The Deprived (4)





「おい、何やってる?」
 扉を開けて入って来るなり、身支度を整えているイザークの姿を認めて、ハイネ・ヴェステンフルスは露骨に眉をひそめた。
「見た通りだ」
 イザークはハイネに顔を向けることすらせずにぶっきらぼうに答えた。
「いつまでも、こんなところにいるわけにはいかないからな。……帰らせてもらう」
「……って、あのなあ――」
 ――自分の立場、わかってんの?
 と思わず言いたくなったが――
 相手の手元に目を止めると、開きかけた口は続く言葉を音もなく飲み込んだ。
 その指が胸の谷間を縫うように、白いシャツのボタンをとめていく一つ一つの仕草がなぜか急速に自分の中の鼓動を高める。
(……え……っ……?)
 自分でもなぜかはわからない。わからないが……。
 いつのまにか、どきっとするほど異様に興奮している自分自身に気付く。
 ――衝動……ってヤツか……?
 半分残っている理性は、さかんに警告を放つ。
 ダメだ。関わるな、と。
 この不思議な生き物に傾いていく心に、歯止めをかけようとして……。
 しかし、その一方うずうずする衝動を鎮めるすべもなく。
 やばいな、と危機感を抱きながらも、現にこうして相手の一挙手一投足から目を離せないでいる。
 ごくり、と唾を飲み込んでから、何気ない風を装って口を開く。
「……あのなあ、言っておくが、今の自分の立場って、そういうこと勝手に決められないわけ。わかる?」
 ――あんたの『主人』はギルだ。
 この邸内に足を踏み入れたその瞬間から……あんたは既にギルの手の中に捉えられている。
 抜け出すことができぬほど、深く……。
 ギルは、ちょっとやそっとではあんたを放さないだろう。
 あんなに偏執的なギルの眼を見たのは初めてだ。
 ハイネは息を吐いた。
(そういうこと、ほんとにわかってんのか?)
 ギルにあんな風に抱かれたら、普通そんなに落ち着いてはいられないだろう。
 まあよく、そんなに平然としていられるものだ。
 ハイネは呆れたように眼を見開いて、相手をまじまじと見詰めた。
 イザークはそんなハイネの視線に気付くと、きっと睨みつけた。
「何だ?何が言いたい?」
 つくづく勝気な『お嬢さん』だ。しかも、かなり温室育ちらしい。
 ハイネは唇の端を緩めた。
「……だから、まだここからは出られないんだって」
 彼は宥めるように言うと、相手に向かってゆっくりと歩を進めた。
「冗談じゃない!」
 相手の言葉を聞いて、イザークは内心ぞっとした。
 『出られない』……?
 誰が、一体何の権利があってそんなことを。
 ――いや、その答えはわかっている。しかし、敢えてそうだと認めることを心のどこかで拒まずにはいられない。
 そのためにも一刻も早くここを離れ、あの悪夢の一幕を忘れ去ってしまいたかった。
「俺は帰る!帰らせてもらう!」
 イザークは叩きつけるようにそう怒鳴ると、扉に向かって突進していった。
 驚くハイネを押しのけ、扉の前までたどり着くと、扉のノブに手をかける。
 とそのとき、反対側からの力を受けてノブが急速に回転し、扉が唐突に開いた。
「……………!」
 開いた扉の前に現れたのは、ギルバート・デュランダルの姿だった。
 イザークの瞳が大きく見開かれた。
 彼の体は扉の敷居の前で、一瞬凍りついた。
(……ぎ……議長……?)
 忽ち、全身が刻みつけられたばかりの例の記憶に怯え、震えた。
 しかし彼は敢えてその恐怖感を抑え、何でもない振りをしようと努めた。青い瞳を挑むように相手から向かってくる視線に合わせる。
 そんな健気な抵抗に、ギルバートの目がふとそばめられた。
「どうしたんだね?イザーク」
 まろやかな声が、からかうようにイザークの鼓膜を震わせた。
「なぜ、こんなところに立っている?」
 柔らかでいて、しかしどこか相手を威嚇するような響きをも帯びたその独特の響きに、イザークは返答もできぬまま、その場に立ち竦んだ。
 背をひやりとした感触が通り過ぎていく。
「……申し訳……ありませんが、自分はこれで帰らせて……頂きます。……その……いつまでも、このように隊を離れているわけにも……まいりませんので……」
 それだけ言うのに、何度も途中言葉を詰まらせた。
「ですから……」
 彼は自らを鼓舞するかのようにきっと瞳を強め、ギルバートを睨みつけるように見た。
「……これで、失礼して――」
「用件がまだ済んでいないのにかね」
 ギルバートが不意に割り入った。瞳がきらりと鋭い光を瞬かせる。
「それは、困るな」
「……用件……?」
 イザークは怒ったように問い返した。
 彼の中で一気に何かが弾けたように、青い瞳が激しく燃え立った。その瞬間、彼は恐怖心を完全に振り払った。
 ――何が用件だ……!
 相手が数時間前に自分にした行為を思い起こすと、恐怖より先に不条理な扱いを受けたことに対する怒りが先行した。
 ――そうだ、自分は相手に対して怒る権利がある。
 個人的に呼び出され、のこのこと出向いた自分も愚かだったが、この人が自分にした行為は決して許されるものではない。
 信頼は完全に裏切られた。
 あのように……。
 薬を飲まされ意識を失わせた挙句、あれだけひどいセックスを強要され……。
 今も下半身を苛むこの鈍い痛み。
 なぜ、あんなことをされねばならなかったのか。
 この人にそんな権限は何もなかったはずだ。
 それが、まだ『用件』などと言うか……?
 一体どういう神経をしている?
「……とにかく、これ以上あなたの気まぐれに付き合うつもりはない……!」
 そう突っぱねようとしたイザークの腕を、ギルバートの手がいきなり掴んだ。
 爪が食い込むような鋭い痛みを伴うその冷えた感触は、どことなく無言の脅しを含んでいるようであり――
 忽ち、イザークは軽いパニックに陥った。
「……は……なせ……っ……!」
 相手がギルバート・デュランダルであるということも、自分が相手にとってどういう立場にいるのかということも……全ての事実が抜け落ち、その瞬間、頭の中が真っ白になった。
 ただ、恐怖だけが彼の心を支配していた。
 自分に危害を与えようとするものから必死で逃れようとするかのように、彼は掴まれた手を思いきり強く振り払った。
 それを見たハイネはあっと声を上げそうになった。
 ――大胆なことをする……!
 手を振り払われたその瞬間、ギルの瞳の奥に怒りの焔が閃くのを、彼は確かに見てとった。
 無論一見しただけでは、そのような感情の動きを見てとることは不可能だっただろう。その冷静な面からは想像しようもない、ほんの僅かな感情の発露だった。
 しかし、ハイネ・ヴェステンフルスの鋭い瞳はそれを見逃さなかった。
(……怒らせちまったな……)
 そう、確信した。
 と同時に、困惑と不安が胸をよぎった。
 ――やばい。
 直感で、危険の匂いを嗅ぎ取った。
 既に周囲に嫌な空気が漂い始めている。
「………………」
 無言のまま、錐のような視線を向けるギルバート・デュランダルの片手がすっと上がったかと思うと、イザークの目の前でそれは鋭い刃に変化した。
 びしっ!……と斜め上から振り上げられた手の刃が彼の頬を鋭角に打ちつける。思いがけぬその衝撃に声一つ上げることなく、イザークの体は床に弾け飛んだ。
「……っ……!」
 顔全体がじんじんと痛む。唇が切れ、口角から血が滲み出ていた。
 どうしようもなく震える体。
「……あ……っ……」
 彼はただ、本能的に迫りくる危険から逃れようと、狂ったように床を這い出した。
そんな彼の体の動きを止めようとするかのように、背後からギルバートの体がのしかかってくるのがわかった。
(いやだ……っ……!)
 激しい嫌悪感が胸に満ちる。
 ――いやだ。
 また、あんな風に抱かれるのだけは……!
 まだ痛みの残る下半身を庇うかのように、彼は相手の体から逃れようと必死でもがいた。
 しかし床に押さえつけられた体は、もがけばもがくほど床に擦れて痛みを増すだけだった。
 抗おうとする彼の両腕を一気に背後に捩り上げ、動かせぬように固定すると、ギルバートの手は容赦なくその着衣を剥ぎ取っていった。イザークはなおも体を捩って背後へ恨めしげな視線を送ったが、どうにもならなかった。
 悔しさで涙が滲みそうになる。
 上着を脱がされると、その白い上半身が露わになった。
 まだ先程乱暴されたときにつけられた赤い刻印が点々と残る白い肌は、ぞっとするほど魅惑的に見えた。
 それを見た瞬間、ハイネは思わず見惚れた。
 ――男を狂わせる体……という言葉は、女性にだけ用いられるものだと思っていたが、そうでもないようだ。
 ギルの異常さは前からわかっていたことだが、このままではどうも、こちらまでおかしくなってくるような気がする。
 ギルのせいなのか。それとも……
 この目の前にいる白い生き物のせいなのか。
 そう思ったとき、顔を前に向け、こちらを見上げてくる青い瞳とまともに目が合った。
 助けを求めるようなその痛々しい視線に、彼ははっと胸を衝かれた。
「……ギル!」
 気が付くと、自然に制止の声が迸っていた。
 ギルバートがけぶるような眼を向ける。
 その目を見ると、どきりとした。
 今までこんなに面と向かって彼に反意を唱えたことはなかった。
 もともと彼は、決して言いたいことを我慢するタイプでもなかったが、ギルバート・デュランダルに対してだけは別だった。
 ギルバートの中に潜む何かが……天真爛漫にものを言おうとする彼に歯止めをかけた。
 普段は口数の多い彼が、ギルバートの前に出た途端に何も言えなくなった。
 しかし、今は――言わずにはいられなかった。
「……だめだ、ギル。今犯れば、もう彼の体はもたない……」
 そう言った途端、ギルバートがすかさずハイネを射るように見上げた。
(……あ……)
 声をかけたことを後悔させてしまうほど、それは人を困惑させるような、鋭い視線だった。
 言葉を返す前に、ギルバートは不意に唇の端を緩めた。
 微かな息が洩れたかと思うと――
 彼は、突然体を揺らしてくっくっと笑い出した。
 イザークを掴む手の力が緩んだかと思うと、彼は唐突に相手を突き放し、立ち上がった。
 ハイネは呆気に取られたように、そんなギルバートを見ていた。
 同じ目の高さにきたギルバートの姿が一層威圧的に見え、彼はややたじろいだ。
「――わかった」
 一見穏やかな笑顔が、却って怖ろしかった。
 今、この人の胸の中を覗き見れば、きっと自分はこうして平然と目の前に立っていることすらできなくなるのではないか。……そんな気がした。
「確かにきみの言う通りだ。壊してしまっては何もならない……」
 瞳の色が、僅かに変化した。
 一瞬覗き見えたその酷薄な光の閃きに、ハイネはぞくりと身を震わせた。
 彼が足元に横たわるイザークに向ける視線。それは明らかに『人間』を見る眼ではなかった。
 犬や猫を見るときでも、こんな眼で見ることはないはずだ。生命あるものに対して向けるとするならば。
「……私はどうも感情に走りすぎてしまったようだな」
 そう言ったとき、既にギルバートの瞳からはその怖ろしい光は消えていた。
「ただ、ジュール隊長にはまだ帰ってもらうわけにはいかない。私の許可があるまでは、勝手なことをしないよう、きみから彼によく言っておいてくれたまえ」
「……承知――しました」
 その形式ばった言い方に、思わずハイネも儀礼的な口調で答える。
 ギルバート・デュランダルが出て行った後、彼は床にうずくまったままのイザークに手を伸ばした。
 半分脱がされたままのシャツから露出した上半身が艶かしい。
 その肌に直接指をのせた瞬間、相手の体が敏感に反応するのがわかった。
「……おい」
 困ったように、取り敢えず声をかけてみたが、イザークはこちらを向こうともしない。
「……イザーク……」
 彼をファーストネームで呼ぶのは、それが初めてだった。
 何だか妙な気分だった。
「――大……丈夫か?」
 空々しい問いだなと思いながらも、他に言うべき言葉が見つからなかった。
 ハイネはイザークの傍に屈み込み、さらに体に指を這わせた。
 滑らかな感触とほのかなぬくもりに、胸の鼓動が僅かに高まった。
 そのとき、不意に相手がこちらへ顔を向けた。
 青い瞳が……
 不当に虐げられたものが見せる、屈辱と痛みに満ちたその精彩を失った青い瞳……
 自分を傷つけようとするものにただ怯え、震えるその濡れた瞳が……
 ハイネを激しく打ち貫いた。
 彼はもはや何も考えられなくなった。
 ただ、全身を駆け抜けるその衝動が――。
 自分の義務、立場……全てを忘れ……
 気が付くと、彼は相手のその震える体を両腕の中にしっかりとかき抱いていた。
 縋りつくイザークの体をさらに強く抱き締めた。
(――大丈夫だ……)
 誰もおまえを傷つけやしない。
 だから、そんな瞳(め)をするな……。
 そんな風に募る愛しさをいつしか抑えきれなくなっている自分自身に、彼は戸惑いを感じていた。

                                          (To be continued...)


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