとなしく従っていた。
 体を洗ってやりながら、ふと抱きつきたい衝動が何度も襲うのを彼は何とか自制心で抑えた。
(……ったく、冗談じゃねーな。俺までおかしくなっちまいそうな……)
 なぜか彼を見ていると不思議な気分になる。
 水滴が銀色の髪を濡らすと、滴がはねてきらきらと髪の色を眩しく反射させた。
 本当に、美しい。
 何だかこの世のものとは別世界で生きている不思議な生き物を見ているようだった。
 おそらく、白い軍服を身につけた彼を見ていれば、さほど感じることもなかったのだろうが、このように全裸姿を先に目に入れてしまうとどうもいけない。
 これから先も『ジュール隊長』を見るたびに余計な映像を脳裏に描いてしまいそうだ。
 彼は、そんな自分が滑稽に思えて、くすりと忍び笑いを洩らした。
(……ギルも、人が悪い)
 こんな役をわざわざ自分にやらせるとは。
 ギルとは、一度しか寝ていない。
 後にも先にも一度きり。
 共に傍にいるには心地良いパートナーだが、残念ながらセックスの相性だけは合わなかったようだ。
 もともと自分は男性相手にはさほど欲情を感じない。
 だから、ギルとはその一度の交わりだけで、互いに了解した。
 しかし、今……。
 こんなに同性に欲望を感じるのは、初めてかもしれない。
 だからと言って、今彼を抱いてしまうわけにはいかないが。それでも……ふと気を緩めれば、自制心が効かなくなってしまいそうで、怖かった。
 ギルの奴……。
(俺なら、大丈夫だとでも思ったか)
 だとしたら、彼の誤算だ。
 自分は既にこの生き物に魅入られ始めている。
 不意に手が止まり、彼は後ろから相手に抱きついた。
 シャワー栓を止めることもせぬままに、彼はただ驚く相手の濡れた体を後ろから愛撫した。
「……あ……ッ……!」
 イザークの唇が新たなる刺戟に、震えた。
(なにを……ッ……)
 陰茎を触る指先の動きに、そして上から一定の強さで打ちつけてくる水の粒子の触感に……。
 思わず乱れた喘ぎを洩らし、彼ははっと喉を押さえた。
「……やめ……」
 言葉はしかし、続かなかった。
 ずずっと体が壁に押しつけられていく。
 弱った体が床へ落ちていきながら、相手の強い腕の中に自然にしなだれかかっていくのがわかった。
「……貴様……なにを……ッ……」
 こぼれる言葉も弱々しい。
 また、犯されるのか……と、思うと惨めさが押し寄せた。しかし逃げようとする気力もなくなっていた。
「い……やだ……っ……」
 悲痛な声が迸る。
 痛む下半身が、今にも悲鳴を上げようとする。
(たすけ……)
 助けを求めるその声が届くべき相手は、遠く離れた場所にいる。到底手の届かぬ地に……。
 自分は、なぜこんなところにいる……?
 イザークは後悔した。
 なぜ、こんなところに……。
 たったひとり……。
 こんな……。
(ディアッカ……)
 そして――
 ――アス……ラ……ン……
 その名が胸に浮かぶと……
 もう、我慢できなくなった。
 自ずと涙がこぼれる。
 水滴と交じり合いながら、頬を流れる涙の滴がふと彼の目に入った。
 その瞬間――
 彼は相手を抱く手を緩めた。
 何かが、彼をとどめた。
(……ダメだ。こいつを今抱いては……)
 一気に気分が萎えた。
 欲情がおさまると、彼は我に返った。
 自分の今しようとしていたことを想像して、恥じ入りながら、床に蹲る相手の体を静かに引き起こした。
 自分も既にずぶ濡れだったが、そんなことも全く気にならないほど、意識はずっと相手だけに集中していた。
「すまん。つい……」
 ようやく、湯を止めた。
 ぽたり。……最後の滴がイザークの銀の髪を濡らすのを見ながら、彼はふっと息を吐いた。
 ――自制心……か。
 ギルが今、こんな俺の姿を見たら何と言うだろうか。
「悪かったな。もう、変なことはしないから」
 優しく相手の体を引き寄せる。
 相手は何も言わずにただ俯いていた。
 自分の顔を相手に見られるのが嫌だとでもいうかのように。
 そのとき、不意に気付いた。
 まだ、名前すら名乗っていないということに。
 今さら改めて言うのも妙な気がしたが、自分の名を知ってもらいたかった。
(名無しじゃ、嫌だもんな。やっぱ……)
 体を拭いて、ベッドへ戻したときにさりげなく、そっと耳元で囁いてみようか。
 ――俺の名は……『ハイネ・ヴェステンフルス』だと。

                                          (To be continued...)


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